パストガバナーからの手紙 炭谷 亮一


217回 「アメリカの先見性あるエネルギー政策」 

 3月8日現在原油価格は約50ドル(1バレル)と昨年の夏以来安価が続いており、半値となった。当然国家財政を原油輸出に依存している中東諸国、ベネズエラそしてロシア等の国内経済は低迷している。
原油をはじめ価格が続落している天然資源に頼っているブラジルでは2016年のオリンピック開催で必要な多額の費用を国民生活へ回すべきとのデモがおきており、オリンピック開催が危ぶまれる状態である。
さて現在のアメリカ本土は原油と天然ガスの(シェールガス等)の上に浮いていると表現出来る位いエネルギー資源は豊富であり、今後はエネルギー資源を一切輸入することなく、逆に輸出出来る位い余裕が出て来ている。しかしシェールオイル・シェールガスの生産のピークは数年後に来るとの予想もあり、アメリカは次なるエネルギー資源を模索する動きが出て来ている(アメリカには国内消費に十分な原油・天然ガスが最低100年分は存在していると言われている)。アメリカのお家芸である先見性、進取の気風の面目躍如と思える出来事があった。2013年10月にアメリカのエネルギー省のモニツ長官が来日し、「メタンハイドレート開発における日本との協力構築の重要性」を講演で述べている。
日本はメタンハイドレートの開発技術は世界のトップクラスであると言われ世界中から熱視線が送られている(アメリカ、インド等)。
メタンハイドレートは水の分子に天然ガスのメタン分子が取り込まれ氷状になった物質で、永久凍土層や水深500m以下の海底下など「低温、高圧の環境に存在する非在来型天然ガスの1種だ。
2013年3月に経済産業省が、世界に先駆けて愛知県沖の海底でメタンハイドレート層からのガス産出試験を成功させたように、日本の開発技術は世界のトップを走っている。
ただし、現在のメタンハイドレート開発は自噴しないガスを安定的に取り出す為の課題が多く存在している。
海底からのガス採取法では「減圧法」と呼ばれる手法が使われている。この手法では海底下で高圧環境に存在するメタンハイドレートは、かかっている圧力を下げると水とメタン(天然ガスの主成分)に分解すると言う特性を利用している。
アメリカのエネルギー情報局によるとメキシコ湾北部の海底に潜在するメタンハイドレートだけで技術的に回収可能なアメリカ本土のシェールガスの3倍近くに達するのではないかと言われており、メタンハイドレートを回収出来れば、現在アメリカで使われている天然ガスの2百年分に相当するのではないかと言われている。
一方日本列島周辺や日本の排他的経済水域のメタンハイドレートは50~100年分に相当すると言われ、資源小国日本にとって大変朗報と言える。
やはりメタンハイドレート利用の最大の課題は採算性にある。だが例えばシェールガスだが黎明期には技術的な課題も多く、採算性も問題視され、開発に値しないものとされて来た。ところがアメリカがシェールガスを含めた非在来型天然ガスの開発を始めたのは1970年代までさかのぼる。メタンハイドレートをアメリカの様に先見性をもって長期的な視点でその動向を見ていく必要がある。“頑張れニッポン”


216回 「藻から原油を」  

 数年前ある科学雑誌に日本で藻から原油をつくる研究が進められていることを知った。当時私はええー化石燃料である原油を数万年から数億年の時空を一挙に飛び越えて植物から直接原油を回収するなんてまさに神業だなとの感想を持ったものである。
日本と米国で研究は進められており、課題は生産コストの問題だ。
原油を産む植物は、ボトリオコッカス・ブラウニーという藻である。温帯から熱帯の淡水であればどこにでも見られる藻の一種で、大きさは10~20マイクロメートルととても小さいので微細藻類とも呼ばれる。緑色をした単細胞生物だ。
ではこのボトリオコッカス・ブラウニーがなぜ原油をつくるのかはわからないことが多い様だが、一説には油が水に浮かぶ現像を利用して水面に浮かび上がり、太陽の光をより多く浴びて光合成を有利に進める生存戦略ではないかとも言われている。
石油資源を海外に頼る日本にとって願ったりかなったりの「バイオ燃料」と言える。そして新たなエネルギー資源としてだけでなく、光合成でつくられた原油はカーボンニュートラルつまり「排出される二酸化炭素量」と「吸収される二酸化炭素量」が同じであり、環境にやさしいバイオ燃料であり、世界的に見ても持続可能エネルギー源として期待されている。
問題点はボトリオコッカス・ブラウニーをいかにスピード増殖させ、その結果つくられる原油をいかに容易に低コストでの回収方法が課題であった。
日本では2010年に7人の研究者と15の法人からなる一般社団法人が設立され、更に2011年にはIHIなどが中心となって合同会社が設立され、課題解決に向けて研究開発が行われている。
安倍政権においても「科学技術イノベーション総合戦略2014」において「微細藻類由来の燃料製造技術開発」が重要施策の一つとして掲げられており、コストダウン・実用化に向け国は強力に支援する方向だ。
現在は研究も進み、米国は増殖スピードの発展よりも広大な土地を利用して低コスト化を目指している一方、日本では土地の狭さを勘案して藻を通常の1000倍ものスピードで増殖出来る技術を開発し又東大の研究グループが、従来の過熱乾燥が必要であった抽出過程を改良し、有機溶媒で直接原油を抽出する方法を開発した。
これらにより日本の研究では、生産コストは1リットル500円まで下がって来た。2020年までには1リットル100円(現在の科学燃料と同価格)まで出来る可能性が大である。そして世界の市場規模は数千億円になると予想されている。
日本は劣資源国であるが、豊富な人材を使って研究開発を進めれば、持続可能な永遠のエネルギーを手にすること(藻から抽出の原油、水素による発電、メタンハイドレードからの天然ガス、核融合による永遠のエネルギー)が出来る、資源大国になる可能性すら秘めている。
いやそれにしてもアメリカのいつもながらの「深謀遠慮」におどろかされる。現在のアメリカ大陸は原油と天然ガスの上に浮いているとたとえられる位いに天然資源は豊富(100年から200年の埋蔵量があると言われている)にもかかわらず、常に世界のほどんどすべての最先端の科学技術分野に目くばりし、他国より1歩先んじ様としている姿勢に敬意を表したい。
3月2日の新聞記事によれば、日本のバイオベンチャーのユーグレナは航空機向けバイオ燃料の精製プラントを国内に建設する。米石油大手シェブロンから技術供与を受け、2018年までの稼働を目指す。いやこの新聞記事に驚かされた。「藻からバイオ燃料」を取り出す為の精製がまさに開始され様としている。(こちらは「ミドリムシ」という和名で広く知られている淡水性真核微生物)。
オイルを産生する藻類には「ボトリオコッカス」「ミドリムシ」「オーランチキトリウム」「イカダモ」「シュードコリシスティス」「ナンノクロロプシス」等が存在する。
ここで言う原油とは、トリグリセリドや石油系の炭化水素で、炭化水素は化石燃料の主成分でもある。藻類の原油は、単に代替エネルギーとしてだけでなく、地球温暖化対策としても注目されている。
航空業界では、国際航空運送協会(IATA)が1920年から二酸化炭素の排出量に上限を設ける行動計画を策定している。実現には植物を原料とするバイオ燃料を従来のジェット燃料に一部混ぜることが不可欠とされており、航空各社が導入準備を進めている。
航空機向けのバイオ燃料精製プラントは、アメリカでは商業プラント建設の計画が進んでいる(他の植物例えば大豆、トウモロコシからエタノール等のバイオ燃料は精製されるが、多分オクタン価が低い為航空燃料に適さないと思われる)。

215回  皇陵は聖域か文化財か  

 私は学生時代に日本史で仁徳天皇陵は世界最大級の古墳であると習った。
宮内庁が「仁徳天皇陵」と名づけた古墳の築造年代は、その墳丘上に残された円筒埴輪の形式から5世紀半ばから後半と推定されている。ここに仁徳天皇が4世紀前半に没したと解釈できる「記紀(古事記・日本書記)」の記述と比べ、約半世紀のずれが生じている。この様な学問上の疑義があることから、今日では、学術的には所在地の地名をとって「大仙陵古墳」などの名称で呼ばれる様になった。
同じく応神天皇陵は現在は「誉田御廟山古墳」と呼ばれている。
天皇を中心とする誰かの陵墓を、実在する古墳にあてはめ、政治的に定める作業を治定(じじょう)という。
「仁徳」「応神」など現行の天皇陵や皇族墓は明治年間を中心に、新しいものは1949年までの間に治定されたものだ。治定には二重の危うさがある。第1に「記紀」に書かれた歴代天皇の王統譜が正しいかどうか、第2に「記紀」や10世紀初めの「延喜式」にそれぞれ陵墓が正しく記されているか、という問題がある。
天皇陵について言えば、文字による記述が出来る様になった8世紀以後はともかくとして、巨大な古代古墳が築かれたピークの4~5世紀は文字のない時代であり「記紀」が書かれたのは300~400年後でありこれら古代天皇陵の治定は危ういと言わざるをえない。
現在日本には16万基の古墳が存在している。天皇陵古墳がふつうの古墳とちがう点は以下の二点である。第1には量的格差、圧倒的に巨大である。第2は質的格差、例えば大山古墳の金色に輝く甲冑やガラス器、あるいはメスリ山古墳の鉄製弓矢などはほかでは決して見ることの出来ない品物を身につけている。
この様に天皇陵古墳は見る者は大きさにおののき、少なさを尊ぶ人の心の動きに働きかける、いじらしいほど忠実に作り上げられた文化装置と言える。
国家(宮内庁)が天皇陵をきびしく管理し、学術的な調査の進展をはばんでいる表向きの理由は「皇室の先祖の安寧と静謐、静安と尊厳を守る」であり、聖域だとするのは国家の論理である。もう一方の理由は、江戸の終わりから明治をピークとして昭和の前期まで続けられた、天皇制イデオロギーの可視化としての陵墳の治定が、現代日本の国家体制を文化面から支えていると言う政治的、歴史的事情にもとづいている。従って「天皇陵」はいまだに「生きて」社会に機能していると言えるだろう。ある意味天皇陵に関しては戦前の皇国史観が依然として生きつづけていると言える。天皇陵として治定されている古墳の3割程度は不確実である。例えば○○天皇陵と言われているが被埋葬者が違っていたり、天皇陵と言われているが実は豪族の古墳であったり、豪族の古墳と言われているが天皇陵であったりと大変不正確な治定である。更には私自身右翼勢力から攻撃されるのは不本意ではあるがあえて言わせていただくと日本国の初代天皇(大王)とされている神武天皇とその後につづく9代までの天皇は現代の歴史学において架空、虚構とされており、歴史的に不都合にもかかわらず正々堂々と間違って治定された墳墓が存在する。以上古代の天皇陵の治定は混沌と言える状態であり、宮内庁は古代陵墓の内、治定が不確実とされているものについては、
埋蔵文化財保護法に基づいて文化庁へ届け出て公考古学の専門家による徹底調査研究すべきと主張したい。
歴史への興味や学びの意欲を支える思いや感動、そして楽しみは、その歴史が事実であると言うことに根ざしている。架空やつくり事に対して、私達は歴史として思いを馳せたり心を動かしたりたりすることはない。また、歴史は過去の事実であるからこそ、それを共有する国や民族や地域などが勇気づけられたり、自省したり、みずからを正しいと主張したり、誤りを認めたりして、よりよい未来をつくっていく、ときの定点となる。この定点があいまいにされたり、ゆがめられたまま放置されたりしたのでは、国や民族、地域がみずからを健全に保つことはできないし、属する人びとの愛着を得ることも困難だ。天皇がまつわる歴史であっても、それは同じことである。
天皇家の由来を物語る神話は記紀(古事記・日本書記)である、そして世界中で神話を起源とする天皇家は唯一の君主である。
昭和の一時期、共産主義やヨーロッパの王制が打倒された経験に脅威を深めたため、天皇をめぐり強引に過度の神聖化を進めた経緯があった(そんなことは不要で当時も現在でもほとんどの日本人は皆、自然に敬っている)。
戦後は日本人の極端から極端に走る性尚から「日本書記」は天皇支配を正当化する為のまったくのフィクションとして否定され、「古事記」にいたってはまったくの「偽書」とし無視する傾向も一部あった、その原因は反戦・共産主義志向・反天皇イデオロギーに基づく大きな行き過ぎがあった。
しかし近年「日本書記」の記述が折に触れ再評価されつつある。しかし学説的「真偽」を論じる前に我々日本人は記紀を約1300年にわたり、この国の成り立ちを示す「古典」として日本人の間で愛され伝習続けて来たと言う事実が存在する。約1300年間、「記紀の世界こそが日本の由来」と考え親しんできた。従って3月初旬に秋篠宮家の次女様が初代の神武天皇陵にハタチ(20歳)の青年皇室として参拝されたとの報道にも私は天皇家は神話を起源とする君主ゆえに何んら違和感を覚えなかった。
現在でも続いている神仏習合信仰は、明らかに記紀の神話的世界と仏教が融合して成りたった日本人のユニークな宗教観で、同様に記紀の神話的世界が現在も息づいている証は、各地の神社、祭、年中行事、地名、伝承等に数多く見受けられる。
以上のことを重重承知した上で、次なる提案をしたい、“古代天皇陵はエジプトのピラミッドや中国の秦・漢帝国の皇帝陵の様に間違いなく人類の貴重な文化遺産だと考えている。従って古代天皇陵および天皇陵と考えられるものについては、管轄を宮内庁から文化庁に移管し、埋蔵文化財保護法に基づいて、古代天皇陵とおぼしきものについて徹底的に学術的調査・研究・修復・永久的保存方法を確立し、更には平成の治定を行ない、一般の人々に参拝及び公開すべきと考えている”
最後に天皇陵を毀損するバチ当りな実例を1つ、戦国の世に豊臣秀吉は何んと天皇陵に陣を張った事実があった、たたりがあったかどうかは定かではないが豊臣家は滅亡した。


214回 古代天皇陵は聖域か文化財か  

 私は学生時代に日本史で仁徳天皇陵は世界最大級の古墳であると習った。
宮内庁が「仁徳天皇陵」と名づけた古墳の築造年代は、その墳丘上に残された円筒埴輪の形式から5世紀半ばから後半と推定されている。ここに仁徳天皇が4世紀前半に没したと解釈できる「記紀(古事記・日本書記)」の記述と比べ、約半世紀のずれが生じている。この様な学問上の疑義があることから、今日では、学術的には所在地の地名をとって「大仙陵古墳」などの名称で呼ばれる様になった。
同じく応神天皇陵は現在は「誉田御廟山古墳」と呼ばれている。
天皇を中心とする誰かの陵墓を、実在する古墳にあてはめ、政治的に定める作業を治定(じじょう)という。
「仁徳」「応神」など現行の天皇陵や皇族墓は明治年間を中心に、新しいものは1949年までの間に治定されたものだ。治定には二重の危うさがある。第1に「記紀」に書かれた歴代天皇の王統譜が正しいかどうか、第2に「記紀」や10世紀初めの「延喜式」にそれぞれ陵墓が正しく記されているか、という問題がある。
天皇陵について言えば、文字による記述が出来る様になった8世紀以後はともかくとして、巨大な古代古墳が築かれたピークの4~5世紀は文字のない時代であり「記紀」が書かれたのは300~400年後でありこれら古代天皇陵の治定は危ういと言わざるをえない。
現在日本には16万基の古墳が存在している。天皇陵古墳がふつうの古墳とちがう点は以下の二点である。第1には量的格差、圧倒的に巨大である。第2は質的格差、例えば大山古墳の金色に輝く甲冑やガラス器、あるいはメスリ山古墳の鉄製弓矢などはほかでは決して見ることの出来ない品物を身につけている。
この様に天皇陵古墳は見る者は大きさにおののき、少なさを尊ぶ人の心の動きに働きかける、いじらしいほど忠実に作り上げられた文化装置と言える。
国家(宮内庁)が天皇陵をきびしく管理し、学術的な調査の進展をはばんでいる表向きの理由は「皇室の先祖の安寧と静謐、静安と尊厳を守る」であり、聖域だとするのは国家の論理である。もう一方の理由は、江戸の終わりから明治をピークとして昭和の前期まで続けられた、天皇制イデオロギーの可視化としての陵墳の治定が、現代日本の国家体制を文化面から支えていると言う政治的、歴史的事情にもとづいている。従って「天皇陵」はいまだに「生きて」社会に機能していると言えるだろう。ある意味天皇陵に関しては戦前の皇国史観が依然として生きつづけていると言える。天皇陵として治定されている古墳の3割程度は不確実である。例えば○○天皇陵と言われているが被埋葬者が違っていたり、天皇陵と言われているが実は豪族の古墳であったり、豪族の古墳と言われているが天皇陵であったりと大変不正確な治定である。更には私自身右翼勢力から攻撃されるのは不本意ではあるがあえて言わせていただくと日本国の初代天皇(大王)とされている神武天皇とその後につづく9代までの天皇は現代の歴史学において架空、虚構とされており、歴史的に不都合にもかかわらず正々堂々と間違って治定された墳墓が存在する。以上古代の天皇陵の治定は混沌と言える状態であり、宮内庁は古代陵墓の内、治定が不確実とされているものについては、
埋蔵文化財保護法に基づいて文化庁へ届け出て公考古学の専門家による徹底調査研究すべきと主張したい。
歴史への興味や学びの意欲を支える思いや感動、そして楽しみは、その歴史が事実であると言うことに根ざしている。架空やつくり事に対して、私達は歴史として思いを馳せたり心を動かしたりたりすることはない。また、歴史は過去の事実であるからこそ、それを共有する国や民族や地域などが勇気づけられたり、自省したり、みずからを正しいと主張したり、誤りを認めたりして、よりよい未来をつくっていく、ときの定点となる。この定点があいまいにされたり、ゆがめられたまま放置されたりしたのでは、国や民族、地域がみずからを健全に保つことはできないし、属する人びとの愛着を得ることも困難だ。天皇がまつわる歴史であっても、それは同じことである。
天皇家の由来を物語る神話は記紀(古事記・日本書記)である、そして世界中で神話を起源とする天皇家は唯一の君主である。
昭和の一時期、共産主義やヨーロッパの王制が打倒された経験に脅威を深めたため、天皇をめぐり強引に過度の神聖化を進めた経緯があった(そんなことは不要で当時も現在でもほとんどの日本人は皆、自然に敬っている)。
戦後は日本人の極端から極端に走る性尚から「日本書記」は天皇支配を正当化する為のまったくのフィクションとして否定され、「古事記」にいたってはまったくの「偽書」とし無視する傾向も一部あった、その原因は反戦・共産主義志向・反天皇イデオロギーに基づく大きな行き過ぎがあった。
しかし近年「日本書記」の記述が折に触れ再評価されつつある。しかし学説的「真偽」を論じる前に我々日本人は記紀を約1300年にわたり、この国の成り立ちを示す「古典」として日本人の間で愛され伝習続けて来たと言う事実が存在する。約1300年間、「記紀の世界こそが日本の由来」と考え親しんできた。従って3月初旬に秋篠宮家の次女様が初代の神武天皇陵にハタチ(20歳)の青年皇室として参拝されたとの報道にも私は天皇家は神話を起源とする君主ゆえに何んら違和感を覚えなかった。
現在でも続いている神仏習合信仰は、明らかに記紀の神話的世界と仏教が融合して成りたった日本人のユニークな宗教観で、同様に記紀の神話的世界が現在も息づいている証は、各地の神社、祭、年中行事、地名、伝承等に数多く見受けられる。
以上のことを重重承知した上で、次なる提案をしたい、“古代天皇陵はエジプトのピラミッドや中国の秦・漢帝国の皇帝陵の様に間違いなく人類の貴重な文化遺産だと考えている。従って古代天皇陵および天皇陵と考えられるものについては、管轄を宮内庁から文化庁に移管し、埋蔵文化財保護法に基づいて、古代天皇陵とおぼしきものについて徹底的に学術的調査・研究・修復・永久的保存方法を確立し、更には平成の治定を行ない、一般の人々に参拝及び公開すべきと考えている”
最後に天皇陵を毀損するバチ当りな実例を1つ、戦国の世に豊臣秀吉は何んと天皇陵に陣を張った事実があった、たたりがあったかどうかは定かではないが豊臣家は滅亡した。


213回 カストロの革命~私利私欲に走らない独裁者~  炭谷 亮一

 昨年12月17日オバマ大統領は1961年から実に50年以上断交状態にあるキューバとの間で国交正常化を進めると声明を発表した。
又キューバのラウル・カストロ議長も同様の発表を行った。
現在のオバマ大統領はレームダック状態にあり任期が残り2年となるなか、キューバとの国交正常化をレガシー(遺産)にするためには、上下両院で多数派の共和党への説得に多くの時間をさく必要がある。一方キューバも独裁を終らせ、アメリカからの民主化要求を受けいれる覚悟が必要である。50年以上に渡り、アメリカの経済・貿易・金融封鎖に耐えた「カストロの革命」を検証してみた。
フィデルとラウルのカストロ兄弟そしてチェ・ゲバラ等はゲリラ戦を展開し、1959年1月ついにバティスタ軍事独裁政権(アメリカの傀儡)を倒し社会主義革命を成功させた。
フィデル・カストロは2008年81歳で国家元首からの引退を表明し、以降弟のラウル・カストロがキューバをひきいている。
革命から約50年以上にわたるカストロ兄弟の治世は賛否両論に分かれている。果してカストロはキューバに自由をもたらせたのか、或いは貧困を加速させた独裁者だったのだろうか。
2012年11月、第67回国連総会はアメリカに対して、キューバへの経済封鎖を直ちに停止する様賛成188ケ国が決議した。1992年以来、国連がこの決議案を採択したのは21回目のことである。もちろんアメリカはこの決議案の受け入れを断固拒否して来た。
我々日本人にはこの経済封鎖の実体は理解出来ないが、キューバのロドリゲス外相はアメリカの経済封鎖がキューバにもたらした打撃は「大虐殺」に匹敵すると批判している。そしてむしろ「国民全体への人権侵害だ」と訴えている。
私自身北朝鮮の様な圧政により国を維持して来たのではと想像していたが実体はまったく違っていた。まず社会主義国の独裁者たちの多くは、「粛清」の名のもとに行う虐殺によって思想の徹底を図ることが多いが、カストロは無縁であった。例えばソ連との関係が悪化した時期に親ソ連派官僚を追放したことはあるが、処刑は確認されていない。
最も注目すべきは「私腹を肥やす」ということを一切しなかった点にある。カストロも側近の閣僚も、一般人と変わらない質素な生活を送っていた。住居は警備は厳重でも一般的な住宅であり、食料品も一般人と同じように配給手帳での購入であった。
又フィデル・カストロには5人の息子と1人の娘がいるが世襲とは無縁で政府の要職についていない。フィデルが引退後、弟のラウルが元首に就任したが、革命の同志でありこれを世襲と非難するのはアメリカのほか数ケ国に限られている。
さらに、さらにカストロは革命直後に公布した法律によって、公の場に生存する国家的人物の姿を飾ることを禁じている。考えても見てわかる通り、現役の権力者を飾ると罰するなどする法律を持つ独裁国家など聞いたことはない。「上も下も等しく貧しい」と言う清貧の思想が、50年以上にわたるアメリカの経済封鎖を耐えぬいた原動力となったと言える。今後アメリカと国交が回復すれば、キューバには恵まれた観光資源(何んと9つも世界遺産が存在)やカリブ海周辺の天然資源(石油と天然ガス)が豊富で一挙に50年の遅れを取り戻して、近代化し、キューバ国民が豊かになる可能性が大きくなって来た。
しかし、私が想像するにあの有名な作家アーネスト・ヘミングウェーが愛した、ゆったり時間の流れる「レトロなハバナ」は失われるかも知れない、近々キューバを訪問してみたい。


212回 「拙劣なる軍国主義と戦後の平和主義」  
  
戦前日本人の軍国的無知は、ふりかえってみても、戦慄を禁じえない。あんなことで、ともかくあれだけの大戦争を闘ったものだ。いや、あんなことだから、無謀きわまりない大戦争に突入した、というべきか。
 戦前もかなり昔の軍縮時代、代議士の一行が軍艦を訪問したことがあった。戦前といっても、軍縮時代には、まだ軍隊の立場はかなり弱い。欲しいだけの予算もなかなか議会を通らないのである。そこで、代議士の一行をたいへん手厚く歓迎した。いろんな軍艦を見せてやったのだが、やはり代議士連中が一番感心したのが潜水艦。昭和の初期の日本人にとっては、軍艦が水にもぐるなんてまさに科学の驚異、今日の宇宙船みたいなものだったろう。かねて噂には聞いた潜水艦を目のあたりに見て、一同おおよろこび。感激した一人の代議士が叫んだ、「・・・・・ところで、潜水艦が水にもぐるときには、乗組員は一体どうするんですかね。浮袋にでもつかまって、しばらく泳いでいるんですかね?」この質問には、案内にあたった大尉も、答える言葉もなかったとのこと。
 まさか、すべての代議士がこのレヴェルであるまいと思われるかもしれないが、実質的に言って、これと五十歩百歩だと思って大過はない。なにしろ、帝国議会において、軍備をめぐっての専門的討論がなされたことは一度もなかった。
 帝国海軍は、英米ともに三大海軍国の一つだなんて威張っていたが、国民の軍事的理解ともなると、とても英米の足許にさえも及ぶものではなかった。
 国民の代表たる帝国議会がこんなありさまなのだから、国民一般などおして知るべしなのだが、その議会の軍事的無知ぶりとなると、言語道断としかいいようのないものであった。
 日本の造艦技術が英米のそれを追いぬいたのは、平賀博士の巡洋艦古鷹を嚆矢としてであったが、この破天荒な軍艦の出現に接するや、英国議会においては、直ちに、政府に対する質問が発せられた。曰く、古鷹は、わずか7100トンしかないのに、何故、英国の9000トンクラスの巡洋艦よりも強力なのか、日本にはこんな小さな艦(ふね)に8イン砲をなぜ搭載出来るのかなどと、かなりの専門的な質問が矢継ぎ早に発せられる。英国では、官僚が政府委員になって議場に入ることはできないから、これらの質問には、全部、大臣が自ら答えなければならない。大臣も議員も、国防に関しては十分に勉強して、議場において丁々発止とわたりあうわけだ。国民もこれを固唾をのんで見まもり、勤務評定して、その結果を投票のさいの参考にする。
 ここで括目すべきことは、イギリス国民の軍事的理解の程度と熱意とはかなりのものがあり、当時国防の中枢ともいうべき重巡洋艦問題に、いわば国を挙げて、軍部も議会もジャーナリズムも、一体となってとりくんだことである。
 日本ではとても、こういうぐあいにはいかない。当時の日本人の軍事的理解度に戦慄さえ覚える。戦後においても何ら変わるところはない、民主党政権下、石川県選出の某衆議院議員が防衛大臣の就任あいさつで、国防に関しては素人であるとの発言をし、国民を驚かせた。
 さて現在の日本では太平洋戦争の敗戦により、その反省から日本人は平和国家を渇望し、平和主義国家となり国際紛争での武力行使を放棄した。
 そして戦前多くの大学に存在した、軍事学部、軍事学科を廃止し、大学での軍事研究をやめてしまった。生来より日本人は極端から極端に走る傾向があり、今だにその習性から抜け出せないでいる。思い起こしてみよう、戦時中米英と対峙し英語を使うことも、教えることもやめてしまった、敵国の言語など必要ないと、従って米英の研究すら軽んじられる様になり、ある意味致命的だったと言える。一方米国では日系米人をも動員して、盛んに日本研究を行い戦争を有利に導き、戦後処理の方策さえも研究し、来日経験のない民族学者ルース・ベネディクトは「菊と刀」なる秀逸なる著作を出版し、占領軍はこの本をテキストにしスムーズに戦後処理を行うことが出来た。戦時中も戦後もアメリカの一流大学例えばハーバード、プリンストン、MIT等の大学には軍事学科、軍事学部が永永と存在し国防の一翼をになっている。現在の日本の大学で軍事学科、軍事学部を復活させるべきである。何も軍事研究する目的は殺人兵器を開発して戦争への備えをする為ではない、いかに諸外国との戦争回避の方策を研究するためである。「平和」「平和」と念仏の様に唱えても平和はやって来ない。平和維持の為に大学での軍事研究を復活させ真の平和を希求すべきである。
 本稿を執筆中の1月21日には中東でイスラム国に二人の日本人ジャーナリストが拘束され2億ドルもの身代金を要求されている。日本政府に解決出来る妙案があるとは思えない、すべての案件に対応できる様常日頃から軍事研究をおこたってはならない。
 最後に戦前、欧米の経済ジャーナリストが日本は世界に冠たる一等国であると自負していた日本の政府高官に「日本のGDP・国内総生産」はどれ位ですかとの問いに、「GDP」の意味が理解出来ず答えられなかった。当たり前のど真中である、何何何んと戦前の日本には経済学の初歩の初歩である「GDP」などの経済統計は存在しなかった。日本人には「愚かにも程がある」と言える一面が存在するのかも知れない。


211回 良書探訪「ヒロシマ・モナムール」マグリット・デュラス著 
 
本書は1958年「ヒロシマ」をメインテーマにした日仏合作映画の為にマグリット・デュラス女史がまったく新たに書きおろしたシナリオ本である。
鬼才アラン・レネが「ヒロシマ・モナムール」邦題「二十四時間の情事」と言うタイトルで1958年に監督完成し、1959年6月日仏同時公開された。
フランス人女優エマニュエル・リヴァと日本人男優岡田英次(故人)が主演をつとめ、好演している。デュラスの生誕100年を記念して44年ぶりに新訳で2014年10月に再出版された。一般論として、アウシュヴィッツとヒロシマと言う二つの名に共通するのは20世紀に人道に対する暴虐が行われたことだ。
前者は秘密裏に後者は正々堂々と、そして前者はその罪が断罪され後者はその罪を問うどころか、むしろ平和(戦争の早期終結)に貢献したと賞賛されもした。我々日本人にとってはヤラレ損と言う言葉がぴたり当てはまる敗戦だった。
第二次世界大戦での戦勝国のメンバーであったフランス市民は戦後10年近く経過した時点でようやく事実を把握した。
「ヒロシマ」「ナガサキ」への原爆投下により一瞬にして数十万人の日本の一般市民の死傷が出た惨状を知ることとなり、アメリカ軍による「ヒロシマ」「ナガサキ」への原爆投下はナチのアウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺と何んら変わりない行為に唖然とし驚愕し、その余りのおぞましい人道への罪ゆえに、二度と再び原爆投下と言う人間がやってはならない行為である、そして世界中にアピールする必然性を「男女の愛の物語」に包含させ、スクリーンを通して訴えたかったのだろう。
原作者デュラスと監督レネの二人の平和への強い強い思いが感じられる。このシナリオ本は人間の尊厳を問うたものである。1958年初頭、レネはヒロシマの原爆投下についての日仏合作映画をつくらないかとの誘いを受ける(日本側は大映、フランス側はアルゴス・フィルム)。
シナリオの原作者候補にフランソワーズ・サガン、シモーヌ・ド・ボーボワール等の超有名作家の名も挙げられた後に、デュラスに決定し、レネとの会見が実現し「原爆映画」ではなく「恋愛もの」であり、主人公二人は破局の承認=目撃者にすぎない、この方針で商者は意気投合し、レネはデュラスに「好きなだけ文学」をやってほしい、カメラワークのことは忘れる様にと念を押した。脚本執筆の猶予はわずか9週間しかなく、残された最後の7週間は毎日の様にレネとデュラスは話し合いを重ねた。そしてデュラスによる物語は始まった。
このシナリオと映画を通して二人が本当に訴えたことは、フランス人の女と日本人の男がわずか1日余りの恋愛ではなく、世界中に原爆投下後の数年余りの間その甚大な被害と恐るべき威力にアメリカとその同盟国フランス等の政府は一般市民に事実の隠蔽に努めたが、核兵器製造を進言したアインシュタイン等の科学者からの平和アピールにより一挙に世界中に原爆投下とその実体が白日の下にさらされ、原水爆(核兵器)反対運動が盛り上がりを見せ、その一連の動きの中でのデュラスとレネの行動ではなかったろうか。
以下は主人公二人がヒロシマのホテルの一室で交わす象徴的なセリフである。
  男 ― きみはヒロシマで何も見なかった。何も。
  女 ― わたしはすべてを見た。すべてを。
私は男女二人のセリフを以下の様に理解している。“フランス人である君は原爆投下から10数年たったヒロシマで原爆記念館などで原爆投下による被害の実体を知ろうともそれは真実ではない、ほとんど何も知らない、何も見なかったに等しいことだ”
つまり男の思いは、
“原爆投下後のヒロシマは地獄だった、一瞬にして数万人の市民が死亡し、数万人の市民が苦しみもがく負傷者となった。焼け野原となり、黒い雨をすすって生き延びた、そしてある一定量被爆した市民には必ず訪れる死が待っていた(瞬時に800ラド以上全身に放射線を被びた人間は100%
死亡)。これが勝利の為とは言え人間のする所作なのか?“と。
デュラスとレネ二人の思いと平和へのメッセージは十分伝わってくる。

マルグリット・デュラス Marguerite Duras(1914~1996)
 仏領インドシナのサイゴン近郊に生まれる。1931年17歳でフランスに帰国。パリ大学で法学を学ぶ。ドイツ占領下の43年、初の小説『あつかましき人々』を発表。このころレジスタンス運動に加わる。その後、50年『太平洋の防波堤』、58年『モデラート・カンタービレ』、64年『ロル・V・シュタインの歓喜』、69年『破壊しに、と彼女は言う』など、話題作を次つぎと発表する。84年『愛人ラマン』がベストセラーとなり、ゴンクール賞を受賞。シナリオや戯曲、みずから監督した映画作品も数多い。河出書房新社 1,800円


210回 「日本における表現の自由度」 

 今月1月7日フランス・パリでたびたびイスラム教の風刺画を掲載した風刺週刊誌シャルリ・エブドの本社がイスラム過激派の二人のアルジェリア移民二世の若者に襲撃され社員12人が射殺され多数の負傷者を出し、同時に関連した立てこもり事件が発生し、これらのテロ事件で合計17名の生命が奪われ世界中に衝撃を与えた。
 1月11日には連続銃撃テロ事件の犠牲者を追悼し、テロを非難する大行進が約50ケ国の首脳級が先頭に立って行われた。フランス各地での参加者は370万人に達し、1944年8月のナチス・ドイツからのパリ解放以来、最大規模の市民行動となった。「表現の自由」を断固死守し、テロへは結束して対抗し、テロ撲滅の姿勢を世界中にアピールした。
 イスラム文明とキリスト文明衝突、そしてイスラム諸国と欧米諸国との価値観の相違(特に表現の自由に関して)を鮮明にした出来ごとだったと言える。
 さて日本では昨年12月5日に産経新聞社は、同紙に掲載したユダヤ人に批判的な内容をめぐり、米国のユダヤ系団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」から抗議文を受け取ったことを明らかにした。同社の熊坂社長は「広告審議手続きに欠陥があった」「こうした内容の広告が、読者の手元に届けられてしまったことは極めて遺憾であり、読者とユダヤコミュニティの皆様に深くおわびします」と謝罪した。
 問題となったのは11月26日付朝刊の東海・北陸版(約5千部)に掲載されたネットジャーナリスト リチャード・コシミズの著書を「ユダヤ独裁国家アメリカの謀略を暴く!!」と表現し、3冊の著書を紹介した広告であった。
「ユダヤ人はアメリカを番犬にして世界の世論を弾圧する」などの記載もあった。
 抗議文は12月4日付でユダヤの同団体のエイブラハム・クーパー副所長名で「これらの本はユダヤ人に対する危険極まりない虚言の流布」との内容だった。
 熊坂社長は次の様にコメントとしている。「産経新聞社はナチスドイツによりホロコーストを許しがたい犯罪ととらえており、講義を真摯に受け止め、誠実に対応したい」としている。
 私はこの新聞報道に思わず「えーそして絶句・・・・・した」「何なんだこれ!!」リチャード・コシミズの本の記載で「ユダヤ人はアメリカを番犬にして世界の世論を弾圧する」この記載はまったく事実であり真実である。多少でもイスラエルにとって不都合な真実の記載、ホロコーストへのささいな疑問、更にはナチスのわずかばかりの善行報道に対して米国のユダヤ系のイスラエル支援団体を代弁者にして日本のイスラエル大使館は敏感に瞬時にヒステリックに反応し抗議して来るのが常である。在日イスラエル大使館業務の大きな目的の1つは日本で反イスラエル・反ユダヤの報道(表現)がなされていないかのチェックである。そして国レベルで抗議する対象にならないケースをアメリカのユダヤ系の支援団体を利用するのである。そして日本のマスコミや出版社が従わない時にはアメリカの巨大企業からの広告を一切とりやめると脅しをかけ、からめて手で従わせるのが常套手段である。お見事と感服させられる。それにしても日本の数あるマスコミの中で少しは骨のある、しこしのある(山梨弁で根性のあると言う意味)新聞社だと認識していた、日頃の中国・韓国に対して正論を堂々と主張した卓越した見識は霧散し、国内外の権力やスポンサーにおもねるごく普通の報道機関になり下がってしまったのが残念でならない。
 1月12日(月)パリのシャルリ・エブドはテロに抗議して再度ムハンマドの風刺画を掲載した週刊誌(各国語に翻訳され通常の10倍の部数)を「表現の自由」を前面に押し出し出版した。
 しかしフランス国内の世論は「表現の自由」と「宗教への尊厳」の対比については賛否両論半々と言った状態である。一方フランス大統領は「表現の自由」は国是であると言明し、命を賭して守り抜く覚悟を国内外にアピールした。
 一方日本のマスコミや出版社は、広告主から広告を取り下げるとの恫喝に表現の自由を金の為にスタコラサッサと放棄する、すなわち言論封殺に易々と応じているのが現実で言語道断と言わざるをえない、ある晩、以上のことを妻に問いかけると?
妻曰く“皆さん会社が大切なのよ、家族を路頭に迷わすのが恐いのよ、あたりまえよ”との私の心にグサッと刺さる返答に思わずコップ酒をぐっとあおった。
そして心の中でそっとつぶやいた。
「日本国憲法第二章第二十三条、集会、結社及び言論・出版その他一切の表現の自由、これを保障する。検閲はこれをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」
日本において「表現の自由」の自己規制は存在する様だ。そしてフランスには命を賭してまで守り抜く「表現の自由」は存在する。



