加賀国・金沢の歴史眠るところ

野田山の墓碑を訪ねて!!

野田山墓地の歴史
1587(天正15)年、加賀藩初代藩主前田利家の長兄利久をここに葬ったのが墓地の始まりとされている。ついで、遺言により利家の墓も、この地につくられました。
以後、野田山の頂上付近には、前田家一族の墓が、それより下方には家臣たちの墓が次々と造られました。町人の墓も並び、現在では5万余りともいわれる墓石と、多くの金沢人が眠る一大霊園地となっています。
明治以後は金沢市の管理となっていますが、前田家墓地は成巽閣が、また戦没者墓地は石川県が管理をし、その他一部に国、民間の管理するところがあります。
1952(昭和27)年、金沢市小立野の天徳院にあった前田家一族の墓もここに移葬され、前田家歴代藩主やその正室と一族が眠っています。
最近は墓地園として整備されるようになり、さらに近時は隣接地に墓地が造成されるなどして、お盆や彼岸には多くの金沢市民が墓参に野田山を訪れます。
野田山の自然
標高:65〜163m
総面積:43u余りで兼六公園の10万uの約4倍
高木では松が多く、杉、桜、等低木では榊、あけび、さるとりいばら、やまぶどう、かんぞう等が自生しています
野草等いわはぜ、あかもも、しばたけ・・・・他に山草・薬草が多い
鳥類 梟、テン、狐、ムササビ、雉、季節により渡り鳥が多い
他に蛙やリスも多く、またギフチョウ等・・・・・・・各種昆虫も多く見られる。

墓碑をたずねて

青地礼幹(あおじのりもと) 1674−1744

大槻朝元と対立した加賀藩士。通称、藤太夫。5代藩主綱紀に仕え学問を好み、学殖の深い人物でした。歩頭・足軽頭などを歴任して、1740(元文5)年、小姓組頭になりました。
大槻朝元を憎み、藩重臣に対して書を送り、彼の失政や暴状を糾弾しました。『凌新秘策』はその時の書簡を集めたもので、そのことが大槻の業績を知る貴重な資料となっています。『可観小説』その他の著書もあります。また、藩の定番頭で、室 鳩巣に師事し、室門弟7人の1人となった青地 斎賢の墓も隣りにあります。

今枝 近義(いまえだちかよし) 1613−1678
今枝 直方(いまえだなおかた) 1653−1728

近義は加賀藩の重臣今枝家の3代当主。通称民部。
1629(寛永6)年前だ利常の小姓となり、1638(寛永15)年山林の事を司り、1642(寛永19)年宗門改奉行になりました。父の没後、1652(承応元)年1万5千250石を継ぎ、次いで家老となり、前田綱紀の補佐役に任じられました。1662(寛文2)年千500石を加増され、1669(寛文9)年には家老を辞し、1675(延宝3)年隠居し、信斎と号しました。
直方は今枝家の4代当主。
1653(承応2)年岡山藩の老臣・日置猪右衛門忠治の3男に生まれ、1668(寛文8)年、今枝民部近義の養子にになりました。初め八右衛門・内紀といい、後に民部と称しました。1675(延宝3)年、近義の隠居後、家を継ぎ、1万1千石を、また没後1万4千石を継ぎ、1720(享保5)年家老になりました。
『甲子聞書』『辰巳役志』など著書も多く著しています。

長 連弘(ちょう つらひろ) 1815−1857

加賀藩の重臣加賀八家の一つ、長家の9代当主。本多政礼の次子に生れました。
1828(文政11)年、長連愛の養子になり、1831(天保2)年その後を継いで3万3千石を受けました。初めの頃は奥村栄実に従い、共に藩政の改革に加わりましたが、後に上田作之丞の学説にひかれ、その実践に努めようとして奥村栄実阻まれました。
1843(天保14)年奥村栄実死去の後、自分の意見を藩政に反映できるようになりましたが、この一派(黒羽織党といわれた)の行動などに人々と相入れないものがあり、遂に1854(安政元)年、連弘は年寄職を辞めさせられました。

