加賀藩・歴代藩主の紹介
初代藩主 前田利家(まえだとしいえ)1538-1599
尾張国荒子村で前田利春の4男として生れました。織田信長に仕え、美濃斉藤氏、伊勢北畠氏、近江浅井氏、そして一向一揆との戦いに参陣し戦功をたてました。1575(天正3)年、越前府中で封を受け、以後能登国を支配し、加賀をも領有しました。
1598(慶長3)年家督を利長に譲りましたが、豊臣
秀吉の死に際して後事を託され秀頼の後見となっています。1599(慶長4)年、徳川家康が秀吉の制定した法に違反したとして、家康を譴責する中心的役割を果たしています。62歳で没し遺言によって野田山に葬られました。法名は高徳院といいます。
2代藩主 前田利長(まえだとしなが)1562-1614
初代利家の長男。父利家と共に織田信長に仕えました。信長の四女・永(玉泉院)と結婚しました。秀吉と一時相対しましたが、後に松任4万石を与えられています。佐々成政との戦い、九州での戦い、小田原征伐などで戦功をあげています。1597(慶長2)年、居城を富山に移しています。父利家の死後、加賀征伐の動きもありましたが和解し、関ヶ原の戦いでは徳川方についていたので、加賀、越中、能登で119万2千石を領有する大大名なりました。法名は瑞竜院といいます。
3代藩主 前田利常(まえだとしつね)1593-1658
初代利家の四男。徳川秀忠の次女・珠(天徳院)と結婚し、1605(慶長10)年に利長が隠居して家督を継ぎました。大阪冬の陣、夏の陣に出陣しています。1639(寛永16)年、隠居して小松城に入りましたが、1645(正保2)年、四代光高が早世死去したために5代・綱紀を後見しました。その間に改作仕法の施行を親裁して成功させています。また、社寺造営や辰巳用水など土木建築工事を行い、文人、蒔絵、彫金などの名工を金沢に集めたりしました。城下町金沢の町割りを実施したのも利常です。法名は微妙院といいます。
4代藩主 前田光高(まえだみつたか)1615-1645
3代利常の長男。母は将軍・徳川秀忠の次女・珠姫です。学問を好み、林
羅山を招いたりしました。夫人は徳川家光の娘(光圀の姉)です。尾崎神社を金沢城内に建立したのは光高です。31歳の若さで没しました。
法名は、陽広院といいます。
5代藩主 前田綱紀(まえだつなのり) 1643-1724
4代光高の長男で1645(正保2)年、3歳で家督を継ぎました。綱紀の治政は79年にも及びました。大きな仕事として改作法の整備、藩運営の非人小屋野設置など治安救けつにも意を用いました。ほかに書物奉行を置いて古今の書を収集しました。木下順庵、室 鳩巣、稲生 若水らの学者を招いて学問を奨励しました。金沢城内に細工所を設けて工芸の振興に努めたのも綱紀です。法名は松雲院といいます。
6代藩主 前田吉徳(まえだよしのり) 1690-1745
5代綱紀の4男。1723(享保8)年に家督を継ぎました。治政の重点は、藩財政の逼迫により年貢確保に重点をおくことでした。農政の引き締めに努めた結果、百姓一揆など農民の反発抵抗もうけました。倹約例を出したり、家臣の借知を行ったりもしています。大月朝元を重用しすぎたために老臣と対立し、加賀騒動をひきおこす原因にもなりました。法名は護国院といいます。
7代藩主 前田宗辰(まえだむねとき) 1725-1746
6代吉徳の長男。1745(延享2)年、藩主となりましたが在任1年半で翌年23歳で没しました。法名は大応院です。
8代藩主 前田重煕(まえだしげひろ)1729-1753
6代吉徳の次男。1747(延享4)年、藩主になりましたが25歳で没しました。法名は謙徳院といいます。
9代藩主 前田重靖(まえだしげのぶ) 1735-1753
6代吉徳の5男。1753(宝暦3)年、藩主になりましたが、わずか5ケ月で同年9月に没しました。
法名は天珠院といいます。
10代藩主 前田重教(まえだしげみち) 1741-1786
6代吉徳の7男。1754(宝暦4)年、藩主になりましたが、重教の代に藩財政逼迫を救うために藩札を発行しましたが、しかしこれは失敗でかえって財政事情を悪くしてしまいました。重教自身は多芸多能な人物で、とりわけ能楽に秀でていました。法名は泰雲院といいます。
11代藩主 前田治脩(まえだはるなが) 1745-1810
6代吉徳の10男。1771(明和8)年に藩主になりました治世中、藩校である明倫堂経武館をつくり、藩士の育成に努めました。1810(文化7)年に没しました。法名は太梁院といいます。