209回 明治のガンコ者「夏目漱石」  

 明治以降、最高の国民作家の呼び声高い「夏目漱石」、現代でも売れに売れている文庫本の王者、小学生から老人まで巾広い読者層を持つ大衆人気作家、権威におもねない反骨作家、「紫式部」と比肩しうる日本文学史上に燦然と輝く二大文豪の一人、以上が「漱石」を表現するのにふさわしい言葉と考えている。
 ただ作家活動は10年余りと短く作品数は少なく、執筆活動のジャンルも広くなく、わが郷土の文豪「泉鏡花」そして早逝の天才「三島由紀夫」等には劣る点は少なからずあるが、漱石の作品すべてが珠玉の名作と言える駄作はほとんどない。この稿では「反骨作家」という面に焦点を当てることにする。
 イギリス留学から帰国した漱石は、東大や旧制第1高等学校で英文学の教鞭をとっていたが内心は教師がいやでいやでまさに不承不承状態、自身と家族の生活の為だけでつとめていた(二年間の国費留学の代償として倍の最低4年間は国家機関で働く義務があった)。
 本心は執筆活動に専念、更には心血を注ぎたいとの思いが噴火寸前の火山のマグマの様なフラストレーションがたまりにたまっていた。
 英語を知り、又二年間イギリスに滞在した経験から「漱石」には当時の日本人にとって英語はさほど重要ではない、それこそ海外貿易したり、外交官や海外特派員なら必要であるが、一般国民にとって英語の英の字ほども英語はまったく必要ではないと深く認識していた。大して重要でない英語を学生にあえて教える苦痛にじっと耐えていた。
 そんな状況の中、東大英文学教授への就任の内示があった。しかし漱石は全然うれしくないどころか、吾輩は猫の主人公にでも食わせてやりたい心境だった。
ところがその時幸運にも「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などで作家として文名が上がっていた漱石のもとに、1907年春に東京朝日新聞主筆の池田三郎が訪ねて来て、小説記者として入社の正式な要請があった。条件は年に一度、百回程度の小説を新聞紙上に掲載すること、その上年棒は東大教授の約二倍と高額で東大教授の肩書など「へ」でもないと日頃思っていた漱石は家族も多く物いりで、この条件なら安心して思う存分執筆出来ると小躍りしたい気分だった。
その上池田の「先生を英語の教師にしておくのはもったいない、才能の持ちぐされです」とのくどき文句にぽーんと胸をたたいて快諾した。
ちなみに東大英文学の前任教授はあの有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であった。文部省の経費削減方針から、外国人教師の特別給与が余りに高額な為、半額で漱石に白羽の矢が当たったが漱石は“東大教授なんて「へ」みたいなもんよ”と一蹴してしまった。
1907年5月3日、朝日新聞紙上に漱石の「入社の辞」が掲載された。一部抜粋が以下である。
余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。かく申す本人すらその点について驚いている。然しながら大学のような栄誉ある位置を拠って新聞屋になったから驚くと言うならばやめて貰いたい。新聞屋が商売なら、大学屋も商売である。商売でなければ教授や博士になりたがる必要はなかろう。新聞が商売であるが如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差だけである。

以上が権威に一切おもねない、反骨作家「漱石」の面目躍如たる文章である。
 当時の新聞社はヤクザの様になわばり意識が強く、関西から進出して来た、いつつぶれてもおかしくない新参者の新聞社に何んのためらいもなく飛び込んで行った勇気と反骨精神につくづく感心させられる。漱石は以下の様に吼えたのではないだろうか。「オイラにゃ東大教授なんて柄じゃねえ、このオツムと右手のペンさえありゃ、いっちょう勝負してやらあなあー」と。すでに執筆(作家)活動で食べていける相当な自信があった。漱石の朝日新聞での第1作目は名作として名高い「虞美人草」であった。その後「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」と次々と連載した。
 1906年44歳の時、又又ガンコ者「漱石」を証明する出来事があった。文部省から「博士号」を授与するとお達しが出ると、所管の文部省学務局長宛に辞退の旨手紙を出した。以下一部抜粋である。
右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然るところ小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。・・・・・

上記の通知のあと、局長が直々、漱石の家にやって来て直談判した。しかし漱石は一貫して授与を拒否し、話し合いは物別れに終わった。
その後学位記は送られて来た、その返送の際の手紙に「学位がほしくないと言っている者に、本人の意思に逆らって送って来ても、受け取る義務はない」と又「今の博士制度は功少なく弊害の方が多いと考えている一人であるとはっきり言わせてもうらう」とケンカ腰である。相当な自信である、そして文部官僚は切歯扼腕したのではないだろうか?一般的に言って当時の博士号は非常に数が少なく、しかも文部省よりの授与の為とても権威があって邪魔になるものではない、それで損することもない、むしろ人の尊敬をうけるのに都合が良い、又プライドを保つうえでも役立つ、ところが逆に漱石はそんな俗っぽいものを自慢したり喜んだりする卑小な精神をきらったのだろう。作家は作品がすべてであり、誇るものは自身の作品だけでよいと考えていたのであろう。漱石が「反骨作家」と称されるゆえんである。
 最後に「漱石」はイギリスでの二年間の留学生活は人生最悪の日々だったと述懐している。私は以下の様に理解している。漱石は元来うつ病気質があったところへ西洋(イギリス)の文明(文化)と漱石が愛してやまない江戸文明(文化)が衝突し漱石の方がチリチリ・バラバラに砕け散ったというのが実情だろう。
 ガンコ者「漱石」らしく西洋文明と一切妥協出来ずロンドンの下宿にとじこもり、もんもんとし、ひたすら英文学書を読みあさった日々だったろう。しかし帰国後、日本文学史上大変な偉業を成しとげた、それは史上初となる言文一致(現代文)で「吾輩は猫である」を書き上げたことである。ガンコ者「漱石」よくぞやりとげた。

「自動車の近未来」  208回

 2014年12月水素で走る燃料電池車(FCV)をトヨタ自動車が世界に先駆け発売し、ホンダも2015年度に続く。トヨタが開発に着手してから四半世紀。「究極のエコカー」は普及に向けた課題を乗り越え、水素社会の先駆者となりつつある。
燃料電池車は燃料の水素と空気中の酸素を反応させて電気を起こし、モーターを回して走る。FCV(Fuel Cell Vehicle)と呼ばれる。走行中排ガスは出さず、水しか出さない、約3分で水素を満タンにでき、約650キロを走ることが出来る。
エコカーとして一歩先行していた電気(EV)自動車は家庭用電源からの充電には8~16時間を要し、ガソリンスタンドに設置されたスーパーチャージャーと呼ばれている急速充電でも30分程度時間が必要だ。走行距離の問題点もパナソニックの技術改良により500~600㎞1回の充電で可能となって来つつあるが、公用車とかゴルフ場のカート等に限定して使用される程度だろう。
今後の近未来の車は間違いなく燃料電池(FCV)が主流となる。
すでに2002年12月にはトヨタとホンダは燃料電池車の限定リース販売に踏み切っていた。今回FCV車が今後世界の主流となる理由の一つに水素を燃料として使うところにある。実は水素は石油を精製する際に水素は自然発生するので、新たなコストをかけることなく企業は取り出すことが出来る。つまり石油元売り企業にとって、石油も水素も決して競合する燃料ではない。すべてのガソリンスタンドは水素の提供拠点となることができる。
今現在は、元売り最大手であるJX日鉱日石エネルギーは電気(EV)自動車に電気を供給する為の電気スタンドを国内4,000カ所に設置を発表しているが、実はこれは国の施策に協力する姿勢を見せているにすぎない。石油元売り企業からすれば、電気を売るより水素を売ったほうが利益になるため、将来的には国の施策に一定のポーズをとっているが大本命の水素スタンドを全国的に広めていこうと言う戦略だろう。
燃料電池の技術は日本がダントツに優れている。今後燃料電池車がアメリカ市場で本格的に普及することになれば、その技術を持つ日本は非常に優位に立つ可能性が高まる(例えばハイブリッド車の様に)。
ともかくこれからも日本の自動車産業が世界を牽引していくだろう。
くり返すが、石油の精製過程で生じる水素、あるいは製鉄の過程で生じる水素を用いれば、日本を例にとると500万台の燃料電池車へのエネルギー供給をまかなえるといわれている。その為原油や天然ガスの価格の下落が進む中で、今まで有効利用する術がなく、廃棄処分されていた水素が、エネルギー会社が新たな利益源を水素に求めようとするのは、自然の流れである。石油メジャーや元売りもそれこそ業界を挙げて燃料電池車を応援することだろう。2020年頃には300万円位の燃料電池車が供給可能となり汎用車の1~2割は燃料電池車になる可能性すら出て来た。
しかし今後に多くの課題もある。水素ステーションの設備投資には5億~6億円とガソリンスタンドの数倍かかるため、いかに水素ステーションの事業性を確保するかが焦点となる。又現在のガソリン車を前提とした地下駐車場などのインフラ等についてもFCVを想定した防災・火災対策などの検証が必要となる。
トヨタ・ホンダによる量産型FCVは今、まさに元年を迎えた段階ではあるが、水素を使った燃料電池車は日本が世界をリードする技術であり、まさに車のイノベーション(革新)と言って良い。アベノミクスの第3の矢になることが期待される。この燃料電池の技術は自動車以外にも幅広く応用・転用されれば新たな産業創出の可能性も高まる。FCV元年は、日本の産業全体にとって新たな出発点となることを期待しようではないか(最大の効能は水素による大量の電力供給につきる)。



「自動車の近未来」  207回 

 2014年12月水素で走る燃料電池車(FCV)をトヨタ自動車が世界に先駆け発売し、ホンダも2015年度に続く。トヨタが開発に着手してから四半世紀。「究極のエコカー」は普及に向けた課題を乗り越え、水素社会の先駆者となりつつある。
燃料電池車は燃料の水素と空気中の酸素を反応させて電気を起こし、モーターを回して走る。FCV(Fuel Cell Vehicle)と呼ばれる。走行中排ガスは出さず、水しか出さない、約3分で水素を満タンにでき、約650キロを走ることが出来る。
エコカーとして一歩先行していた電気(EV)自動車は家庭用電源からの充電には8~16時間を要し、ガソリンスタンドに設置されたスーパーチャージャーと呼ばれている急速充電でも30分程度時間が必要だ。走行距離の問題点もパナソニックの技術改良により500~600㎞1回の充電で可能となって来つつあるが、公用車とかゴルフ場のカート等に限定して使用される程度だろう。
今後の近未来の車は間違いなく燃料電池(FCV)が主流となる。
すでに2002年12月にはトヨタとホンダは燃料電池車の限定リース販売に踏み切っていた。今回FCV車が今後世界の主流となる理由の一つに水素を燃料として使うところにある。実は水素は石油を精製する際に水素は自然発生するので、新たなコストをかけることなく企業は取り出すことが出来る。つまり石油元売り企業にとって、石油も水素も決して競合する燃料ではない。すべてのガソリンスタンドは水素の提供拠点となることができる。
今現在は、元売り最大手であるJX日鉱日石エネルギーは電気(EV)自動車に電気を供給する為の電気スタンドを国内4,000カ所に設置を発表しているが、実はこれは国の施策に協力する姿勢を見せているにすぎない。石油元売り企業からすれば、電気を売るより水素を売ったほうが利益になるため、将来的には国の施策に一定のポーズをとっているが大本命の水素スタンドを全国的に広めていこうと言う戦略だろう。
燃料電池の技術は日本がダントツに優れている。今後燃料電池車がアメリカ市場で本格的に普及することになれば、その技術を持つ日本は非常に優位に立つ可能性が高まる(例えばハイブリッド車の様に)。
ともかくこれからも日本の自動車産業が世界を牽引していくだろう。
くり返すが、石油の精製過程で生じる水素、あるいは製鉄の過程で生じる水素を用いれば、日本を例にとると500万台の燃料電池車へのエネルギー供給をまかなえるといわれている。その為原油や天然ガスの価格の下落が進む中で、今まで有効利用する術がなく、廃棄処分されていた水素が、エネルギー会社が新たな利益源を水素に求めようとするのは、自然の流れである。石油メジャーや元売りもそれこそ業界を挙げて燃料電池車を応援することだろう。2020年頃には300万円位の燃料電池車が供給可能となり汎用車の1~2割は燃料電池車になる可能性すら出て来た。
しかし今後に多くの課題もある。水素ステーションの設備投資には5億~6億円とガソリンスタンドの数倍かかるため、いかに水素ステーションの事業性を確保するかが焦点となる。又現在のガソリン車を前提とした地下駐車場などのインフラ等についてもFCVを想定した防災・火災対策などの検証が必要となる。
トヨタ・ホンダによる量産型FCVは今、まさに元年を迎えた段階ではあるが、水素を使った燃料電池車は日本が世界をリードする技術であり、まさに車のイノベーション(革新)と言って良い。アベノミクスの第3の矢になることが期待される。この燃料電池の技術は自動車以外にも幅広く応用・転用されれば新たな産業創出の可能性も高まる。FCV元年は、日本の産業全体にとって新たな出発点となることを期待しようではないか(最大の効能は水素による大量の電力供給につきる)。


「アベノミクスに明日はある」 206回

 昨年末の本会報でアベノミクスは経済学の巨人達のいいとこ取りした政策だと記述した。事実ケインズの金融緩和、財政出動、シュンペーターのイノベーション、そしてフリードマンの規制緩和と構造改革 これらすべてを達成出来ればデフレ脱却、経済再生そして世界の最優良経済大国になることうけあいである。
 ところがエコノミストと称する人達の中でアベノミクスではデフレ脱却、経済再生どころか国債暴落、ハイパーインフレとなり日本経済は破綻(デフォルト)に陥ると声高らかに主張する人達もいる。この稿では私なりに「アベノミクスに明日はあるのか」の検証を試みることにする。
 昨年の10月31日 日銀は更なる金融緩和を断行した。ちょうどハロウィンの時期に当たり「ハロウィン緩和」と呼ばれている。4月の消費増税はかなりGDPをおし下げており、更なる金融緩和をもう少し早くやっても良かったのではと思うが、規模は現在の需給ギャップを中期的にカバーするのにまずまずとの印象を持っている。直後に円安株高となった。しかし実は金融緩和の最大の効果は雇用の改善にあった。政権発足から2年余り安倍政権の経済運営により株価は倍以上になり、為替は70円→115円と円安になり雇用者数はこの1年間1000万人以上増え、一部の職種では人手不足が懸念されるほど売手市場になりつつある。
 以上を考慮すればアベノミクスは成功していると言えるが、多くのマスコミは余りに大胆な金融緩和は副作用(国債の暴落とハイパーインフレ)が起こると警鐘を鳴らしているが、アメリカでも日本でも副作用など出ていない。心配性もいいかげんにしてほしい。10月末に来日したノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授がかつて言っていたことだが、「火事の時、消火する為に水をかけたら家具が水にぬれると怒る様なものだ」と。更に金融緩和の「出口(いつやめるか)」を心配している様だ。確かに米国は量的緩和を6年もやって見事に経済を再生させつつある。日本では民主党政権下、大胆な量的緩和に踏み切れず、白川前日銀総裁に小出しに気持ち程度金融緩和をやらせた。アベノミクスは約2年前から大胆な金融緩和をはじめたばかりでありようやく中盤にさしかかろうとしている時期にもう「出口」戦略とはちと気が早すぎると言わざるをえない。果実はしっかり実らせて収穫するのが常道である。最近は反アベノミクスの著書や論考などが花盛りである。曰く景気回復の兆しはアベノミクス以前からあった、金融緩和は効果をあげていない、大企業が潤うだけで勤労者に恩恵はない、遠からず大破局がくる、更には“実証に欠け無理論の上に立つもの”「アベノミクス批判・伊藤光晴著」と罵倒したり「経済予測は基本的にあたらない。外れたことより外した理由が問題」(アベノミクスの終焉・服部茂幸著)これなどは実地経済を語る資質のない学者本である。経済運営とは「うまくいって何んぼ」「もうかって何んぼ」という現実を無視したたわごとだ。
 反アベノミクス論者の中で「野口悠紀雄」の日本経済は大胆に構造改革なくして再生はありえない例えば製造業に頼ってはダメだと、日本人はもっともっと頭を使い新しい分野を開拓すべきである。例えば東京を世界の金融センターにする等、そして外国の有能な人材が日本で活躍出来る様にしなくては日本再生などありえないと。日本は経済構造を抜本から見直し改革する必要があると論破している。私は傾聴に値すると思っている。
 さてアベノミクスの最大の課題といわれている第3の矢 つまり成長戦略であるが、まず第一に2020年の東京オリンピック招致に伴う経済の活性化は大いに期待出来る。その上昨年6月に政府は「日本再興戦略」を以下の様に閣議決定した。
  ①法人税減税(実効税率を20%台に)
  ②雇用制度改革(労働時間の見直し、女性の就労支援、外国人活用)
  ③医療制度改革(混合診療の拡大)
  ④農業改革
  ⑤公的資金見直し
  ⑥国家戦略特区(いわゆる岩盤規制の打破)
 私は以上以外にも考えられる施策はすべて試みる必要があると考えている。なぜなら何がヒットし日本経済の再生につながるか不確定な現状では、なりふりかまわず試みる必要がある。今、今日、この時が日本経済再生のチャンスだ。もう一歩前進すれば国民の間に好況感が広がりお金をもっと使おうという気持ちになり、景気の好循環に入ることが出来る。
 最後に私がこんなことを言うのは、本当におこがましいが安倍首相は直近の元首相たちと違ってある程度実地経済学を理解している、これは我々国民にとって大変幸せなことである。そして「アベノミクス」に明るい未来はある、失敗を恐れず考えられるすべての施策を実行すべきである。
本稿の執筆は2014年11月10日であり2015年1月29日の例会日には私の主張など陳腐なものとなり、国内に好況感が広がっていることを期待している。


アンチエイジング(不老不死)の実現  205回

 我々医療担当者にとって医療の究極の目的はと問われれば、私は歯科医師ですので当然「口腔諸器官の不老不死」と答えている。人類が不老不死を実現すればこの地球上は人人人で溢れ返り、火星への移住も現実味を帯びてくる。
 さて、2009年のノーベル生理学・医学賞は、ブラックバーン、グレイダー、ショスタクの3人が受賞している。テーマは「テロメアとテロメラーゼによる染色体保護の発見」である。
 「テロメア」は真核生物の染色体の末端部にあり、DNAとタンパク質から構成される構造物である。末端小粒と表記されることもある。発見されたのは1930年代のことで、DNAが遺伝物質であることが明らかにされるまでは、テロメア研究が主流となることはなかった。
 ブラックバーンが、テロメアが特定の塩基配列の繰り返しであることを発見したのは、1978年のことである。ブラックバーンのラボの学生である、グレイダーが1984年にテロメアを伸張させる逆転写酵素「テロメーゼ」を発見。単離することに成功した。ショスタクはブラックバーンとともに、テロメーゼが染色体を保護することを発見し、また、テロメアの機能の解明にも貢献している。彼らの研究成果や受賞研究対象は、近年の他の受賞対象研究と比べると、やや地味と思えるが、実は人類にとっての究極、いや、永遠の夢である「不老不死」への第一歩となる可能性がある研究である。
 テロメラーゼの活性を抑制することで、ガン細胞の細胞分裂を抑制できれば、ガン治療に大きな効果があると期待されている。一方、これとは逆にテロメラーゼの活性化による効果も期待されている。テロメアが短縮すると細胞が老化する、この状態の細胞は細胞周期が停止して、細胞分裂が起きなくなる。人工的にテロメラーゼを活性化させることができれば、テロメアが伸張し、細胞分裂の寿命が延びる。これを確実に制御できれば、老化の速度を遅らせることができる。
 前述のショスタクは、酵母菌の染色体に関する研究で、遺伝子操作や哺乳類の遺伝子地図の作成に貢献し、ヒトゲノム計画にも参加している。近年では、人工細胞の作成や人工生命に関する研究を進めており、今後の進展によっては、ノーベル生理学・医学賞において21世紀で最初の複数受賞者となる可能性もある。100年~200年程度のスパンの研究では、人間が千年も一万年も生存できたり、いや、永遠に「不老不死」となるのは無理だろう。数千年~数万年の長い長い年月が必要であろう。現実的にアンチエイジングの研究が進展し、元気で200歳まで生きられればなぁーというのが私の心境である。


204回  最新RNA理論                            

 私が学生時代に生化学の講義の中で、生物にとって最も重要な分子はDNAとRNA、タンパク質の3種類であると、過去のワトソンとクリックによる1953年のDNAの二種ラセン構造特定以来、実に60年あまり、細胞の主な活動はDNAとタンパク質に帰するとされてきた。RNAも確かに重要であるが、下支えの脇役扱いだった。分子生物学者がなぜRNAではなくDNAとタンパク質を主役とみなしたかは容易に理解できる。
 DNAの主要なサブユニットである4つの塩基(アデニンとチミン、シトシン、グアニン、それぞれA、T、C、Gと略される)は、地球上のあらゆる生活が成長するための基本的な指令を形作っている。そして、DNAが指令する過程のなかでも最も重要なものが、タンパク質の製造なのだ。
 現在の医薬品の大半は、タンパク質に作用してその働きを阻害するが、その生産量を変えることによって機能するものだ。ただ、ほとんどの医薬品がタンパク質に影響するものではあるが、だからといって狙いのタンパク質に作用する薬を自由に開発できるわけではない。
最も一般的な医薬品は、胃の酸性環境を無事通過できる小さな分子でできている。これが消化器系から吸収された後、鍵が鍵穴にマッチするように、標的タンパク質の活動サイトにぴったりはまらなければならない。ところが、この方法が通用しないタンパク質が存在する。活性サイトがタンパク質分子の奥深く隠れているものや、細胞骨格を形作っているため、そもそも活性サイトを持たないタンパク質があるのだ。この結果、これらは創薬困難となる。
20世紀末、一連の発見によって新たな形態のRNAがいくつか見つかり、細胞中で活発な調整機能を担っていることが分かった。どのタンパク質をどれだけ作るかを決めているほか、一部の遺伝子の働きを完全に止めることもある。
RNAに関する新発見は、1993年「マイクロRNA(miRNA)」の発見によって築かれた。細胞は、このmiRNAを用いて多くのタンパク質の生産スケジュールを調節しており、特に生物の発生初期でのこの効果が大きいと考えられている。そして、miRNAの発見から5年後に別の大きな発見があった。miRNAとはまた別の短いRNA分子が、メッセンジャーRNA(mRNA)を切断することによって、遺伝子がタンパク質に翻訳されているのを実質的に阻止していることが分かったのだ。この記念碑的な発見、つまりRNAi(RNA干渉の発見)をした、ファイアーとメローに、2006年のノーベル医学賞が贈られた。浅学非才な私は当時、なんで生命科学にとって重要でない大した働きのないRNAの研究にノーベル賞なんて、と思ったものだ。
この段階で生命科学の学者達は、それまで見過ごされてきたこの分子を用いて、タンパク質の生産を変えることに注目、創薬困難なタンパク質についても創薬が可能となる可能性について気付いた。こうした最新の知見によって、細菌やウイルスによる感染症、ガン、様々な慢性疾患に対抗する新しい医薬品を作ることが可能になった。今年話題となっているエボラ出血熱や、世界中で膨大な数のC型肝炎の患者に朗報となる、効果的な新薬がまもなく出現する。
最新のRNA理論により今まで説明できなかった遺伝子発見の様々な現象を解明し、さらに標的遺伝子を抑制する「RNAi法」が確立することとなった。「RNAi法」が効果を示す生物種は限られているものの、研究者たちの間に普及、RNAの研究に大きく役立っている。病気の原因となる遺伝子の発見阻害、あるいは直接ウイルスへ働きかける、といった薬品への応用研究が盛んとなり、大きく期待される。ウイルス感染症のみならず、薬物治療が難しいとされているガンや神経性疾患の効果的な治療薬が発明される可能性が出てきた。
一方、遺伝子に直接働きかけることによる思わぬ副作用も危惧されている。


203回 ハーン(小泉八雲)の結婚と帰化   

 1890(明治23)年4月4日に特派員として横浜に到着した。その後不利な契約への不満から、米ハーパー社との契約を破棄し、横浜に4ヶ月滞在した後、ニューオリンズ万博で知り合った、文部官僚服部十三の紹介で島根県松江の尋常中学、師範学校の英語教師として赴任した。月給は当時の島根県知事とほぼ同額の100円(ちなみに学校教師の初任給は5円)と破格の待遇にハーンは小躍りしたい気持ちであったろう。高校も満足に卒業していないハーンにとって、アメリカの16年間の記者生活では辛酸を舐め、人はハーンを評して、放浪者、夢想家、独善者、人間不信の孤独家と表現している。そしてそのいずれもが当てはまったようだ。その上最大の特徴は、いや、欠点は“金欠病”であった。島根県の役人が名簿に「ヘルン」とカタカナ表記を間違って登録したが、ハーンは抗議することなく承諾し、松江では「ヘルン先生」と呼ばれた。
 松江に着いたハーンは、富田旅館で寛ぐ。そこへ県庁の役人が洋服にネクタイ姿で挨拶に訪れたのに対し、ハーンの演出は浴衣姿で座布団に座り、キセルの煙をくゆらせ、窮屈そうにしている役人にさかんに椅子を勧めた。洋と和の逆転の演出に、役人は汗をかきかき親しみを覚えた。
 また、当時日本人は海水浴などする習慣がなく、ハーンがキセルをくわえながら、背泳ぎする姿に松江市民はどっと浜辺に繰り出し、拍手喝采した。その上当時の西洋人が嫌った生魚、納豆、生卵、漬物等をなんら違和感も見せずペロリとたいらげ、松江市民の心を一気につかみ「ヘルン先生」「ヘルン先生」と親しみと尊敬を集めた。事実、一般的な西洋人とは明らかに行動様式の違う、現代風に表現すれば「ヘンな外人」そのものであった。この姿こそが後に日本文明(文化)を真に理解した最初の西洋人になりえたのである。
 ハーンは10月下旬に、宍道湖湖畔の織原家の離れ屋敷に居を移した。ここでハーンのハウスキーパーとなったのが、後に結婚する小泉セツ(離婚し、両親の面倒をみる立場にあり、生活に困窮していた)であった。最初にセツを紹介されたとき、ハーンは手足の太い、丈夫そうな彼女をハウスキーパーとして歓迎した。しかしその後、接するにつれ、士族の出であるセツの“サムライの娘”らしい凛とした立ち振る舞いや、にじみ出る知性、感情細やかな優しさに、日本女性の美しさを見出した(もちろん西洋人の女性と比較して、ハーンは158cmと背は低く、服は浅黒く、隻眼で鷲鼻の奇異な風貌で、白人女性にまったくモテず、かなり自身の容姿にコンプレックスを持っていた)。
 ハーンは友人のチェンバレンに次ぎのような書簡を送っている。

セツにとって家族を支える必要に迫られており、それこそ女中でもなんでもやる覚悟であり、ひょっとしたら再婚できるかもしれないとの期待もあった。ある意味二人の出会いは相互に求め合う、天が導いた人生の帰結だったのかもしれない。1841(明治24)年1月下旬二人は、お互いの傷を舐め合うように同棲を始めた。そして同年8月二人は当時としては珍しい新婚旅行に出かけた。
 セツはハーンの人間性を知り、“異人の妻”となることに躊躇はなかった。日本語の読めないハーンにとって、セツとの結婚は非常に有為なものであり、利発な彼女は彼の著作活動において、手となり足となり眼となる、えがたい貴重なパートナーであった。ハーンは日本に長く滞まること、さらには作家として自立することを決意した。翌年ハーンは、こわれて松江から熊本の五高の教壇に立ち、さらに1894(明治27)年、神戸に移り住み「神戸クロニクル」の記者として文筆をふるった。熊本時代、セツとの結婚の正式な手続きをしようと役場に度々足を運び、担当者と談判するが、結局は前例がないということで、うやむやになったまま保留され、長男一雄は日に日に大きくなり、私生児状態に気が気ではなかった。
 神戸でなすべき大仕事は、まずセツを正式な妻となるべき手続きと、長男一雄の出生届である。神戸はさすが国際都市であり、国際結婚による届出の受領もスムーズに進んだが、ハーンにとってひとつ気がかりなことがあった。自身が死んだ後、遺書を残してあったとしても自分がイギリス人のため、当時の日本とイギリスの不平等条約により、遺産はセツと子供にはいかず、自分は英国籍のままなので、見ず知らずの遠縁のイギリス人に分配されてしまうだろう。
 ハーンはここでセツを英国籍に入れるか、自分が日本に化するかの難しい選択に迫られた。友人のチェンバレンに相談すると、セツの入籍に反対したチェンバレンは、日本を去るときは「植民地(日本)生活の錆を落として帰国したい」と本音を吐いた。当時、西洋人達は本国に妻を残しての単身赴任のため、日本人妻の存在があり、公には夫婦関係の記録は残さず、日本を去るときに、一生不自由しないだけの生活保障を与えて、ひとりだけで帰国するのが常だった。
 しかし、ハーンは長男一雄を捨て置くことは出来ない。なぜなら、かつて自分自身が母にも父にも捨てられた身だったからである。孤児としての自分の孤独な少年時代を思い出すと、一雄に同じ道を辿らせたくなかった。今さらギリシャにもイギリスにも帰れない。アメリカとて、青春の一時期を過ごしたにすぎない。ハーンには、アイデンティティーが感じられる祖国が存在しないことに気付き思い悩んだ末に、ならば自分はこの日本で日本人になろう、そして日本の心をアイデンティティーにしようとハーンは帰化を決意した。幸いにも神戸は居留地の外国人が多く、姓名変更、面接等を経て、帰化願いは日本政府に受理された。
 1896(明治29)年2月10日、手続きが完了し、ハーンは晴れて日本人となり「小泉八雲」と名乗った。戸籍上はセツが分家して、ハーンが小泉セツの婿として入籍したのだった。母セツから伝え聞いた長男一雄によると、セツが初めてハーンに昔話を語り聞かせたとき、ハーンはセツに感動して「あなたは、私の手伝いの出来る仁です」と“ヘルン言葉”で語りかけたと、後に一雄が語っている。ハーンはセツから覚えた出雲弁まじりの日本語を、英語の文脈に置き換えて作品を書いた。二人は向かい合い、セツが感情を込めて昔話を口承するが如く語り始めると、ハーンは必死でその意味やあらすじを英語でノートに書き取った。互いに母国語しか知らない二人の会話は「ヘルン言葉」という二人だけの共通語(日本語でもなく英語でもなく他人には全く理解できない)によってのみ理解し合えた。何度も何度もハーンが理解できるまで「ヘルン言葉」による会話は続き、何時間も仲むつまじく行われた。
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)といえば、誰しも「怪談」を思い浮かべるはずだ。「怪談」は日本の古文書や各地に残る口伝を、ハーンが自身の想像を交えて再構成したものだ。文学ジャンルでは“再話文学”といわれている。土地に伝わる伝説を見事に再話してみせてくれたハーンの“筆力”セツの“語り”の共同作業に、仲むつまじい夫婦の二人三脚のお手本を見た思いがする。 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は日本文学史に新たな1ページを記した。


202回 21世紀の経済覇権国                                  
 誰の目にも明らかなアメリカの凋落が言われて久しい。様々な予測では、21世紀は経済の中心がアジアに移ってくるのでは、経済においてはアジアの世紀である。そして、アジアの国々の中で中国、インド、そしてインドネシア(GDPで日本を2050年頃抜く)等がアジア経済の中心的役割を果たすであろうといわれている。
 たしかにこの3国プラス日本、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国等アジアの人口は世界人口の5割を軽く超え、GDPでも5割を超えると予想されている。世界中で自由貿易が行われればアジアにとって黄金の世紀になるはずである。
 しかし、アジアの食料生産は40億以上の人間を養っていくには十分といえず、すべての人々のお腹を満たすのにはかなりの苦労が伴うはずである。また、エネルギー、鉱物資源も自給は出来ず、輸入に頼らざるを得ないだろう。だが経済活動は40億以上の人口もあり、エネルギッシュなものとなり、アジア発の優れた製品も多く生まれるだろう。
 ここで大きくネックとなっているのが高等教育の問題である。「高等教育とはその国の将来に対する重要な投資である」ともいわれている。実際、アジアの国々でどれだけの量と質の高い教育を行っているのか問題となってくる。(2012~2013)の世界の大学ランキングによれば、以下のようである。
 トップ10にはアメリカ7校、イギリス3校、トップ20にはアメリカ14校、イギリス4校、スイス1校、カナダ1校、トップ50にはアメリカ31校、イギリス7校、カナダ3校、オーストラリア2校、香港2校、中国1校、日本1校、ドイツ1校、シンガポール1校、スウェーデン1校。
 例をトップ50の大学にとれば、アメリカとその友好国英連邦合計は、50校中43校を占める。一方、アジアの合計は5校である。トップクラスの大学の数が先端の科学技術の実力を表すものとすれば、アジアは科学技術の面では、米英の足元にも及ばない状態といえる。21世紀はアジアの世紀、いや、経済的覇権国となるなど恥ずかしくおこがましいといわざるを得ない。世の中を引っ張っていく先端科学技術を生み出す力は甚だ力不足である。
 未来への投資といわれている高等教育機関の一層のヴァージョンアップを計り、改善すれば、ひょっとすると21世紀の半ば頃にはアメリカを初めとする欧米先進国をキャッチアップ出来る可能性がある。しかし先頭になって世界を牽引するのはちょっと無理だろう


201回 宇宙エレベーター   

 現在、人間が宇宙(地球周回軌道)へ行くためにはロケットを使わなければならないが、もしかしたらもっと簡単に誰でも宇宙に行けるようになるかもしれない。それが宇宙エレベーターだ。これは、宇宙空間と地表を「テザー」と呼ばれる長いテーブルで繋ぎ、「テザー」を伝ってエレベーターのように人や物を運ぶという構想である。
 1895年に旧ソ連の科学者ツイオルコフスキーが「赤道上から高い塔を伸ばしていくと、ある時点で重力と遠心力が釣り合う」という着想を自書の中で述べ、同じく旧ソ連のアルツターノフが、静止軌道から上下にケーブルを伸ばしていく宇宙エレベーターの原理を考え出した。
 だが、宇宙エレベーターのアイディアは長い間アイディアレベルの議論に留まっていた。なぜなら、静止軌道から地表まで3万5800キロメートルをケーブルで繋ごうとすれば、普通の金属はもちろん、ダイヤモンドでも自らの重量で切断してしまう。ところが、1990年代にカーボンナノチューブ(CNT)が発見されたことで、宇宙エレベーターは現実味を帯びてきた。CNTとは炭素原子が編み目のように結びついていて、筒状になった物質でその直径は人の髪の毛の5万分の1ほどの細さでありながら、ダイヤモンドと同等の強度を持つ。このCNTならば、宇宙エレベーターに必要な軽さと強さを合わせ持つテザーが作れると期待されている。
 宇宙エレベーターの建築方法は意外にシンプルだ。上図のように、まず静止軌道上に宇宙ステーションを建築し、重心の位置をずらさないようにバランスを取りながら、上下にテザーを伸ばしていく。地表に向けて伸ばしたテザーが地表に届いたら、地上の基地(アースポート)に固定する。上(宇宙空間)に伸ばしたテザーはそのまま伸ばしていくか、バランスを取るためのカウンターウエイトに置き換えれば、これで宇宙エレベーターは完成する。あとはテザーを伝って人や物を運べば、非常に低いコストで宇宙への輸送が可能になる。打ち上げロケットで運ぶ場合に比べて、800~400分の1のコストの安さである。もちろん実際に建設するとすれば、大気の影響や万が一の安全対策等、クリアしなければならない課題は多いが、それでも先進国の間で研究が進められており、少しずつではあるが実現性が高くなっている。
日本の大手ゼネコンの大林組は「2020年代半ばに建設を開始すれば、25年後の2050年には運用可能になる」と試算している。私が100歳をちょっと越えたくらいのところで、私自身にも宇宙エレベーターに乗ってチョット宇宙にでも行ってこようかと言える時代がすぐそこまできている。「長生きするぞ!!」