前田 直躬(まえだなおみ) 1714−1774

1714(正徳4)年、金沢生まれ。禄高は1万1千石と少ないが反訴利家の次男・利政の直系で家柄は群を抜き、家臣の筆頭と自負していました。従って直躬(通称主税)は自尊心が高く、『加賀騒動』の一方の旗頭として、足軽出身の大槻伝蔵と対立し、その追い落としに没頭しました。
6代藩主・吉徳には嫌われ、加判の座から外され、次の7代宗辰には信用され、大槻追放に成功しました。土佐守を名乗り、以後この家は『前田土佐守家』といい、加賀八家の両前田として『前田対馬守家』と双璧を成しました。
1774(安永3)年4月3日没しました。

松平 大弐(まつだいらだいに) 1823−1864

1823(文政6)年、加賀藩家老職松平久兵衛の次男として生まれ、本家の松平康織の後を継ぎ禄高4千石を受けました。
小松城番や算用奉行を勤め、38歳で13代藩主・斉泰の世子慶寧の側用人となり、後に家老となりました。
1864(元治元)年、藩の命令で京都の藩屋敷の事務を統べる事となり、この年御所の警備に慶寧が上京し、大弐はその趣旨を体して、勤皇の意志を持って、皇室や諸藩の間を奔走し駆け回って、新しい時代を生み出すことに努力しましたが、蛤御門の変が起こり加賀藩が長州に同情的であったことの責を一身に引き受け同8月、近江の海津で切腹しました。
やがて慶寧が14代藩主になると大弐の忠節を褒め称えて1890(明治23)年には、前田家の墓地に大弐の霊をまつりました。1898(明治31)年、国から従四位が贈られました。

村井 長頼(むらいながより) 1543−1605

尾張国荒子に1543(天文12)年に生まれました。初め長七郎といい前田利久(藩祖前田利家の長兄)に仕え、後に利家の家来となり又兵衛を名乗りました。相次ぐ戦いで常に利家の身辺にいて利家を守り、奥村 永福とともに双璧といわれました。
その名はいつしか織田信長や豊臣秀吉にも聞こえ、1591(天正19)年の佐々 成政攻めの時、長い間の功績が認められ、叙任して豊後守になりました。1592(文禄元)年には禄高1万245石となり、後に隠居して長男長次に家督を譲り4千石となりました。
1599(慶長4)年、主君利家が大坂で亡くなると、翌年人質となった芳春院(利家の妻・松)のお供で江戸へ赴き、1605(慶長10)年10月、江戸で没しました。

横山 政和(よこやままさかず) 1834−1893
横山 隆興(よこやまたかおき) 1848−1916

政和は加賀藩士で1万石の家柄です。20歳で藩の家老となり、小松城代を兼ねたこともありました。1868(明治元)年、藩の執政となり本多政均と事に当りましたが、政均亡き後は彼が中心となって廃藩の事に当りました。
1874(明治7)年、気多神社宮司、1882(明治15)年白山比め神社宮司を務めています。激動の時代を処理した人物です。
隆興は1848(嘉永元)年、加賀藩の重臣横山隆章の次男として金沢に生まれました。少年時代に明倫堂に学び、大坂の開成学校に入って洋学を研究しました。明治に入ってすっかり世の中が変わり、武士をやめて働く先がなくて困っている人が多いので、何か良い産業を興そうと考えて、折から能美郡の尾小屋鉱山を運営していた人から資金のことで話があり、本家の横山隆平男爵と相談の上、この尾小屋鉱山を経営しました。その後いろいろな障害を乗り越えて尾小屋鉱山は、明治・大正と栄え、隆興は北陸の鉱山王といわれました。1916(大正5)年亡くなりました。

横山 隆平(よこやまたかひら) 1846−1903

加賀藩の重臣・加賀八家の一つ、横山家の11代当主。幼名三郎、通称三左衛門。
1858(安政5)年、新知行2千5百石を賜り、1862(文久2)年、祖父隆章の後を継ぎ3万石。
1863(文久3)年藩老になり、ついで金沢城代、人持組頭となりました。
1867(慶応3)年、京都に遊学し翌年帰国の後、家禄の奉還を願い出ましたが、藩の許しは得られませんでした。その後、藩籍奉還のことがあったので、人々はその先見の明に感服しました。
1880(明治13)年、[一説・明治11年ともいわれる]叔父隆興の尾小屋鉱山の経営に参加し、曲折はありましたが遂に事業に成功しました。俳諧を嗜み受来と号しました。

