「タマコ」物語 J.catsはタマコから

 


雌猫の「たま」を皆 タマコと呼んだ。人間くさい彼女の仕草をみていると、コの字をつけたくなるのである。 私が小学生3年生の時、近所の雑貨屋から子猫として、いや中猫かも知れないのをもらった。

もう大分育っていてすばしこい猫であった。 祖母は大変かわいがったが、当初はすぐ近所の親元へ行ってしまい。何回も連れ戻された。しかし、根気よくタマコの座布団のある箱へつれ戻している中に、体の匂いがしみついたのか 、そこをねぐらとして落ち着くようになった。
 体はやや細くて、運動能力は抜群であった。
ある日、近所の通称 巡査部長というあだ名の猛犬が突然タマコの前にあらわれた。タマコもびっくりしたようであったが、「こわっぱ猫のやつ、いっぱつでしとめてやるは」と彼はタマコの頭に大きなどう猛な口を拡げて噛みついてきた。絶体絶命!あ〜 瞬間、逃げ出したのは部長であった。痛そうに、牛若丸の様に身をかわしたタマコは部長のほっぺったに噛みついたのだった。 こんな素晴らしい運動能力をもったタマコであったが、子供をみごもった時には、猛犬部長の前では逃げに徹した。
 自分の運動能力を誇示するごとく、走って行く自転車の両輪の間をくぐり抜けたりして人間を驚かした。勿論、ネズミトリは名人であった。日に何匹もとった。祖母に獲物をみせに来て、お褒めの言葉を貰い ご褒美の”みがきにしん”とご飯ををもらい、ネズミをおかずに食べるのが楽しいようだった。
 彼女のすばらしさとして私の印象に残るのは 雀とりである。気が付いて飛び上がる雀をジャンプして捕まえるのである。 今でも、私はバドミントンのシャトルコックを見るたびにタマコの姿が目にうかぶのである。私が名前をつけたJ.catsクラブの名前にはタマコの雀とりの様にシャトルコックを素速くおっかけて欲しいという願いがこめられている。 「ジャンプしてシャトルコックにとびかかるタマコ」である。
1939年生まれのタマコは随分長生きをした。 8才だった私が28才になってもまだ
老猫としていきた。その間、祖母の死でお隣の加藤さんに厄介になったが、1948年に福井地震があり、タマコの家である祖母の家も完全に倒壊した。三日間行くえ不明であったのに、ひょっこり無傷で私の目にあらわれた。運動神経のいいタマコだから大丈夫だとは思っていたが、家が完全になくなり、困惑してうろついていたのかもしれない。猫は場所を良く覚えているが、人を覚えるのが苦手のようである。家では本当になついていて、私のひざの上にのって気持ちよく居眠りをするくせに、道であっても知らん顔である。無理につかまえて、だっこすると怒ってしまう。 そうかと思うと覚えていることもあるようであり、私にすり寄って何処までもついて来るので困った事もあった。
私は金沢の大学にはいり、タマコはお隣の加藤さんのお世話になる事になった。 時々故郷に戻りタマコと再会していたが、ついに彼女の寿命もきて、ネズミもとれず、往年の姿もなく、死んでしまった。加藤さんはタマコの亡骸を抱いて九頭竜川の河畔にいき埋葬した。1953年であった。
今日、あの有名なタマコを知るものは殆どいない。もう加藤さん兄妹と私だけであろう。しかし、J.catsのイメージの世界に生きていて語りつがれてくれたら、こんなに嬉しいことはないし、タマコも満足であろう。   2006.1.1 石丸幹夫

追記 猫の運動能力は本当に素晴らしいと思う。高い塀を難なく越え、バランスをくずさない。バドミントンの前衛の超名人の様にも思う。 また生命力や回復力にも驚嘆せざるを得ない。車に轢かれて骨折しても、回復して、また走り出す。まさに猫は九つの命を持っている。粘り強く、死なないし、もし死んでも化け猫になる。 A cat has nine livesである。