200回記念レター 小室直樹博士への挽歌                      

 1977年小室直樹47歳当時、警察大学校と外務省研修所の講師を勤めていた。ここに碩学の好漢小室の度外れたエピソードが残っている。
 そもそも警察大学校の講師に採用された理由、それは小室がたびたび酔って交番に乱入し、警察官に絡んだ際に、刑法、刑事訴訟法の条文をあげて理路整然とクダを巻くところを見込まれたからだという。外務省研修所の講師をクビになった理由がまたすごい。それは外務省の教育担当者に「小室先生は講義の中で、総理大臣を馬鹿者と発言されたと受講者から聞きました。本当にそんな発言をされたのですか?」との問いに、小室は「いいえ、そんな風には言っておりません。正真正銘の大馬鹿野郎と言った!!」と答えたからだという。因みに当時は福田総理だった。
 200ページくらいの単行本一冊なんかウイスキーをグイグイあおりながら、一晩でたいした取材もせずに一気に書き上げた実力の持ち主、私には小室の場合は学問を追及、いや追いかけるのではなく、学問と併走する、むしろ当時の日本の社会科学はレベルが低いため、アメリカで先進的な社会科学を知得した小室の後を日本の学界の方が追いかけているような状態だったと考えている。
 日本人でノーベル賞の栄に浴した人達は確かにすごいが、学会アカデミズムから距離を置いた「無冠の帝王」小室直樹はすごい。もっとすごい。半端じゃない。その実力の程は、なんと1991年のソビエト連邦の崩壊を予言した。名著「ソビエト帝国の崩壊」を1980年(昭和55年)8月5日に出版している。実に11年前にソビエト連邦を研究、分析し、内部崩壊が進行しており必ずや完全崩壊すると白日のもとに天下に予言、広言、断言した。
 その折、ソビエト通といわれた日本の学者やジャーナリスト達は、こぞってそんなことはありえないと否定していた。いや、世界中の誰一人としてソビエト連邦の崩壊を予想していない。その後のマルキシズムの凋落、マルクス経済学者の失業(皮肉を込めて)、マルクス・レーニン主義の終焉、副次的産物として、ベルリンの壁撤去、そして、中国の人民解放軍による民主化要求の著者達を虐殺した。かの「天安門事件」、東欧の社会主義国がドミノ倒しのように民主国家への脱皮、今でも混乱の続くウクライナのように、旧ソビエト連邦構成国内の戦乱と苦悶、以上のようにあまりにもスピーディーな20世紀末での大激動、大革命、大激変、これには「ソビエト連邦崩壊」の唯一人の予言者、本家本元、元祖開山「小室直樹」大先生ですらかなりあせるくらい、チビルくらいの猛スピードに“more and more slow”と口走ったとの噂もあるとかないとか?
 いや、すごい。なんたる分析力。なんたる慧眼の持ち主。もしノーベル政治学賞が存在すれば、受賞は確実だった。
 小室27歳のとき、第2回フルブライト留学生として1959年から1962年まで3年間、アメリカで研究生活を送った。MIT、ハーバード、ミシガン大で、経済学、政治学、心理学、社会学を研究し30歳で帰国した。ところが渡米中に専攻を経済学から政治学、社会学へと変更したために、大阪大学大学院の担当、市村真一教授から破門された(市村は小室の頭脳に期待しており、出発前に当時すでに超有名だった経済学者ポール・サムエルソンを負かせてこい檄を飛ばした)。
 やむなく阪大を中退し、その後31歳で東大政治学大学院に入学。ここで伝説となった東大田無寮に入寮(食費込みで月額3800円のアバラ家)し、この後10年間博士号取得まで滞在、赤貧生活を送った。六畳一間の部屋は荒れ放題。酒ビンと長靴、本とフンドシ、パンと雨漏り用のバケツが乱雑に置かれ、室内をネズミが走り回り、飼い猫が追っかけ、畳はささくれ立って絨毯のようで、そこからタンポポの花が咲いていた。
 入寮から3年目くらいから、この部屋で自主ゼミ〔Tanashi School of Economics〕を主催。大学院生に理論経済学を指導する。また、その理解のために必要な数学を教え、博士論文を指導する。これが伝説となった「小室ゼミ」の前身である。評判が評判を呼び受講者が増加して、廊下にまで溢れ出た。この頃の小室の口癖は『(小室様には及びもせぬが、せめてなりたやサムエルソン)といわれる日が来る』と!!――――――私は思わず吹き出し爆笑した――――――その訳は、小室はアメリカ留学中にMITでポール・サムエルソン(近代経済学の大家で1970年ノーベル賞受賞)に師事したが、さながら自身の方が上であるとおどけてみせたジョークである。
 1970年40歳のときに田無寮で行われていた自主ゼミが、本郷の東大文学部社会学研究室に移転、社会科学の復興、再生、そして既存の教育、研究の枠にとらわれない自由な研究活動の場を目指し、所属、専攻、年齢等を一切問わない「小室ゼミナール」が出帆した。1980年頃には毎週1回、朝9時から夜9時まで昼食も取らず12時間ぶっ通しで行われた。科目は数学、物理学、経済学、政治学、法学、社会学、心理学、人類学等、以上の学問は相互に密接に関連している。小室はそれをゼミ生に分からせるために1人の教師がすべて教えることが必要と考え、小室は以上の科目を実際に1人で教えた(自由ゼミのため単位認定なし、従って無料)。
 この伝説の小室ゼミでは講義中、ゼミ生達一人一人に対して指名して鋭い質問を浴びせかけ、興に乗ればゼミは深夜にまで及んだ。フジテレビの「朝までテレビ」のような時間無制限一本勝負のようであり、また、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の白熱授業を、よりハードにした10数名の小人数の講義だった。以上が「伝説の小室ゼミ」といわれる所以である。
 小室ゼミからは多くの俊英な学徒(橋爪大三郎、副島隆彦、宮台真司、盛山知夫等)が輩出した。私は彼らの講演や著書に接して感ずることだが、実に幅広い学識に驚かされる。もちろん小室先生のあの甲高い声による熱血指導と叱咤激励のなせる技だろう。小室先生はあの有名なロッキード事件に際して「一国の元最高権力者たる総理大臣を罰してはならぬ。収監される前に法務大臣は指導権を発動せよ」とテレビのコメンテーターとして放送中に発言し、物議を醸し出した。
 このように、わが国では異色の思想化、保守派の論客、奇矯な言論人、学界の主流に位置せず、どちらかといえば在野の学徒として一般の人々に知られていた。しかし、小室の本当の実力を学界アカデミズの権威者達(政治学、経済学、社会学等の一流の教授達)は認識しており、小室と論争でもやろうものなら、こてんぱんに言い負かされて、次ぎの日から学生の前に顔出し出来なくなるのを恐れ、大多数は小室の発言に異を唱えたりせず、無視、もしくはだんまりを決め込んでいた。
 さて、小室先生は戦後日本が生んだ類例のない存在であり、間違いなく「知の巨人」と呼ぶにふさわしい。私はあえて「日本のマックス・ウェーバー」と呼びたい。小室先生は2010年9月4日に逝去されたが、御家族の意向で公表されたのが9月28日であり、私は新聞紙面で知り、哀悼の意と共に「巨星落つ」の感を持った。そして心の中で「先生の著作で随分勉強させていただきました。卓越したお教え本当にありがとうございました」とつぶやいた。
 去る9月4日は小室直樹博士の4回忌でした。「合掌」


199回 貿易赤字の日本が生き残る道 
       
 2011年日本の貿易黒字は31年ぶりに赤字になった。東日本大震災やタイの洪水などの特殊要因もあるが、生産の国外移転とともに貿易黒字が縮小傾向にあるのは間違いない。日本が慢性的な貿易赤字国になったとき、国として生き残っていけるのか。
 貿易収支は、国外とのモノやサービス、投資のやり取りを表す「経常収支」のうち、モノのやり取りによる儲けを示す部分。その貿易収支が赤字でも、モノ以外の部分でそれを補って余りある黒字を稼いでいければ何も問題ない。
 しかし、2013年は、経常収支全体でも1985年以来最大の4370億円の赤字になった。貿易赤字が大き過ぎて他の稼ぎが追い付かなかったためだ。これが恒常化して、経常赤字と財政赤字という「双子の赤字」を抱えることになると、悪夢のシナリオも現実味を帯びてくる。
 日本の政府債務がGDP比で213%。先進国でも飛びぬけて悪い。それでもデフォルトの心配をしないで済んだのは、国内の企業や個人が国際的なビジネスや、国外での投資収益の形で稼ぎ出した経常収支の黒字で国債を買い、財政赤字を埋めてきたからだ。所得収益の黒字は2005年から10兆円を超え、貿易収支の黒字を上回ってきた。日本はいつの間にか、貿易よりも投資収益で食べる国になっていたのだ。
 だがこれで安心はできない。第1に、日本の国外投資は相場によって収益が大きく左右される証券投資が多い。より安定して高い収益が見込める企業や工場、不動産等への直接投資を増やしていかなければならない。また経常収支の赤字が続けば、国外投資の源泉である対外資産は取り崩されて減っていく。そのときは、どうやって所得収支の黒字を稼げばいいのか。
 先例がある。アメリカやイギリスは対外資産より負債が多い純債務国だが、所得収支は黒字を保っている。秘訣は、国外から大量の投資資金を呼び込んで、国内では使わない余剰分を国外投資に回して儲けることだ。IPO(新規株式公開)で世界から集めたお金の一部を、国外での事業展開に使うのも一例だ。
 それを可能にするためには、国外の投資家から見て魅力的な国でなくてはならない。アメリカは基軸通貨国である上に革新的な技術やアイデアを生み出し続けている。イギリスは金融センターとして世界の金融機関に自国を開放した。
 経済の成熟化とともに国は貿易黒字を稼げなくなり、次の段階ではそれまでの蓄えを国外に投資して食料やエネルギーの輸入に必要な外資を稼ぐようになる。その蓄えも減ってきたとき、国外から投資を呼び込めないようならこれこそ死活問題になる。
 さて、2014年上期(1月から6月まで)の貿易赤字は史上最大7兆5984億円に達した。もちろん今年1年の経常収支は数兆円の大赤字が予測出来る。原発の大半を再稼動させれば、天然ガス、オイルの輸入は減少し貿易赤字もそれに伴って減少するが、それでも貿易の赤字傾向は今後も続くと思われる。解決策は、上述した国外から大量の投資資金を呼び込む以外に方策はない。同時に、日本を活性化するために外国からの人材を有効活用する必要がある。外国人を日本の労働市場に入れると国内の雇用が奪われると危惧する意見もあるが、彼達の独創力によって新しい産業が興れば、国内の雇用も増える。その実例は、アメリカのIT革命のようにカリフォルニアのシリコンバレーでは、アメリカ人だけでなくインド人、中国人等が重要な役割を果たしている。また、イギリスをものの見事に蘇らせたロンドンの先端金融センターの発展、ここでの外国人による金融活動の展開は「ウインブルドン現象」と呼ばれ外国人の活躍によるところが大である。それに伴いなんとロンドンの不動産の50%は外国人所有となっている。
 日本人も頭を切り替える時期にきている。外国からの人材導入は「外国に支配される」という意味ではない。「国外の人材に活躍の場を与える」ことなのだ。これによる収益は、場を貸した側(日本)に大半落ちる。まず地代や税、保険料などの直接的収入だけでなく、雇用、消費、設備投資など間接的な面でも波及効果が期待できる。
我々日本人が外国人を拒否するのは「異質なものの排除」の感情からきている。今こそ日本でもグローバル化グローバナイゼーションしようと叫ばれている。その実現には「異質なもの」を排除するのではなく、受け入れ、活用することが旧態依然とした体質(構造)を創造的破壊することにつながり、日本が世界の中で生き残って行ける唯一の道だろう。外国人の人材に門戸を開こう。

198回 言葉遊びの天才「十返舎一九物語」
                             
 江戸時代大平の世となり、文化の花が咲き誇った。江戸前期に、井原西鶴と近松門左衛門という二大作家を輩出、文学を庶民のものにした功績と意義は大きい。かろうじて読み書きが出来る程度で学のない多くの庶民が笑って読んだり、ハラハラして読んだり、時には色情のからむ話をムラムラして読んだりするようになったのだ。大衆文学の誕生である。
 大衆文学故に、いささかレベルの低い書物もあったが、大衆にとってレベルの高い書物は読みにくく、理解しずらく、“ええい、こんなしちめんどくさい本なんか読めるかってんだ!!頭がズキンズキンして来やがる!!”とばかりに読むのを止めただろう。実は書物が一般大衆が容易に手に入るようになったのは、印刷(本版刷り)技術が確立された功績は大である。(江戸以前は手で書き写されていた)
江戸に入り、文学はマス・カルチャーになり、そして大衆の持つエネルギーを取りこんでいった。そして十返舎一九は、歌麿、北斎、写楽の浮世絵の版本して有名な蔦屋重三郎に29歳で江戸へ出た折、一時期寄食し、彼の援助により「心学的計草」などの黄表紙や、洒落本を書いた。その後、1802年に十返舎一九は滑稽本「東海道中膝栗毛」の初編を(蔦屋重三郎は、この時亡くなっていた為)村田屋治郎兵衛より刊行した。「膝栗毛」はまさかの大ヒットし、初めは箱根までの珍道中、1回こっきりのはずが、11年全18巻、京都までとなった。さらに人気はやまず、金毘羅参りに、宮島参り、木曽路を通って善光寺に詣で、上州草津で湯に浸かり、江戸に戻ったのは何と22年後で、初編より12編まで25冊ある。この合計43冊を合わせて「道中膝栗毛」と呼ぶこともある。
当時の庶民にとって、旅は憧れの一大レジャーであり、一生に一度行ければ良い方だったようである。純粋な旅の案内本や、特産品の紹介など現在出版されている「るるぶ」や「地球の歩き方」的な本が大変もてはやされていた。そこに登場したのが「膝栗毛」で、毎回地方の特色を絡めながら珍道中が語られる。おそらく世界でも類を見ない独創性に富んだルポタージ風の創作本に本当に驚かされる。
一九は大変器用な人物で、狂歌川柳がうまく、さらに書、画もなかなかのものであった。そして「膝栗毛」の刊行に際しては、挿絵のほとんどと、本文の版下も自作した。コスト安になると版元から歓迎された。「膝栗毛」を延々と書き継ぐ一方、他の読本、人情本、滑稽本など、あらゆる分野に手を広げ書きまくった人物で、あの有名な曲亭馬琴は一九を評して「浮世第一の天晴の戯作者、著作料で生計を立てた最初の人物」といわしめている。一九は江戸のどこにでもいそうな「気のいい」「オッチョコチョイ」「憎めない」「鼻の下の長い」軽薄な江戸っ子の一つの典型といえる「弥次郎兵衛」と「喜多八」を登場人物とし、二人の言葉のキャッチボールという遊びの中に、悪ふざけ、洒落、皮肉や掛け詞を使い、まるでゲーム感覚のように旅が進行し、庶民はゲラゲラ笑って読み次回の展開をワクワクしながら心待ちにした22年間だった。一九は実に見事に庶民の旅への憧れを掬い取り、くすぐったのである。「膝栗毛」は「弥次さん」「北さん」を中心に置き、相互の対話と行動によって事件の推移を図るという作品は、能狂言の[シテ・アド]の形式を踏襲している。その上、笑いの基本は狂言をアレンジしたもので、周知の笑いに、親しみがあり、さらに知識のある人にも愛された、これによりエピソードごとに添えられる狂歌にも見られる仕掛けとなっている。知識と笑いの妙味を見せている。前述したように馬琴がいったという「著作料で生計を立てた最初の人物」という説は大変重要である。
つまり一九は、日本文学史上最初のプロ作家だったのである。(紫式部や清少納言が著作料を受け取ったなど聞いたことはない)時流を掴み、大衆の好みを把握することにかけては当代随一だったと伝えられている。一九は「膝栗毛」で巡っていく地方の、地元の狂歌作者の歌を作中に取り上げたりもした、つまり地方でも本が売れるようにするための、編集者的才能も持ち合わせていた。このように一九はサービス精神旺盛な現代でも十二分に通用する売れっ子作家であっただろう。何よりもプロ意識に徹した大衆作家だった。22年に渡る連載は世界最長記録ではないだろうか?優れた滑稽本の作者十返舎一九、読者は相当な遊び人のはずだと思いがちであるが、むしろその逆できわめて緻密細心で、潔癖な性格だったと伝えられている。



197回  ドイツで進む「第4の産業革命」
                              
 ドイツでは政界、産業界、学界が一体となって「第4の産業革命」を進めている。「インダストリー4・0」と呼ばれるこの巨大プロジェクトは、生産工程のデジタル化、自動化のレベルを現在よりも大幅に高めることで、製造コストの極小化を目指すものである。しかしドイツの論壇では「雇用に悪影響を及ぼす」という批判的な意見も出ている。
一方産業界からは「今日のビジネスでは、大量生産よりも顧客一人一人の要望に合わせた、テーラーメードの製品を作ることが重要になりつつある。この為、生産プロセスの大半が自動化されても、テーラーメード式の生産など創造的な作業は、今後も人間が担当する必要がある」との意見がある。人間が完全に不要になることはないと主張、さらには「2030年ドイツでは、今日に比べ労働力が600万人減ると予想されている。専門技能を持った人材の不足は今後、深刻になる一方だ。企業は人材不足を補う為に、「インダストリー4・0」で生産プロセスの大半を自動化することが必要に迫られる。」と主張している。その半面「インダストリー4・0」が実現すれば、部品と機械がセンサーを通じて相互にコミュニケーションを取るので、人間が行っていた多くの作業や工程が不要になる。生産プロセス全体の管理もコンピューターが担当する。従って人間の役割は変化すると予測し、「インダストリー4・0」によって仕事を失う労働者が出ることは避けられないだろうと予測している。
ドイツ人工知能研究センターでは「人間は柔軟性に富む存在なので、将来のデジタル化された工場では、重要な決定や問題の解決といった業務を専門に行うことになるだろう。インダストリー4・0は、人間を工場から駆遂するものではない」と指摘している。
一方、英オックスフォード大学の研究員は、デジタル化により、職種によって大きな影響があると、職種別に20年後にコンピューターで代替される確立を予測した。それによると、不動産仲介業は97%、オフィス勤務するセールスマンは96%、タクシードライバーは89%(コンピューターを使った無人タクシーの運用の為)だった。以上の%の人達は職を失うという結果が出た。
ドイツで始まった「インダストリー4・0」の雇用への悪影響に、政界や産業界はどのように対処するのか興味が持たれる。日本でも少子高齢化による将来の労働力不足が叫ばれ、懸念されているが、ドイツのように超効率化した産業構造(デジタル化、自動化、さらには人工知能を有するロボットの活用による)にすれば、むしろ特殊能力のない人間にとって職探しに苦労する時代になるだろう。「3K」といわれる職種について日本人がやるか外国人がやるかといった問題のみが唯一残るのではないだろうか。若い人達はコンピューターや機械を超越する能力を身につける必要がある。どんなに労働力が減ろうとも、頭さえ使えば何とか打開作はあるものだ!!さらに将来的には、上記のような産業革命の実現により、例えば海外でのPKO活動の際に唯一の人間である司令官と、他は多数のロボットが参加している状態が出現するだろう。



196回  フィールズ賞とグレゴリー・ペレルマン
                           
 8月に、4年に1度の数学のノーベル賞といわれているフィールズ賞に、イラン出身の女性ではじめての受賞者となる、マリアム・ミルザニ、スタンファード大学教授ら4人が選出された。
 1936年に設立されたこの賞、現在までの受賞者57名のうち3名が日本人である(小平邦彦、広中平祐、森重文)。この賞の最大の特徴は、受賞資格が40歳以下の研究者に限られる点である。フィールズ賞の歴史の中で、100年間未解決だった「ポアンカレ予想」の難問を解き、2006年のフィールズ賞が決まったロシア人数学者、グレゴリー・ペレルマンが、その受け取りを拒否した「事件」は記憶に新しい。その理由として「自分の証明が正しければ賞は必要ない」であった。その4年後の、クレイ数学研究所のミレニアム賞と副賞100万ドルの受け取りも拒否した。
 私は過去に2610地区のガバナーマンスリーに「ポアンカレ予想とマルチバース」の一文を掲載し、その中で受け取り拒否の理由として「ポアンカレ予想は一つの宇宙(ユニバース)を前提としている為、現在有力視されている多数の宇宙(マルチバース)では根底からすべて覆る為、ポアンカレ予想を解いても何ら意味をなさない」為と。また、私の友人のイギリス人は「ペレルマンは自閉症の為、数学と森でキノコ採り以外に興味がない」為と。二つの説を紹介した。この二つの説は、どちらも的を得ていないようである。真相に迫ってみよう!!
 ペレルマンはユダヤ人である。1970年代のソビエト連邦ではユダヤ人は抑圧されており、ソビエト社会はユダヤ人にとっては不条理であり、有能なユダヤ人を社会の中でなるべく目立たせないようにするとの公式な教育方針が存在した。実際、当時のソビエトでは多くの大学が、ユダヤ人に対して厳しい入学制限枠を定めていた。大学によっては、入学志望者の血縁にユダヤ人が潜んでいないか、親戚にまで洗い出して調査する程だった(ちなみに現在のロシアの大学では半数は正規入学、残り半数はコネとワイロだそうである)。
 ペレルマンが16歳のときに、国際数学オリンピックで満点を取り、金メダルを受賞した背景に、こうした時代の陰鬱な空気があり、ペレルマンにとってどうしても金メダルを取り、当局に邪魔されずにロシアの大学に入学する必要に迫られていた。国際数学オリンピックの結果に自身の未来がかかっていたのであった。ある意味、彼にとっては苦い想い出なのかもしれない。その後、ペレルマンはソビエト社会の不条理を払拭する為に、嘘や誤魔化しのない数学の世界に安住の場を見つけ、「ポアンカレ予想」の研究に没頭した。有名になったのち、世界中の大学がこぞって彼を広告塔にかつぎ出そうとしたり、彼の論文をろくに理解できない数学者が、さも偉そうなコメントに苛立ちと、彼の中で唯一信じていた数学の世界の人々に、裏切られた気持ちだったのだろう。彼にとっては地位も名誉もお金も要らない、数学の難問と向き合っていたい、ただそれだけだったのだろう。次なる難問「ABC予想」もしくは「リーマン予想」に向き合っているペレルマンの生き生きとした姿が目に浮かんでくる。
 ところで、2012年9月に現代数学の難問でもっとも重要といわれている整数理論である上記の「ABC予想」を証明する論文を、望月新一京大教授がインターネットで公開した。この論文によって、解決に約350年かかった「フェルマーの最終定理」も一気に証明できてしまうことから、欧米のメディアも「驚異的な偉業になるだろう」と興奮気味に報じている。
 科学誌ネイチャーによれば、望月論文はほとんどの数学者が理解出来ていない新たな数学的手法を開発し、それを駆使して証明を展開している。その為「論文の正しさを判定する、査読には時間がかかるだろう」といっている。望月教授は米プリンストン大数学科を19歳で卒業、30歳代で京大教授に就いているが、現在45歳でフィールズ賞の受賞資格はない。残念!!

ABC予想の例
三つの自然数 A、B、CでA+B=C AとBは互いに素(1以外の共通の約数がない)
A、B、Cそれぞれの素因数をすべてかけた数をr(ABC)とする
r(ABC)²>Cが常に成り立つ



195回 エボラ出血熱の特効薬
 
 西アフリカでエボラ出血熱が猛威をふるっている。WHOによれば2013年12月2日に最初の患者が発生し、2014年8月11日までに感染者1975人、死者1590人となり、致死率は70%である。
 今回が過去最大規模となり、WHOはエボラ出血熱では初となる緊急事態を宣言した。エボラウイルスは宿主や発症者の血液や唾液、排泄物などに含まれており、これらの感染源にささくれや傷口、口、鼻の粘膜が直接触れると感染しうる。チンパンジー、サル、ゴジラも感染し、ヒトが直接触れると感染しうる。ダニや蚊からの感染は知られていない。空気感染はない。従って、エボラ熱がインフルエンザのような世界的大流行(パンデミック)を起こすことはない。エボラウイルスには、数種類あることが分かっており、種類によって致死率に差がある。(25%~90%)実はヒトに感染しても、まったく無害とされるエボラウイルスも存在する。
 エボラウイルスに感染すると、ウイルスは急激に大量に増殖する。そこで、人体に備わる免疫が過剰に反応する。例えば、ウイルスに感染したマクロファージが、血液凝固させる反応につながる血中因子を過剰に出し、全身で無秩序に血液の凝固反応が起きる。すると、血液の凝固因子が多量に使われ、血管内を循環する量が不足し、出血傾向にも陥る。また、血管を形作る内皮細胞もウイルスに感染し、血液がもれやすくなってしまう。そこで、口や鼻、消化器、ひいては全身からの出血が見られるようになるが、出血で死に至るのではなく、免疫反応の“オーバーリアクション”が多臓器不全をもたらし、死に至る。効果のある薬が存在しない場合には、どんどん補液(点滴等による)が効果的で、ウイルスが勝つか患者の体力が勝つかで生死は決まる。
 今回、リベリアで医療活動にあたっていて感染した二人のアメリカ人は、帰国し、人工的につくった3種の抗体を混合した未承認薬が投与され、回復したと報じられた。今回は間に合わなかったが、アメリカのテキサス大学医学部ではエボラ出血熱治療の為の「画期的研究」が進められており、「治療法開発」は間近い。RNAの研究の進展による。それはsiRNA(小さな干渉性RNA)を用いた非常に有望な治療法を考案し、エボラウイルスに感染した6匹のサルすべてを救うことに成功した。この治療法は、非感染者(ヒト)による最初の安全性試験にもパスしている。さらに近年(ウイルス)テロを恐れる米国防総省から150億円の資産助成を受けた。テキサス大学主体の共同国研究チームは、エボラウイルスが自身の複製に不可欠な、あるタンパク質を作るのを阻害するsiRNAを作製した。また、エボラウイルスが感染者の免疫力を弱める為に使っている別のタンパク質の産生を阻む、もうひとつのsiRNAが細胞の通常の働きを邪魔する危険はない。作用標的となるウイルスタンパク質は、ヒトなどの哺乳動物の細胞には存在しないからだ。人類の最後の感染症と恐れられた「HIV」ですら人類は研究の末、なんとか封じ込めることに成功した。単にアフリカの一部にたまに発生する、患者数の少ないエボラ出血熱の為、治療薬を開発しても利益が見込めず気合を入れて研究して来なかったが、十分な資金助成を得て真剣に研究しており、効果的な治療薬はまもなく出現する。



194回 日本人はなぜノーベル経済学賞を受賞出来ないのか                    

 ノーベル経済学賞は、スウェーデンの中央銀行が創立300年を迎えたことを記念して、1969年に創設された。経済学賞はノーベルの遺言ではない為、ノーベル家の子孫が経済学賞を廃止せよと主張しているが、賞金はノーベル財団から出ているわけではない為、今後も存続するものと思われる。物理、化学そして医学の分野ならば、発明、発見そして業績の画期性をかなり客観的に評価できるので問題はないが、経済学は近年数式を多用するようになり、かなり科学としての形態を整えて来たといえる(以前はおとぎ話と嘲笑された時期もあった)。それでも経済学は政治や思想とも絡んでいるので、何が正しいかということを客観的に決めるのが容易ではない。つまり科学的検証によって証明出来るという学問ではない。
上述したように、経済学はある意味おとぎ話のような一面を持っているということは否めない。政治や思想との関係でいえば、ごく最近の一時期、市場原理に委ね小さな政府を主張する「新自由主義」と表現され、金融工学派生商品を金融市場に投入して博打場のようにしたシカゴ学派の受賞が続いたが、直近ではこの傾向が薄らいできている。ただし、マルクス経済学の一派からは唯の一人も受賞者は出ていない。
最近の受賞者の傾向として、新しい分析方法を開発したり、技術的な分野で画期的な研究をした人が受賞している。(ゲーム理論、統計の時系列分析、経済心理学の分析方法、情報理論による経済の新しい解釈)
ノーベル経済学賞が創設されて40年が経過したが、日本人は他の分野で多数の受賞者がいるのに、経済学においてはまだ一人の受賞者もいない。一方、アメリカ人が7割を占めている(多くはユダヤ系アメリカ人)。何故日本人が経済学賞を受賞出来なかったのか検証を試みた。
第一点として、経済学という学問の主たる理論、つまり本幹はすべて欧米の輸入学問で、今日までメイドインジャパンは枝葉末節の経済理論のみであった。つまり日本の経済学の学徒は、古典主義の経済学の祖、アダム・スミスに始まり、カール・マルクス、ジョンメーナード・ケインズ、シュンペーター、ポール・サミュエルソン、ミルトン・フリードマン等、経済学の巨人達の理論を学び研究した。その上戦前の日本には、科学的思考の経済学など一切存在しなかった。その証拠にGDP(国内総生産)等の統計の数値など存在しなかった。(こんな幼稚な経済知識でよくもアメリカと戦争したものだ)
第二点として、経済学は数学をある程度使うとはいえ、自然科学系に比べれば、言葉で勝負する学問といえる。そこで、国際的な論文は英語で書かざるを得ず、日本人には英語がハンデとなっている。日本語でいかに秀逸な論文を書こうともノーベル賞の選考委員には届かない。
第三点として、日本が高度成長期の日本経済絶好調の頃に優れた論文があれば、世界も注目してくれたであろうが、今日のやや落ち目の経済状態では注目は集められない。
結論として、今日の世界経済は資本主義、市場経済の下にあり、世界経済をいかに牽引するか、好調な経済をいかに存続させるか、さらにはいかに発展させられるかが重要であり、経済学は世界一の経済大国、資本主義の権化ともいえるアメリカの経済学者たちの独壇場であることに間違いない。日本よりはむしろ中国、インドといった経済発展がさらに見こめる国から受賞者が出る可能性は高い。(インドのアマルテリア・センハーバード大教授はすでに受賞している)
日本もアベノミクスによって、アメリカにキャッチ・アップ出来る位置にまで経済再生出来れば、日本人の受賞チャンスもあるのではと考えている。今日、日本で活躍しているエコノミストの内、学部は理系を卒業した後に、経済学に転向したエコノミストの中に科学的思考を身につけた、優れたエコノミストが見受けられる。私はこれらの人達の中から、ノーベル経済学賞受賞者が現れるのではと期待している。10月にノーベル賞受賞者の発表があるが、果たして日本人は入っているか?




193回 経済学の巨人ケインズとシュンペーター                          

 ケインズとシュンペーター、二人は共に1883年生まれであり、第一次世界大戦の勃発、大恐慌の発生、ヒトラーの出現(ファシズムの台頭)、第二次世界大戦の開戦といった激動の時代を駆け抜けた経済学の巨人であった。奇しくも、1883年は経済学の大天才カール・マルクスが亡くなった年であり、何かを象徴している様に思えてならない。
 同じ時代を生きた二人ではあるが、目指す経済学の方向性が違っていたこともあり、お互い理解し合うことはなかった。シュンペーターの妻エリザベス・ブーディーは以下の様に述壊している。「説明の難しい、ある理由によって、彼ら二人の関係は個人的にも学問的にも、親密なものではなかった」と。
 シュンペーターの経済学理論は、例えば不況に関して言えば、単なる「お湿り」である。つまり単なる景気の循環を主張し、資本主義経済において不況など当たり前であり、創造的破壊、つまりイノベーションこそが資本主義の核心だとし、停滞すれば資本主義は崩壊する。例えば、以前は馬車が主たる交通手段であったが、これがイノベーション(創造的破壊)によって鉄道や自動車にとって代わり、輸送量とスピードが飛躍的に向上した様に進歩しなくてはならないと主張した。イギリスの産業革命や現代のIT革命などは、どんぴしゃり、創造的破壊に当てはまる。また、マクロ経済学は50年位のスパンで考察すべきと主張した。
  一方、ケインズは、資本主義には有効需要の不足が存在し、完全雇用は実現しないと主張、マクロ経済学は余り長期のスパンでは、我々は死んでしまうと、短期(20~30年)の分析を主張した。雇用の実現には、公共事業の拡大が有効とし、つまり「穴を掘って、埋める」でもいいから、為政者は不況時には金融緩和、財政出動などをしっかり行い、新たなる雇用を創出すべきと主張した。(つまり経済に刺激を与え、活性化させる)
 さて、ケインズの主著「一般理論」の英語の原書を読んで、理解できる日本人なぞ存在すると思えないくらい難解である。新手の黙示録の様だと、一世の碩学高田保馬先生は述壊している。アメリカでも同様である。あるアメリカン・ケージアン(ケインズ主義者)の学会にケインズが招待され、“ケインズ先生の理論の主張は、この様なもの(エッセンス)なのですね?”との質問に、ケインズはたった一言“アメリカンハンバーグ”と答えた。
 つまり、私なりに解釈すると「オレの理論なぞ全然理解出来ていない、うまくないアメリカ料理の様なものだ」と。そして、ケインズは学会からの帰途、同行者にポツリとつぶやいた。「今日のアメリカン・ケージアンの学会でオレだけが非ケインズ主義者の様だった」と。
 私は、今日に至っても世界中のケインズ主義者、ケインズ理論研究者達は、ケインズが言わんとする本質(エッセンス)が十分理解出来ていないと考えている。
 それではケインズ理論の本質(エッセンス)とは、ケインズが本当に言いたかったことは、以下は浅学非才な私の主張である。思い起こしてみよう。ケインズはもともと外交官であった。ベルサイユ会議などの諸外国の外交交渉の場で交渉相手の心理を深く読むことにたけており、それが彼の強みであり、本領だった。その意味から、ケインズ政策とは、心理的要素を色濃く含んでいると考えるのが妥当である。一般的には、ケインズ政策は「政府が積極的に財政出動することで、有効需要を創出する政策」と表面的な理解がされているが、ケインズが真に主張したかったのは、財政出動により「消費者の心理に働きかけて、今後もずっとお金を使いつづけたいと思わせること」だったのである。「経済理論で動くものではなく、人々の心理によって動くもの」で、最大の景気対策とは人々の「将来に対する不安」を取り除き、お金をどんどん使いたい気持ちにさせること。ここにケインズ理論のエッセンスがあると考えられている。我々日本人は「景気」という言葉のもつ、複雑な意味を理解すれば、ケインズ理論は容易に理解できる。
さて、最後にあの偉大なるカール・マルクスに対し、どの様に考えていたのか書籍によれば、ケインズはマルクスが大嫌い、社会主義、共産主義が大嫌い。マルクス理論などまったく眼中になく、一辺の価値も見出せない。考慮するにも値しない理論、つまり、完全無視だった。
一方シュンペーターは、マルクス理論に一定の評価を与えており、オーストリア出身の為もありかなり社会主義に傾倒しており、資本主義が停滞すなわち創造的破壊(イノベーション)が起こらなくなれば社会主義に移行(ソ連型とは別の)すると考えていた。今日でも20~30年後には資本主義は崩壊するとの主張もある。
今注目のアベノミクスは両方の金融緩和、財政出動、イノベーション、さらには「新自由主義」のミルトン・フリードマンの構造改革、規制緩和といいとこどりした経済政策を掲げて経済改革進行中である。その成否に就いては後日持論を述べたいと思う。
「経済学は難しい!!素晴らしい!!楽しい!!」

 

192回 日本版火星移住計画   
                                 
 政府は7月に火星探査と月面への5年後の着陸計画を発表した。世界の宇宙開発競争に日本は乗り遅れるなとばかり政府も本腰を入れ出した感がある。大変良い方向性だと考えている。
 では、世界の宇宙先進国は今なぜ、アメリカがかつて1970年代に盛んに就きに実際に人間を送り込んで月探査を行い、80年代以降は停滞し、近年再び活発化してきたかと言えば、月には大量の天然資源が存在し、その獲得に向けて発言権を確保する狙いがある。(オレの物だとツバをつける)
特に未来永遠の夢のエネルギーと言われている、核融合発電の材料に使えるヘリウム3が大量に存在することが確認されている。更には、日米欧などは火星や小惑星への有人探査を検討中で、その前段階として月探査を位置付けている。持論として、日本は実際に人間が月に行かずとも、月面探査機と日本のお家芸とも言える、よりブラッシュアップしたロボット(ほとんど人間の能力に近い)を送る技術を獲得、習熟する必要がある。
日本の宇宙開発、宇宙探査の究極の目的はアメリカと同様に日本人の火星への移住である。7月10日の当クラブ会報で述べた様に、数十億年後には太陽そのものも巨大化し、現在の月近くまで拡大膨張し、水星、金星はもちろん消滅、当然地球は平均400℃以上の灼熱地獄となり地球生命体は完全消滅する。
現在の地球温暖化の原因は、二酸化炭素の増加の様であるが、数百年後、数千年後には太陽光の光度増加による地球温暖化の傾向が顕在化し、しかも右肩上がりに温暖化が進行する。日本もようやくアメリカの先見性を見習い人類消滅以前に火星への移住を計画するに至った様だ。
人類が現実に地球脱出の必要性に迫られた時点で、アメリカに「日米安保」の関係だから日本人も是非火星へ移住させて欲しいとの申し入れに対して、返答は“Do it by your self”であろう。アメリカ人だからと言って、すべて火星に移住可能とは限らない。火星での生活に必要不可欠な人間は、たとえ日本人であろうと移住できる。他はアメリカらしくお金次第ではないだろうか。私の考えでは、1兆円以上出せる人達は優先的に移住できるのではないだろうか。(地獄の沙汰も金次第)ジョーダンはこれくらいにしておこう。
火星以外に太陽系の惑星の中で地球と同様、岩石で出来ている惑星は他に存在しない。他はガスの塊である。都合の良いことに、現在の火星の平均気温は-65℃であるが、太陽の光量の増加に伴い、火星の平均気温は数億年後には10℃前後になるのではないかと推測できる。さらに都合の良いことに、火星の北極、南極に水と二酸化炭素からなる「極冠」があり、地球の海に匹敵する量の水が地中に含まれている可能性が高い。
つまり火星の気候温暖化に伴い、人間の活動に不可欠な水が容易に入手出来、人類は火星に移住し生活できることがはっきりしてきた。火星で日本人の為の居住空間を建設する為に、前述のメードインジャパンのほとんど人間と同じ知能と運動能力を持つロボットが、大量に何千年~何千万年の間、火星を地球化する為に投入される。さらに未来の科学技術の発達により、火星の環境そのものを地球に似た環境に変える「テラフォーミング」など、様々なアイディアも検討されている。放射線防護の為の宇宙服など着なくても、現在の地球とまったく同じ環境が整えられるだろう。
火星は、おおよそ2年2ヶ月ごとに地球に接近する為、そのチャンスを生かしてこれまで数々の探査機を送り込んできた。現在のところ火星まで約9ヶ月かかっているが、多数の人間を火星に送り込む為には、光速に近いスピードで少なくとも一度に1000人くらいが2~3日間で火星に到達出来るロケットの開発が必要となってくる。日本政府よ、JAXAよ、火星移住計画はアメリカに頼ってはいけない。独自の科学技術で移住するという強い決意と覚悟が必要である。