奥村 永福(おくむらながとみ) 1541−1624
奥村 尚寛(おくむらながのぶ) 1757−1803
奥村 栄実(おくむらひでざね) 1792−1847

永福は1541(天文10)年、尾張国で生れました。前田利家の父利春に仕え、後に利家に従い、意志動山を始め各地に転戦し、特に1584(天正12)年、9月9日の佐々成政との末森城の合戦では、籠城で戦い、勝利して有名を馳せました。
その後も利家の重臣として村井長頼と共に利家の両腕と言われました。禄高は1万950石、伊予守を名乗りました。1599(慶長4)年家督を長男の栄明に譲り頭を丸め快心と名乗りました。1624(寛永元)年、6月没しました。
尚寛は加賀藩の重臣加賀八家の一つ、奥村家の10代当主。幼名、橘次郎、後に助右衛門。1万7千石を継ぎ、人持組頭、御勝手方御用、金沢城代などを歴任しました。また、儒学に通じ、和歌を善くし、漢学・和歌・法制など多くの著書があります。
栄実は奥村家11代当主。通称義十郎、後に助右衛門と改めました。1804(文化元)年に父の後を継ぎ1万7千石を受け、1806(文化3)年、年寄席見習を命じられました。
1824(文政7)年斉泰が藩主を継ぎ栄実が重用されたので、栄実の言動が藩内を動かすようになりまた。
1836(天保7)年、寺島蔵人らを退け、年寄政治を復活させ、以降、多くの藩政改革の中心として参画していました。和歌を善くし、『竹屋集』などの歌集も著し、また、和漢の学も修め、平田流の国学にも通じていたといわれます。


香林坊(こうりんぼう) 詳細不詳

香林坊は町名の始まりとなった人物です。1580(天正8)年、越前の朝倉家の家臣であった向田兵衛が当時犀川河原であった現片町で薬種商を始めました。商いは繁盛し、娘の養子に遠縁の比叡山修行僧「香林坊」を迎え、藩の御用薬商として活躍しました。その屋敷のあったところが香林坊です。


銭屋五兵衛(ぜにやごへえ) 1772−1852

加賀藩末期の豪商で海運業者。一代で巨万の富を築き全国に支店を設け『北前船』の王者となり、後に『海の百万石』と称されました。
晩年河北潟干拓の失敗から投獄され80歳の高齢で獄死しました。墓は金沢市金石の本竜寺にありますが、ここ野田山にも隠れ墓として1墓ひっそりと建っています。

一柳 監物(ひとつやなぎけんもつ) 1624−1702

伊予西条藩(愛媛県)2万5千石の城主。1665(寛文5)年、幕府の罪を得て封を除かれ加賀藩に預けられました。加賀藩では現在の金沢駅前に宿所を作って幽閉しました。藩主綱紀は幕府に対し何度も罪を除くよう嘆願書を提出しています。その後許され、金沢で没しました。遺臣数人は加賀藩に召し抱えられています。加賀藩は監物を厚く待遇したようです。

室 鳩巣(むろきゅうそう) 1658−1734

通称新助、鳩巣と号しました。江戸の医師玄撲の子。1672(寛文12)年、5代藩主綱紀が小坊主を募ったときに登用されました。読書を好み、暇さえあれば読書をしていました。これを見た津名紀は木下順庵に教えを受けさせました。順庵に師事して研鑚を積みました。1684(貞享元)年には禄高150石を受け、奥小姓組に属しました。1711(正徳元)年には幕府に召されて儒員となり、1734(享保19)年没しました。加賀藩における門人としては、青地 礼幹、奥村 修運、大地 昌言その他数百人を数えました。また、加賀藩で著した書画も多く、中でも『名君家訓』『赤穂義人録』が最も知られています。

有沢 永貞(ありさわながさだ) 1638−1715
有沢 武貞(ありさわたけさだ) 1682−1739
有沢 致貞(ありさわむねさだ) 1688−1752

永貞と武貞、致貞たちは兵学で知られ、人々は三貞といいました。
永貞は初めその叔父関屋政春に就いて軍法を学び、後に山鹿素行、佐々木秀乗に師事し、遂にその蘊奥を極めました。その著書には『有沢私考』『大坂西御陣の記』『甲陽年鑑註解』『兵法抜書』『四戦略譜』『兵学雑話』など10数冊があります。
武貞は長貞の長子で甲州流の兵学に精しく、『加陽城下武士町細見之図』『金沢城下町割正極之図』『武貞覚書』『兵法急務要用』『兵学雑話』など10数冊の書を著しました。
致貞は永貞の次子で家伝の兵法と算数に精通し、『算法指要』『甲用軍艦軍法之巻集註』『諸士心得』など10数冊の著書があります。