12代藩主 前田斉広(まえだなりなが) 1782-1824
10代重教の次男。名園といわれる兼六園を完成させたのは重教の時代です。兼六園の中に竹沢御殿を建て、鐘楼を吊って城下町の人に時を知らせたりもしました。法名は金竜院といいます。
13代藩主 前田斉康(まえだなりやす) 1811-1884
12代の斉広の長男。1822(文政5)年、藩主になりました。斉康の時代は藩政末期の激動の時代でした。
七尾軍艦所を建てたり、海岸防備に力を入れたのもこの頃です。藩内ではいろいろな事がありました。銭屋五兵衛の河北潟埋立て事件、元治の変、百姓一揆などです。斉康は書を善くしました。兼六園内に成巽閣を建てたのも斉康です。1884(慶応2)年、没しました。法名は温敬院といいます。
14代藩主 前田慶寧(まえだよしやす) 1830-1874
13代斉康の長男。1866(慶応2)年、藩主になりました。1869(明治2)年、北越戦争に参加して功を立てます。同年金沢藩知事に任じられました。
そして、明治維新の廃藩置県。慶寧は卯辰山開拓を行いました。
法名は恭敬院といいます。
お松の方(芳春院)[おまつのかた(ほうしゅんいん)] 1547−1617
織田信長の家臣、篠原主計の娘で名は松。4歳で前田利春の邸に移り、秀吉の仲人で利家の妻となりました。利長他10人の子供の母として、良く子を育て、前田家の基礎作りに大きな力となりました。豊臣秀吉とその夫人北政所に重んじられ、化粧田2千石を拝領しました。京都大徳寺の玉室和尚に禅を学び、大徳寺に芳春院を建立しました。初代藩主利家没後、前田家を守るため江戸へ人質に行き、諸大名の家族の江戸在住の第一号となったといわれています。2代藩主利長没後金沢に帰り、1617(元和3)年、7月16日その一生を終えました。
豪姫(樹正院)[ごうひめ(じゅしょういん)] 1574−1634
前田利家の4女で名はお豪(豪姫)。豊臣秀吉の養女となり宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と呼ばれました。母は芳春院で1574(天正2)年生まれ。誕生と同時に秀吉が「男子でも女子でも我が子に」と貰い受け、以来北政所の手元で育てられ、1588(天正16)年、秀家と結婚。秀吉は太閤秘蔵の子と寵愛、病弱であった豪姫の病気平癒の祈願に金品を惜しまなかったといいます。
秀家との間には2男1女をもうけましたが、関ヶ原の戦いに敗れた秀家と共に男子2人は八丈島に流され、豪姫は女子とともに金沢へ帰り、女子は利長の養女として家臣の山崎長郷に嫁し、後に富田重家に再嫁しました。豪姫は1634(寛永11)年5月23日没しました。
富姫(眞照院)[とみひめ(しんしょういん)] 1621−1662
3代藩主・利常と天徳院(珠姫)との娘。1621(元和7)年生まれ。1642(寛永19)年9月27日叔母にあたる中宮東福門院和子(将軍徳川秀忠の3女)の養女として智忠親王に輿入れしました。八条宮家は四親王家の1つで、父智仁親王は正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6皇子で後陽成天皇の弟宮にあたり、秀吉の猶子となつたため皇位を弟の後水尾天皇に譲らなければならず1590(天正18)年には八条宮を創立しました。その後荒廃していた桂宮(現在の桂離宮)を修復するのにあたり加賀藩の莫大な財政援助がありました。富姫は1662(寛文2)年8月22日に没し、柩は遺命によって野田山前田家墓地に葬られ、その墓所は宮内庁の管理となっています。
珠姫(天徳院)[たまひめ(てんとくいん)] 1599−1622
2代将軍・徳川秀忠の次女で1599(慶長4)年の生まれ。母は織田信長の妹お市の方の娘、崇源院(お江与の方)です。徳川家と前田家との和睦の条件として芳春院が江戸へ、その代わりに珠姫が3代藩主利常の妻として金沢へ嫁ぎました。時にわずか3歳。1601(慶長6)年9月晦日、家来数百人を従えて金沢へ輿入れしました。
これにより前田家は将軍家と姻戚となり、利長は1605(慶長10)年には家督を利常に譲って隠居し、利常は13歳で藩主となりました。1613(慶長18)年3月に長子を生んでから3男5女をもうけましたが24歳の若さで亡くなりました。葬儀は小立野で行われ、跡地に天徳院が建立されました。
(参 考)
旧加賀藩老臣・加賀八家について
村井、奥村、本多、松平、前田、横山、長の8家
金沢市観光課発行資料による