191回 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の来日と幸せな日々
           
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の没後110年の節目にあたり、生誕地ギリシャ・レフカダ島で7月4日「ラフカディオ・ハーン資料館」がオープンした。式典には、ひ孫の小泉凡さんや、富山の八雲会(中尾パストガバナーが代表を務める)のメンバーなどが出席した。凡さんは、式典で「ヨーロッパ初の小泉八雲資料館の展示品を通じて、世界の人々に八雲のことを知ってもらいたい」と挨拶した。
 私は子供の頃「耳なし芳一」を読んだ記憶はあるが、他は知らない。この機会に全著作を読破しようと思っている。だが、膨大すぎて命日の9月26日までに達成出来るか心配だ。
 ハーンは1850年アイルランド人の医師の父と、ギリシア人の母との間に、レフカダ島で生まれた。両親がいわゆる西欧列強の人間でなかったことは、ハーンのこれからの困難な人生航路を暗示させた。やがて4歳のときに、両親の不知で生母と生き別れるという終生、癒し難い不幸を経験した。さらに、少年期ギリシア・イギリス・アイルランド・フランスなど転々とし、親の愛と加護なき生活は彼を深い孤独に陥れた。19歳の時に単身アメリカに渡る。当然、食い詰めてのアメリカ行きだった。そこでの生活は、あらゆる職種(行商・肉体労働・ホテルのボーイ・ビラ配り・本の公正)に就く。種々のアメリカ社会の辛酸をなめつくした末に、ようやくジャーナリズムの世界に活路を見出した。その後、シンシナティー、ニューオリンズなどで16年に及ぶ新聞記者生活を経験すると同時に、作家としても認められるようになった。たまたまニューオリンズの下宿の書棚にあった、ピエール・ロッティ作「お菊さん」とパーシバル・ローエル作「極東の塊」“The Soul of the Far East”を読んで、大変感動、訪日の為アメリカでの苦労して得た地位を捨てて、ハーパー社の通信記者として1890年(ハーン40歳)に日本に赴いた。どうやらハーンの日本に対する思い入れは、29歳のときすでに芽生えており、決して気まぐれではなく、何か運命的なものさえ感じていていた様だ。(日本に行けば素晴らしい未来が待っているなど)
そして以後、1904年54歳で亡くなるまでの14年間、一度も日本を離れることはなかった。1890年4月4日に横浜に到着後、早速紀行文「日本への冬の旅」をハーバー社へ送るが、不利な契約への不満から、契約破棄し、ニューオリンズ博覧会で知り合った服部一三(文部官僚)の世話で、島根の松江尋常中学・師範学校の英語教師として赴任した。ハーンは松江の風土環境がすっかり気に入り、松江の人々に教師・文人として敬愛された。話題を少し変えるが、世界の文明研究の巨人達、例えばトインビーやハンチントンらの「日本文明独自論」のヒントになったのは、幕末から明治にかけて来日した欧米人(貿易商、外交官、外国語教師)の日本見聞録だった。彼らが異口同音に口にしたのは「日本は他のアジア諸国とは違う」だった。例えば、すでに中国に権益を築いていたイギリス人の場合、貿易商にしろ外交官にしろ、日本を中国と似た様な文化を持つ島国と認識して来日し、あまりにも日本と中国が違うのに仰天した。
例えば「ヨーロッパ人でもないのに、こんな商いの約束を守る民族はスエズ運河以東では見たことがない」と大変驚嘆している。実は日本人にはキリスト教徒が多いのではないかと考えたりもした。いや違う「ひょっとすると、後で法外な料金をふっかけてくるのではないか」とか「よほど人を酷使して無理に納期を守っているのではないか」違うとすれば「盗品なのではないか」と疑心暗鬼にかけられたりするが、どうやらそうではないと分かる。そして欧米人達は、日本人は何たる正直者、アジアで唯一信用出来る民族がいた、まさに地獄で仏に会った様なもの、いや、キリスト様だった、などと腰を抜かさんばかりに驚き、早速帰国後に様々な旅行記を表した。
では、日本文明を世界の6大文明ないしは、7大文明のひとつとして位置付けた核心は何だったのか?それは明治日本にあって、その問題に的確に答えたのがハーン(小泉八雲)であり、英語で欧米に流布させた功績は大である。
1904年ハーンの没した年に出版された、ハーン畢生の名著「神国日本」“Japan:An Attempt at Interpretation”、日本語版は1938年に出版されており、金沢市立図書館に一冊存在し、貸し出し禁止になっている。ハーンの死の9月から1ヶ月後に米英で出版された同書の端書で、ハーンは執筆の意図を以下のように記している。
『これまで日本の宗教に関する問題は、主に宗教をあしざまに非難する反対論者でない立場の人達は、この問題をまったく無視してきた。しかし、この問題がいつまでも無視されたり、誤り伝えられたりしている間は、日本に対する本当の知識や認識は、絶対に得られるものではない。少なくとも一国の社会状況を真摯な態度で理解しようと思ったら、どうしてもその国の宗教のあり方を、深く突っ込んで知らなければならない。(もちろんここで言っている宗教は「神道」を指している)また、ハーンはこうも言っている。シェークスピアの戯曲一篇にしても、キリスト教の信仰やキリスト教以前の信仰、そのいずれかについて何の知識もない人にとっては、内容を完全には理解できないだろうと。同様に神道を理解せずには日本文明のもつ独自性、不思議さは分からないだろう。』と喝破した。まったく来日経験のないアメリカの民族学者、ルース・ベネディクトの著書「菊と刀」は、ハーンの「神国日本」をベースに書かれており、これをテキストとして「GHQ」の日本占領はスムーズで容易なものとなった。
ハーンは14年間の日本の滞在で、松江中、五高、そして東大で教壇に立ち、日本各地で見聞を深め、我々日本人を圧倒する深遠な筆致での膨大な著作に、私は「日本と日本人の進むべき」方向性すら暗示している様に思う。
ハーンは来日後の1890年12月に士族の娘、小泉セツと正式に結婚し、小泉家の婿養子となり日本に帰化した。実はハーンは日本語の読み書きが出来ず、才媛の妻セツが、ハーンが必要とする書籍や資料を収集し、それを読んで聞かせ、ハーンはひたすら英語でメモを取り、それをもとに「怪談」「奇談」「文明論」「小説」「散文」などを英語で書き上げ、米英の出版社を通じて米英人達はハーンの著作に接した。
1896年に日本に帰化したハーンは、東大文学部の教授として、また、自身の執筆活動と、亡くなる前日まで8年間の多忙な日々を送った。私はハーンの書に接し、彼の日本文明(文化)への慧眼につくづく感心させられる。
 ハーンは1904年9月26日、愛妻セツと3男1女の愛児達に看取られ、54年の幸せな生涯を閉じた。明日9月26日はハーン(小泉八雲)の110回忌である。「合掌」

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190回 ウクライナ物語~苦難の歴史~
                              
 有名なフォークソング「花はどこへ行った」は、1950年代末にアメリカ人のシンガーソングライター「ピート・シーガー」(赤狩りを経験している)が作曲した。では、歌詞は誰の手によるものなのか?
 それは、ロシアのノーベル文学賞作家の「ショーロホフ」が書いた有名な小説「静かなるドン」の中のコサック(ロシアにもウクライナにも存在)の子守唄よりの引用である。ピーター・ポール&マリー(PPM)やジョン・バエズ達は英語で歌い、そして第二次大戦時にドイツからアメリカに亡命したマレーネ・デートリッヒは、ドイツ語で歌って世界的大ヒットとなり、1960年代、私の青春の頃のベトナム戦争への反戦歌の代表作となった。
 さて、現在ウクライナは大混乱状態にある。ウクライナの歴史の出発点は、4~7世紀にドニエプル川沿いの中央地帯に東スラブ人(ウクライナ人・ロシア人・ベラルーシ人)が入り、9世紀に現在のウクライナの首都キエフを中心にキエフ・ルーシ大公国(当時のヨーロッパでは大国)が出現してからである。このキエフ・ルーシ大公国の直系の後継者は、ウクライナ側はウクライナだと、また、ロシア側はロシアと共に譲らず、現在も論争が続いている。
 その後、13世紀初めのモンゴルの侵入によって崩壊し、これ以後ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人に分かれることになった。14世紀後半、キエフ・ルーシ大公国の領地は、ポーランド・リトアニア・ハンガリーの支配下に入った。農民はポーランド人の領主の農奴となったが、ドニエプル川下流に逃亡した農奴の集団は「ザポロージェ・コサック」を形成した。
 17世紀の中頃、コサックの隊長フメリニッキー(ウクライナ史上最大の英雄と言われている)の指導のもと、ポーランドの支配に反乱し独立を勝ち取ったが、長期的安定の為にロシア皇帝に保護を求め、結局ロシア帝国に併合された。1922年ソビエト連邦の構成メンバーとなり、第二次世界対戦では、ナチスドイツに一挙に全土を占領され、500万人以上のウクライナ人が殺害され、徹底的に破壊、略奮が行われた。戦後、ソ連連邦内の第2の大国としての地位を占め優遇された。
 1991年8月4日、ソ連崩壊に伴い、ウクライナは独立を宣言し、この日が独立記念日となった。この年の12月1日に、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票が行われ、90%が独立に賛成した。今日ロシアに併合されたクリミア(ロシア人が過半数を占める)でも、賛成は54%と過半数を上回った。現在も紛争中のロシア人の多いドネック、ハルキラなどの各州でも賛成は80%を上回った。独立後から現在に至るまで、ウクライナは多種多様は問題をかかえて、その歩みは、まさに苦難、多難の道を歩んでいる。しかし、ウクライナは大きな潜在力を備えている。ウクライナの重要性と将来性には大変なものがある。
 その第1には、大国になりうる潜在力である。ウクライナの面積はヨーロッパではロシアに次ぐ第2位であり、人口5000人でフランスに匹敵する。東部はヨーロッパの鉄鉱石最大規模の産地であり、大工業地帯である。一方西部は、「ヨーロッパの穀倉」と言われるくらい潜在力があり、バランスの取れた総合力を有しており、全ヨーロッパの大国となる可能性を十分持っている。第2は地政学的重要性である。ウクライナは、西欧世界とロシア・アジアを結ぶ通路であり、過去には世界地図を塗り替えた、大北方戦争、ナポレオン戦争、クリミア戦争、第一次と第二次世界大戦の戦場となり、多くの勢力がウクライナを獲得しようとした。現在では、ウクライナがどうなるかによって、ロシアとEUのバランス・オブ・パワーが変わる。
 さて、ウクライナでは5月25日に今後の国家の命運を決める大統領選挙を実施、結果は予想通り新興財閥のポロシェンコ氏が大統領戦に勝利した。ポロシェンコ氏はEU加盟を目標に掲げているが、プーチン、ロシアの恫喝に抗し切れず当面EU加盟はなし、もちろんNATO(北大西洋条約機構)加盟などとんでもないのが現状である。
 今後の政治面では、東西冷戦時代に被同盟中立主義を守って、領土と経済の主権維持に成功したフィンランドの様に「フィンランド化」する以外に国内外の政治危機を脱する方法がないのではないかと考えている。ポロシェンコ新大統領は、欧米とロシアとのパワー・オブ・バランスを上手に利用する以外に方法はない様である。(両陣営にどっちつかずの状態で)
 政治面と同様に危機にあるのが経済である。もうデフォルト(国家破産)寸前と言って良い。欧米陣営はIMFをバックに協力に支援する必要性を痛感している。ウクライナのデフォルトは欧州の景気回復の足枷になるばかりか、新興国不安をあおり、国際金融危機の再燃にもつながりかねない。そして、日本人の期待の星「アベノミクス」すら頓挫する可能性すら出てきた。政治面より世界にとってこちらの方が大問題かもしれない。
 一方、それではロシアにウクライナを助ける財源があるかと言えば、自国民を食わせるのが精一杯であり、せいぜい割安な天然ガスの供給程度だろう。ウクライナのデフォルト回避に向けての抜本的方策は存在する。希望はある。それは、EUとの結びつきを深めて存在感を高めているポーランドを手本にすることだ。ポーランドは、外資を受け入れることで国境を超えた汎欧州生産ネットワークに組み込まれていった。日本の製造業の進出も活発で、技術を吸収して欧州の工場としての地位を確立した。
 ウクライナが再生するには、もはやポーランド流に外資を導入する以外に道はなく、それが成功するか否かは政治的な安定を維持し、腐敗を根絶できるかにかかっている。実は腐敗は何も政治に限ったことだけでなく、例えば大学入試も卒業も、能力の低い学生の為の賄賂がまかり通っている様で社会全般に網紀粛正が求められる。ウクライナ再生のハードルは非常に高い。しかし、ステップ・バイ・ステップで頑張るしか方法はない。最終的には同じ東スラブ人同士であってもロシアと決別して、EU(ヨーロッパユニオン)のメンバー国になるだろう。
 ロシア帝国、そしてソ連邦のもとで300年間も長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為な人材を輩出し、不撓不屈のアイデンティティーを育んできた。ウクライナとウクライナ国民に敬意を表し、エールを送りたい。



189回 量子コンピューターの未来

 量子コンピューターとは、原子核や素粒子などミクロ世界を解明する量子物理学の原理を、計算の原理へと応用した特殊なコンピューターだ。つまり、コンピューターがさまざまな計算をする為の基本原理として、量子物理学の法則を使っているところが最大の特徴である。
 具体的には「量子並列性」と呼ばれる特異な性質を使う。我々が普段生きている世界、つまり日常的な尺度の世界では、通常一つのモノは同時に一つの状態しかとり得ない。(例えば白はあくまでも白であって黒ではない)ところが、ミクロの世界ではとても奇妙なことに、一つのモノが同時に複数の状態をとり得る。(白は白であり、黒でもある)これが「量子並列性」だ。
 量子コンピューターとは、一台のコンピューターの内部に「量子並列性」を実現し、それによって無数の状態をつくり出したコンピューターだ。見かけはたった一台のコンピューターに過ぎないが、実際には見えない分身が何万台、何十万台もあると同じだ。これらがひとつの問題に対して、寄ってたかって一斉に計算を行う為に、通常では考えられないスピードで処理することが出来る。
 それではこの量子コンピューターはどんな利用方法があるのかといえば、現代社会には「組み合わせ最適化問題」などと呼ばれる難問がある。例えば都市部の複雑な道路・交通情報や、世界的な気象データなど、いわゆるビッグデータを処理する問題などがある。これらの問題を人工知能の一種である「機械学習」で解くことが出来れば、いずれは交通渋滞を解消したり、温暖化や砂漠化などの地球規模の問題も解決できる可能性がある。
 ところが、これらの難問は余りにも計算量が膨大で、2年前には世界一だったスパコン「京」をもってしても、問題を解くのに数十万年から、ひょっとしたら数千万年かかる、現実的な時間のなかでは不可能である。量子コンピューターなら、一週間程度で容易に解決できる。従来のコンピューターとは桁違いの優れものである。
 1980年代から開発が始まっており、二つの方式がある。一つは「量子ゲート」、もう一方は「量子アニーリング」があるが、世界の大多数の科学者は「量子ゲート」方式でコンピューターをつくろうとしているが、うまくいっていない。そして「量子アニーリング」方式では汎用コンピューターはつくれないが、前述の「組み合わせ最適化問題」に限定して使える。
 カナダのベンチャー企業「Dウエイブ・システムズ」が、傍流方式と見られていた「量子アニーリング」方式に果敢に挑戦し、世界初の量子コンピューターを開発したと主張している。主流派の「量子ゲート」方式の科学者達は、Dウエイブのコンピューターは量子物理学ではなく、単なる低温物理学の原理によるものだとの科学論文を発表し、Dウエイブ側も反論の論文を発表している。
 この論争の中、すでにグーグルやNASAなどは、推定1500万ドルでDウエイブの量子コンピューターを購入。これを使って、我々の社会人生活やビジネスに革命的な変化をもたらす人工知能、更には将来の人類を支えるかもしれない火星移住計画(7月10日の会報で掲載)の為の宇宙プログラムなどを進めようとしている。いまだ完全に認知されてはいないDウエイブの量子コンピューターだが、その基本原理「量子アニーリング」方式を考案したのは、東京工業大学の西森秀稔教授である。そして、Dウエイブの量子コンピューターを購入したグーグルやNASAのテスト使用より、このコンピューターが本物の量子コンピューターか否かが、ここ半年から1年の間に決着がつくようだ。もし本物だとすれば、間違いなく科学の本幹をヒットしたことになる。



188回  パレスチナ紛争の根源                        

 8月5日号のニューズウィーク誌の見出しは「イスラエルの暴挙」であった。事実、7月31日現在、パレス
チナのガザ地区でのイスラエル軍の攻撃によって死者1300人負傷者7000人(7割が一般市民)にのぼるとの報道があった。無抵抗な市民への殺戮は「戦争犯罪」行為であり、怒りを覚えずにはいられない。しかし、今後もイスラエル軍はイスラム過激派ハマスが全滅するか、完全降伏しない限り、攻撃の手を緩めることはないだろう。
 では、何故にパレスチナ問題は、イスラエルとアラブにとって、かくのごとき致命的重要さを持つものであろうか考察してみた。
 ユダヤ人は何故にかくも執念深くパレスチナの地に固執するのか、2000年を超えるディアスポーラ(大放浪)の末に、パレスチナの地に住んでいたアラブ人を追っ払ってイスラエル国家を建国したのか?答えはただひとつ。“それが、神との契約(神の命令)だからである。”言いかえれば、“パレスチナこそが、神がユダヤ人に与えた土地だからである。主なる神は、自身が天地を創造したのだから、勝手にエジプトの川から、かの大いなる川ユーフラテスまでの地(乳と蜜の流れる理想の地)をアブラムの子孫に与えた。
 ではその後、神がアブラムの子孫に約束した土地はどうなったか、アブラムは神に命令に従ってアブラハムと改名した。そして、アブラハムの子孫は、飢饉を逃れてエジプトに移住した。はじめファラオ(エジプト王)は、イスラエル人を歓待した。しかし、その後イスラエル人達は、エジプトの奴隷となり、400年間苦しめられた。やがて、イスラエルの民は、モーゼに率いられてエジプトを脱出した。その後、紆余曲折があり、イスラエルの民は40年間荒野をさすらった。
 モーゼは、ヨルダン川を渡って約束の地(パレスチナ)に入ることなく、モアブの国で120歳で死んだ。モーゼの死後、ヨシュアが指揮を命ぜられた。とは言うものの、イスラムの民は都合440年間もさまよった。その間、約束の地には、多くの他民族が住みついてしまっている。では久しぶりにカナンの地(パレスチナ)へ帰ってきたイスラエル人が、やったことは何か。カナンの先住民の壮絶な大虐殺であった。何故に、カナンの先住民を大虐殺するのか。神がカナンの地を好きにせよ、先住民を皆殺しにせよと命じたもうたからである。イスラエル人は、神の命令を忠実に守った。神の命令を「ひとこと」で要約すると、以下の様になる。“このカナンの全土を征服し、住民を皆殺しにせよ”(旧約聖書ヨシュア記より)いかなる罪故に、カナンの地の住民、男も女も、老いも若きも、少しの容赦もなく、ことごとく惨殺されなければならなかったのか。重ねて問う、いかなる重罪故に?答えは、神がイスラエル人に約束したもうた土地に住んでいたという罪故に。
 イスラエル軍のやり口は、町(国)をかたっぱしから侵略し、王を殺して吊るし、全国民を抹殺する。この様にしろと神が命じたもうたのである。イスラエル軍は、中東戦争のときの様に死を恐れず勇猛に、しかも電撃戦が得意であった。
パレスチナに住む王達は黙ってイスラエル軍に敗走したわけではない。もちろん多くの王達は今のアラブ諸国の様に連合軍をつくった。おびただしい馬と戦車で出撃してきた。さすがのイスラエル軍も、これほどまでの大軍を見て肝を冷やした。しかも敵の武器は桁違いに強力だった。
しかし、イスラエル軍にとっては生死をかけた民族の存亡をかけた戦いである。もちろん志気は高く、しかも神様が助太刀していてくださるとの思いを強く持ち「アラブの連合軍なんか恐れたのでは、3000年後の湾岸戦争のフセインに笑われるぞ」とばかり馬の足の腱を切り、戦車に火を放ち、十八番の電撃作戦で全滅させた。「神がかり」という言葉は、これが起源と言われている。(但しこれは炭谷の創造)
西暦70年にローマ軍によってイスラエル王国は滅亡させられた。そしてイスラエルの民は世界各地へと散っていった。しかし2000年後、再びパレスチナの地にイスラエル国を建国した。(神からのパレスチナの地をお前達に与えるとの約束を思い出して)
パレスチナ紛争の根は深いの深くないのって、そのスパンは数千年である。解決には数千年の年月が必要なのかも?現在の紛争の状況を見ていると、イスラエルは、ガザのパレスチナ人を殲滅せんばかりの戦いぶりである。我々は注視しなくてはならない。



187回 歴史の裏事情その2  アインシュタインの一断面               

 20世紀最高の科学者、そして世界中で大人から子供まで知らぬ者がいない程の超有名人である、アルバート・アインシュタイン。しかし負の実像は恐れ多いのか、敬意を表してか、マスコミは全く伝えていない。むしろ偉人としてのイメージを守る為、不都合な事実を隠匿して来た感すらある。ずばり負の実像としての一断面を記述することにする。
 彼はある時マスコミに「相対性理論」について次の様に語っている。「熱いストーブに1分間手を当てていると、まるで1時間くらいに感じられる。しかしキュートでチャーミングな女性と一緒に1時間座っているとどうだろう。1分間にしか感じられない。これが相対性理論だ」とアインシュタインの一断面が垣間見られる、何んともユーモラスな例えをしている。
世紀の天才科学者の一断面は無類の女好きだった様である。アインシュタインは生涯二度結婚している。最初の妻ミレーバは大学の同級生で、科学の研究を進める上でのパートナーとして、後の「相対性理論」のもとになる重要な会話を交わしていた。そして二人は愛ゆえに今日流行の「できちゃった婚」そのままだった。当時は大スキャンダルであり、就職にも差し障る為、彼は生まれた子供に会うこともなく養子に出してしまう。なんとかスイス特許局に就職し、双方の両親の許しをもらうと、二人はめでたく結婚する。自分の研究の理解者であり、心の支えとなる人生のパートナーを得て、物理学に関する重要な論文を次から次へと発表するのだが、妻ミレーバにとって不幸な生活が待っていた。もちろん世紀の論文を書く為、アインシュタインは何もかも犠牲にして研究に没頭し、彼は全く家庭を顧みなくなった。ミレーバは家事と二人の息子の育児に追われ、研究のパートナーにもなれず取り残されていた。しかもその後にファンレターを送って来た人妻と浮気する様になり、ついにミレーバは「仕事が忙しいとうちには帰ってこないくせに、よく浮気する時間はあるのね」と怒り心頭、二人の関係は悪化のスパイラルに陥っていった。
 妻は全く家に帰らないアインシュタインに「しばらく会っていませんが、まだ私の顔を覚えていますか」とアイロニーに満ち満ちた手紙を書き、その後身勝手なアインシュタインとの生活に絶望し疲れ果てた結果、離婚に応じることにした。そして離婚の条件としてアインシュタインは、慰謝料として受賞出来るかどうかもわからないノーベル賞の賞金をすべて渡す約束をしている(大した自信にびっくり)。
 糟糠の妻と別れ、7年間不倫関係にあったバツイツの子持ちの従姉妹エルザと再婚したが、ノーベル賞受賞で時代の寵児となったアインシュタインは「一度は偉大な世紀の科学者に強く長くハグしてもらいたい」願望の女性達とエルザに隠すことなく正々堂々と浮気三昧の日々を送った。当クラブの女性会員からお叱りを受けることは重々覚悟の上で、私は言いたい!!アインシュタインにとって女性達との逢瀬は疲れた頭脳を癒し、回復させ、更には新たな発想の源となったのではないかと考えている(オイ炭谷!!人生そんなに甘くないとの声もあるが?)。二度目の妻エルザは超有名人の妻であると言うプライドの為だけにじっと耐え、エルザは死ぬまで離婚せず、仮面夫婦を続けたのだった。
 マスコミからの一般的な結婚についてのコメントに、アインシュタインは以下の様に答えている。「結婚とは、偶然の結果を長続きさせようとする、成功の見込みのない企てです」と語った発言後、例のアインシュタインの有名なペロっと舌を出した写真の様なポーズをとったのではないかと考えている。彼は理論物理学者らしく、自己の不倫行動の正当性を主張する為の論理を展開している様に思えてならない。大天才だから許される妄言であろう。
日本人の好きな、世界の天才の中でアインシュタインは堂々第1位にランクづけられている。アインシュタインが特許庁時代に表した「人が成功するため」の方程式は以下である。
A = X + Y + Z
(成功)(仕事) (遊び)(沈黙)



186回 本人の知力(識字)の底上げはいかにして?」         

 江戸の末期、欧米各国は日本に開国を要求して来た。そんな中、イギリスの軍艦が江戸湾に深く入って来た。提督ビーグルは江戸の町の様子はどんな様子だろうと思って、早速望遠鏡で眺めていると、鍬をかついだ農作業帰りの着物の裾をたくし上げた二人の農民が本屋で立ち読みしている姿に、イギリスでは絶対に見ることの出来ない光景に「アンビリーバブル」と叫びそうになる位、大変驚いたそうである。なぜなら、当時のイギリス本国の農民はほとんど無学文盲であり、何何何んと植民地にしようと企んでいた未開の国、日本の農民の一部は文字が読める。ビーグルは早速本国に伝令した。「ワレハ日本を植民地化するには反対ナリ。日本の教育程度は余りに高すぎると考える。よって日本からの退散命令を要請するものナリ!!」と。やはり大英帝国海軍の提督である。その慧眼に経敬意を表したい。(当時のイギリス国民の識字率15%、日本は30%)。日本の識字率の高さが江戸末期、欧米の植民地になることなく、更には開国後近代化をものすごいスピードで推進出来た大きな要因であることは間違いない。
 さて、いったいいつ頃から、知力(識字)の底上げが始まったのか検証を試みてみた。まず日常的に文字が使われる様になったのは500年頃からではないだろうか。もちろん庶民は無学文盲であり、貴族、役人、僧侶などが文字を使えたのであろう。当時の識字率は1%以下と推測している。現代の人間は通常、幼児の時には親より絵本を読んで聞かせてもらう。そのうち絵の横の文字の存在に気付き、きっと親はこれを読んでいるのだと気付き、それならばと一文字一文字指さし、その繰り返しで読むことが出来る様になる。そしてしっかり初等教育を受ければ読み、書き、思考力も発達してくる。ところが平安時代、無学文盲の庶民が文字を読み、書こうとしても何んの為に読み書きが必要なのか、必要性を感じなくては読み書きを勉強する気になれない。つまりモチベーションが必要となってくる。
 日本教育史上、最初に知力アップに大きな働きをしたのが、琵琶法師による「平家物語」の弾き語りである。あのリズミカルな語りと「ベンベンベン」の調子に楽しみながら庶民はあの格調高い文章の一部を暗唱すら出来る様になった。そこでこんなに楽しんでやれるものなら、少しは読み書きを勉強して「平家物語」の原典を読んでみたいと考える庶民も少なからず出て来る。出来るかどうか不安を持って、恐る恐る読み書きに挑戦、努力の甲斐あって少し読み書きが出来る様になると隣近所の人達からは尊敬のまなざしで見られ、時々代筆や代読してやると、プレゼントもいただける。若い男性の場合には若い女性から憧れを持たれ、良いことずくめである。この様子を見ていた他の人達も読み書きが出来れば、こんなに良い目にあえるならオレもワタシもやってみようと言う気持ちになる。こうなればしめたものである。識字率はうなぎ登りである。庶民の識字率0%が3~4%に大変な飛躍である。
 続いて南北朝時代の「太平記」が「平家物語」の識字率アップの良い流れを更に後押した。「太平記」はもともと文章として書かれたものであったが、「平家物語」と言う「語り」の伝統があり、庶民も慣れ親しんでいたので、「太平記」は「講釈」と言う形で庶民の耳を楽しませる様になった。「講釈」は楽器を必要とせず独特の語りだけで、後に職業化し、独特なリズムで語る「講談」へと発展していった。少々節回しは難しいが、それさえ身に付ければあとは机と扇子さえあればどこででも出来、庶民への普及と言う点では「平家物語」より容易で、底辺を拡げていくことにつながった。今日的に言えば紙芝居を見せないアカペラみたいなものであった。「講釈師」“見て来た様な、うそを言い”との格言もあり、臨場感を表現するのに「講談」は最適だった。庶民の中には、よし「太平記」を実際に読んで過去にタイムスリップしてやろうとの思いから、読み書きをマスターしようと考える者が出て来てもおかしくない。この時代の識字率はうなぎ登りとなり、7~10%に上昇したであろうと言われている。
 
戦国時代は文化的に見るものはなく、識字率の上昇は見られなかったが、太平の世となった江戸時代に一気に文化の花が開き、咲き誇った。咲き誇った文化をエンジョイする為の手段として、もちろん識字の重みがうんと増し欠かせなくなった。
 松尾芭蕉の「奥の細道」の紀行文学に始まり、井原西鶴のパロディー風の「好色一代男」、近松門左衛門の庶民を描いた戯曲「曽根崎心中」、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」を本当に楽しむには、やはり識字が必要となる。また江戸時代においては、商工業が飛躍的に発展し、まともな商売をするには計算(ソロバン)と識字が必要最低限のツールとなった。その頃職にあぶれた武士達が子供や商工業者に文字・計算を教えた寺子屋が繁盛し、その際には礼儀作法・道徳・生活規範も同時に教えられ、現在の学校教育には及ばないが、間違いなく庶民レベルまで知育・徳育が行われ、知力(識字)の底上げが行われた。都市部の住民や商工業者の識字率は飛躍的に向上した。
その結果、江戸末期のさぁどんと来い!!待ってました黒船よ!!そして文明開化 結果を私は心待ちにしています。



185回     古代史探訪その8  「中韓の歴史認識問題」            

 中韓は日本との歴史認識問題のみならず、中国と韓国との間でも歴史認識問題を抱えている。ただし中韓の歴史問題の多くは、近現代史ではなく、古代史にかかわるものである。しかしながら、こちらの問題は将来北朝鮮崩壊時の領有権をめぐる争いにすら発展する可能性があり、相当に深刻と言える。
 古代史における高句麗と渤海、この2点において、現在の中韓が真っ向からぶつかりあう問題点である。紀元前、中国東北部、かつて満州と言われた地の南部にかけては、かつて高句麗や渤海と言った国が栄えていた。なかでも高句麗は、中国の隋・唐帝国の軍勢を撃退、隋の滅亡の原因をつくった程の強国だった。
 韓国では疑ってはならない“常識”がある。それは高句麗とは7世紀後半まで朝鮮半島の北半分と満州を支配し、最後の都を平壌に置いた朝鮮民族の古代王朝であり、渤海とはその末裔が満州に逃れ建国したというものだ。
 一方中国では1997年から「東北工程」という神話時代から現代までの満州の歴史研究の国家プロジェクトを立ち上げ、その研究結果から高句麗と渤海は中国史の中の「地方政権」の一つとされた。さらには朝鮮半島の王朝である新羅や百済さえも、中国史の中で語るものとし始めた。
 中国の研究と主張が韓国に伝わると、中国が将来、朝鮮半島の北半分の領有権を主張する根拠ともなりかねない為、南北統一を見据える韓国にとって到底認められるものではなく、韓国内では大きな反発が起き、中韓の間で古代史をめぐる対立が始まった。
 しかし朝鮮民族が渤海を自国の歴史として意識したのは李氏朝鮮(1392~1910年)末期からだ。自国の歴史に組み込んでからまだ日が浅い為、確固たる韓国史にしようとまさに官民総動員体制がとられている。韓国のテレビ局が古代史を題材にしたドラマを多数つくり始めたのも、その流れの中での出来事である。「朱蒙(チュモン)」「太王四神記(テワンサシンギ)」「大祚榮(テジョン)」といったドラマは、高句麗や渤海を舞台にしたもので、むろん高句麗や渤海が自国の王朝であることを前提にしている。一方中国側は、これら韓流ドラマの中国国内放映を禁止した。
 この問題、日本の研究者の間では、高句麗や渤海は中国王朝とも朝鮮半島の王朝とも一線を画した別系統の王朝と言う見方が強い。東ユーラシアの地域王朝の一つと捉えた方がいいと言う研究もあるが、それら日本の学界で有力な見方は、むろん中韓両国にとって受け容れることの出来ない学術的見解である。
 これらの古代歴史問題は新たに「白頭山」を中心とする国境問題にも火をつけることとなった。近年韓国では「孔子は韓国人」「漢字をつくったのは韓国人」「漢方薬の起源は韓国」と言った説を国際的に主張し始め、中韓の対立は混迷の度を深めている。
 最後に争いはまだまだ続きそうだが、両国に共通するのは、歴史は国をあげて強く主張すれば手に入るものと信じている点である。学術的検証(考古学的考察)を推進すべきであり、その結果を私は心待ちにしています。



184回  古代史探訪その7  「大化の改新の謎」                  

 645年中大兄皇子、中臣鎌足、軽皇子(後の孝徳天皇)等が謀って、当時の最高権力者蘇我入鹿、蝦夷親子を滅亡させた(乙巳の変)。そしてその後の一連の改革(唐を手本とした中央集権国家建設をめざす)を大化の改新と呼んでいる。
 私の高校時代の教科書では「専横きわめる蘇我氏に危機感や不満を抱いた中大兄皇子等が、唐の律令制をまねた大王(天皇)中心の中央集権国家を築くため、蘇我氏を滅ぼした」とある。ところが近年の研究により「日本書紀」にある蘇我氏=悪逆非道説に疑問が生じている。更には蘇我氏は古来より渡来人の進んだ文化や技術を吸収して強大化していった豪族で、国際情勢にも通じていた。唐の国をまねて律令制による中央集権国家の為の基礎固めとなった制度(屯倉制など)を築いたのも蘇我氏であり、むしろ中大兄皇子等の方が反動勢力だったと言う、真逆の説が浮上して来ている。
 「日本書紀」は中臣鎌足の子孫藤原不比等が権力を持ち出した時代に書かれたものであり、捏造・改竄が多々行われたと近年指摘されている。内政において中央集権化の過程で、貴族中心の権力構造を志向した蘇我氏の権勢が肥大化し、それに危機感を抱いた大王(天皇)側が、蘇我氏に対して政治クーデターを起こす一因と考えられ、又外交において大和朝廷は蘇我氏の台頭以前は、朝鮮との関係では極端なほどの親百済外交を行っていたが、蘇我氏が台頭してから、新羅や随・唐とも親しくする全方位型外交に転換した。それが「乙巳の変」後、再び親百済外交路線となり、百済の遣臣の求めに応じて3万の援軍を送り、白村江で唐・新羅と戦い大敗を喫し、百済は滅亡した。以上の外交路線の変遷から、中大兄皇子一派と蘇我氏との外交路線の違いがあり、政治クーデターの一因と考えられる。これらが「乙巳の変」の真相ではないかと言われる様になった。変の直後に皇極天皇は退位し、軽皇子が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足を内臣とする新たな政治体制が発足し、新たに「大化」と言う元号が用いられ、都も飛鳥から難波に遷された。そして教科書の上では大化の改新が行われたとなっている。
 大化の改新が実際に行われたとすれば、それは画期的な国政改革であり、日本史上おおいに評価されるべき史実である。ところが不思議なことに、この改革が評価される様になったのは、改新の詔が発せられてから約1200年も後の1848(嘉永元)年のことである。紀伊藩士の伊達千広が歴史書「大勢三転考」の中で、初めて大化の改新の重要性を評価した。それまで大化の改新に注目する日本人がいなかったのはなぜか。この事実は大化の改新が行われなかったことを暗示しているのではないだろうか?また「改新の詔」には大宝律令や養老律令と似た部分があり、日本書紀の編者の改竄の可能性が高く、そのため「大化の改新と言う政治改革そのものが存在しなかった」とも考えられて来た。
しかし近年、少し風向きが変わりつつある。それは考古学的検証つまり難波宮の発掘が進み、孝徳朝の難波宮は意外にもかなり壮大な規模であり、従来は大王(天皇)ごとに遷都する位だから、それらの規模はそこそこでそれほど壮麗な王宮ではなかった。ところが難波宮は違う。後の宮都史の出発点となる様な中国的な王宮であった。そうならば、それを意識的に造営しようとする政治姿勢づくり、造営を可能にする体制の転換があったはず。つまり大化の改新の様な大きな国内改革が不可欠である。改革なしには難波宮の様な宮都づくりは始まらない。
 現在では孝徳朝から規模の大小はともかくとして、国政改革(中央集権化・律令制度)が始まっていたとする説が定着しつつある。