青山与左衛門吉永(あおやまよしなが) 不詳−1563

青山吉永の出身地は播州青山郷です。吉永は尾張守護代の織田信秀(織田信長の父)に仕えていましたが、1563(永禄6)年稲葉山の戦いで討死にしました。
その嫡子吉次が前田利家に仕え、武功を挙げました。また藩の執務も十分に果たし、加賀前田藩成立初期には青山内閣とも言われたほどの位置にあり、藩祖の信用は厚く、戦略謀議などにも参画していました。
この墓地には初代、2代(魚津城城代)、野田山墓地中割と全昌寺の墓地に歴代の墓があります。

浅加 九之丞(あさかきゅうのじょう) 1657−1727

加賀藩士で国学者。九之丞は字で久敬が本名。『徒然草諸抄大成』や『能登浦伝』『三日月の日』など紀行文も著しています。

太郎田屋与右衛門(四世)(たろうだやよえもん) 不詳−1747

太郎田屋一世・長谷部茂兵衛は金沢で造り酒屋をしていました。
二世・茂兵衛は1655(明歴元)年染業に転じ、家号を太郎田屋といいました。
三世・紺屋棟取太郎田屋与右衛門は、1712(正徳2)年に帰郷した宮崎友禅斎を寄寓させました。友禅斎は1720(享保5)年、世話になった礼に与右衛門の倅、茂平に染軸の製作指導をしたのが、年号入友禅染として日本最古といわれる「紫式部石山観月図」と言われています。この作品は加賀染と友禅染が合流した、加賀友禅の源流といわれています。
茂平はこの年家督を相続し、四世・太郎田屋与右衛門を名乗りました。1747(延享4)年に没しました。

新井白蛾(あらいはくが) 1725−1792

儒学者。名は祐登(すけたか)。白蛾は号です。父祐勝は加賀の人ですが江戸に出たので白蛾は江戸で生まれ、菅野兼山・萩生茂卿ほか多くの師に学んだといわれています。
22歳で江戸に家塾を開きましたが、のち京都に移り、易学などで有名になります。『古周易経断』22巻など易に関する書を数十部著しています。白蛾の学問は後年朱子学に変わりました。
1791(寛政3)年加賀藩11代藩主・治脩に招かれ、300石を賜り、明倫堂学頭、藩主の侍読に任じられ、明倫堂の扁額も書いています。

亀田鶴山(かめだかくざん) 1768−1834
亀田勝豊(宮竹屋小春)(かめだかつとよ) 1666−1740

宮竹屋は薬種商で鶴山は7代目にあたります。通称純蔵、名は勝善といいます。詩を好み、頼 山陽に師事しました。水墨画も嗜みました。青木木米を招いて春日山で陶窯を起こしたりしました。66歳で没しました。
勝豊は1666(寛文6)年の生まれで宮竹屋4代目です。俳号を小春といいました。芭蕉に師事して、芭蕉北陸巡行のときに句空、牧童、桃妖らと活躍しました。1740(元文5)年没しました。

橘 観斎(たちばなかんさい) 1765−1840

能登の人で書家です。細谷半斎に師事しました。 書体は一家を為す秀れたものでした。多くの門人に書を教え、1840(天保11)年没しました。

楠部 芸台(くすべうんだい) 1759−1820

父は鳳至郡の農家出身でしたが金沢に来て商いをしました。芸台は号です。3歳のときから書道を学び、唐の大家欧陽詢の書風を再現する能書家で、能書学識を藩に認められ、1802(享和2)年に町会所記録方と横目肝煎に抜擢されています。
芸台は南北朝時代の忠臣・楠 正成の末裔を名乗り、頼 山陽も楠公信奉者でしたので、芸台は山陽の元へ長男邦を遊学させて縁ができました。芸台の死後、父親思いの邦が山陽に撰文を依頼、芸台と山陽の共通の友人であった「加賀の三才人」寺島応養からの熱心な勧めで、撰文など書かなかった山陽の心を動かしたようです。

佐々木 泉景(ささきせんけい) 1773−1848
佐々木 泉玄(ささきせんげん) 1805−1879
佐々木 泉山(ささきせんざん) 1834−1886

泉景は京都で法眼探泉に画を習い、禁裏の絵御用を命じられ、医師格で藩主に仕え、絵事に励み、また和歌・連を好みました。
泉玄は泉景の長男で、絵師として藩主に仕えまた点茶、挿花の技に精通し、和歌・連歌に秀でていました。
泉山は泉玄の子供で、藩の御抱え絵師。『大野浦入船図』など多くの著名な作品があります。彼らは3人とも狩野派風で、精細な描画で実景に基づく写生画、草花、花鳥画の秀品が多くあります。

佐々木 泉龍(ささきせんりゅう) 1808−1884

佐々木 泉景の次男、泉玄の弟。狩野派の画家で加賀藩の御抱え絵師。本名を尚継、後に守起と改めました。雅号は泉龍。1822(文政5)年には竹沢御殿御造営の御用を兄と共に父泉景を助けて手伝いました。1924(文政7)年京都狩野派の鶴沢探泉について絵を学び、さらに江戸へ出て、狩野探信に学びました。1852(嘉永5)年、法橋に叙せられ、1881(明治14)年に開催された第2回内国勧業博覧会に「大中彦命氷室発見図」などを出品し、妙技賞牌3等に入賞、その後も絵画共進会などに多く出品し活躍しました。

中浜 鶴汀(なかはまかくてい) 1793−1870
中浜 龍淵(なかはまりゅうえん) 1827−1897
中浜 松香(なかはましょうこう) 1857−1921

中浜 鶴汀は医師中浜松斎の子で、医学を学ぶため上洛し、著名な画家をたずねて学びました。南北号派の作風で竹沢御殿の襖に絵を描きました.
龍淵は鶴汀の嫡男で画を習い、中国の古画を研究し門下生達に絵を教えました。また、漢詩、俳句を作り、全国絵画品評会審査員となりました。
松香は龍淵の子で南画を研鑚し、花鳥、梅竹図を特異とし絵には風格と品位がみられます。1894(明治27)年に『金城勝覧図誌』を編纂しました。

井口 嘉一郎(いのくちかいちろう) 1812−1881

小さい時から学問を好み、江戸に出て安井息軒らに学びました。そのかいあつて浜松藩校の教官に推挙されました。後に金沢に帰り横山氏の儒員となり、1869(明治2)年加賀藩の貢士となりました。廃藩後石川県専門学校教諭兼師範学校教諭となりました。
井口無加之は嘉一郎の長男で漢学に長じていました。書も一流でした。石川新聞の主筆記者となり、漢文で論陣を張りました。1881(明治14)年没しました。

安達 幸之助(あだちこうのすけ) 1824−1869

加賀藩士辻氏の家来中宮五左衛門の次男で、安達六郎に養われて安達姓を名乗りました。藩の漢学者井口嘉一郎について漢学を学び、安政年間に江戸へ出て、村田蔵六について西洋の学問、主として兵学を研究しました。後には塾頭になり講武所(幕府の兵学校)で講義をする程になりました。
江戸に10年余りいて藩に帰り、壮猶館(加賀藩の洋式学校)の教師となりました。1868(明治元)年、藩の命令で京都に出て、大村益次郎(村田蔵六)の勧めで伏見兵学校の教官となりました。翌明治2年9月4日京都三条木屋町の益次郎の宿で益次郎の暗殺に巻き込まれ、賊と切り合って死亡しました。

太田 美農里(おおたみのり) 1831−1909

通称良策。15歳で蘭医黒川良安に学び、1850(嘉永3)年、大坂の緒方洪庵の適塾に学びました。1853(嘉永6)年、江戸の和蘭兵学者手塚律蔵について学びましたが病気となり金沢に帰り、医業を営みました。
1857(安政4)年、壮猶館蘭書翻訳校正方になり、次いで教授方になりました。1866(慶応2)年壮猶館医学教授方、1868(明治元)年には卯辰山養生所の頭取となりました。
1871(明治4)年廃藩置県で医学館廃止後、同僚と館舎を借用して病院としました。1875(明治8)年に県立となった後、石川県病院主務医となり、翌年、病院長兼医学所学長を命じられました。 金沢医師会長、石川県医会会長など地域医療界のまとめ役として多くの功績を残しました。