183回  古代史探訪訪その8  「ブラック・アテナ」Ⅰ古代ギリシアの捏造1785-1985
                             マーティン・バナール 著            
1987年に発刊した「ブラック・アテナ」はヨーロッパ・アメリカで古代ギリシャ関連の学者の中で、大論争を引き起こした。ここ250年間、疑ってはならない歴史つまり「古代ギリシャ文明は白人のアーリア人が独自に築いたもので、他の地域・民族の影響は受けていない」とする「アーリア・モデル」が存在した。それ以前は紀元前1500年頃にギリシャを植民地としたエジプト人とフェニキア人がギリシャ文明のもとをつくったとする「古代モデル」が存在した。この大論争、今だに終束していない。
 「ブラック・アテナ」の出版以来、アメリカでは従来通りに古代史を教えることが不可能になったと言われており、本書の論証を読む限り、バナールの主張は極めて説得的であり、近代(ここ250年間位)の古代史解釈のパラダイム、すなわち「アーリア・モデル」の転換が必要であることは間違いない様である。
 ヨーロッパ各国は17世紀に入り、世界各地に植民地を獲得し、更には産業革命によりヨーロッパに近代文明・文化が花開き、世界の中心に位置する地位を築いた。ヒトラーの台頭もあり「アーリア人種至上主義」が顕在化した。白人の優位性を示す象徴として、古代ギリシャが選ばれた。白人至上主義者にとって「西欧文明」の本家本元、一丁目一番地、つまり源流をなす古代ギリシャがイスラム国であるエジプトや中東諸国の支配下にあり、文明・文化的に多大な影響を受けていたなどと言う学説など許されるものではなく、西欧近代史学は古代ギリシャ人は白人だとし、その文明が極めて高度で科学的に優れたものだとする論理を「捏造」したものであり、西欧文明の優位性を主張するための偏見に満ちたものだとバナールは論じている。
 「捏造」に辣腕をふるったドイツでは、義務教育の中で古代ギリシャ語を現在でも教えている(ドイツ人は筋金入りの白人至上主義者に思えてならない!!)。ヨーロッパ文明のはじまりが黒人系のエジプト人とユダヤ系のフェニキア人の貢献によってなされたとするバナールの主張は白人至上主義者(意識しなくても自然に染みついた者も含めて)に精神面で強烈なダメージを与え、黒人達の社会運動や活動意識に強烈なメッセージを与え、それが人種差別論争に油をそそいだ。
 現在では現存する古代ギリシャの建築遺物(彫刻)には新たな発見と検証が相次いでいる。ギリシャ彫刻の大半は、以前は彩色されており2000~3000年の間に退色したり、はげ落ちたり、近年は人種差別主義者により、洗浄、表面の削除により白い彫刻へと変化した。あの有名なギリシャの「パルテノン神殿」も創建当時は彩色されており、その頃エジプトでしか手に入らない青色(エジプシャン・ブルーと呼ばれている)が天井等に多量に使用されており、絢爛豪華な姿であった様である(現在はシンプルな白い神殿)。
 最後にバナールの主張を要約すると、彼がギリシャ文明(文化)の特徴は「純粋さ」にあるのではなく、「ハイブリッド性」にあると理解し、それを高く評価している点である。言い換えれば、バナールはギリシャ文明がエジプトとフェニキアと言う「先進」文明からの借り=恩恵をもとに発達した混合文明だったと主張することによって、文明の混合がもたらす豊かな実りと革新の重要性に注目している。彼の主張は「古代モデル」を全面的に肯定するのではなく、「アーリア・モデル」の正しい部分だけを取り入れた「修正古代モデル」と名付けた説を主張している。エジプト、フェニキア人によるギリシャ植民地化を紀元前1500~2000年の間とし、それ以前の紀元前3000年前後に地方からの白人系人種の侵入があった。つまりギリシャ先住民は白人系であったが、その後の文明の主体はエジプト、フェニキア系にあったと言う主張だ。

「ブラック・アテナ」Ⅰ古代ギリシアの捏造1785-1985
2007年5月15日 初版 発行所 新評論 定価(6500円+税) マーティン・バナール略歴 1937年ロンドン生れ ケンブリッジ大卒コーネル大学東洋学1984年教授



182回   アメリカの火星移住計画   

 アメリカ(NASA)は近年、異常とも思えるスピードで火星探査とその後の火星旅行計画(火星に人間が到達し、地球に帰還)を推進している。ただ単に地球外生命の痕跡や発見、宇宙への科学的興味、更には科学的ロマンの為だけだと思っていたが、どうやら数千年、数万年、数億年先を見据えての行動が、私の稚拙な頭脳でもようやく理解出来る様になった。つまり地球環境の変化により人類が消滅する前に火星へ移住しようと言う壮大な計画を試みるアメリカの深謀遠慮にただただ感心するばかりだ。
 太陽は約46億年前に誕生そして核融合反応を開始して、一人前の大人の星、いわゆる主系列星となった。その当時と比べると現在の太陽は30%ほど明るくなって(光度が増して)いると考えられている。太陽の中心部では核融合によって、4つの水素原子核から1つのヘリウム原子核が作られ(これを水素が燃えると言う)、その際に膨大なエネルギーが放出される。つまり4つの粒子から1つの粒子が作られるので、太陽の内部では粒子の数が減っていき、その影響で太陽は縮もうとする。ところが一般に物体は圧縮すると内部の温度が上がり、温度が上がると水素が燃えやすくなるので、以前よりも核融合反応が活発に起こり、その分エネルギーが多く作られる。そのエネルギーは縮もうとする力に対抗するので、結果的に太陽は縮むことなく温度だけが上昇する。
 こうして太陽は次第に温度を上げながら、核融合によって放出されるエネルギーを増していき、太陽の光度は増えていく。ミクロ(例えば10年から100年位のスタンス)的には地球寒冷化も唱えられているが、マクロ(数千年から数億年のスタンス)的には確実に太陽は光度を増し、地球は温暖化している。この傾向はこの先も遠い未来も続き、おおよそ1億年で太陽は1%ずつ光度を増していき、地球は灼熱の環境へと進んで行く。10億年後には太陽から受け取るエネルギーが現在より10%増えると、海が蒸発をはじめ、温暖化効果のある水蒸気が大気中に増え、海は温暖化ガスである二酸化炭素を吸収する効果もあるが、海の蒸発とともに大気中の二酸化炭素の濃度も上昇して、温室効果が急速に進み、海は瞬く間に干し上がり、地球から水が永遠に失われる。もちろん地球の気温は100℃を超える。
 更に30億年後には気温は数百度Cとなり、現在の金星の様な灼熱の惑星となる。地球の未来はまた人類はこの様な状況に対して座して死を待つよりは、おそらく数千年先には人類は核融合エネルギー推進ロケットを開発して、徐々に火星へと移住を開始するのではないかと予測している。火星には地下深部に氷の状態で、おそらく地球の海に匹敵する量の水が存在し、火星でもやはり太陽の光度が増す為に氷は水となって火星表面に出現して来る。永続的に水さえ確保出来れば火星への移住は容易になる。更にはNASAは地球の約350キロ上空で野菜作りに挑戦している。「ピロー(枕)」と呼ばれる栽培キットを使って、宇宙ステーション内の菜園で食料の自給自足を目指すと言う。アメリカの宇宙ベンチャーのスペースX社の補給船が国際宇宙ステーション(ISS)に到着し、その中の野菜栽培装置で宇宙飛行士たちが採れたての野菜を味わう日は近い。そして人類は火星への入植時の食料確保(地産地消)出来る可能性を手に入れたと言える。でも数10億年後には火星も灼熱の惑星となり、それ以前に人類は太陽系外の惑星に移住しているのではないだろうか。



181回 Shakespeare ~シェイクスピアは誰だ~
                                
 “To be,or not to be”(生きるべきか、死ぬべきか)「ハムレット」の有名なセリフである。今年は作者とされる文豪ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の生誕450周年に当たり、4月にロンドンのグローブ座の広報は、約2年間の予定でシェイクスピアの代表作「ハムレット」を世界中を周り、200の国と地域で上演すると発表した。
 シェイクスピアは生涯37の戯曲を書いたと言われている。劇作家として活躍した16世紀の終わりから17世紀の初頭にかけて、また死後約150年間は誰一人として、この37編の戯曲はすべてシェイクスピア自身の手によるものだと認識していた。疑う者はいなかった。特に当時一緒に働いていた一座の団員にいたっては、舞台の上で役者がリハーサルを行い、その袖ではシェイクスピアが次幕の為に必死の形相で急いで執筆している姿を目の当たりにしており、作者は誰であるか一番良く知っていた。そして次幕の脚本が完成すると、「おい皆んな、出来たぞ。すぐに次幕のリハーサルをやってくれ」とばかり、インクの香りのする原稿を役者達に手渡ししている光景が目に浮かぶ(しかし以上の様な記述は残念ながら残っていない)。シェイクスピアは急いで、そしてスムーズにペンを走らせ、英語の言葉を文章(フレーズ)を書きなぐっていた。従って冗長な文も、不必要な文も、ぎこちない表現も、つまらない韻文も書いた。最高傑作と言われる作品でさえ、言葉を犠牲にしてでも物語の進行を優先している箇所や、はやる気持ちにまかせてペンを走らせた結果、状況に不相応な長すぎるセリフが多々存在すると言った状態だ。もちろんスペルの誤りや文法の間違いなど気に留めず、見返したり、校正するなどとんでもない、どんどん書き進んだ。そして公演ごとに脚本を修正していった。その上4時間の上演を3時間に縮めたり、3幕の内の1幕を削ったりと劇場主の要求に臨機応変に対応した。またシェイクスピアは劇作家だけでなく、役者兼演出家兼プロデューサー兼一座の共同経営と年がら年中大忙しで、一番気をつかったのは観客である。一般庶民をいかに楽しませるか、お金を稼ぐのが第一であり最大の目的だった(識字率が5%程度では出版物はさほど売れず、芝居が人気を博し当時絶頂期にあった)。
 シェイクスピアはそこのところを良く心得ていた様で、時には観客にとって意味不明の新語を2000語余りもつくった。その上フレーズにいたっては革新的ですらあった(日本のお笑い芸人のキャッチフレーズの様なものも存在)。もっと慎重に正確を期した言い方をすれば、英語が始まって以来記録されていない新語を2000語余りもつくって使ったことになる。劇作家になりたての頃から遠慮なく、ばんばん新語を使っていた。
 役者達は時には「オイ!!シェイクスピア。この言葉はどんな意味なんだ?」との問いかけに「うるせい!!そのまま発音して使えばいいんだ」と叱り飛ばしていた。事実観客にとっては時には何んのことかサッパリ解らず首をひねったり、時にはバカ受けだったりで、このハチャメチャさがまた人気を呼んだ。当時英語自体、未完成な状態であり、正式な文章はすべてラテン語で表記し、イギリスの貴族階級はフランス語を話していた(あの有名な科学者アイザック・ニュートンの「万有引力の法則」もラテン語、作家トーマス・モアの「ユートピア」もラテン語、当時の正式文書はすべてラテン語表記であった)。
シェイクスピアは劇作家としてまずまずの評価を受けていたが、同時期のベン・ジョンソン以下2~3名の作家の方が上であると言った状況だった。その上、当時戯曲なんか芸術作品でも文学作品でも何んでもなかった。単なる劇を演ずる為の指針・指導書みたいなもので、ストーリーであれフレーズであれ盗作するのは当たり前で、特にストーリーなどはむしろ作家達の共有物の様であった。
そしてシェイクスピアの死亡から150年間位の間、誰一人と「ハムレット」をはじめとする作品はシェイクスピアの作とし、いやシェイクスピアが本当に書いたのとか、別人が書いたのではとか誰も考えたりもせず、関心すらなかった。ところがところが今から200年位前から、なな何んと!!シェイクスピア作品が見直され、同時期評価が上とされたベン・ジョンソン等を抜いて、芸術性が非常に高いとか文学的価値が高いとか、言葉の魔術師であるとか、何んと高貴なフレーズを持った作品であるとか、うなぎのぼりに評価があがり(多分、墓の下のシェイクスピア本人もビックリ状態)、100数十年前からは英文学の最高峰、最高の劇作家兼文学者、ノーベル賞に値する(これは私の冗談)と言われ出したのである。
さぁここからがいけすかない欧米人根性まる出しとなる。あんなイギリス中西部、ストラットフォード、ロンドンから100マイルも離れた、ど田舎の大して教養もない(当地のグラマースクールで15歳まで勉学、グラマースクールは文字通り文法を習い、ラテン語の勉強を主体にしていた)あんな男に「宮廷生活」「紋章学」「法学」「政治学」「哲学」「天文学」「医薬学」「軍事」「自然史」「海外事情」等の最高の知を内包した高貴で珠玉な作品が書けるはずがない、シェイクスピアの名をかりた他に作者がいたはずとし、真のシェイクスピアはいずこに?ゴーストライターは誰だとばかり、別人(真の作者)探しがここ100年以上続いている。別人説を支持するのは精神科医フロイト、作家マーク・トゥーエン、名優オーソン・ウェールズ等の超有名人をはじめ、多数の世界中の異端のシェイクスピア研究者達である。
私は問いたい。オックスフォードやケンブリッジを出ていればシェイクスピア作とされる戯曲が書けるのかと。我々の人類の歴史を見ればわかる通り、大した教育を受けていなくとも世紀の発明、発見また世界の文化に貢献した人はゴロゴロいるではないかと!!そして「耳学問」と言う言葉を知らないのかと?我々日本人の多くが崇拝する「聖徳太子」は1を聴いて10を知ると言われており、大天才シェイクスピアなら1を聴いて2ないし3位は知ることが出来ると思わないか!!更には日本には「講釈師見て来た様な嘘を言い」との格言がある通り、他者との会話や書籍からそして人間の持つ想像力によって充分な知識は得られると考えるのが妥当で常識的であり、大学での勉学がすべてではないと考えるべきであろう!!
さて現在の生活の中で英語圏の人々はシェイクスピアを良く引用(特にハムレットからが一番多い)して報道やスピーチをしている。最近の例で米国では“Something in rotten in state of Denmark”「デンマークでは何かが腐っている」をよく耳にする。これは「ハムレット」の第1幕でハムレットが父の亡霊の後を追って退場した後に、将校マーセラスが言うセリフで「デンマークでは何かまずいことになっている」と言う意味だ。2月の初旬、ニュージャージーのクリスティ知事の部下が反知事派の政治家への嫌がらせとして、ジョージ・ワシントン橋を遮断した事件が明るみに出た。この時テレビのリポーターや政治評論家が口々に、“Something in rotten in state of New Jersey”と言っていた。この様に英語圏ではどこかで汚職や胡散臭い事件が起きる度に、Denmarkを地名を入れ替えて使われている。
以上の様に英語圏の国々ではシェイクスピア作品が日常生活に根差し、非常に身近な存在と言える。英語圏の人達がシェイクスピア作品を書いたのはシェイクスピア本人なのか、別人なのか白黒つけたがる気持ちは充分に理解出来る。ところがこの400年間余り研究者達が身を粉にして証拠集めに精を出し、誠心誠意努力して来たのにもかかわらず我々が知っていることは、シェイクスピアはストラットフォード・アポン・エイヴォンで生まれて、その地で18歳で結婚し、20歳で3人の子持ちとなり、ロンドンで俳優兼作家となり、成功し、引退し、ストラットフォードに戻り、遺言状を残し、そこそこ資産を残して死んだと言うことだけである。
戯曲の原稿は一切残っていないし(著作権はすべて一座に帰する)、自筆による言葉はたった14語しか残っていない。その内サインが6つ(これで12語)と遺言状にある「by me 私が書いた」の合計14語。メモも手紙も一切残っていない。一度も上演されることのなかった芝居の原稿「サー・トーマス・モア」は共同執筆で、一部はシェイクスピアの筆によるものと信じている研究者は何人もいるが、まるで定かではない。更にシェイクスピア作品の内、彼が書いた戯曲の正確な本数やどの様な順序で書いたのか、どの作品が共同執筆だったのか(当時の戯曲の6割は共同執筆であった。シェイクスピアの場合、末期の作品に共同執筆が多いのではないかと言われている)、どうもはっきりしていない。更に極めつけは現在の彼自身による6個のサインが残っているが、何んと同じ綴りのものが2つとしてない、つまり綴りがすべて違う。「Willm Shaksp」「William Shakespe」「Will Sakspe」「William Shakspere」「Willm Shakspere」「William Shakspea」の6つだ。発音の方は研究者によると本人は「シャクスピア」と発音していた可能性がある様だ。

グラマースクールを15歳で卒業した後の結婚するまでの3年間、そして20歳で妻子を残してロンドンに出て神業的スピードで一流の劇作家になるまでの肝心の8年間の消息は何一つわかっていない。1592年に初めて劇作家として印刷物に名前が出た時には、彼の人生の半分以上終わっていた。
ある研究者はシェイクスピアを次の様に例えている。
文学史上における電子の様な存在である―常にそこにあって、そこにない
まさに神秘の人「シェイクスピア」と言える。シェイクスピアが死去してから7年後にかつて所属していた「国王一座」の俳優26名が、シェイクスピアの偉大な劇作を永く後世に残すため、大型の二折版の一冊の本、全戯曲集を編集出版した。シェイクスピアが一座の仲間達に愛され尊敬されていた証だ。そして長年の真の僚友達の存在があった。私自身の考えだが今の一例を見ても、別人説の作者の大多数はフランシス・ベーコンやオックスフォード伯等の貴族階級で、当時の庶民はゴミみたいな取るに足らない存在であり、役者達と親交を結ぶとは考えづらい。やはりシェイクスピアはシェイクスピアであり、別人(ゴーストライター)など存在せず、作品すべては彼が執筆したと考えるのが妥当と思っている。
今一度代表作「ハムレット」を読んで見たが、どうもピンと来ない。やはり舞台や映画で見る方がいい様だ。ロンドンのグローブ座の東京公演が待ち遠しい。



180回「明治の文豪 鴎外と漱石」
                         
 森鴎外と夏目漱石、二人は近代日本文学を代表する二大文豪である。ともに同時代を生き抜き、旺盛な執筆活動を展開し日本文学史上に燦然と名を残した。二人はエリート中のエリートである。明治政府の国費留学生として?外はドイツ、漱石はイギリスへそれぞれ留学している。?外は日本にいる時の様な周囲からのプレッシャーから解き放たれて、西洋の自由な空気を胸いっぱいに吸い込み青春を謳歌し、時には大日本帝国軍人として誇りを持って流暢なドイツ語でドイツ人達と胸襟を開いて交流し、時には憤怒をもって西洋と日本の文化の相違点に論陣をはっている。又当時発展途上国の留学生としては珍しく、ドイツ人女性と恋に落ちている。一方漱石は西洋にはまったく馴染めず、ロンドンで過ごした二年間を自身は「生涯もっとも憂鬱な時」と述べている様に、西洋文化に驚愕し、とまどい、苦悩し、完全なる適応障害に陥っている。下宿に引きこもってモンモン、ウツウツとした日々を送り、帰国を心待ちにしていた。帰国後二人はともに小説を書き始めている。
?外はドイツ留学中、ドイツ文学やその他の多数の書籍に接し、読みあさったであろうことは容易に想像出来る。ドイツでの恋愛体験をもとに「舞姫」を書いて小説家となった。この小説の文章は、和文調と漢文調をミックスした雅文体と呼ばれるもので、現代文とはだいぶ違うが、知的で美しいものである。これら初期の?外の作品は、我々現代人にスラスラ読める文章とは言い難く、私自身の経験では十分な時間的余裕と読破するぞとの強い意志がなければ、読み終えるのは困難であり、先へ読み進む内に前の内容を時々忘れたりで、ともかく読むのに四苦八苦と言う言葉が当てはまる。漱石の様に最初から言文一致の文章をなぜ書かなかったか疑問が浮かんでくるが、ドイツ語に余りにも堪能(読み・書く・話す)で、しかも飛び抜けて頭脳明晰であった為、自身が言文一致の必要性を感じず、従って思いつくことすらなかったのではと想像している。?外は津和野の藩医の息子として生まれ、武士としての誇り、忠孝を重んずる封建的イデオロギーが深く心に刻み込まれており、軍医として国家の為に働き、忠誠を誓うことはしごく当然であった。従って作家として十分に自立・自治出来ようとも定年まで軍を辞める気などサラサラなかったに違いない。執筆はまぁ一種の趣味だった。 
ともかく小説・戯曲・翻訳と広範囲に活動し、しかも長く30数年間の執筆活動を支えたのは、?外のまさに自然に湧き出てくる泉の様な永遠に枯渇することがない、天才のみが持ちうる才能だったのである。?外の全作品の内、翻訳が約半分を占めている。代表例はアンデルセン「即興詩人」ゲーテ「ファウスト」が挙げられる。?外の語学力と「原作」をトランスフォームした意訳であり、広い意味での翻訳と言う作業に?外以上の優れた翻訳者(原作をブラッシュアップする)は日本の文学史上存在しないと考えている。
漱石が教師(イギリス留学以前)をしていた頃、おそらく?外に対して、作家として世評は高くしかも高級官僚として安定した生活にうらやましいとの気持ちを抱いていた。漱石は作家デビューした後も大先輩として敬い、自身の新刊書が出ると贈呈してはいたが、親しく交際したわけではなかった。雲上の人であり、自身の作品に?外からは何んら影響を受けないと考えていたのであろう。評論家に言わせるとむしろ?外の方が漱石の作品を意識しており、面白いのは?外の「青年」と言う小説は、明らかに漱石の「三四郎」に刺激を受けて、いわば対抗意識から書かれたのではないかと言われている。作品的完成度では「三四郎」に及ばないと言われている。しかし?外の作家人生は充実しており、「高瀬舟」「寒山拾得」を書き、豊穣の時を迎えた。そして明治天皇崩御とそれに伴う乃木大将の自決に接し、突然「阿部一族」「渋江抽斉」等の歴史小説を書き始める。歴史小説が最も優れているとの評価もある。
一方漱石は最初の小説となる「吾輩は猫である」の書き出しは「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。これは当時としては漱石にしか書けない小説であり出だしである。なぜなら彼は英文学者であり、東大でも英文学を講義していた。そして二年半のイギリス留学をしており、当然多くの英文学作品を読んでおり、出だしを翻訳すると、“I am a ca t but I don’t have my name yet”となる。
この文章の背後には英文構成の存在が隠れており、そのせいで情感やムードに流れることなく、きっちり論理性を持った文章になっている。漱石は自ら江戸っ子を称し、洒脱さを身につけた庶民の出であり、英語の素養と相まって明治期以前の古い文体ではなく、言文一致の文章が書けたのではないかと考えている。漱石以前に言文一致の小説は、金沢出身の文豪泉鏡花が明治30年に「化鳥」を書いているぐらいである(ちなみに中国では魏会員によれば魯迅が最初の様である)。そして私の見るところ、論文を書くことも出来るまさに現代の文章の出発点・起源となったのはやはり「漱石」であり、現在我々が日常用いている文章をつくった先駆者でありインベンターと言える。
明治と言う新しい時代に入って、江戸時代の様な「候(そうろう)候(そうろう)文」ではなく、新しい文体をつくらねばと、当時の文筆を生業とする人々は考えていた。言文一致運動をした二葉亭四迷や、割とわかりやすい文章を書いた福沢諭吉、そして山田美妙なども言文一致を目指して、<だ><である>体がいいか、<です><ます>体がいいか、散々苦労し努力したにもかかわらず、決定的な成果は出せなかった。そんな時代の中でイギリス帰りの漱石は何んの苦労もなく、いとも簡単に言文一致の「吾輩は猫である」を書き、現代文をするりと完成させた。ある意味、日本文学史上に金字塔を打ち立てたと言ってよい。これだけでも十分なのに「坊ちゃん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「こころ」「道草」「明暗」とわずか11年余りの執筆活動の中で、上記の様な名作を次々と生み出した。
処女作となる「吾輩は猫である」の執筆中に創作は自分に向いている、書くことは楽しいと漱石は思った。それに比べて学校で費やす無駄な時間、大体日本人に英語を教え、英文学を講じることに意義を見い出せず、大家族を養う為に必要な仮の生業としか考えておらず、教えることが嫌で嫌でしょうがない状態だった。帰国から二年後東大文学部教授昇進の打診を蹴って、東京朝日新聞社にそこそこの高給で入社している。当時の東京朝日新聞は社員130人ばかりの小さく若い会社であり、東大教授のイスを蹴って、いわばベンチャー企業の課長に転職する様なものだった。嫌な教職を辞め、創作専一の日を送れる環境に生来の神経症もどこかに吹っ飛び、ワクワクする日々だった。その年漱石は初めての新聞小説「虞美人草」を書き、大変な人気を博し、三越呉服店が「虞美人草浴衣」を売り出す程だった。サクセスフルな転職だったと言える。没するまでの10年余り、好きな道をただひたすら歩んだ幸せな日々だった。
最後に?外がもし現代に蘇ることが出来たとしたら私は次の様にインタビューしてみたい。「先生、あなたは読者のことを考えて執筆したことはありますか?」との問いに?外いわく“余は自然に脳裏に浮かんだことを書いたまでだ。歴史小説とか戯曲などは一応構想を練ったが、他は頭に浮かんだ文章が、勝手に余の手を動かして紙に表現したまでだ”と。“故に読者の為とか、読者はどう余の作品を評価してくれるとか、ましてや売れるかどうかなど一度も考えたことも期待したこともない”との返答が返って来た。以上は大天才森?外の実像であろう。そして最後につぶやいた。“何を書こうと余の勝手だ”と。
一方漱石に同じ質問をすると“もちろん私は読者に読んでいただいて喜ばれる作品を書いたつもりです”と。“その上私の家庭はもの入りで、少しでも多くの収入が必要で、意識的に西洋文化の香りを取り入れておもしろおかしく書く努力をしました”と。“後半の作品<道草><それから><明暗>は日本文化と西洋文化のはざま、そして余りにも違う実質性に悩み、行き詰まった結果、日本的なものに回帰しました”と返答してくれた。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などは小学校高学年になれば容易に笑いながら読破出来る。大抵の日本人は漱石作品の一つや二つは読んでいる。現在でも漱石のほとんどの作品は文庫本の中でもベストセラーだ。まさに漱石は国民的作家と言える。それを裏付ける様に漱石は以下の様に語っている。“最近私の三・四代のちの末裔達は著作権の延長を主張するなど、お恥ずかしい限りです。私の作品がこんなにも皆様に愛されて私は幸せ者です。私の著作のすべては皆様のものです”と。漱石は明治から現在に至る作家の中でナンバーワンかも知れない。



179回宗教論その○   マルチン・ルターは何故抹殺されなかったか?

 ルターの抗議以前、ローマ教会は批判者を抹殺してきた。例えば、ボスニアで立ち上がったフスを破門、処刑に追い込み、ローマ教皇アレクサンドル6世を批判したフィレンツェのサロヴォナローラは教皇の政治力の前に自滅した。ところがローマ教会はマルチン・ルターだけは踏み潰せなかった。それにはいくつかの理由が絡んでいるが、最大の理由はルターのローマ教会に対する抗議とそれに続く宗教改革がドイツで起きたことである。ドイツの諸侯や富裕層にとってルターのローマ教会への抗議は、ローマ教会からの搾取から逃れるチャンスと映ったのである。実のところ彼らもローマ教会の権威を恐れていたので、最初から積極的にルターを支援したわけではなかったが、たとえローマ教会からの命令があっても、利益をもたらすかも知れないルターを逮捕・処刑するつもりなどさらさらなかった。
 当時は中世以来続いてきたドイツとローマ教会の腐れ縁の様な相互依存関係が存在した。それは962年にザクセン大公オットー1世がローマ教皇から「ローマ帝国皇帝」の称号を受ける。以後、ドイツ皇帝は「神聖ローマ帝国皇帝」に任ぜられて権威を得た上、ローマ教皇を保護するという名目で、イタリアの政治に口を出せる様になった。その一方、ローマ教会はドイツ各地の教会を通して、確実に富を得ることが出来た。ローマ教会がドイツ全体から得る収入は、ドイツ皇帝がドイツから得る収入の10倍を超えていた。むろんドイツの諸侯や庶民にとって迷惑な話である。ドイツの人々はキリスト教を信じつつも、ローマ教会に不当に搾取されているという思いを強くしていた。ドイツがローマ教会から搾取され続けたのは、ドイツが事実上分裂状態にあったからである。フランスやイギリスは絶対王政の時代に入っており、強力な王権がローマ教会の権益を排除していた。権力基盤の弱いドイツの諸侯たちはローマ教会の力を削ぐことが出来なかった。その結果、ドイツは「ローマ教会の乳牛」と言われる程、ローマ教会に貢ぎ続けることになった。その後ローマ教会の権益排除の目的もあり、ドイツにおいて宗教改革が断行された。故にローマ教会はルターを潰すことが出来なかった。更にはルターの改革がルネサンスの情報革命の成果を最大限に生かしたことにも一因がある。
 ルネサンス期の三代発明の一つがグーテンベルグの印刷術である。ヨーロッパにメディア革命をもたらした。紙へ印刷することによって、情報伝達のスピードは飛躍的に速く、正確になった。文字さえ読めれば、それまでは考えられなかったほどの大量の情報を手にすることが出来る様になった。教会や世俗権力が情報を統制しようとしても、紙を媒体とする情報は統制をすり抜けて拡散した。その様子は、今日のインターネットによる情報革命とそっくりである。ルターはまさにその情報革命の波に乗った。「95ヶ条の論題」にはじまるルターの見解はパンフレットに印刷され、ドイツ中に配られた。これによりドイツ人たちはルターの考えを正しく知ることが出来、共鳴した人々はルターの支持に回ったのである。この様に印刷術の発達は、ローマ教会による知の独占を次々と突き崩していった。つまり当時聖書はギリシヤ語・ラテン語で書かれており、聖職者やごく一部の知識人しか読むことは出来なかった。又各国語への翻訳をローマ教会は禁止していた。故に一般庶民は聖書を直接読むことが出来ず、すべてが教会に支配されており、聖職者のウソもばれることはなかった。
 はじめてルターは聖書をドイツ語に翻訳した。その後続々と各国語に翻訳され印刷された聖書が人々の手にわたり、少なくとも文字を読める信者はローマ教会を介さずとも、神の教えを直接知ることが出来る様になった。ルターの宗教改革はドイツ人の識字率を高めるという副次的な効果をもたらした。宗教改革が始まった頃、ドイツ人の識字率は5%程度だったが、1世紀後には都市部の識字率は30~50%に達していたと推定されている。その結果ゲーテやマックス・ウェーバー等の人類史上燦然と輝く「知の巨人」の輩出をみることとなった。
 最後にドイツの小都市ウィッテンベルクの修道士マルチン・ルター、彼はキリスト教に深く帰依した聖職者であり、決してキリスト教を否定しようとしたわけではない。例えば彼はキリスト教の教義に反するコペルニクスの地動説は否定していた。ルターを憤激させたのはローマ教皇レオ10世が発行した、いわゆる免罪符であった。1517年「95ヶ条の論題」という形で抗議文を発表した。ローマ教皇の権威を恐れない硬骨漢は宗教改革ののろしを上げたのだった。



178回 大学の起源                               
 
 中世のヨーロッパの人々は骨の髄までローマ・カソリック教会に支配されていた。キリスト教は民衆の生活のあらゆる場面に食い込んでいた。文字を読めるのはほぼ聖職者だけだったので、民衆は聖職者から教えを聞き、それに従った。教会は「知」を独占し、更には人々の精神までも支配していた。
 そこに風穴を開けたのは十字軍に伴う地中海交易である。遠方との交易は神のいない世界への大冒険でもあった。船は頻繁に難破し、海賊にも襲われた。商人らは神の加護を祈りつつも、自らの能力に懸けざるを得なかった。彼らの進取の気風と冒険心と経験が、自らの精神を神から解放する素地をつくり出したのだった。そしてイスラム世界やビザンチン帝国に残っていた人間中心文化(古代ギリシヤ・ローマ文化)の存在を知り、ローマ・カソリック教会による精神的支配に疑問を抱く様になり、神にすべてを支配されるのではなく、一定の距離を置こうとした。神から離れると中心となるのは人間である。教会による「知」の独占を排し、知的活動の中心となる場所を求めた。それがヨーロッパ各地に誕生し始めていた大学である。
 振り返れば古代ギリシヤ人やローマ人は我々が過去約800年間用いている「大学」を持っていなかった。彼らは当時法律、修辞学、論理学、数学そして哲学の教育の多くは、現在でも凌駕し難いほど高度なものであり高等教育を行っていたが、大学と言えるほど永続的な学問機関と言う形に組織されていなかった。現在の大学の原型となる最初の大学がアテネやアレクサンドリア(古代の学問の中心地)ではなく、パリとボローニャに誕生した。もちろん現在の大学と差異は大きい。初めの頃は図書館、実験室、大学自身の基本財産や建物を全然持っていなかった。もちろん理事会、学校新聞、課外活動等、存在するはずがなかった。中世の大学は「有形の持物」を全然持っていなかった。17世紀のフランスの法律家パキエは素晴らしい言葉を発している。“中世の大学は人びと(学生と教師)で作られている”と。初期の大学の教室は教会や公共の建物の一室であったり、野原であった。また書物などもほとんどなく、教師の頭脳から発する「知」を学生は自身の頭脳に吸収させた。実にシンプルな方法であった。
 世界最初の大学の称号を与えるには憚られるが、しかしある意味でパリやボローニャ大学よりも古く、イタリア南部のサレルノに全く独自的に存在した一つの大きな大学(ストゥディウム・ゲネラール)があった。それはサレルノの医学校であった。11世紀の中頃と言う早い時期にヨーロッパにおける最も有名な医学の中心であり、サレルノは人々から「ヒポクラテス都市」と呼ばれ、古代ギリシヤ人たちの医学の著作が解説され、解剖学や外科学の面では発展さえしていた。そしてその後、繁栄は約200年間続いた。その間の教えはいまだに人気のある健康法の格言「食後は一マイル散歩せよ」などに凝縮されている。しかしサレルノの医学校は後の医科大学や医学部に何んら組織上の影響を及ぼさず、医学の歴史において重要であったとしても、大学制度の発達、成長には何んら影響を与えることはなかった。
 世界最初の世界最古の大学の称号はイタリアのボローニャ大学とフランスのパリ大学に授与されるべきである。両校とも11世紀後半から12世紀にかけて創立(あの紫式部が源氏物語を書き終えた50年後位)と推定されている。ボローニャ大学は当初ローマ法を講じるイルネリウスの講義を聴くため、ヨーロッパ各地から集まってきた学生が組合(Universitas)を結成した。数百人の学生は家庭を遠く離れ保護者もなかったので、彼らはお互いの保護と援助のため団結した。この団結に際し彼らはイタリアの諸都市において既に普通であった同業組合(ギルド)の例にならった。実際、大学(ユニバーシティー)と言う語は、宇宙(ユニバース)や学問の普遍性(ユニバーサリティー)とは全然関係なく、学生や教師の同業組合(団体)と言った意味に限定された。当初ボローニャ大学の学生たちは自分たちでお金を出し合って教授を雇い、学則に教授は一日たりとも許可なしに休講してはならないとか、講義で5人以上学生が集まらない程、つまらない講義の場合には罰金を払う義務を負わされており、学生たち優位の大学であった。ボローニャ大学は現在でも哲学と医学は世界的に有名である。
 パリ大学の起源としてノートルダムの司教座聖堂神学校は12世紀の初頭までには、学問はもはや修道院専有のものではなくなっており、一般学生も参加して学問の最も活発な中心になっていた。パリのノートルダムの学校はパリの持つ地理的有利さと、新しいフランス王国の首都としての政治的な強み、そしてフランスの哲学者、神学者アベラールと言う偉大な教師の出現も影響している。彼は学生にしつこい問いかけをし、肩書のある権威にあまり敬意を払わない。才気縦横の若き過激論者はパリであろうと荒野であろうと、彼の教えるところではどこでも多数の学生を引き寄せた。彼がパリに定住した結果、パリ大学の発生に重要な役割を果たした。そしてパリ大学ではボローニャ大学とは逆で、教師たちが組織した同業組合である団体が大学(ユニバーシティー)と呼ばれる様になった。現在でも北ヨーロッパの大学では教師たちの力は強く、講義中に学生とアメリカの様に対等にディスカッションすることはあり得ず、教師は学生たちに対して絶対者である。
 以上、世界最初のそして最古の大学であるボローニャ大学、パリ大学そして現在の世界中の大学(オックスフォード・ハーバード・東京大学等)いずれも大学(ユニバーシティー)とは学問のための教師と学生の組合と言う意味である。ボローニャとパリ大学、この二つの原型は大学としての「オリジナル」であり、ボローニャ大学は学生の大学、パリ大学は教師の大学の模範となった。以来今日まで以後の大学は全てこの二つのタイプのいずれかを、多かれ少なかれ模倣したものである。 
 ローマ・カソリック教会から知の独占を奪い取った大学は、14世紀に始まったルネサンス運動の遠因となった。そして中世の終わりにはヨーロッパには何んと80以上の大学が設立されることとなった。



177回 良書探訪その7 「資本主義と自由」ミルトン・フリードマン 著 
          
 本書はフリードマンが1950年代に大学で行った講義をまとめ、1962年に刊行した一般向けの書で、自らの経済学研究から導き出された多くの提言を行っている。
本書は世界の構造改革のバイブルと言われており、フリードマンはシカゴ学派の重鎮、規制撤廃を唱えた元家元本、そしていわゆる新自由主義の旗手としての主張が網羅された良書である。
 1976年、ミルトン・フリードマンはノーベル経済学賞を受賞した。そのときの記念講演は、あたかもポール・サミュエルソンを始めとするアメリカケインズ主義者に対しての、反ケインズ主義の勝利宣言の様相を呈していた。
 当時のアメリカの経済事情は、インフレ率9.1%に達しているのに、失業率は8.5%、そして経済成長はマイナス0.4%と言う、正にスタグフレーションにあったにもかかわらず、アメリカのケインズ経済学者達は何んら対策を講ずることが出来ず、もちろん説明すら出来なかった原因を論じ、「自然失業率」をもって証明し、アメリカのケインズ経済学者が提案してきたインフレと失業の調整と言う政策は、まったく幻想だったと断言した。フリードマンは本書において政府が行うべきでない規制を以下に挙げている。
 ①農産物の買取保証価格制度 ②輸入関税・輸出制限 ③産出規制 ④家賃統制
⑤最低賃金・法定金利 ⑥産業規制・銀行規制 ⑦社会保障制度 ⑧ラジオ・テレビ規制
 ⑨特定事業・職業の免許制度 ⑩住宅政策 ⑪徴兵制 ⑫国立公園 ⑬郵便 ⑭有料道路
以上の中で完全に廃止されたのは徴兵制ぐらいであるが、ここ50年間の間に格段に規制の程度は小さくなっている(アメリカで)。日本でも小泉政権下でフリードマンの提言を参考に郵政民営化と道路公団民営化が断行された。
こうしたフリードマンが提言した具体的な政策は、いまも日本でしばしば新政策提案として登場することがある。しかし彼の提言の多くはかつては成功したかの様に語られている。しかしフリードマンが1970年から1990年代へとピークに達した彼の名声とは裏腹に、ほとんどの提言は成功していない。その上フリードマンの名声の根源とも言えるマネタリズムだが、確かに70年代末にイギリスのサッチャー政権が採用したのは事実であるが、経済安定策としては実際的ではなかった。マネタリズムについてフリードマンは、貨幣量の変化と所得の関係に注目すれば、確度の高い信頼できる政策的意味が得られると主張し、そのマネタリズム的政策は、名目GDPの伸び率に合わせて貨幣量を増加させていけばいいと主張した。フリードマンの政策提案は余りパッとしなかったが、フリードマン以降、アメリカの金融制度は正に実証経済学の思想に基づいて、規制のない金融を「仮説」として規制を取り去り、参加者すべて博打うちのメンタリティーを持つと言う仮想のもとに、主観的確率論あるいは個人的確率論によって成立する金融市場をつくり上げて来た。
一時期花形だった金融工学を駆使した住宅ローン担保証券やクレジット・デファルト・スワップ等の金融商品の取引によって、金融市場は正に博打場と化した。
2006年にフリードマンはサブプライム問題もリーマンショックも知ることなく、アメリカ経済学への最大の貢献者として称賛の中、亡くなった。
2008年4月14日発行 「資本主義と自由」
日経BP社 2,400円+税