黒川良安(くろかわまさやす) 1817−1890

1817(1文化4)年現在の富山県上市に生まれ、14歳の時医師の父玄龍と長崎へオランダ語の勉強に、次いで医術を学びました。加賀藩の重臣、青山知次は良安を金沢に止めようとしましたが、大坂の緒方洪庵や江戸の蘭学者坪井信道の教えを受けてから、と研究に励み、江戸では珍しい頭脳の解剖をして人々を驚かせました。
医師として名高くなってから金沢に戻ったのは1846(弘化3)年で、藩主・斉泰の侍医となり、壮猶館の教授となりました。
1867(慶応3)年卯辰山養成所ができ主任となり、まもなく養成所が大手町(現在の医師会館の場所)に移り、金沢医学館となると、その教授になりました。
また、石川県で最初に種痘をおこないました。1890(明治23)年9月死去しました。

狩谷鷹友(かりやたかとも) 1823−1878

国学者、歌人。後に竹鞆と号しました。百々女木町(現宝町)に住みね家を守習館といいました。田中躬之の門人です。1858(安政5)年明倫堂国学講師になっています。藩命で『類聚国史補』25巻を編集しました。1872(明治5)年白山神社宮司となりました。著書に『真引園集』『白山新百合』『志賀の山越』その他11種の著書があります。

津田 淳三(つだじゅんぞう) 1824−1879

金沢医学館主務医。父は長屋権作、幼名作次郎。
1839(天保10)年、藩医津田昌渓の養嗣となりました。25歳のとき緒方洪庵の適塾に入り、3年後九州で教鞭を取り、数年後適塾に帰り塾頭になりました。
その後金沢で、1854(安政元)年壮猶館設立と共に軍器取調兼蘭書翻訳方となりました。翌年、堤町に私立種痘所を開設、1867(慶応3)年、卯辰山養成所棟領となり病人の治療に当りました。
その間、藩命によりセバストポール戦記の翻訳をしました。1870(明治3)年金沢医学館教師、廃藩置県で医学館が閉鎖となりましたが、同僚と協力をし私立病院を経営、1875(明治8)年石川県金沢病院主務医となりました。著書に『脉論』があります。

長尾八之門(ながおはちのもん) 1825−1905

加賀藩宮腰、高岡の両町奉行として2千3百石の高禄の武士でしたが、伝道者林清吉郎と米人宣教師トマス・ウインの不況に感銘、56歳でキリスト教に入信しました。入信後はますます博愛主義の教えを実践し「無一」と号し北陸初の英語学校の開設に資金を出し、金沢在住のウインの影のスポンサーの一人になりました。キリスト教社会事業で名高い賀川豊彦は「生きたキリスト教芸術」と心服しました。

米田 孫六(よねだまごろく) 不詳

生没年は不詳ですが1830〜1850年頃の人物です。金沢で生まれました。号は描金堂庸道といいます。五十嵐系の蒔絵に文人画の手法を加味して、江戸時代後期の沈滞気味であった業界に新風を送り込みました。いわば加賀蒔絵界に新風を吹き込んだ名工の一人といえます。

島田一良(しまだいちろう) 1848−1878

野田山墓地入口の右側に、1928(昭和3)年に建てられた明治志士の墓が6墓並んでいます。
島田一良、長 連豪、脇田 巧一、杉本 乙菊、杉村 文一(以上石川県士族)、浅井寿篤(島根県士族)の墓です。島田一良等は加賀藩が大藩でありながら、明治維新の折、何ら目立った活動ができなかったことや、尊敬していた西郷隆盛が敗れたので、参議内務卿・大久保利通の薩長政権を弾劾、天下に事の正否を問う『斬奸状』を持って、1878(明治11)年、5月14日東京・紀尾井町で利通を斬殺しました。
島田一良、辞世の句
「かねてより、今日のある日を知りながら、今は別れとなるぞ悲しき」