176回 良書探訪その6  DIE WEISSE ROSE ~白バラは散らず~   
 4月5日ラオスからの帰途、東京に立ち寄った。たまたま新宿の書店で目にしたのが本書である。表紙のモノクロの女性は物憂げな表情をしており、発行日を見ると第1刷は1964年、本書は2009年第46刷となっており、ノンフィクション分野の書籍で50年近くのロングセラーに驚き、ページをパラパラめくって見ると、どうやら第二次世界大戦時のドイツ国内の反戦運動を扱った本の様で、早速購入しホテルで読んだ。
 翻訳者は1954年にミュンヘン大学の前に「シェル兄妹広場」と言う標札を見て、何か意味があるのだろうと考えていた。その後たまたまハンブルグ大学の図書館に多数の学生が読んだと思われる、手アカで汚れた「DIE WEISSE ROSE 白いバラ」と言うタイトルでシェル兄妹の姉インゲ・シェルが「シェル弟妹」の思い出を綴った本を目にした。付録として当時の反戦ビラ(白いバラ通信)を備えていた。訳者は一読して深い感銘を受け、翻訳本を1964年に出版した。
 「シェル兄妹広場」の名称は、第二次世界大戦時にあの思想統制と恐怖政治の最中に、ヒットラー反対・戦争反対の抗議運動を起こして、結果死刑となった学生を追悼する為のものであった。シェル兄妹はいかなる抵抗組織にも関わりのないノンポリのごく普通の大学生であり、それ故に純粋な苦悩や情熱からの行動であり、そして著者である姉インゲも又文学や政治には素人であると謙虚に記している。戦時下での学生生活、戦争体験、抗議行動、逮捕、裁判そして処刑までを、しごく淡々と記述している。
フランスの組織されたレジスタンスやドイツの国外亡命者の反ナチ運動とは異なり、シェル兄妹の場合は国内で絶対権力打倒の為に、無手勝流でまさに体をはった死を賭しての抗議運動であり、中世にローマ・カソリック教会の絶対的な権威に恐れることなく「95ヶ条のテーゼ」を答うた「マルチン・ルター」と同様に、真のドイツ人魂を見た思いがする。
 当時のドイツは全体主義・軍国主義の本家本元である国家社会主義・ナチスに死を恐れず正々堂々と反対ののろしを上げた著者がいたことに心から驚かされた。同じ様な状況の当時の日本で、反戦運動し特高に逮捕そして処罰された若者がいた話などついぞ聞いたことがない。ドイツにはキリスト教精神のベースがある為なのか?個人主義が確立している為なのか?ドイツ社会は日本社会より成熟している為なのか?日本には勇気のある若者がいなかった為なのか?私は不思議で複雑な読後感に陥った。
「白バラは散らず」 インゲ・シェル著  内垣 啓一 訳 未来社刊(1,200円+税)



175回 名著探訪その6 「奥の細道」 ~芭蕉 苦悩の果て~         

 「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして(月日は永遠の旅人で)行かう年も又旅人也」で始まる「奥の細道」は紀行文学の最高傑作である。そして俳句を愛する人々にとって聖典の一つである。そこに詠み込まれた句は、座して閑吟する遊興の句ではなく、旅にあって苦吟する修行の句が大半を占め、俳聖芭蕉の魂の叫びであり、自身の創作の軌跡であり、俳諧師としての集大成と言える作品である。
 芭蕉と供に俳句を愛した若き主君が芭蕉が23歳の時に突然死去し、武士を捨てることへの苦悩、俳諧師として生きる為にステップアップする為の京都での苦悩の6年間、江戸へ出て俳諧宗匠として5指に入る名声を得たが、当時の宗匠の世界では、俳諧道の探求よりは、弟子の数を競い、人気を争う俗悪さに苦悩し、遂に37歳で俳諧宗匠の稼業を捨て、隠者の道を選んで深川に居を移した(現在でこそ俳句は文学の一つとして高く評価されているが、当時は金持ちの戯言のごとき遊芸、だんな芸の一つでしかなかった)。著名な俳諧宗匠であっても生活は苦しく、名声を得た後も神田上水工事の事務職を副業にしていた。引退を知り、かねてから伊賀出身の元武士であり文人芭蕉に注目していたお上は、早速スカウトに乗り出し、公儀隠密として地方へ出向いて情報収集してほしい、ついては今後の生活費と旅の経費はすべて当方が負担するとの条件に、願ったり叶ったり、これでいつでも自由に念願であった旅に出掛けられる、長年旅に憧れていた芭蕉は、以前「古人も多く旅に死せるあり」と書いた。頭にあった古人なる人物は「西行」であったろう。芭蕉が「西行」を大いに意識し、尊敬していたのは確かなところであり、「奥の細道」の中にも「西行」への言及がある。〈全昌寺・汐越の松〉の段で、汐越の松というものを見物したことを書き、いきなり「西行」の歌を引用する。
 「終宵嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松」
 ~西行言わく~
此一首にて教景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。つまり、汐越の松を描写するのに、この「西行」の歌があればすべて言い尽くしている。これに何か言葉を加えようとするのは、手に6本目の指を足すようなものであると言っている。
芭蕉の苛烈なまでの俳諧に対する求道精神を結果的に手助けしたお上の慧眼に感心させられる。江戸時代は天下泰平の世であったが、地方での情報収集はルティーンワークとして必須であり、芭蕉の様な文化人なら、その眼力、感性、分析力、表現力に期待したはずである。事実芭蕉の報告書にはうん~とうなり声をあげたくなる様な、的確な事実把握と秀逸な文章に、㊙扱いながら公表したい衝動に駆られたのではないだろうか。
当時の江戸庶民にとっての最大の憧れは旅に出ることである。しかし勝手気ままに旅することは出来ず、お伊勢参りとか神社仏閣への詣でを建前に通行手形を取得し、途中温泉で骨休めしたり、京都や大阪に出て芝居見物するなど大いに楽しんだ様である。しかしある庶民の日記によれば、3ヶ月の旅行費用は一年分の収入に相当するらしく、庶民にとっての長旅は一生に一度出来るか、否かであったろう。
以上の様な当時の状況からすれば、お上からの依頼は芭蕉にとって天にも昇る、或いは踊り出したい位の気持ちであったろう。事実芭蕉は41歳の時に初めて旅に出て、以降51歳で没するまでの10年間に、通計4年3ヶ月旅をしている。そして「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科日記」「幻住庵記」「嵯峨日記」そして「奥の細道」を著している(お上の支援なしではこれらの名作を今日我々は目にすることは出来なかったろう)。
「奥の細道」の旅は、1689年芭蕉45歳の時に弟子の曾良を伴って、実に5ヶ月に及ぶ長旅であった。当時の旅はワラジを履いて自身の足で歩く旅であり、1日15キロから50キロ歩いたと言うからすごい。街道や宿場が整備されているとは言えず、ところによっては野宿したり、道なき道やけもの道を進み、追いはぎ強盗、自然災害、食中毒等の病、常に危険と隣り合わせ、いや死と隣り合わせと言った方が良い、覚悟の上の旅だったであろう。
これでは「奥の細道」ももの悲しい、淋しい、「陰」の紀行文にならざるを得ない。海外の紀行文学の代表と言えるゲーテの「イタリア紀行」では、暗く寒いドイツから太陽の光いっぱいのイタリアへ来たゲーテは、イタリアの明るさ、陽気さ、人間の生命力に感動して、「陽」の紀行文を書いた。その違いに驚かされる。
 芭蕉は長旅から江戸に帰った。49歳の正月を久しぶりに江戸で迎えた。しかし今や俳諧の最高峰の名声を得た芭蕉は接客に追われ、その合間に執筆すると言う多忙な日々だった。「奥の細道」は最終的に脱稿、校正、清書にいたるまで5年かかった。文庫本にすれば50ページ足らずのものをまとめるのにそんなに時間がかかるはずがないが、芭蕉にとって「奥の細道」は特別の思い入れのある作品だったのであろう。事実紀行文、旅行ルポは当時もノンフィクション風に書くのが常識であったが、芭蕉はノンフィクション風に書いてはいるが、実は多分にフィクションを取り入れた文学作品にしようと試みた様だ。それは同行した曾良の克明な日記の発見により、芭蕉が江戸に帰ってどの部分をフィクションにしたかは、研究者により二人の文章の比較から明らかになった。
 1694年5月、芭蕉は「奥の細道」の清書を携えて故郷の伊賀を訪れた。9月に近江、京をまわって大阪に着いた時、病に倒れ、病状は日を追って悪化し、10月12日、多くの門弟に看取られ51年の生涯を閉じた。苦悩の末に自身の才能を開花させ、俳諧の王道を歩んだ人生だった。人並みな家庭を持つことは終生なかったが、多くの門人、門弟、俳句の愛好家の尊敬と愛に包まれた幸せな人生だったと言える。




174回 MOOCによる大学革命とバイリンガル

 今年の4月中頃から、ようやく日本でも東大や京大を中心としたオンライン無料大学講座が始まった。今秋には100大学300講座にまで規模が拡大される。もちろん日本人の為の日本語による講義である。そもそもオンライン無料大学講座はアメリカでは数年前より始まっており、受講者は現在1000万人を超えている。大学の講義をインターネットで無料配信し、宿題やテストを課して一定の成績を収めれば履修証が発行される教育モデル(Massive Open Online Couse 大規模公開オンライン講座)が世界的に広がりを見せている。
 MOOCはスタンフォード大学やマサチューセッツ工科大学など超有名アメリカ大学で生まれた。MOOCは大学を卒業した社会人の学び直し及びキャリアアップに活用されている。時には一般人の生涯学習や高校生の進学大学決定に利用されている。そして大学当局の主たる目的は優秀な学生の獲得にある。インターネット環境が整い、パソコンやタブレット端末があればそれこそ世界中で、スタンフォード、ハーバード、MIT、東大、北京大などのスター教授の最高の授業が無料でいつでも、どこでも、繰り返し受講出来る。何んとも有益で非常に利便性の高い、まさにインターネットの現代社会に必然的に生まれたのがMOOCである。
 MOOCの根底にあるのは学問の崇高なる目的「世の為、人の為、そして自分の為」そのものである。そして「あまねく高等教育に触れるチャンスを」と言う理念で、地域や経済的制約のある特に途上国の若者や、学びの現場から離れていた主婦や高齢者にも教育の機会を提供する。更には寝たきりの生活を余儀なくされている人々でも「智」の恩恵を受けることが可能だ。大学のイノベーションひいては大学革命につながる可能性すらある。例えば大学の中には正式な単位として認定しようと言う動きすらあり、既存の大学教育のあり方に一石を投じている。更に一歩進んで、シンガポール国立大学の副学長は以下の様に述べている。「自校における教育の質を高めること、それがMOOCに参加する本質的な狙いだ」と。更には「大人数での座学となる講義などはオンライン講義に任せ、教員と学生との議論や1対1の指導など、直接的な対話に大きな時間を割く。つまりオックスフォード大学で行われている様なチュートリアル形式(学生が自身で勉強する為に教員は指針を示しアドバイスする)にし、キャンパスでは対面教育の強みを最大限に引き出したい」と。以上の様に高い授業料を取る大学は自らの付加価値を再検討する必要性に迫られている。
 一方MOOCの台頭に警戒心が出て来ているのも事実である。ネットの力で大学の垣根が取り払われる「オープン化」によって、教える側の能力が問われて既得権益が脅かされるからだ。下位の大学ではMOOCを実際の講義として導入することにより、一流の有名教授による質の高い授業を受ける訳だから、科目が競合する自校の教授陣から拒否反応が強い。もちろん能力差が白日のもとにさらされる訳だから。下位校の学部や大学そのものの存立さえ危なくなり、少子高齢化もあり、結果資本主義の原則どおり淘汰が進み、本当に必要とされる大学のみが生き残れることになる。
営利企業としてMOOCを運営する「コーセラ」「エディックス」両者の場合、サーバーに蓄積されている受講者の成績一覧を求人企業に見せて人材紹介することを収入源の1つとして有望視している。例えばコンピュータープログラミングの成績上位者にはかなりの高給で企業からのオファーが来ている。
 以上の様に英語能力がネーティブと遜色ない能力を持った外国人(もちろん日本人も)にとっては何んともありがたい世の中になったが、私は日本人1億2千万人(18才から60才までの人口は7千万人位か)の内、いったい何人がこの制度の恩恵を受けられるか想像しただけで身震いしている。もちろん私の劣悪な英語力では英語による講義などとても理解出来ない(3%理解するのがやっとだろう)。更に教授に質問しディスカッションするなんて夢のまた夢と言わざるを得ない。日本人で可能な人は何%か。いや0.000何%なのか。多分20万~50万人程度か。あとの成人のほとんどは英語のインターネットによる智の恩恵にあずかれない。誰がこんな日本にしたんだ。文科省か。高等教育機関か。それとも我々日本人の資質なのか?一般的に日本語と英語の周波数・文法の違いから、日本語と英語は世界中の言語の中で最も離れた位置関係にあり、その結果日本人のバイリンガルは成立が難しいと言われている。その上日本国内に住んでいれば英語の必要性は乏しい。また日本人特有の引っ込み思案などすべてが複雑に絡み合って影響している様だ。一般論として言語は個々人のルーツ、アイデンティティーそしてバッググランドを映し出すもので、それは日本語でも他言語でも何んら変わらないと言われている。従ってMother Language つまり母国語(世界共通でこの世で一番大切なのは母親であり、そして最も頼りになる言語)の確立が絶対必要だと言われている。つまり正しい日本語を話し、日本人として必要な知識とその他幅広い教養の知得がバイリンガルへの第1歩と言われている。私はとてもとてもバイリンガルにもなれそうにないが、優秀な若い日本人にはコミュニケーションツールとしての英語の必要性を認識して、是非バイリンガルにも国際人にも頑張ってなってほしいものだ。




173回「生命のルーツ・起源」

 4月9日(水)にSTAP細胞の論文を巡る問題で、理化学研究所の小保方ユニットリーダーの釈明会見の放映を見たが、論文(データ)の捏造や改竄との調査委員会の認定に自身は「不勉強、未熟さゆえに疑念を生み、深く反省しております」と謝罪していた。
科学者(サイエンティスト)として科学的真実の追究と証明を行う立場の人間が、データの捏造、改竄したのでは科学者としてのイロハのイの字も知らないただの人、つまり科学者としては不適格者と自ら語っている様なもので、失望を禁じ得なかった。一般人の情に訴えて何んとか自身の窮地を脱しようとした試みは、科学の厳正中立さのもとではまったく無意味と言わざるを得ない。ただ「STAP細胞」を200回以上作製したと述べ、研究は真実との主張に、一刻も早くSTAP細胞を実際に作製(自他を問わず)し、存在を証明出来れば大逆転もあり得る。一方それが叶わない場合には希世の詐欺師として日本の科学史に名を残すことになる。
 さて近年ips細胞・ES細胞などを使用した再生医療が進歩し注目を集め、まさに神の領域にせまる勢いの様に見えるが、肝心要の「生命のルーツ・起源」はまったく解明されていない状態だ。地球が46億年前に誕生し、それから少なくとも10億年後には、すでに複数の生命が存在したと考えられている。つまり地球誕生から10億年の間に生命は生まれた。生命誕生の瞬間にいったいこの地球上で何が起こっていたのか、多くの科学者たちが生命史上最大の謎に挑んできた。その際にひとつの壁となっていたのが、生命の根幹をなす「DNA」がどの様に誕生したのかという問題である。じつはDNAをつくるにはタンパク質が必要だが、タンパク質をつくる為の情報は、DNAの中に存在するという矛盾がある。まさにニワトリが先か、タマゴが先かという問題と同じである。この問題に科学者たちは大いに頭を悩ませた。そしてこの矛盾を解消する説として登場したのが「RNAワールド仮説」である。
 この説によると地球上に最初に登場した遺伝物質は「DNA」ではなくて「RNA」だったと推測した。「RNA」とはリボ核酸ともいわれ、DNAによく似た性質を持つ。その中でもリボザイムと呼ばれるRNAは、たんぱく質のような化学反応を促進させる働きもする。つまり現在のDNAとたんぱく質の役割を両方持っているというわけだ。この「リボザイム」がやがてたんぱく質を、そしてDNAをつくり出したのではないかと考えられている。
 だが「RNAワールド仮説」にも疑問は残る。DNAの場合と同様にRNAがどの様にして誕生したのか、という問題が残る。RNAの様な複雑な遺伝子が自然に誕生したとは考えにくい。実際に偶然RNAの材料が誕生し、そこからRNAがつくられたとしても、生命誕生時のたんぱく質の酵素が存在しない状況では、そのRNAは期待されるものと異なり、遺伝情報をつくることはできないことが実験でわかっている。
 もう一方の有力説は奈良女子大学の池原健二教授の提唱する「たんぱく質ワールド仮説」だ。この説によるとDNAやRNAより先に「たんぱく質」が誕生したとしている。たんぱく質はDNAがなくても、ごく単純な構造のものであればつくることが出来、生命の誕生にはこの「単純なたんぱく質」で十分だったのではないかという説である。
 以上のごとく「生命のルーツ・起源」を我々人類は解明出来ていない。生命の神秘と深遠さに驚嘆させられる。「すべては神の創造物なり」との言葉の重みがひしひし感じさせられる。



172回  良書探訪 その5「わが魂を聖地に埋めよ」  アメリカ・インディアン闘争史 ディー・ブラウン 著   

 原著は1970年にアメリカで出版され約2年間ノンフィクション部門でベストセラー第1位を続けた。当時のアメリカはベトナムで戦っており、ベトナムのソンミ村での米軍による大虐殺を連想させ、アメリカ先住民(以降インディアンと記述)の血と涙の史実に多くのアメリカ人の心に響いたのが、ベストセラーの原因となったのだろう。
 本書は2013年に出版された復刻版である。インディアンの側から書かれた、19世紀後半のアメリカ西部史である。フロンティア・スピリットの美名の元で繰り広げられた西部開拓は、インディアンからの土地の収奪の為にシャイアン、アパッチ、スー、コマンチ等の諸部族への虐殺、殲滅に他ならなかった。アメリカのギャング映画のテーマとしてたびたび描かれている「皆殺しのバラード」そのものである。1860年から30年間で消滅した諸部族の余りにも痛ましい、おぞましい、更に理不尽さ無念さの中で死んで行ったインディアンの悲痛な叫びが聞こえる様な歴史を詳細に描いた良書である。
 インディアンはヨーロッパからの新移民と自然豊かなアメリカの大地で、共存、共生しようと言うピュアーな性格が、結果的には自身の消滅につながった。インディアンの諸部族は合衆国と幾度となく条約を結び、その都度大幅な譲歩を強いられ、騙されながらも、アメリカの大地で何んとか生き延び様としたが、合衆国の代理人の将軍を始めとする軍人達にとって、条約は一時的にインディアンを懐柔し、安心させておいて急襲して虐殺、殲滅する為の方便に他ならず、条約を順守する気持ちなど最初からサラサラなかった。
 圧倒的な兵力と火力の合衆国の軍隊と対峙しても一歩も引かず、ひるまず、堂々とウォリアー(戦士)として誇りを持って激しく戦い、抵抗し、降伏することなく最後の一人になっても戦い続けたインディアン達に、私は涙を押さえることが出来なかった。
 新移民達はヨーロッパの母国でカソリック教徒達との宗教戦争を戦い、あるいは迫害を受けたプロテスタント達と北アイルランドでは逆にプロテスタント達に迫害を受けたカソリック教徒(ケネディー大統領の祖先も)にとって、非白人の異教徒のインディアンはいくら殺害しようと宗教的に褒められこそすれ、罪の意識など露ほどもなく、自分達の西部開拓に不要なインディアン(動物と同程度に考えていた)を排除(殺害)したと言う程度の感覚であったのだろう。私はアメリカ人の心の深層に潜む宗教的純粋さを持った「深謀遠慮」に戸惑いを覚え、恐れるものである。
 原題“BURY MY HEART AT WOUNDED KNEE”及び邦題「わが魂を聖地に埋めよ」は「我々先住民であるインディアン(戦士)は白人によって殺害されようとも、アメリカの大地と共に永遠に生き続けると言う魂の叫びである」と思えてならない。

「わが魂を聖地に埋めよ」上下巻 定価1000円+税
2013年2月8日 第1刷発行
著 者 ディー・ブラウン  訳 鈴木 主税
発行所 草思社



171回
 歴史教科書の変化その1  「人類の誕生とそのルーツ」   炭谷 亮一

 アメリカの大学の研究チームは3月17日に南極に設置した電波望遠鏡による観測で、宇宙誕生直後の急膨張(30年前に提唱した佐藤勝彦博士のインフレーション理論)の際に生じる「さざ波」つまり「原始重力波」と呼ばれる波の痕跡を捉えたと発表した。これにより宇宙誕生の瞬間により迫れるものとして期待されている。そして2~3年前まで宇宙の誕生は137億年前とされていた。ところが私の知る限りでは、ここ1年前から更に1億年古く、138億年が定説となった。つまり宇宙の誕生ですら研究・検証により時期の変更を余儀なくされた。人類の歴史の研究・検証も同じ様に進歩し、人類の誕生(起源)についても約400万年繰り上がって来ている。私が高校の頃の教科書を思い起こして見ると、多分220万年前のジャワ原人が最も古い原人の化石とされた。そして1924年アフリカで発見された300万年前から250万年前の化石「アウストラロピテクス・アフリカヌス」が最古の「猿人」とされていた。
2000年に21世紀の大発見があった。中央アフリカのチャドで700万年前から600万年前とされる「サヘラントロプス・チャデンシス」が発見されている。その頭骨はほぼ完全で、脳の大きさはほぼチンパンジーと似ていた様である。この化石の発見は更に大きな変化を学説に強いるものだった。発見場所がアフリカ東部ではなく中央部で、最初の頃の人類の発祥が草原ではなく森林だった可能性が高くなった(木の上で生活)。そして220万年前に原人が出現し、更に60万年前に旧人(ネアンデルタール)、そして20万年前に新人(ホモ・サピエンス)が誕生したとされている。猿人は地球環境の変化により、食糧の確保の必要性から、直立二足歩行で森林から草原に進出し、新たな食物として肉を食する様になった。これにより脳の容量が大きくなった。原人になると知恵が付くことで更に効率よく肉を獲得する手段として、道具(石器)を用いる様になり、更に脳の容量が増加していったのではないかと考えられている。
旧来、人類学は人骨などの土の中から発見されたものを中心に研究が進められて来た。ところが対象となる化石などが見つからないとそこから先は研究が進まなかった。科学の進歩により1980年代後半より、DNAの分析技術が発達して現生人類のミトコンドリアDNAの変異を遡ることで、最も近い共通の女系祖先を特定出来る様になった。アフリカ人のミトコンドリアDNAの多様性が最も大きいことが明らかになった。実は突然変異は一定の確率で起こり、年月と共に集団内に蓄積される。従って変異をたくさん持つ集団(アフリカ人)は長い歴史を持ち、少ない集団は比較的新しい時代に誕生したと考えられる。これらの事実をアラン・ウィルソン博士が発見し、更に大がかりに世界中の人を対象にミトコンドリアDNAの分析を開始した。
ところで遺伝子といってもその種類は多数ある。その中でなぜせ先祖に遡る時にミトコンドリアDNAが用いられるか、そこにはいくつかの理由がある。私達は両親2人から生まれ、祖父母は4人、曽祖父母は8人・・・・・と代を遡れば、単純計算で20代遡れば、先祖の数は100万人を超えてしまう。先祖100万人のDNAの中には自分に受け継がれていないDNAも存在する。ところがDNAの中に確実に子孫に引き継がれるものがある。それがミトコンドリアDNAである。とはいえ、これは母親から子供に引き継がれるので(女系に)、この母親が息子しか産まなかった場合には、このミトコンドリアDNAは息子から先の代には引き継がれない。つまりミトコンドリアDNAは母から女の子供に確実に引き継がれる。従ってミトコンドリアDNAを遡れば女性の共通祖先に行き着くことが出来る。それゆえルーツ探しのツールとしてミトコンドリアDNAが用いられる。
そしてミトコンドリアDNAを辿ると、初期の人類でたった1人の女性に行き当たる。この女性を起源として後に世界中の人々が持つ、様々なミトコンドリアDNAのタイプを生み出したのだ。そして初期の人類にはこの1人のタイプ以外にミトコンドリアDNAタイプはあったのだが、それらは現在まで子孫を残すことなく歴史の中で消えていった。このただ1人の人こそが「ミトコンドリアイブ」と名付けられた女性である。「ミトコンドリアイブ」というセンセーショナルな呼称の為か、誤解を招くことが起こる。と言うのは共通の祖先が生活していた時代、人類は世界でたった一対の男女しかいなかったのではないかと思われることが常である。実際はそうではなく、当時アフリカ中央部には既に数千人から数万人の集団があったと考えられており、中央アフリカこそが「エデンの園」だったのだろう。その中には「ミトコンドリアイブ」ではない他の女性はもちろん多数いた。そして歴史の中でその他の女性のミトコンドリアDNAのタイプは消えて行った。子孫をつくれなかったか、あるいは男の子しか生まれなかったといった事情が原因である。
ここで忘れてはならないのが「ミトコンドリアイブ」というのはミトコンドリアDNAを遡って行き着いた結果である。同様にY染色体を遡ればY染色体の共通の祖先に行き着くし、血液型や髪の毛の遺伝子でも同じことが言える。ミトコンドリアDNAの研究が進み、人類はアフリカで生まれ、そこから世界に旅立っていったことがわかった。少し前まではその地域ごとに原人・旧人が進化して新人(ホモ・サピエンス)が生まれたと考えられていた。例えば現在の中国人は北京原人が進化して中国人になったのではないかとの説もあったが、アフリカから旅立った新人(ホモ・サピエンス)がユーラシア大陸そして東アジアへとたどり着いて現在の中国人へと進化していった。我々の歴史の中で黄色人、黒人、白人種があり、つい最近まで人種の優劣に関する偏見があったが全くナンセンスであり、ほんの数万年前までは皆色の黒いアフリカ人だった。生活環境の違いによって変化・進化していっただけなのである。人類の元は皆同じである。
現在教科書の記述は改訂されつつある。今風に言えば我々は「人類の誕生」についての歴史認識(私は歴史の真実とか歴史的事実の方が適切と思うが)を大きく変える必要がある。



 

170回 古代史探訪その6  知事偽造公印と「漢委奴國王」の金印  

 

 先日北國新聞社主催の「第70回北國写真展」で、事務局が富山県知事賞を出すのに知事公印を偽造し賞状を送っていたことが判明した。どうやら私の見るところ、昔から今日に至るまで公印の偽造はたびたび行われている様である。知事公印偽造の目的はたしかに存在した。

 さて本題の「漢委奴國王」の5文字の印は教科書に弥生時代の実物の写真とともに表記されている。この国宝の「金印」に関して、「後漢書」東夷伝の中で、倭奴国(福岡県地方にあった)からの朝貢の使者に「光武帝」が印綬(金印とは書かれていない)を贈ったとする記述があった。

 さてこの「金印」は江戸時代1784年に福岡県(当時は黒田藩)の志賀島で発見された。「金印」は島の農民甚平衛が田の側溝を削っていた際に発見した様だ。約1700年の時を経て「金印」が発見されるなんて、何んて素晴らしい古代の発見なのかと、高校生であった私は教科書の記述に限りない時空のロマンを感じたものだった。今日の私は年齢を重ね、少しは世の中のことも分かり、素直に信ずることは出来ず、むしろ上記は嘘っぱち、偽造、贋作、真っ赤なニセモノ説を支持している。その理由をこれから検証の中で指摘してみよう。

 まず単純に考えてこの様に貴重な「光武帝」から下賜された「金印」が、なぜ田の中から発見されたかと言う問題が存在する。「金印」の多くは中国や朝鮮で盗掘を逃れた古墳から発見されるケースがほとんどで、日本の様に大切に扱われず放棄された様な状況での発見は珍しい。従って1人の農民が田の中から発見したなど全くのウソだと思う。事実甚平衛なる人物は調査しても確認出来ない。虚偽と考えてよい。

中国漢代において皇帝が、国内外の朝貢者等に与える「印綬」に一定の基準つまり「印制」があった。諸侯には黄金で「らくだ」のつまみの付いた2.3×2.3×2.3㎝の「金印」、ただし列侯のつまみは「亀」、将軍のつまみは「虎」、蛮夷(もちろん日本も含まれる)のつまみは「蛇」であった。皇帝から高句麗へ下賜された王印はみな全て「銅印」であった。従って蛮夷である「倭国」に下賜された「金印」など存在するはずがなく、偶然が重なり何兆分の一の確率で発見された「漢委奴國王」の印は本当は銅製でなくてはならない。

あの日清戦争の清時代の中国の学者、楊守敬が著した「漢委奴國印考」の中で、当時の後漢は倭をもって東方の大国と見なし他の蛮夷と同等視せず、倭の印材を諸侯並みに黄金とし、つまみだけ蛇にして諸侯印と区別した為だと弁明しているが、約1800年前の事柄を清時代になってわざわざ弁明するのは不自然で、日本側のどうしても金印の証拠固めや理論武装したい人々の依頼で、虚偽の論文を金銭を得て書いたと見るのが妥当である。

さてここから肝心要の本論に入ろう。金印は発見直後から明治に入ってからも、又戦前の国宝指定時にも、更には戦後の国宝の再検証時にもたびたび贋作説が囁かれ、明解に贋作と主張する専門家(審査員)の存在があった。しかし実はダレが何の為に贋作作りをしたのか目的、動機(モチベーション)が判明しなかった。つまり売買目的ではなさそうだし、それ以外に考えられるのは、今日時々ある「愉快犯」があるが、豊かでない江戸時代にダレが手間暇かけて大金まで使ってどんなメリットがあるのだと言う意見が大勢を占め、金印は真作であり現在では国宝たるもの一切疑ってはならぬと言う風潮すら感じられる。

2006年三浦佑之千葉大教授(当時)が著作「金印偽造事件」(幻冬舎)の中で、贋作作りの目的、動機を見事解明した。三浦教授は金印発見当時の周辺調査を詳細に行った結果、第1発見者の農民甚平衛(架空)が知人の福岡の豪商、米屋才蔵に鑑定依頼したところ大変重要なものだと分かり、その噂を聞いた庄屋から役所に提出せよと厳命され、郡奉行の津田源次郎に差し出した。この金印を当時黒田藩の儒学者で藩校・甘堂館の館主だった亀井南冥が鑑定した結果、光武帝から下賜された金印と断定した。ところが三浦教授は当時の文献や書簡等から米屋才蔵、郡奉行の津田源次郎そして藩校館主の亀井南冥の三人は親しい間柄で、当時黒田藩は東西に「修獣館」と「甘堂館」を同時に二校開校したばかりであり、「甘堂館」の館主として上記の亀井南冥が民間から登用された。もちろん二者の藩校間ですさまじいライバル意識が存在したことは容易に想像出来る。そこで三者は計ってライバル「修獣館」を出し抜き、亀井南冥の名声を上げる為「金印」を偽造し、本物に見せかけ、その上三者三様に利益になると考察し、論理を展開している。

この説を補完する「印」面の研究が存在する。2011年“「漢委奴國王」金印・誕生時空論”(雄山閣)鈴木勉著(工芸文化研究所・早大客員研究員)が出版されており、その中で「金印」をモノとして研究し、今まで誰も証明して来なかった、つまり“いつ”“どこで”“どの様な技術で作られたのか”論証を試みている。その中で1980年に中国で決定的な発見があった。それは西暦58年に光武帝の子に贈られた「廣陵王壐」と言う、西暦57年に作られた「漢委奴國王」とそっくりの金印が発見された。しかも同一工房での作成に違いないとされ、これにより「漢委奴國王」の金印も本物に間違いないと断定され、教科書にも事実として記載されることになった。しかし鈴木氏の検証の結果、今まで同一工房で作られたとされていたが、「廣陵王壐」の印面は新しい線彫りであり、「漢委奴國王」の方は伝統的なさらい彫りであり、同時期の同一工房の作品とはとても言えない程、技術的な違いがあると検証している。更には「漢委奴國王」の金印の技法はむしろ江戸時代の印章との近似性が強いと主張している。

私なりの考察だが、亀井南冥一派の試みは当時からも現在でも見事成功したかに見える。そして蛮夷の倭国への印は「銅印」が原則であることは重々承知していたが、「金印」と「銅印」では世間に与えるインパクトが違う、どうせやるなら「金印」にしよう、世の中の大半の無知文盲の連中には解りやしない、まぁバレたところで「誰がこんなバカをやったんでしょうね?」ととぼけりゃそれでおしまい、と考えていたと思う。そして今でも墓場の陰で三人ともニンマリしている。私としては文科省に注文をつけたい。せめて国宝だけでも疑惑の案件には更なる再調査、検証が必要と思うが、いかに?                   