山納賢吉(さんのうけんきち) 不詳−1895

書家。蘭山と号し、寺小屋を旧制第四高等学校付近に開き、北陸三県の2千人もの門弟達を教えました。

長谷川準也(はせがわじゅんや) 1843−1907

2代目金沢市長。加賀藩士の家に生まれ、金沢藩の士官でしたが、廃藩置県後の1873(明治6)年、金沢町総区長となりました。翌年総区長を辞め、士族の困窮を救うため金沢長町に金沢製糸会社を設立しました。
1877(明治10)年には金沢銅器会社、撚糸会社など20余種の会社を興し、殖産振興に努めました。また、尾山神社神門建設に尽力し、後に石川県議会議員に当選。1893(明治26)年、2代目金沢市長に就任し、4年間在任しました。金沢市長時代には金沢に電灯を設置するなど尽力しました。1907(明治40)年10月19日死去しました。

佐雙左仲(さそうさちゅう) 1852−1905

海軍造船総監、向学博士。 加賀藩士・堀尾治郎兵衛の6男。 16歳で佐雙久左衛門(100石)の養子になりました。1869(明治2)年新設された海軍兵学寮に入学。1870(明治3)年英国視察に派遣され、翌年改めて造船学専攻の海軍留学生になりました。
1878(明治11)年英国建造の軍艦「扶桑」の回航に乗り組み帰国。1883(明治16)年に建造された軍艦・浪速、高千穂、畝傍は佐雙左仲などの努力により、初めて日本人の設計・監督により造られたものです。
以後横須賀造船所造船課長、横須賀鎮守府造船部長、海軍造船総監、海軍省艦攻本部長などを歴任、海軍の充実や艦船の建造に大きく寄与しました。

水登 勇太郎(みずとゆうたろう) 1852−1917

1852(嘉永5)年金沢に生れました。日本人はもっと牛乳から栄養を摂る必要がある、特に病人や子供には牛乳を飲ませたい、と強く主張しました。1881(明治14)年金沢養梓社を興して牛を飼い、自ら乳を搾って病院の病人用牛乳を引き受けました。しかし、もっと普及するためには牛を飼う人を殖やす必要があると考え、1889(明治22)年、米国で最もよい品種、ホルスタイン種一つがいを買い、1891(明治24)年、金沢の気候に合う品種を買い入れさらに研究し、石川県に相応しいホルスタイン種を発表しました。
その普及に力を入れた結果、石川県はホルスタイン種の有数の生産県となりました。また、力織機による輸出羽二重の発展にも尽くしました。1917(大正6)年死去しました。

嵐 冠十郎(四世)(あらしかんじゅうろう) 1853−1925

三世・嵐 冠十郎(河合吉三郎)の次男として京都で生まれ、本名を河合理之助といいました。
小さい頃から芝居が好きで、京都に出て修行し芝居役者となり、1857(安政4)年、三世が金沢へ迎えられた時、理之助も伴われてきました。1864(元治元)年、父没後再び京都に行き、四世・嵐璃寛に入門し璃之助と称しました。
1870(明治3)年金沢に戻り、川上南芝居の座元となりました。やがて市川九蔵(七世・団蔵)一座に入り冠十郎を襲名し、金沢に本拠を持ち、香林坊福助座に出演しました。全国巡行も多く、1916(大正5)年からは、下新町の福助座に出演、1918(大正7)年、師匠の子、徳三郎が璃寛を襲名する際、大阪に出て指導にあたり、1920(大正9)年夏まで阪神の一流劇場に出演、1923(大正12)年福助座で引退興業を行いました。
芸域の広い加賀歌舞伎最後の人物で、1925(大正14)年11月27日死去しました。

津田米次郎(つだよねじろう) 1862−1916

米次郎は19歳の時に綿織物機械「バッタン」機を製作しました。1895(明治28)年、絹の製織にも成功し、やがて羽二重動力織機を完成し、津田式絹布力織機として専売特許を取りました。

佐野吉之助(さのきちのすけ) 1864−1919

宝生流能楽師。能楽を諸橋権之進に師事し、謡曲を石橋和平に習いました。後に宝生九郎の門に入り研鑚を積みました。金沢に帰って北陸能楽界のために尽力しました。最後の舞台は松風のシテ役でした。

村上九郎作(むらかみくろうさく) 1867−1919

彫刻家。小松市に生れて、鉄堂と号しました。1887(明治20)年、第2回勧業博覧会で高い評価を受けました。翌年には石川県立工業学校の教師となっています。1893(明治26)年渡米し、帰国してからは高岡工芸学校の教師、校長を務めました。鎌倉彫りの彫刻に特色があり、欄間、とりわけ仏具欄間に秀れた技を見せました。