 

 

 

169回 「喜多川歌麿の悲劇」       

 先日喜多川歌麿の肉筆画の大作、雪・月・花三部作の内「深川の雪」が日本で発見されたとの報道があった。世紀の発見とも言われており、箱根の岡田美術館に収蔵されることとなった。今春公開予定だそうだ。

 この三部作はパリでのジャポニスムによって明治20年に流出しており、その後「品川の月」はワシントンD.Cのフェーリア美術館に収蔵され、もう一方の「吉原の花」はコネティカット州の公立美術館に収蔵された。残る「深川の雪」が行方不明であったが、最近日本の美術商のルートで発見

された。

 テレビ映像で見たが、縦199㎝、横341㎝の大変大きな掛け軸になっており、20数名の遊女の思い思いのポーズを描写した、歌麿の持つ「女を描かせりゃオイラの右に出る者はいやしねえよ!!」と言うセリフが飛び出してきそうな位、個々人の女性美を自由に伸び伸びと描いている。最高傑作と

言える。

 寛政の改革で節約・倹約・ケチケチの世で、よくこれだけ佳麗、優美、艶やかな肉筆画が描けたものだと感心した。歌麿はどうやら江戸を離れ、栃木の富豪のパトロンの元で思う存分、筆をふるった様である。江戸を離れれば監視などないに等しく、浮世絵師歌麿にとって絵の製作だけに没頭出来

た、ひょっとして一生で一番幸せなひとときであったかも知れない。

 歌麿は浮世絵師としては、必ずしも恵まれた流派の出身と言うわけではない。自身の豊かな才能と、蔦谷重三郎と言う優れた版元の支持を得て、当時は浮世絵の黄金期と言われており、その頂点に立ち、今日世界的に有名な絵師、そして美人画の巨匠と言われている。

 1790年、過去帳では「理清信女」と記される、歌麿にごく近しい女性がこの世を去った。この女性は歌麿の母とも、あるいは妻とも言われている。ただ、曲亭馬琴によると、歌麿には妻も子もないという証言などもあって、今の時点ではどちらとも断言出来ない様だ。ともかくもこの女性の死は、歌麿の人生にとって重要な出来事で、これが契機となるかの様に「美人大首絵」を発表した。江戸っ子たちはびっくり、生身の女性をこんなに活き活きとクローズアップで描いた「美人大首絵」は前代未聞だった。現代のブロマイドの様な存在であったろう。歌麿にとって大切な、大切な「女」への思慕・挽歌として筆が「美人大百絵」に導いたのであろう。美人画を描くことは歌麿の心の叫びであり、発露であったろう。

 歌麿が活躍した時期は、寛政の改革の一環で、浮世絵の彫の細かさや摺りの色数に至るまで厳しい制限が課せられていた。

 そこで歌麿は、それを逆手にとって、限られた描線と色数で版画独特の美を発展させ、美人画の筆頭絵師として、浮世絵の黄金期を支える存在となる。売れっ子なるが由に、晩年は乱作・多作を重ね格調を失ったという見方もあるが、一方、社会が求めた退廃的な画風は成熟の証だとする見方もある。あの有名な「フェノロサ」は歌麿を以下の様に評している。「1787年頃に版行された清長風の歌麿作品は疑いもなく最も美麗なものである。だが次の10年で歌麿は時の放縦に身を任せ、自分の気まぐれな空想にいっそう適した機会を見出した。奇妙なことに、歌麿は今や世俗に生きる長い顔をした俗悪な人種を創造したが、彼は現代フランス美術の退廃的な画面の先駆者であり、そのある部分のきっかけをつくったことは確かだ。歌麿はパリの時の人である」と述べている。

 1804年にこなしきれないほど仕事に追われていた歌麿に、大きな衝撃を与える事件が起きた。歌麿は当時禁止されていた、武家を実名で扱う御法度に抵触し検挙された(豊臣秀吉の絵画他の咎)。

 当代随一の売れっ子であった歌麿は当局の見せしめの意図もあってか、取り調べ中入牢、刑は手鎖50日という厳しい裁きを受けた。そろそろ老いの時を迎えつつあった歌麿に、この事件は相当なダメージを与えた様である。後世の書には、刑による心労で弱り果てた歌麿に、彼の死期が近いことを悟った版元たちが殺到して、山ほどの仕事を依頼した、とあるがあながちあり得ないことでもないだろう。ともかくこの事件が歌麿の早い死と無関係ではないことを示唆する証言がある。

 曲亭馬琴の随筆「伊波伝毛乃記」の中で、当該事件を記述した項に、「歌麿も出牢せしが、其明年(実際は翌々年)に歿したり・・・・・」とある部分が、そっけない表現ながらも、言外に両者の因果関係をほのめかしている様である。

 事件から2年後、歌麿はこの世を去った。享年53歳とも、あるいは54歳とも言われている。想像するに、あと歌麿に10年絵筆をとらせることが出来たなら、「女性美」の更に奥深い内面をえぐり出し、表現し得たと思う。

 悲劇の絵師、歌麿に深く追悼の意を表したい。

 

 

 

168回 ソチ五輪とウクライナ政権崩壊   

 ソチオリンピックは223日(日)に閉幕した。主催国ロシアは見事トップの13個の金メダルを獲得し、面目を保った格好だ。ソチ五輪では選手たち以上にプーチン大統領が目立った。応援するプーチン、メダリストと写真に納まるプーチン、愛想を振りまくプーチンの映像が連日、世界に配信された。過去すべての冬季五輪の合計費用を超える500億ドル(5兆円)もの巨費を投じてプーチンが目指したのは、国際社会におけるロシアの威信回復だ。自国を世界にPRするのに、オリンピックに勝る機会はない。ソチ五輪の開会式に参列した世界の首脳の内、完全なる民主国家の首脳は安倍首相とフランスのオランド大統領位なもので(他の民主国家の首脳はロシアの人権問題を理由に欠席)、その他は不完全な民主国家の首脳たちと独裁者たちであった。

 五輪の前段でのロシア国内での聖火リレーで、たびたび聖火が消え、役員が慌ててライターで再点火するシーンやイスラム過激派の五輪中でのテロ宣言に大丈夫なのかと心配したが、オリンピック史上かつてない程の警備もあり、テロの発生もなく成功裡に終了した。オリンピック関係者そしてプーチンもほっとしたことだろう。好事魔多しとでも言おうか、昨年11月から親欧州派と親ロシア派のヤヌコビッチ政権との対立は首都キエフで頂点に達し、80人余りの死者を出す大騒乱状態に陥ったが、五輪閉幕の222日にプーチンが強烈に支援し、傀儡に近かったヤヌコビッチ、ウクライナの政権は崩壊し、親欧州派が実権を握った。

 プーチンがオリンピックに浮かれている間に鬼のいぬ間にとばかり、EUやアメリカの支援を受けたウクライナ野党欧州派が、ヤヌコビッチ政権を打倒してしまった。おそらくプーチンは腹の中は煮えくり返り、切歯扼腕し、地団駄踏んで悔しがったに違いない。そして頭をかかえ、オリンピックなんかにうつつを抜かした俺が悪い、この世は油断も隙もないと嘆いたであろう。実際13個の金メダルと4,500万人のウクライナを交換した様なものだ。今後ウクライナ東部と南部は親ロシア、西部は親欧州と分かれており、国家の分裂内乱の危険性すらあるが、親欧州派の3野党とヤヌコビッチ政権を支えた「地域党」も加わった国家運営を担う暫定連立政府が25日樹立された。ヤヌコビッチ政権と言う傀儡を失ったプーチンは対抗策として、昨年約束したウクライナへの150億ドルの財政支援のうち、既に実施済みの30億ドル以外については延期することを決定した。又、ウクライナへ天然ガス未払い(約2,700億円)猶予の停止、ウクライナにとって最大の貿易国であるロシアは、ウクライナ産品への関税の減免措置を見直すことを示唆している。

 以上、経済的に締め付けを図ろうとしているが、EUは日米にもウクライナへの金融支援を打診して来ており、民主主義と言う共通項のある国々それぞれ何んらかの形で支援を行えば、ウクライナはEU加盟に舵をきり、プーチンと言えどもギブアップせざるを得ない。世界の多くのマスメディアはソチオリンピックが独裁者プーチンにとってピークであり、オリンピック後は下り坂になるだろうと予想している。なぜなら昨年の経済成長はわずか1.3%、アメリカのシェール革命によってオイルもガスも価格の低迷が続く上、国内にろくな成長産業もなく、又育成もして来なかったプーチンにとって、このまま天然資源に依存した経済運営を続けるなら、ロシア経済はソチ五輪を準備した7年間がピークだったと言うことになりかねない。旧ロシアのピョートル大帝に憧れ、強くマッチョな指導者を演出して見せたプーチンも、今後のロシア経済の低迷と更なる国際的地位の低下に苦しむことになるだろう(安倍チャン、いよいよ北方領土返還交渉のチャンス到来だよ!!

 プーチンとプーチンを熱烈に支持するロシア国民は昔の強いロシアが復活しつつあると考えている様だが、そのうち5060年前の様にアメリカと世界を二分する程の大国に決して戻れないことを思い知ることになるだろう。現在61歳まだまだ若い、そしてプーチン政権は憲法上2024年まで存続可能だが、著しく経済が悪化すれば途中の退陣も十分考えられる状況となって来た。

 最後にウクライナ政権崩壊は、EUとアメリカそしてウクライナの反政府勢力による、オリンピックを利用したデキレースに思えてならない。

 

 

 

167   名著探訪その5 「平家物語」        炭谷 亮一

 約15年前に石川県立能楽堂で、友好クラブである世田谷中央RCの橘会員がプロデュースした「平家物語」を聞く会が催された。当日は女優の「若村麻由美」が平安時代の衣裳を身にまとい、感情を込め(もちろん台本など一切見ないで)休憩を挟んで約2時間近く、よどみなく語った。途中、笛と尺八のもの悲しい音色とのコラボもあって、我々観客に「諸行無常」と「滅びゆく者達」への哀愁と美を強く意識させるものであった。直後にこんな長い物語を暗記し、よどみなく語った「若村麻由美」に感嘆し、彼女の女優としての力量を認識させられた。

 さて最近知ったことだが、「平家物語」の特徴は「源氏物語」や「枕草子」の様な和文ではなく、「和漢混淆文」で書かれており、「和漢混淆文」は日本古来の大和言葉に漢語を交ぜた文体のことで、その特徴は非常にリズミカルで、暗記しやすくかつ長く記憶に留めることが出来る。又読みやすく、しゃべりやすい文体であり、同時に聞き取りやすいと伝播、伝承にはいいことずくめである。さてここで誰が何んの為に「平家物語」を書いたか、その背景について最新の研究をもとに検証してみた。

 「平家にあらずんば人にあらず」と栄華を誇った平家一門は壇ノ浦で源氏に滅ぼされ、幼い安徳天皇までも平家滅亡に殉じた。平家一門は完全消滅した。当時の人々は大変驚き、平家一門の怨霊に脅えた。“祟りじゃ!!祟りが恐い!!”と。そこで平家一門の怨霊を鎮魂する必要があった。ところが勝った側の源氏は「侍に怨霊なし」との有名な格言通り、知らぬ存ぜぬ平気の平左で、一向に鎮魂を行う気配がなかった。当然である。武士たるもの、命のやり取りは当たり前で常に体を張って殺し合いをしており、相手を殺したからと言って怨霊など恐れていたのでは、商売にならないと言う理由であったろう。

 ところが貴族階級は、みな怨霊信仰の信者であった為、様子を見ていた貴族達は源氏が鎮魂をやらぬと言うなら我々が代わってやらなければ、平家一門の大怨霊がこの世にそして我が身にどんな大災難を及ぼすかも知れないと恐れ、源氏に代わってやったのが「平家物語」を書くきっかけであり、平家一門の栄枯盛衰、波乱万丈そして滅びゆくものの美と悲しみ、諸行無常をノンフィクション風に書いて追悼し鎮魂を試みた。

 それでは一体誰が命じ、誰が書いたか検証して見た。

それから百年後に書かれたあの有名な吉田兼好作「徒然草」の中に「信濃前司行長」が書き、「生仏」と言う盲目に教えて語らせたとあり、更に天台宗総本山である比叡山延暦寺の座主であった「慈円」大僧正が「行長」のスポンサーとなって「平家物語」執筆を援助していたと記されていた。「慈円」の実兄は関白九条(藤原)兼実であり、かつ「行長」は仕えていた。近年の研究で、行長は実在の人物であることがわかった。「信濃前司行長」の正体は「藤原行長」であり、当時権勢を誇った藤原氏は余りにも藤原姓が多くなり、例えば五摂家すべて藤原姓の為、一条、二条、九条、近衛、鷹司と名乗った。おそらく命令は関白九条兼実より実弟「慈円」、家来「行長」に出されたと考えるのが妥当だろう。そこで慈円は自身が書いた「愚管抄」の中で、「この世の乱れはすべて怨霊が原因だ」と書いている。つまり、彼は怨霊信仰の信者である為、貴族階級のみならず世の多くの人々の思いを汲み、世の安定と平穏を願って平家一門の怨霊鎮魂と言う、一大プロジェクトのプロデュースを引き受けたのだと思う。そこで考えたことは上流階級だけでなく、多数派の一般庶民をも巻き込んだ大鎮魂がふさわしいし、是非必要と考えたのであろう。しかし書物による流布では一部の上流階級だけに終わってしまう、何んとか一般庶民にまで広げる方法はと考えた結果、リズミカルな文章で弾き語りならば、無学文盲の庶民でも聴くことが出来、おぼろげながらでも「平家物語」を知り、鎮魂の気持ちを分かち合えればと考えたのであろう。そして以上を「行長」に対して指示し、「行長」は格調高い名文を綴った。

 当時は娯楽と呼べる様なものがなかった時代である。盲目の琵琶法師が町の広場で「ベンベン」と琵琶を奏でるだけで、庶民が何んだ何んだと集まって来て、弾き語りに瞬く間に黒だかりの人の山となったことは容易に想像出来る。そして「平家物語」は爆発的に庶民の間に普及して行った。今日で言えば、ギターを片手にしたフォークソングやロックのストリート・コンサートの様なものではなかったかと思う。庶民が楽しげに格調高い「平家物語」に聞き入る姿を想像すると、慈円の発想力に敬嘆させられる。「生仏の琵琶法師」は人のいる所ならどこへでも出掛けて「ベンベン」とやったのであろう。又、リピートの要請も多かった為、多忙を極め、「生仏の琵琶法師」一人では需要に追いつけず、慈円は慌てて何人もいや何百人ものインスタント琵琶法師を養成し、全国各地津々浦々に送り出した(14世紀の中頃には琵琶法師たちは、興行権の保証を求めて当道座(組合)を結成した)。そして自身の目論見の大成功に、してやったりとにんまり微笑んだのではないだろうか。まぁ今日的に言えば、AKB48のプロデューサー秋元康の様な存在だと言える。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・・・」と「門前の小僧、習わぬ経を読む」との諺通りに、無学文盲の一般庶民が暗記し、口ずさむ姿に貴族達は驚き、これで平家一門の大鎮魂は成就したと安堵したことであろう。

 最後に「平家物語」は歴史書ではなく秀逸な文学作品である。

 

 

 

166  ちょっといい本その2 「逆説の経済学」三橋貴明 著     

 

 著者である三橋氏の直近56年間の国内外の実地経済に対する見解、主張、考察には注目に値するものがあり、何んとか日本経済をデフレから脱却を図り、更には日本経済の活性化策を自身の著書や講演会で精力的に大胆な氏の独自論を展開している。私はファンの一人である。

 本書「逆説の経済学」では、マスコミやいわゆるエコノミストと称する人々の主張の中には、実地経済の真実とは真逆であったり、歪められたり、更には荒唐無稽なものすら存在すると論破している。

 例1 テレビの解説で有名な「池上彰氏」は以下の様に主張している。

  ・主張 「日本のデフレは現役世代の人口減少のせいだ」

   真実は:「少子化はデフレの原因ではなく、結果である」

例2 小泉政権の経済担当相だった慶大教授「竹中平蔵氏」は以下の様に主張している。

  ・主張 「アベノミクスは理論的には100%正しい」

   真実は:「第1と第2の矢は正しいが、第3の矢は逆効果」

    ㊟著者の主張は竹中氏達の第3の矢は成長戦略には「供給能力を高める」方向の政策が目立つが、規制緩和や民営化や自由貿易を進める政策であり、企業の生産能力を高める政策である。

     これはデフレギャップではなく、インフレギャップが発生した時に採るべきとし、デフレギャップには現実の需要(名目GDP)をアップさせて、本来の供給能力(潜在的GDP)と一致させて、デフレギャップをうめる必要があると主張している。

 例3 現参議院議員の「藤巻健史氏」である。以下は私の意見を述べさせていただくと、ここ数年間の藤巻氏の経済予想は当ったためしがなく、私などは彼の予想と真逆の投資行動をとれば大儲け出来るのではと考えている。参議院の資産公開では6億円余りの資産があるとのこと。首を

かしげざるを得ない。破産してもいいのに?さて、彼の主張は。

  ・主張 「アベノミクスでは日本はハイパーインフレになる」

   真実は:「日本の物価上昇率は、終戦直後でさえも6倍程度。ハイパーインフレになりたくともな

り得ない」

 ここでハイパーインフレについて著者は解説している。経済学者フィリプス・ケーガンによって、ハイパーインフレとは「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義している。その状態が一年継続すると一年後には物価が130倍に上昇することになり、年間インフレ率に換算すると、何んと13000倍である。戦後のドイツとジンバブエは経験している。日本にはハイパーインフレになると叫ぶエコノミストは多々いる。彼等のエコノミストとしての資質に疑問を覚える。

さて、以上3例のみを挙げたが、経済における通説の中に真逆であったり歪められたものがあったりで、一市民としてどう考えたら、どう行動したら良いか迷うが、本書は読み易く、解り易く、実地経済の大切なポイントを押さえるテキストとして使える、ちょっといい本と言える。

しかしいかなる本であろうと完全無欠な本はこの世に存在しない。詳細に検証してみると、本書の80%は正しい(真実)と言える。しかし本書の20%はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の記述であり、著者はTPPはグローバル・スタンダード(アメリカ標準)に基づく対日要求であるから、TPP参加には絶対反対であり、日本にとってメリットは少なく、デメリットが多い。結果的にアメリカのグローバル企業が国内産業を食い荒す。特に農業分野では「巨人とアリ」であり、食の安全そして食料の安全保障が担保されないと主張している。

  著者は優れたエコノミストであるが、余りに優れすぎているが由に、政治と経済は表裏一体、或いは政経不可分と言う言葉を忘れ去っている様にしか思えてならない。世界中でTPPで大騒ぎしているのは日本だけだ。以前そうでなかったが何故アメリカがTPPに積極的になって来たのは、中国問題である。アメリカは中国スタイルの経済を何んとか止めたいと考えている。それは国家資本主義やパテントを一切無視したコピー品が堂々とまかり通っている中国のビジネススタイルを是正したい為に、民主主義を国是としている太平洋に面した国々で経済ブロックを作り、「これからは、グローバル・スタンダードを順守しないと、お付き合いは難しいですよ」との意思行動であり、日本もこれに賛同しての参加であることを著者は失念している様である。

 アメリカの民主党政権はどちらかと言えば元来「アンチ自由貿易」と言える。オバマ大統領の中での「TPP」は優先順位が低く、マイナーな政策だと考えて良い。あくまで基本となるのは安全保障である。政治的側面が強い。しかも多国間交渉の為、「原則関税撤廃」など出来るはずがないと考えて良い。むしろ日本にとって農業などは保護主義を捨て、大きく日本農業が飛躍するチャンスと捉えるべきだろう。

 「TPP」が締結されれば世界貿易の40%以上を占めることとなり、逆に日本にとって政治、経済両面で大きなメリットが期待出来る。最後に著書の紹介なのに著書の一部にケチをつけて申し訳なく思っている。

 

2013121日 第1刷発行 遊タイム出版  本体価格 933円+税  著  者 三橋 貴明

 

 

 

165回 ジャーナリズムと「言論・表現の自由」 

 

 昨年末に「眠れなくなるほど面白いヒトラーの真実」(日本文芸社)が出版され、書店で本を手に取り、ペラペラとページをめくって拾い読みした。その内容はヒトラーとナチスはユダヤ人虐殺そして数々の非人道的行為を多々行ったが、しかしドイツ国内では彼らは暴力的なやり方だけで民衆を取り込み、制圧した訳ではない。例えば、休日には低所得者層が自動車に乗ってピクニックに出掛けられる暮らしが必要だと説いて、アウトバーンの建設と言う大公共事業を打ち立て、当時700万人もいた失業者を数年間でほぼゼロにしている。そしてフォルクスワーゲンを開発して、一般庶民でもマイカーが持てる暮らしを実現させた。教育改革して貧しい者にも教育の機会を与えた。女性や子供支援の為の数々の施策を行った。タバコとがんの因果関係を指摘し、世界初となる禁煙キャンペーンを行った。低所得者減税を行った。公衆テレビ電話や合成ゴムの開発等を行う等して、ドイツ国民の生活の向上に貢献した。ほんの数年前まで第一次大戦の敗戦とベルサイユ条約による賠償金の為、不況のどん底にあったドイツ国民にとって、ナチスの政策はまるで魔法の杖から繰り出される黄金やダイヤモンドの様にキラキラ輝いていたのだろうと言う内容であった。

これらに対してイスラエル大使館、ドイツ大使館(常にイスラエルが抗議した場合にお付き合いしないと、ホロコーストを本当に反省しているのかとお叱りを受ける結果となる為)そしてドイツ日本研究所は121日付の書面で販売中止を要請(おそらく金銭的保障の約束があったと思われる)し、23日同社は自主回収を決めた。ジェノサイド(虐殺)など楽しい話題ではないので取り上げたくないが、ユダヤ教の聖典である旧約聖書の「ヨシュア記」の中で、ユダヤ人は紀元前に神からパレスチナの地を与えられた。しかし既に先住民がいたが、イスラエル軍はジェノサイドに次ぐジェノサイドにより全土を征服した。先住民を皆殺しにしたと正々堂々と書かれている。

 さて、今から約19年前の1995年、雑誌『マルコポーロ』(文藝春秋)2月号に、衝撃的な内容が掲載された。

 見出しは、「戦後世界史上最大のタブー、ナチ、ガス室はなかった」

 内科医西岡昌紀氏によるその記事は、「ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である」とした上で、「アウシュビッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室など存在しなかったことを確信した。ナチス党政権下のドイツがユダヤ人を絶滅しようとした、とする主張に根拠がない。ドイツの計画は、ユダヤ人の絶滅ではなく、ロシアへの強制移住であった。ユダヤ人が大量死した真の理由は、ガス室による処刑ではなく、発疹チフスなどによる病死であり、ガス室は、構造などから、ソ連もしくはポーランドが戦後捏造したものである」と言う           “自説”を展開する。

 「ガス室はなかった」と言う断定的な見出しも話題となり、この記事は大きな話題となったが、それ以上に大きなトラブルになった。

アメリカ合衆国のユダヤ人団体、イスラエル大使館、そしてドイツ大使館が文藝春秋社に抗議を開始。さらにユダヤ人権組織サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が、内外の広告主ボイコットを呼びかけ、フィリップモリス、マイクロソフト、フォルクスワーゲンなどが広告出稿を拒否。結果、文藝春秋社は『マルコポーロ』の廃刊を決定。当記事掲載について関与した責任者数人の解任を決定するに至ったのであった。

ジャーナリズムと歴史家、団体を巻き込んだ「マルコポーロ廃刊事件」だが、ここまで極端な処分を取ったのは、雑誌『マルコポーロ』自体が当時すでに人気に翳りが見え始めていて、発行部数も減っていたからとの見方もある。

「ガス室はなかった」と言う断定記事は極端だが、総じてホロコーストへの疑義やわずかなナチス礼賛については、ユダヤの団体によるセンシティブな反応が返ってきやすいのは確かな様だ。

 199910月、『週刊ポスト』(小学館)に掲載された「長銀『われらが血税5兆円』を食うユダヤ資本人脈ついに掴んだ」についても、『マルコポーロ』事件同様、SWCの抗議が入り、『週刊ポスト』はインターネット上に謝罪文を掲載することで、廃刊を免れた。

これらの事件は、我々に「言論・表現の自由」について考えるターニングポイントとなってほしいものである。ユダヤ人団体の執拗でからめ手の「言論封鎖」に違和感を覚える。日本国憲法第19条「思想及び良心の自由」はこれをおかしてはならないとうたっている。日本のジャーナリズム(新聞、放送、雑誌・書籍出版)は毅然とした態度で「言論・表現の自由」を守るべきである。経済的圧力に魂を売ってはならぬ。真実の報道に命の危険すらある一部のたくましいロシア人ジャーナリストを見習うべきである。

 

 

 

164回「めざせ世界の学術大国」方法論その2 「競争原理導入と英語公用語化を」西義雄スタンフォード大学教授のインタビューより    

 

 きちんとした評価制度を導入し競争原理を取り入れる。それがまず必要だろう。

 教員を採用するにしても、他大学からも応募を受け付けるのが米国のやり方。あらゆる段階で教員はオープンな競争にさらされる。教授に指名された教え子が学内昇格し、あとは安泰ということなどはあり得ない。

 スタンフォード大学の教員評価では、同クラスの大学のライバル教授を具体的に挙げて比較する。私の場合、米マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学、カリフォルニア大学バークレー校ほか英、仏の有力大学教授、十数人と比べて私の実績がどうだったかという判断が毎年下される。

 教育者として厳しく学生から評価される。「講義からインスピレーションを受けたか」「教えるだけの経験と素養があるか」「後輩に勧めるか」といった項目について学生が5段階で点数をつける。私も対象だが、そこに書き込まれる指摘はなかなか鋭い。

 研究室の教授を頂点とする縦割り組織も日本の課題だ。米国の研究室ではメンバーそれぞれが積極的に外部と連携している。学生の指導教授だって1人とは限らない。副指導教授を別に選べる。同じ学科である必要もなければ同じ大学である必要もない。私自身、米ウィスコンシン大学の学生から頼まれて副指導教授をやっている。

 外に開く米国と研究室に閉じこもる日本とでは、育つ人材の質にも差が出る。日本では博士号を取っても就職できないという問題があるが、それは企業にとって博士号に見合う人材に映らないからだろう。

 企業が求めるのは単なる研究分野の専門家ではない。専門知識は必要だが、そのうえで交渉力や人脈など総合力のある人材だ。博士号ともなればより深い研究をするために、幅広く学外との連携や交渉をする経験を積んでいるのが普通だ。その過程で、企業でも通用する能力を自然と身につけていく。だから企業は、管理職としても務まる人材として受け入れる。技術担当副社長がゴールではなく、CEO(最高経営責任者)にもなり得る人材としてだ。

 それは待遇にも表れている。スタンフォード大学で修士号を取った者の初任給は日本円で700万円くらい。それが博士号になれば1200万円くらいだろうか。修士号プラス3年分という扱いをする日本とは違い、それだけの人材として評価される。だから不景気でも博士号だけは採用するという企業があるわけだ。

 世界の優秀な学生が集まってくることが米国の大学の強みだが、日本も海外の学生を集めたければ、教員を世界から公募すべきだ。世界で通用する優秀な教授がいてこそ優秀な学生が集まる。そのためには大学で使う言語を英語に変える必要がある。教員だけでなく、事務職員も含めて大学の公用語を英語にした方がいい。

 大学で学んだことが世界で使えるようになるには、英語で学ぶのが早道。日本語圏は世界にはないため、日本語で勉強しても結局は英語でやり直すことになる。教える方も大変だと思うが、日本でもかつてやっていたことだ。旧制高校では海外の原書を使って学んでいたわけだから。100年前にできたことができないはずがない。できないのではなく、やりたくないということだろう。

2013.10.14 日経ビジネスより転載

 

 

 

163  731部隊」出身の教授と千葉大チフス事件  

                      

 今から約40数年前、当時私は歯科大の3年の新学期を迎え様としていた。ある日親しい友人が私に話しかけて来た。「オイ炭谷、今学期から始まる細菌学の教授は戦前満州で細菌兵器開発の為に外国人捕虜をモルモット代わりに人体実験した、恐ろしい冷血人間だ!!」と。「その証拠は」と図書館から持ち出した昭和20年代出版の古ボケタ本の茶色に変色したページをさし示した。

 そこには、731部隊の腸内細菌(赤痢、コレラ、腸チフス等)の研究に従事していたH医師は、現在は某歯科大学の細菌学教授であると書かれていた(ちなみに731部隊の非人道的行為を我々日本人に白日の下に晒した森村誠一著“悪魔の飽食”は約10年後の昭和56年出版)。友人は続けて、期末試験は大変難しく、なかなかパスさせてもらえない、通常は追々試験まで覚悟した方がいいと忠告してくれた。(事実友人と私2人供、追々試験まで受けさせられ、ご丁寧に卒業試験でも追々試験と苦労させられた、いや良く勉強させていただいたと言った方が適切かな?)。H教授の講義はいつも、苦虫をつぶした様な顔で自信たっぷりの様に感じた(当時の医学生物学の学生のテキストとして一番良く使用された“新戸田細菌学”の腸内細菌の分野を分担執筆しており、そこそこ権威であったのだろう)。講義が約2ヶ月半経過し、細菌による感染、発生論になると、とたんに上機嫌で目を輝かせ、にこやかな話しぶりに大変身したのに驚かされた。上記の親友の言葉を思い出し、鈍い私でもピンと来るものがあった。

 講義中にH教授自ら以下の様に語り出した。「私は戦前満州にいたことがあり、我々細菌学を志す者にとっては満州は細菌の宝庫だ」と満面の笑みを浮かべて話していた。私自身、広い中国の中でなぜ満州だけが細菌の宝庫なのか?実は質問したかったのだが、H教授の機嫌を損ねて単位がもらえなかったらとの思いが頭をよぎり、思いとどまった。今考えて見ると多分満州での生活環境が、当時極度に劣悪、不潔だったのではないだろうか。その時のH教授の講義は乗りに乗っていた。細菌による感染・発生させるには十分な細菌量が必要であると力説していた。腸内細菌(赤痢・コレラ・腸チフス等)による感染・発症は患者、保菌者および排泄物で汚染された飲食物、とくに爆発的な伝染病の流行は井戸水、水道水に原因することが多いとニヒルな笑みを浮かべて語った。

 さて、H教授は当時日本社会を騒がせていた有名な「千葉大チフス事件」に言及した(昭和414月に千葉大医学部の鈴木充医師が、食べ物や飲料にチフス菌を混入させ、彼の関係した静岡や千葉で100人以上の腸チフス患者を発生させたとして、傷害罪で逮捕、起訴された。その後昭和47年、米国の刑務所で行った人体実験において、鈴木医師の供述方法では腸チフス患者は発生しないと言う科学鑑定を証拠採用し、一審は無罪となったが、昭和51年の二審は一審判決を破棄し、懲役6年の有罪となり、更に最高裁への上告は棄却され、6年服役した後、昭和58年医道審議会は鈴木医師の免許を取り消した)。そしてH教授は新聞報道による鈴木医師の自供した方法では、腸チフスを発生させることは不可能だと断言していた(自身の満州で行った人体実験により熟知、確信していたのであろう)。

 当時の医学界で腸内細菌の権威的存在として当然、検察弁護側のいずれか、もしくは双方から意見を求められ、人体実権の有用性をサジェスションしたと容易に推測出来る。二審判決は千葉と静岡での患者から検出された腸チフス菌がいずれもD2型菌で、同じ性質を持ったチフス菌だったことである。千葉と静岡の集団発生がもし別個に発生したものならば、菌の型や性質が同一である可能性はほとんどないと考えられ、鈴木医師の犯行の可能性が高いと判断され、更には被告の自白には一貫性があり信用出来るとされた(但し被告は一審で自白を翻し無罪を主張)。犯行動機は被告の性格異常に加え、医局に対する潜在的不満があったとした。私には状況証拠を寄せ集めれば鈴木医師の犯行と思われるが、日本の裁判の証拠主義から言って妥当な判決と言えるかどうか、甚だ疑問である。

 

 

 

162回 古代史探訪その5 「1400年間、日本の権力中枢に位する藤原氏」  

 

 世界史を見ると、現在の世界の皇室、王室の中で日本の皇室は最も長期にわたって君主の地位にあり、驚異的な長命を誇る(イギリス王室などはどんなに無理をして遡っても9世紀頃から)。そして藤原氏一族は、あの大化の改新の英雄として有名な中臣鎌足から、現在東京都知事選への立候補がとりざたされている細川護煕元首相まで、世界史上例を見ない約1400年にわたり、国家の権力中枢及び高い地位を占めて来た。

 1400年の命脈を形成した藤原一族の超有名人を列挙してみよう。中臣鎌足に始まり、藤原不比等、光明皇后、藤原道長、親鸞、日野富子、三条実美、西園寺公望、近衛文麿等である。20136月に世界記憶遺産に、約1000年前の藤原道長の直筆の日記「御堂関白記」が登録された。驚くことに彼の子孫によって大切に保管されて来た。

 世界にはメディチ家、ロスチャイルド家などの名門宗家は多々あるが、彼らよりもはるかに古い歴史を持つ藤原氏は、現代まで堂々と雄々しく、いかに生き残って来たか、命脈を保って来たか検証を試みた。

 日本では国家が統一されて以来、一人の強烈な個性によって国家が支配された経験などほとんどない。例えば鎌倉幕府には評定衆があり、1516人の有力御家人達が合議している。江戸時代も将軍と45名の老中の合議であった。独裁政治が出来ない様にチェックがかかっていた。それは古代でも同じだった。大化の改新以前には大夫達が合議を持ち、律令国家ではそのメンバーを公卿と呼んでいた。大宝元年(701)の公卿のメンバーは下記の通りである。

 左大臣 多治比 嶋

 右大臣 阿倍御主人

 大納言 石上 麻呂  藤原不比等  紀 麻呂

 中納言 高市 麻呂  大伴安麻呂

以上となっていた。霊亀2年、藤原不比等は以前からの慣習を破り、次男・房前を国政に「参議」させることにした。一氏族より二人目の代表者である。これで不比等の発言力は2倍になる。不比等はおそらく以下の様に発言したのであろう。“律令制度では氏族単位でものを考えず、個人的才能が基準のはずだ”と。公卿のメンバーには不満はあったろうが、不比等を恐れて仕方なく同意したのであろう。これが藤原氏の宮廷支配の端緒となった。二人が三人になり、藤原氏の公卿の数は年々増加した。藤原道長が「この世をば、わが世とぞ思ふ・・・」と歌った寛弘2年(1005)には、公卿20人中16人が藤原氏だった。まさに繁栄を極めた絶頂期だった。

 藤原氏の中興の祖は中臣鎌足であり、その息子の藤原不比等が1400年の命脈の基礎を築いた。藤原氏が長期に強大な権力を握る為の2大お家芸が存在した。その1は天皇に娘を嫁がせることで「天皇の外戚」となり、その外戚化を数段構えで次々と繰り返し、長く権力の座に居座り続けた。その2は「他氏排斥」つまりライバルは消せである。「学問の神様」として知られている菅原道真は、その優秀さ由に低い身分から出世して、若き醍醐天皇の補佐役を藤原時平と並んで仰せつかったが、時平はじめ公卿の嫉妬心から、陰謀により謀反人とされ、九州太宰府へ実質的に追放された。道真の場合は死を逃れたが、皇族も含めて数多くのライバル達、邪魔者、気に入らない者達が殺害された。

 以上が2大お家芸であるが、藤原氏1400年の歴史を考察して見ると、もう一つ大切なお家芸が存在した。それは英語で言うところの「ネバー・ギブアップ」である。藤原氏は不死身だ、まるで不死鳥の様に中臣鎌足の活躍した時代から今日まで、何度も蹉跌を味わった。挫折を味わった。そして衰退し滅亡の危機にありながらも、その都度蘇り、命脈を保って来たのだった。藤原氏はまさに「ネバー・ギブアップ」の本家本元と言える。歴史上、本当に藤原氏が栄えたのは、飛鳥時代から平安時代にかけてだった。次の鎌倉幕府の成立によって、藤原氏が築き上げた貴族社会は一気に没落した。室町時代に入って足利三将軍は朝廷の人事に介入する様になったし、江戸時代に入り幕府は公家法度をつくり、がんじがらめに規制し、公家には禄を与えたが少額で窮乏した。長い低迷の時代が続いたが、時には藤原氏出身の日野富子(応仁の乱の主役の一人)が、足利義政に正室として嫁ぎ、九代将軍義尚を産み、富子が後見人として幕府を牛耳り、歴史の表舞台に躍り出ることもあった。衰退した公家の最大で最も重要な功績と言えるのは、鎌倉時代以降、武力を用いて天皇を廃することが出来る強力な武士が多く輩出したが、藤原氏を中心とした公家の持つ巧みな交渉力のおかげもあって、天皇は日本の君主であり続けられたと考えられる。

 そして幕末から明治維新にかけて思わぬチャンスがめぐって来た。明治維新によって王政復古が実現すると、天皇の取りまきである公家達も「華族」として復活した。公家の中の岩倉具視や三条実美は倒幕の為に暗躍して、多少危ない目に遭ったりしたが、「薩長土肥」にささやかな手助けをしたに過ぎなかった。まさに「瓢箪から駒」「棚ぼた」と言う表現がピタリ当てはまる。藤原氏は「天皇に最も近いエスタブリッシュメント」として幅をきかせていった。藤原氏の完全復活である。大正時代にはついに西園寺公望(藤原清華家)が首相に選出された。また政商として活躍した三井財閥も藤原系と言われている。

 紙面の関係から藤原氏のネットワーク(閨閥)には全く触れなかったが、藤原氏のネットワークの頂点に立つのが藤原北家(摂関家)の嫡流、近衛家であり、戦争末期に当主「近衛文麿」は人気が高く、3度も首相を経験したが、日米開戦を阻止出来なかった。戦後A級戦犯として出頭予定日の朝、服毒自殺した。前述した元首相細川護煕(1994)の外祖父(母方の祖父)が近衛文麿だ。つまり細川護煕の母親が近衛文麿の娘だった。近衛家は旧弘前藩主の津軽家や旧加賀藩主の前田家ともネットワークを築いている。近衛文麿の外祖父は「前田さん」である。

 

 

 

161回 宗教論その5「ユダヤ人はなぜ優秀か」           

 

格言がある「ユダヤ人は神に選ばれし民なり、由に優秀なり」これを検証してみた。

 ユダヤ人の優秀さを具体的な数字で示しているのが、ノーベル賞である。ユダヤ人の人口は世界人口比の0.38%にすぎない。ところが1901年以来医学、物理学部門の20%以上、化学部門の10%以上、文学賞部門の10%近く、新設の経済部門に到っては60%以上の受賞者がユダヤ人である。確かにユダヤ人のノーベル賞受賞率は群を抜いている。それでは彼達の優秀さは、どの様に説明されるのだろうか。

 「ユダヤ人は遺伝的に優秀である」と言う説がある。私は概ねこの説には賛成である。実は遺伝学上いやでも優秀にならざるを得ない出来事、すなわち古代からの歴史的事実があった。キリスト教やイスラム教が神と向き合い、ひたすら祈る「祈りの宗教」だったのに対し、ユダヤ教は幼い頃から生涯を通じて教典を研究し続ける「学びの宗教」であり、そこでは思考のプロセスが重視され、弁証法的解釈で論理的な思考力を身につけることが求められる。こうした教育システムで育てられることにより、「知力の底上げ」「知力の向上」がもたらされた。

キリストが誕生した頃はユダヤ人の「知力」は他の民族とほとんど変わらなかった。全ユダヤ人の89割が農民だった西暦1世紀。ユダヤ教は今日と異なり、神殿における祭儀中心の宗教であった。ところが西暦70年、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊はユダヤ教の在り方を大きく変える契機となった。神殿での祭儀が不可能となったことで、離散先の各地にシナゴークを建て、「学びの家」すなわちシナゴークでの教典学習中心主義が、その後のユダヤ教の主流となった。教典学習も初級のトラー(律法)から中・上級のタルムード(伝承法律全集)へ進むと、かなり知力が要求される。その為、ユダヤ人の中でも知力の乏しい者ややる気のない者にとって、学習が苦痛となり、次々と脱落し、ユダヤ教徒であることをやめてしまって、キリスト教に改宗した。

こうしてローマ帝国初期に帝国の総人口の約7%(約500万人)もいた莫大なユダヤ人口は、西暦1世紀から6世紀(約500年間)の間に激減した(50万~100万人に)。これによってユダヤ人は「学習不適格者」つまり「頭の悪い人々」を抱え込まなくなり、すでに古代末期には「知力の優れた人々の集合社会」を完了し、前述の「遺伝的優秀さ」のベースを早くも獲得していたことになる。以降、今日に到るまでユダヤ人は子弟の教育に力を注いで来た。

起源1世紀以来、ユダヤ人は常に迫害や追放、更には殺戮の恐怖と隣り合わせの生活を強いられてきた。そうした日常において、彼等は「ユダヤ人は必要である。役に立つ」と思われることを生命を護る盾にしようと考えた。つまりユダヤ人と言う存在の必要性をキリスト教社会、あるいはイスラム教社会に認識させる必要性があった。その為にとった方策の一つが社会的に望まれない職業、賤業に就くことである。現在でこそ金融業は必要で名誉ある地位を獲得しているが、歴史的に見れば洋の東西を問わず「金貸し」と蔑まれて来た職業だった。ユダヤ人はそうした言わば祝福されない職業である、商業や金融業に就くことで、自分達の必要性をアピールしたのである。