鈴木大拙(すずきだいせつ) 1870−1966

1870(明治3)年10月18日金沢に生まれ、仏教学者として大成しました。本名は鈴木貞太郎。東大選科を卒業、鎌倉の円覚寺で参禅し、大拙の道号を得ました。
1897(明治30)年渡米し東洋学者ケラースの下で研究をしました。帰国後、学習院大学、大谷大学の教授となり、『大乗起信論』を英訳、また英文で『禅と日本文化』を著し、禅思想を海外に広めました。
戦後も再三渡米し、コロンビア大学客員教授となりました。1949(昭和24)年文化勲章受賞、他に『禅思想史』など多くの啓蒙的論文・随筆があります。1966(昭和41)年7月2日死去しました。

日置 謙(へきけん) 1873−1946

郷土史家、富田景周・森田平治と並んで加賀藩研究の御三家の一人と称されています。1905(明治38)年、石川県立第1中学校の教諭をしながら、前田家の編集員、石川県史編纂の嘱託として活躍しました。
『石川県史』5巻、『加賀藩史料』16巻、『加能郷土辞灸彙』など多くの郷土史を著しています。
一連の著作は、今も加賀藩の歴史を研究する人々にとって、基本的な文献としての価値を持っています。

小倉正恒(おぐらまさつね) 1875−1961

1875(明治8)年3月22日金沢に生まれ、実業家、政治家として名を成しました。1897(明治30)年東京大学を卒業後内務省に入り、山口県参事官などを歴任し1899(明治32)年には住友に入社、1930(昭和5)年には住友総理事に就き、住友の最高指揮者となりました。この間炭坑会社を成功させ、またコンツェルン化を進め発展に努めました。
1933(昭和8)年には貴族院議員に勅撰それ、近衛内閣の国務大臣、大蔵大臣を務め太平洋戦争の直前に辞任、以後戦時金融公庫葬祭、大東亜省顧問などを歴任、財界のリーダーとして国策に協力しましたが、戦後、公職追放となりました。
1955(昭和30)年には80歳を記念して『小倉正恒談叢』が刊行されました。1961(昭和36)年11月20日死去しました。

永井柳太郎(ながいりゅうたろう) 1881−1944

金沢市菊川町に生れました。1901(明治34)年、早稲田大学に入り弁論で鳴らしました。
人柄も立派で大隈重信総長に認められ、卒業後は英国の大学で勉強するように言われ、3年後帰国して早稲田大学の教授となりました。
1917(大正6)年に金沢で衆議院議員に立候補、中橋徳五郎と争って敗れ、その折の「来たり見たり敗れたり」の名演説は今も語り草となっています。1920(大正9)年から代議士に当選8回、政治家として大成し1932(昭和7)年には、拓務・逓信・鉄道の各大臣を歴任し、1942(昭和17)年には中国に渡り、日中は仲良くすべきと強調しました。また大日本育英会の会長として次代の国民の養成に努め、1944(昭和19)年死去しました。
著書には『戯曲大隈重信』『戯曲銭屋五兵衛』や『私の信念と体験』などがあります。

室生犀星(むろうさいせい) 1889−1962

1889(明治22)年8月1日、加賀藩足軽頭小畠弥左衛門吉種の庶子として、金沢に生れました。7歳で雨宝院の住職室生真乗師の養子となり室生照道となりました。金沢地方裁判所に勤務し、傍ら俳句や詩などを創作。
その後「三国新聞」「石川新聞」などの記者を経て1909(明治42)年上京、1911(明治44)年金沢で荻原朔太郎らと詩誌「卓上の噴水」を創刊しました。また、北原白秋の主宰する詩誌「朱鷺」「アルス」などに作品を発表、新進の詩人として注目されました。
1918(大正7)年、処女詩集『愛の詩集』や『抒情小曲集』を続けて発刊して、詩壇に地位を確立しました。大正の中頃から小説を書き始めて、詩的な抒情性と人間愛に貫かれた作品を発表しました。小説には、『性に目覚める頃』『あにいもうと』『杏っ子』などがあります。1962(昭和37)年3月26日死去しました。

この内容は、金沢市観光課発行の資料を参考にしました。

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