ユダヤ人の必要性を社会に認識させるもう一つの方策は、特殊な技能の習得(もちろん学術面も含む)に力を注ぐことだった。社会的に有用な専門職(出来れば他を寄せつけない圧倒的な能力を持つ医師、弁護士等)に就けば、個々のユダヤ人自らの身の安全を確保出来るし、ユダヤ人全体の存在の防衛にもなる。「ユダヤ人は優秀である。だから彼等を尊重すべきであり、迫害すべきではない」と言うメッセージを暗に社会に送ることになるからである。

以上の様にユダヤ人にとって「優秀である」と言うことは「社会がユダヤ人を必要としている」につながり、彼等自身の存亡がかかっていた、いやいると考えるべきであろう。必死で努力、学習するのは自明の理である。

 

 

 

160回 「鷗外と藤村」考察 ~比較文学論~  

 

 私は、明治を代表する偉大な文豪、森鷗外と島崎藤村の作品、作風を真正面から比較、考察を試みた。

 まず、鷗外の出発点はドイツで、医学を学ぶための4年間の国費留学であろう。鷗外ほどヨーロッパの学問を貪欲に吸収した人はいない。東大医学部在学中の講義の多くは、ドイツ人教授によるドイツ語によるものであり、当時の日本人として、鷗外ほど自在にドイツ語を操れる日本人はいなかった。それ故、留学中に日本文明に否定的な発言をした地質学者ナウマン(東大の教授を務めた。日本の地質学への功績により、ナウマンゾウは彼を記念して命名された)に、その場でドイツ語で論争を挑んでいる(当時の日本人には想像できない程の快挙である)

 鷗外は、ドイツ留学中のドイツ人女性エリーゼとの恋をベースに「舞姫」を書き、堂々と天下に公表した。この作品は、陸軍省に対する「始末書」としての意味合いもあったが、鷗外の秀でた資質ゆえか、エリート軍医としてのキャリアに傷つくことなく累進した。

 明治40年、鴎外45歳のときに、軍医総監・陸軍省医務局長を兼任、昇進した。階級と職務の同時昇進は異例であり、もはや軍内部に鷗外を掣肘する者はいない。鷗外は軍務の傍ら、超人的な克己力を発揮して、夜間を創作活動のために投じるようになった。もはや、恐れるものはない状態となった鷗外久々の小説「半日」、そして自らの性的成育史「キタ・セクリアス」を発表し、掲載誌は発禁処分を受けた。48歳の鷗外は、漱石の「三四郎」に技養(腕がムズムズして)を感じて「青年」を書いた。鷗外は生涯にわたり、非常に旺盛な創作活動を送ったが、フィクションの王道を行く本格長編小説はほとんどなく、決定的傑作といえるのは歴史小説であろう。自然主義文学を否定し、近代文学の扉を叩こうとも開けようともしなかった。鷗外は、エリート軍医としての長い役人生活のため、既成観念を打ち破り、無から生まれる創造性を醸成し、獲得することが出来なかったのでは、と考察している。もし、普通の医者として生きていたなら、珠玉の長編小説を我々は読むことが出来たかも知れない。

 一方藤村は、詩集「若菜集」を20代で出版。すでにかなり有名であったが、詩人としての地位に満足せず、6年間の長野県小諸での教員暮らしを精算し、1905年、妻と3人の幼い娘をともなって東京へ帰った。藤村は「破戒」をすでに200枚書き上げており、東京では執筆と刊行にだけ力を注ぐ決意であった。この小説を完成させるまでは、藤村は借金だけで暮らすつもりであった。版元に頼ることなく自費出版を目指したのは、文学という事業で自立できなければ文学者とはいえないと考えたからであった。赤貧生活を送り、栄養失調が原因で3人の幼い娘を亡くし、妻は夜盲症となり7年後に他界した。この「破戒」の執筆、出版のためにすべてを犠牲にして憚らぬ覚悟であり、それを実行した。

 異常とも思える藤村の創作活動への狂熱が、日本文学史上に残る名作「破戒」を書き上げた。その後の著作において自然主義文学の旗手とうたわれるまでになった。しかし芥川龍之介は、藤村を「老獪な偽善者」と呼び、花田清輝は「犯罪者」と断罪した。それは「自分のようなものでも、どうしても生きたい」という藤村の告白小説「新生」に現れている。生存への過剰な意欲からもたらされる気味悪さ、やりきれなさだといえる。

 1906年、「破戒」は出版され、たいへんな反響であった。柳田国男、島村抱月、与謝野晶子、田山花袋などの文壇人達は、作品の持つ独創性に皆衝撃を抑えかねた口調で絶賛した。小説「坊っちゃん」を脱稿したばかりの夏目漱石は、発売2日後に「破戒」を買い、2日で読み終え、3日後には弟子の森田草平にはがきを送った。そこにはこう記されていた。

 「破戒読了。明治の小説として後世に伝うべき各篇也。金色夜叉の如きは、2030年後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多くの小説を読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思う」最大級の賛辞であった。

 1906年日本文学は、国木田独歩の「運命」、漱石の「坊っちゃん」、そして藤村の「破戒」を得て、はっきりと近代小説(文学)への道を歩み出した。

 

 

 

159回 「アメリカの新移民事情」

                     

 現在の国際ロータリーの事務局長は2年目に入ったジョン・ヒューコ(ウクライナ出身)で、1989年にベルリンの壁が崩壊した後の東欧移民の一人である。2つの大学院を卒業し、経営学修士と弁護士2つの資格を持つ有能な努力家である。

 ベルリンの壁崩壊後、ソビエトの圧政から解放された東ヨーロッパの人々が大挙してアメリカにやって来た。当時のアメリカは石油ショックから立ち上がり、レーガン景気の後ブッシュ大統領(シニア)のもとで経済が良くなっていた為、東欧人は白人だ、出来るだけたくさんアメリカに受け容れたいと比較的簡単に永住許可証を出した。

 東欧からやって来る新しい移民達をアメリカの人々が、白人であると言う理由だけで歓迎したのは当時アメリカでの白人労働者の数が減りつつあったからだ。ところが東欧からやって来た人々は紛れもなく、どっぷり社会主義体制につかった、意欲を持って働かない(働きたくない)、アメリカ政府の社会保障の世話になろうと言う人々がほとんどだった。

 私の知人で、在米生活25年以上で、たまに日本に帰国の折には、私のオフィスで検診(チェック)と口腔内クリーニングに訪れる現地法人の支社長の話を取り上げてみることにする。アメリカの労働者の中で最も手に負えないのは東欧からの新たに移民した白人達だと。誰よりも働かず、権利のみを主張し、会社を利用しようとしている。そう言った連中に朝出勤後、昼に「クビ」と宣告する時、その後に仕返し(ピストルで撃たれやしないか等)されないかと一週間くらいはビクビクしていて、命が縮む思いだと、苦笑いしていたのが印象に残る。彼はこんな人間が大多数を占める社会主義体制の国々が崩壊したのは当然帰結であると、語気を強めて話してくれた。

 更にはオバマ大統領は2008年そして2012年には再選を果たしたが、特に2012年の選挙では白人の多く(7080%)は共和党に投票したのではないかと。オバマを絶対的に支持したのは白人の中の東欧からの新移民で、オバマに手厚い社会保障の継続と拡大を期待しての投票行動だったろうと。その他オバマの支持率は黒人のほぼ100%、ヒスパニックの70%、アジア系はフィフティーフィフティーではないかと述べていた。

 彼の住むテキサスでも、アジア系の移民は近年多くなって来ている様で、中国本土・香港・台湾・韓国からの人達が目につき、中国系の人達は一昔前と違って食い詰めた人達ではなく、スーパーリッチの移民が多いのではと。又、韓国系は若い人達の移民が多く、聞くところによると韓国内の閉塞的な社会構造、格差社会そして深刻な失業に嫌気がさして、アメリカ留学経験者の多くの若者の移民が増加している様だと述べていた。彼言わく、アメリカの移民政策の第1は有能な人々に移民して来てほしい、アメリカ社会に絶対必要な人材には一年以内にグリーンカード(永住権)を与えている様だと。第2はロシア・中国・南米・アフリカ・その他ともかく豊富な資金を持ったお金持ちに来てほしい。以上がアメリカの移民政策の基本だと述べていた。

 最後に日本人はどうですかと聞くと、在来生活が長くてもアメリカへ帰化しないケースがほとんどだと。ただし、在来4050年となると子弟もアメリカの大学を出て、アメリカ社会で生活しているケースが多くなり、日本との関係も疎遠となり、家族共々ここで初めてアメリカに帰化するケースがまぁまぁある様だと。彼言わく、日本人の場合喜んで帰化するケースは少なく、しかたなく帰化するケースがほとんどの様だと。「日本人にとって日本が一番住みよい国なんでしょうね」と明言していた。

 最後に彼は、まぁどんな人種でも一世代つまり30年たてば典型的なアメリカ人になれると断言していた。私も近い将来50億円位持って、アメリカに移住するかな?

 

 

 

158回  「めざせ世界の学術大国」方法論その1 東大の改革

 

 105日の小松での地区大会の基調講演をされた、川本立命館大学元理事長に、浅学非才ながら私は以下の様に質問した。「世界の一流大学と言われている海外の大多数の大学の在校生に占める留学生の比率は過半数を超えている。ところが日本の代表的な大学である東大・京大で留学生の比率はせいぜい10%程度、おそらく日本語の要件の為に留学生が少ない様に思われる。世界のトップクラスの大学はグローバル化し、優秀な留学生をどんどん受け入れているのに、日本のトップクラスの大学でさえ海外からの留学生の受け入れを日本語の要件と言うハードルでむしろ拒否している様に思いますが、先生はどうお考えでしょうか?」

川本先生は以下の様にお答え下さいました。「先生のおっしゃる通りです。日本の大学に多くの優秀な留学生を受け入れるには、日本語の要件をはずして、大学の公用語を日本語と英語にすべきであり、留学生に対して英語で対応出来る姿勢を整えなければ、留学生は増えない。日本の大学はこう言った後進性に危機感を覚え、改革を実行しなければ、学術面でも二流、三流になってしまう」とお話しされたのが印象的だった。

そこで日本の大学は世界でどの程度にランクされているか見てみると以下の様である。        

                                                                       

 数年前と比較すると東大・京大はじめ、その他の日本の大学のランキングの下落が目立つ結果となった。また、なんとなく日本の大学のランキングを見ていると、入試難易度を見ている様だ。上記日本の大学の中で、東大だけが著しく危機感を持って、改革に取り組んでいる様である。

日本のトップ大学、東京大学の濱田総長は「今の東大は学生の潜在力を十分に引き出せていない」と。更に「米英トップ大学に水をあけられ、アジアの新興大学が追い上げて来ている」「決してこのまま座して死は待たぬ」と、大改革にのろしを上げた。まず最初に「秋入学」がグローバル化時代に日本を再生する切り札になると信じ、2015年度までにと構想をぶち上げたが、大学内外の反発を招き、今年7月に計画は挫折。「4学期制」へと後退したが、それでも濱田総長は諦めていない。

現代社会は正解の見えない問題に、世界を視野に入れて取り組む必要がある。その為には、従来と異なる教育や研究手法が求められている。一言で言えば「多様性」である。「秋入学」はこの多様性を大学にもたらす。つまり偏差値主義の単線型の教育ではない、新たな人材育成が出来る。まず、海外の大学と入学時期や学期を揃えれば、学生は日本と海外の大学を自由に行き来出来る。そして海外留学している日本人の学部生の比率は現在わずか0.6%だが、大幅に改善が見込める。

大学ランキングは重要である。ランキングは学生が留学先と研究者が移籍先を選ぶ際の重要な道標となっている。我々東大も順位を上げる努力をしなくてはならない。海外から優れた研究者を招聘する財源が少なく、また研究費も十分ではないが、優れた研究論文を多く書き、また引用してもらえる様、頑張るしかない。更には近年トップレベルの学生(学部・大学院)への奨学金の相場は暴騰し、東大は対抗出来ていない。しかし資金面では世界のトップクラスの大学に対抗出来なくとも、カネに代えられない東大の魅力を高めて行くしか方法はない。その為には、国際的な研究ネットワーク作りを学部のみに任せるのではなく、大学が強力に支援する必要がある。学部では日本語が壁となり、優秀な留学生が来ないなら、こちらが英語でやるしかない。その為に昨年から英語だけで修了出来るコース「ピーク」を始めた。現在30人程度だが、更に規模を拡大する予定だと言う。世界の大学のグローバル化に対応し、「多様性」を生む新たな教育を確立すること、これが教育(大学)改革の本質である。

大学で知識を開発する手法が変われば、社会に大きな影響を及ぼす。その為大学改革は東大だけではなく、社会全体で考える問題である。「秋入学」はその一歩であり、諦めないで話し合いを続けて行くと、濱田総長はきっぱり断言した。(2013.10.14日経ビジネスより引用)

大学の実力はその国の国力であり、未来へつながる力であると言える。日本の社会全体で大学改革について考え、実行し、時には日本の社会システムの一部を変更する必要が出て来るだろう。

 

 

 

 

157回 「三島由紀夫再考」                      

 

 43年前、すなわち1970(昭和45)年1125日午後1時頃のことが鮮明に思い出される。当時私は22歳で午後1時からの大学の講義が始まって間もなく、講義に遅れた同級の女学生が、血相を変えて教室に飛び込んで来て、「隣の市ヶ谷の自衛隊で三島由紀夫が自決した」と大声で我々に伝えた。教室内は騒然とし、私は隣席の親友に目配せし、市ヶ谷の現場に行こうと促し、「我々2名は三島由紀夫の市ヶ谷の自殺現場に行きます。本日の講義は欠席扱いにして下さい。早退します。」と教授に伝えると、びっくりした様子で「うんうん」と頷くだけだったが、同級生の中から「おい!!しっかり見てこい」とのエールと多数の拍手に送られて教室を後にした。

 市ヶ谷駅へ向かう途中友人と「何んで三島は唐突に自殺したんだろう」と話し合った。市ヶ谷駅に着いた時には、既に非常線が張られており、距離にしてわずか100m位の所にある自衛隊駐屯地にはとても近付けそうになかった。ヤジ馬、マスコミ関係者、それに右翼とおぼしき連中で正に身動きが取れず、デモにでも参加している様な状態で、上空には数機のヘリコプターが飛んでおり、騒然とした雰囲気の中で、既に「故烈士三島由紀夫氏」の立て看板があり、私の「三島は本当に逝ってしまったんだなぁ」との言葉に友人は目を潤ませ、頷いていたのが印象に残っている。帰りは市ヶ谷の駅は封鎖され、飯田橋まで我々2人はお堀端を、無言でただ黙々と歩いて帰った。その時、私自身三島の不可解な死に相当ショックを受け、ともかく残念だが三島のことは忘れよう。これからは「三島由紀夫」を封印してしまおう。つまり今後三島作品は読まない、三島の芝居は見ない、三島自身についても一切考えない。そして友人達ともいかなる三島に関する討論にも加わらないと決意した。

 当時の私は左翼思想に傾倒しており、三島の主張(思想)は私達、大多数の学生とは真逆であった。しかし、異次元のとてもとても大きな存在との強い認識があった。今春「坂東玉三郎」がフランス政府からフランス芸術文化勲章コマンドゥール章を授与されたとの報道があり、三島が十代の頃の玉三郎の舞台を見て、将来性を既に見抜いており、23の当時の雑誌は玉三郎に関する三島の舞台評を掲載していた。私自身「坂東玉三郎の世界」を書く為に、取材の必要性から三島に関するすべての封印を解いた次第だ。私はここで三島作品を評するつもりはない(もちろん力不足なせいもある)。長年封印して来た私自身にとっての「三島の不可解な死」の真相に迫ってみたいとの願望が生まれて来た。

 

 

 

156回  宗教論その5 「アメリカ大統領の宣誓」  

  1115日に故ジョンF.ケネディー大統領の長女キャロライン女史が駐日大使として日本に着任した。ケネディー暗殺の50年後のことである。私には暗殺はつい最近のことの様に思えてならない。空港で「父のやり残した公務を使命感を持って取り組みたい」との感慨深いコメントを残した。

さて歴史的には1620年、ヨーロッパで迫害されたピューリタン達が、神の教えだけを支えにして、メイフラワー号で大西洋を渡り、現在のマサチューセッツ州プリマスに上陸した。アメリカの始まりは、これら「ビルグリム・ファーザーズ」の移民であったとされる。しかし日本人が「アメリカ建国の精神」のイメージとして「メイフラワー号」を思い浮かべるのは、実は間違いだ。

彼ら「ビルグリム・ファーザーズ」とされてきた人々は、イングランドをその信仰(ピューリタン)の故に追放され、仕方なしに最初はオランダに流れていった。次いでそこでも行き場を失った。彼らのことを、イギリスの主流派であった国教徒達は「海を漂流する乞食」シーベガーズと呼んだ。北海沿岸で食いはぐれ、漂流もできなくなり、仕方なくイギリス国王の慈悲と目こぼしによって、北米に流れ着いた「ホームレス移民」とみなされて来た。まずは食いつなぐ為の新天地を求めた「難民」に過ぎなかった。その10年後の1630年に、アメリカ大陸に真の宗教に基づく「新しい国家」をつくることを目指したジョン・ウィンスロップと裕福なピューリタン植民者である1000人の仲間達を乗せた「アーベラ号」はマサチューセッツ湾に錨をおろした。本国イギリスの「堕落した教会と国家」とは全く違う、熾烈な宗教的使命感と厳しい戒律に基づき、「理念の共和国」を目指す第一歩を記した。つまりアメリカは、その国家としての始まりから徹頭徹尾「宗教国家」だったのである。

 日本では一般に、政教分離は「政治や政府」は「宗教」との関係を断ち切る為のもので、両者は何んら関係を持ってはならないかの様に考えられている。一方この原則を日本に一方的に強制させた、当の本家本元のアメリカは、上述した様に歴然とした「宗教国家」である。アメリカ社会は日本的な政教分離の考えからすれば、「政教一致」とさえ言える様な、宗教特にプロテスタントとの関係が至る所で見られ、むしろタイトな関係と言える状態だ。

例えばアメリカ大統領の就任式で、新大統領は聖書に手を置いて、自身と関係深い牧師を選び、その牧師に向かって宣誓する習わしである。大統領就任式と言う、「政教分離」の先生であるアメリカが宗教的な儀礼を大統領就任式と言う、いわば最も大事な政治的場面で行うのは何故なのか?アメリカはヨーロッパにおいて、国家によって信仰を抑圧された人々が、その信仰の自由を求めて開いた国である。それ故にアメリカ建国の精神は、それぞれの宗教の「信仰の自由」を保護すると言う確固とした根本原則がある。しかしアメリカ建国以来プロテスタントが国教であり、アメリカは世界でも稀な宗教国家と言える。またアメリカの政教分離は、「政府」と「特定の教会」との分離、と言う意味での「政教分離」である。政治と宗教が分離される、関わりを持たないと言う日本的な意味での「政教分離」ではないのである。

 アメリカ大統領は、プロテスタントの信徒が就任することを前提としているから、カトリック教徒のジョン・F・ケネディー大統領の就任に関して、一悶着あったことがよく知られている。黒人であってもプロテスタントのオバマが大統領に就任するのはまだ許せるが、異教徒であるジョン・F・ケネディーや弟のロバート・ケネディーが大統領に就任することは、強硬なプロテスタント信者にとって決して許すことが出来なかったのである。今後も異教徒が大統領になるには多大な困難を伴うであろう。

 

 

154回 ブラジル(リオ)オリンピック開催危し!! 

                 

 2020年のオリンピック開催地に東京が決定した。対抗国として下馬評ではマドリードが手強いと思われていたが、第1ラウンドで早々に敗退した。理由は、はっきりしている。経済的に不安定なところにオリンピックは任せられないとのIOCの強い意志決定に他ならない。

実際に2016年のブラジル・リオデジャネイロのオリンピック開催は経済不況から開催が危ぶまれている。国際オリンピック委員会(IOC)はIMFと連絡を取り合って、逐一、開催予定地のブラジルの経済情報を入手しており、次第に悪化して行くブラジル経済に肝を冷やしているのが現状だ。IOCとしては、開催中止に追い込まれることは何んとしても避けたい、中止となればオリンピックそのものの存続が危ぶまれ、IOC委員達のメシの種が消滅してしまう恐れすらある。国際オリンピック委員会は世界中に収支報告する義務もなく、課税もされない。少し言葉は悪いが伏魔殿の様な存在である。

 ブラジルの経済悪化の大きな原因は、アメリカのシェール革命である。資源大国であるロシアとブラジルは、資源価格が高止まりしているのにあぐらをかいて、新たな経済の担い手となる製造業(テクノロジーの研究・開発を怠って)の育成をおろそかにした結果、資源価格の下落により甚大なダメージを受ける結果となった。

 ブラジル経済の現状は、インフレと昨今の資源安により「借金依存経済」が回らなくなって来ている。もともとブラジルは先進国のブラジルへの資源投資で潤ってきた国である。資源高が続かなければ経常赤字に陥る体質なのだ。今後、頼みの鉄鉱石価格(世界的に鉄はだぶついて来ている)が大きく下落するなら、経済運営が立ち行かなくなり、デファルトの危険すらある。又、借金依存経済だけに、バブル崩壊時に巨額の不良債権が発生するのは回避出来ない。「ブラジル版サブプライム問題」が生じる。IMFは認識しているが、日本では遠い国のこととして余り報道されていない。しかし、新幹線計画は経済悪化により断念したとの報道は確かにあった。

2000年以降、原油を中心にあらゆるエネルギー価格、それに波及して鉱物資源価格が上がった。エネルギー価格が上がれば当然、食料品価格もツレ高になり、そうした資源高の恩恵を圧倒的に受けて来たのがブラジルであった。海外からの投資資金を引き寄せる一方、金融機関の積極融資により内需が活発化し、2004年~2010年の成長率は年5%超に達していた。資源特に頼みの鉄鉱石の価格下落でブラジルの貿易収支は悪化し、2013年前半の貿易収支は前年同期の70億ドルの黒字から一転して、30億ドルの赤字へと転落した。経済成長率はマイナスになる恐れさえでて来た。資源価格の下落ペースにブラジルの運命は握られていると言っても過言ではない。2014年ブラジル開催のサッカーのワールドカップまではひょっとしたら凌げるかもしれないが、更に資源価格が下落すると思われる2016年のリオオリンピックは、無い袖は振れぬの格言通り、開催中止となる公算はかなり高いと思われる。

107日のTVニュースの中で、ロシアのソチで来年27日に開幕する冬季オリンピックの聖火が、6日ギリシャから特別機でモスクワに到着し、「赤の広場」でプーチン大統領が誇らしげにトーチに点火し、隣接するクレムリンの敷地をロシアのメダリスト達が周回したが、2人目の走者の際にトーチの火が突然消え、関係者がライターでトーチに再点火する映像に私は思わず吹き出し、ソチオリンピックの将来をも危惧せざるを得ない心境になった。

 

 

 

153回  古代史探訪その5 歴史の真実「パルテノン神殿は極彩色に彩られていた」             

17世紀に入ると、スペイン、ポルトガル、フランス、イギリス等の帝国主義の西欧列強がアフリカ、中東、アジアそしてアメリカ大陸まで進出し、植民地化を推し進めた。又、18世紀に入るとヨーロッパに産業革命が興こり、ヨーロッパ文明(文化)は絶頂期を迎えることとなった。

その結果、白人の優越性をあげる人種差別思想が高まっていった。世界文明の覇者であるヨーロッパ白人種の創始はアーリア人であり、ヨーロッパ文明の源流とされる古代ギリシャ文明から、アフリカ、アジア(エジプト、フェニキア)の影響を排除しようとする動きが起きた。古代ギリシャ文明は白人のアーリア人が独自に築いたもので、他の地域、他の民族の影響は一切受けていない、そしてこれを絶対に疑ってはならないとする時代の雰囲気が流行となった。その結果、古代ギリシャはヨーロッパオリジナルであり、「白い文明」であったと捏造し、ここ250年余り世界中の人々はそう思い込んで来た。

 事実はアフリカ、アジアの影響を受けて古代ギリシャ文明は花開いた。それは色鮮やかな文明だった。しかもそれは単に色がついていると言うレベルをはるかに超えて、まさに極彩色に彩られていた(もちろんあの有名なパルテノン神殿も)。この事実だけでも、十分に衝撃的に見えるが、それ以上に驚かされるのは、古代ギリシャが「白い文明」へとつくり替えられていった過程である。18世紀、考古学の父と呼ばれた、ドイツの美術史家ヨハン・ビンケルマンは“ギリシャ彫刻は人類が到達した最高の美である”“これはギリシャ人にしか成し得ない偉業なのだ”と言っている。もちろんビンケルマンはギリシャ彫刻はアフリカやアジアの影響を受け、決して白い彫刻ではなかったことも知っていたが、それを無視し、古代ギリシャ文明はギリシャ人だけによってつくられた「白い文明」であり、純粋で高度なものであるとし、古代ギリシャを極端に理想化したのに端を発し、“純粋で白い文明”というイメージは、その後のヨーロッパの台頭と歩調を合わせるように、徐々に一般に広まっていった。そして19世紀ヴィクトリア朝時代にヴィクトリア女王が結婚式に際して、白いウェディングドレスを着用したことにより「白色」の大流行となり、「白い文明」は純粋で美しく高貴なものとのイメージが確固たるものとなった。世界中の大多数の人々にとって、古代ギリシャは「白い文明」であるのが当り前のこととなり、特にヨーロッパ人にとってはギリシャ彫刻が着色されていたなど悪趣味であり、冗談以外の何ものでもないと考える様になった。次第にこれが誤った認識だと気付くこともなくなっていったのである。

 20世紀に入って大英博物館で、とんでもないスキャンダルが持ち上がった。パルテノン神殿を飾っていた、人類の至宝エルギン・マーブル(神殿の彫刻群)のクリーニング事件が起こった。金属のヘラや石の道具で彩色を削り取り、真っ白に磨いてしまった。そしてこの事件を起こした要因こそが、古代ギリシャ彫刻は白い、白くあらねばならないと言う思い込みである。この事件はむしろ良かれと思って行った節もある。悪意ではなく、時代の雰囲気がそうさせたのだ。それを裏付ける様に、19世紀から20世紀初頭には、大英博物館だけでなく、多くの美術館や博物館でギリシャ彫像が真っ白に磨かれた。

 この一連の出来事から窺えることは、歴史の真実(事実)を知る大切さと、その難しさではないかと思う。歴史は時間の経過とともに形を変えて行く場合が多々あり、既成事実となっている事象に対しても、しっかりとした学術的検証が必要である。

 最後にあの有名な「ミロのビーナス」は元は何色に彩色されていたのであろうか?

 

 

 

152回  「宗教論」その3~世界で最初に神を否定した科学者ラプラス~

 

 宗教と科学は対立する概念のように思われるが、カトリックにおいては「神」と「原理」は一つのものだった。中世と言う暗黒の時代の後に、「神の原理」の解明に挑んできた、アイザック・ニュートンをはじめとする多くの天才達。彼らは「神」が伏せたトランプを一枚、一枚めくることによって、神の領域の深層を発見し、認識しようと試みてきた。

 ニュートンが基礎を完成させた「天体力学」を細部に至るまで綿密に検証して、太陽系のすべての天体の動きをシンプルな数式で解明した、フランスの天文学者「ピエール・ラプラス」は、1799年から1825年まで実に26年の年月をかけて著した「天体力学」全五巻は、ニュートン力学を天体の万有引力と公転運動に拡張論及した集大成であり、今日でも重要な原典となっている。

 時代はすでに19世紀に入り、フランスはナポレオンの時代になっていた。皇帝ナポレオンは近代科学を愛好していて、「ラプラス」の著作にも目を通した。何しろ「ラプラス」はナポレオン政権下で内務大臣を務めるほど、政治にも熱心に関与する人物だった。

 「ラプラス」は科学史の中でも不世出の数学の大天才だったので、彼の著作は、ナポレオン程度の知識では理解不能だったと思われる。

 しかし、ナポレオンは歴代の政治家の中では造詣の深い人物であった(比較的科学に精通していた)。完全に理解していないものの、ラプラスの著作が、天体の運動をほぼ完璧に、数学的に解明している点については、正確な理解を持っていたものと思われる。

 ナポレオンは「ラプラス」を招いて、その著作を褒め称え、最後に一つだけ質問した。「君の著作に、神についての記述がないのは、どういう訳だね?」ラプラスは胸を張って答えた。「閣下、その様な仮説は不要です」おそらくこれが、世界の科学者で最初に「神を全否定」した最初の宣言であったと思われる。ラプラスの前には、神が伏せておいたトランプカードは、すべて開かれていたのだった。そしてそのカードは、整然とした見事な体系を持っていた。

 すなわち「ニュートン」が発見し、「ラプラス」が完成した「天体力学」である。この当時としては物理学そのものと言って良かった。なぜなら、電磁気学も原子物理学も有機化学も、科学者たちはその第一の扉すら開いていなかったのだから、「ラプラス」が認識したのは、科学のごく一部の「力学」と呼ばれる領域にすぎなかった。

 しかし「力学」に関しては「ニュートン」と「ラプラス」はほぼすべて解明していた。この様にカードが開かれてしまえば、その見事な体系は、自明の物と感じられる。それを誰が創ったかと言ったことは、「ラプラス」にはどうでも良いことと感じられたのであろう。二十世紀の大天才アインシュタインは「神の存在」を否定せずむしろ「神の存在」を理論物理学の研究を通してうすうす感じていたのではないかと言われている。

 私は宇宙の始まりと言われている「ビッグ・バン」の時点ですでに「神の存在」はあったのか否か?、地球が出来た40数億年前に「神の存在」はあったのか否か?、人類がこの地球に出現した数10万年前に「神の存在」はあったのか否か?大いに悩める問題に思えてならない。

 

 

 

151回 「ゆとり教育」その6~フィンランドの教育の実像~ 

 

 2~3年前まで国際学力テスト(PISA)でフィンランドは連続して総合1位だった。日本ではフィンランドの教育を賞賛する余り、「競争をやめたら世界一」などと、とんでもない本まで出版されるに至った。その中に以下の様なことが書かれている。

「フィンランドでは教師が子供たちに積極的に働きかけはしているものの、最後の判断は子供たちに任されていた。いわば教師は授業を作り出すようイニシアティブを発揮していながら、管理者とはならず、子供は学習内容の取捨・選択できる主体者になっている」と。しかし、こんなことで本当に子供たちの教育が出来るか疑問である。いくらフィンランドがサンタクロースやムーミンの国だからと言って、勉強熱心な妖精ではないのだから、こんなきれい事で子供たちに学習意欲を維持することは出来ないと考えている。

上記の本では「フィンランドの教育は競争を排除しているから素晴らしい」と言っているが、しかしフィンランドでは全国統一の認定試験に合格しなければ、高卒であっても高校卒業資格を得ることは出来ず、大学進学への道は閉ざされる。

フィンランド教育の実像は大筋は以下の様なものである。

①自分たちの国が国民全体として世界の中で経済競争をし、この競争に勝ち残らなければ国家の存亡が危ないと言う認識を子供たちに持たせる。

 ②国内においてより高度な学習をした方が、人生を有利に生きることが出来る。つまり、学歴社会であると認識させる。

 ③フィンランドの学校は不勉強な子供が怠けたままでいることを許さない。授業中騒いで授業を妨害するなど、とんでもない行為であり、決して「落ちこぼれ」に優しいわけではなく、むしろ「落ちこぼれを許さない為に手厚く、厳しく勉学の指導を行ない、義務教育であっても落第させる場合もある。(三者面談の上)。

 ④高校以上の上級学校の進学は入試試験がなく、すべて内申書で決まる上に、先生に非常に権限があり、非行が続く生徒に対して最長3ヶ月の出席停止にさせることも出来る。規則を守らない生徒には学校の敷地に入ることの禁止も出来る。

 ⑤フィンランドと言うよりは、日本以外のすべての国の公教育で行なわれていることであるが、フィンランドの公民教科書の中では安全保障の目標を「いかなる状況にあっても、フィンランドの独立とフィンランド社会の基盤を保障すること」として国防意識をしっかり育んでおり、「国防は国民全体の義務」だと明記している。

 フィンランドは自然には恵まれているが、天然資源に乏しい小国であり、国の発展の為には科学技術立国以外に生きる道はない。それゆえしっかり勉強しなさいとの教育方針であり、第二次世界大戦後は長くソビエトの属国の様な状態に置かれた為、国防教育にもしっかり力を入れているのが実情である。

 私は日本の「ゆとり教育」の中で大きな欠点は、日教組を恐れて、個々の先生に確固とした権限を持たせていないことと、子供たちに対して日本の独立と平和を維持する為の国防教育をしていないことと考えている。

 

 

 

150回 「のどかなニュージーランド事情」                    

 20年前からニュージーランドのクライスチャーチで海外生活を送っている友人の嘆きを書いてみたいと思います。

 彼の家の壁紙が古くなって業者に頼んだら、さっそく朝9時に3人の職人がやって来て仕事をやり出したのですが、10時半頃休憩をとりお茶を飲んで、それも30分休むそうです。さあこれからうんと仕事をしてくれるのかと思うと、12時にはきっちり仕事をやめて昼食をとり、1時半頃から又仕事を開始したかと思うと、3時に又お茶の時間を30分とり、さあピッチを上げて仕事をしてくれると思っていると、5時にはさっさと帰り、こんな日の連続で、仕事がはかどるとか、はかどらないとかそんな問題ではなく、まったく日本人と違って勤労意欲がまったくなく、イライラして見ていて、体調を悪くしたそうです。

 彼によれば、ニュージーランド人の月曜日は、週末の休日を遊びすぎて一日中仕事にならない、火曜日も午前中はまだ疲れが残っており火曜の午後からエンジンがかかり、水木と働き、金曜日には週末が気になってそわそわしだし仕事にならない、これがニュージーランド人の生活スタイルだと話していました。ニュージーランド人は、週5日働いているが、実質働くのは1週間で2日半だけではないかと友人は嘲笑気味に話していました。

 ニュージーランドは、日本と同じ大きさの国土に300万の人口しかいません。天然資源も食料も豊富にあり、余り働かなくとも豊かな国で日本みたいにひっちゃきで働く必要がなく、安全保障もしっかり確立しており、なんとも羨ましい国です。

ただし私みたいに青い灯、赤い灯が好きな人間にとって時には地獄と思えるかも知れない。クライスチャーチですら夜は真っ暗でちょっと酒場で一杯という訳にはいかない。日本で山奥に住んでいる状態だと考えれば良い。早寝早起きの健康生活そして家庭を愛する人には向こうの生活は快適かも知れない。安くて広い家、プール付きの広い庭、安い食料品、自然に囲まれかつかなり文化的な生活が送れるニュージーランドの都会で永住しようとリタイアした日本人夫婦が大勢やってくるとのこと、昼の生活はそこそこ人や車の往来もあり孤独感はないが、夜はそれこそ真っ暗。ただ家の中でじっとしている生活に耐えきれなくなって23年で日本に戻る人が大半だと友人は言っていた。しかし自然と孤独が好きな人にはニュージーランド生活はおすすめと言える。

 

 

 

149 回世界にユニークな大学と研究所物語その1 

 

「日本にも世界レベルの大学院大学開学」               

  私は科学雑誌に以下の様な募集広告を見て、一瞬海外の学校かと思ったが、れっきとした日本の大学の募集であった。

 -募集要項-

出願期間  受付中~2013531日(日本入国ビザが不要な方)

出願書類  ・成績証明書及び在学証明書または卒業(卒業見込)証明書

         ・小論文(英語400字以内)

         ・パスポートのコピー

         ・推薦状2通以上

         ・TOEICもしくはIELTSのスコア

沖縄本島中部の恩納村に位置する沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、美しい珊瑚礁の海を臨み、亜熱帯の豊かな森に囲まれた大学院大学です。OISTの教育研究活動は、神経科学、分子・細胞・発生生物学、数学・計算科学、環境・生態学、物理学・化学の5分野に大別され、学内の公用語が英語という環境の中で、分野の壁を越えた共同研究や交流が推奨される学際的で先端的なものです。20129月には単一の研究科と専攻(科学

技術研究科科学技術専攻)を提供する5年一貫制の博士課程が開設しました。OIST博士

課程プログラムや研究内容など、詳細はOISTホームページをご覧ください。(http://www.oist.jp

 

沖縄科学技術大学院大学(OISTと以下略)は日本国内より海外で存在を知られる大学だろう。昨年11月に開学し、昨秋から大学院生の受け入れを始め、本格的に大学院大学として活動を始める。すでに200名の教員と研究者が(その2/3が外国人)、100名を越える研究支援スタッフと事務職員が働いている。5人のノーベル賞学者が参画しており、その内の一人のOIST の理事をつとめる理化研の利根川進脳科学総合センター長は「なぜ理事を引き受けたのか」との問いに対して「日本の大学を一から作り直すことはできないが、OISTならトップダウンで真に新しい創造的な研究環境を生み出すことができる」と答えた。

OISTは国立大学法人ではない、沖縄科学技術大学院大学学園法と言う特別な法律を根拠に設立された私立大学である。資金は内閣府沖縄振興局から予算配分を受けている。しかし、課題もある。研究費も内部資金も現在のところは手厚いが、新しい大学ゆえに外国人や若手の教員・研究者が多い為に競争的研究資金を獲得するハードルは高い。「まず古手の研究者がどんどん競争的資金をとっていかなければならない」と副プロボストの銅谷教授は言う。「沖縄の地域振興はOISTにとって世界レベルの研究機関になる以上に時間がかかる問題かもしれない。まず世界に冠たる研究機関になることだ。世界から注目され研究者が多数出入りする研究機関になれば、沖縄への注目は自然に高まるはずだ」と話す。

J.ドーファン学長(米スタンフォード大学線形加速器センター所長をつとめた物理学者)は以下の質問に熱く語っている。

(大学が長期的に目指す目標は?)

「研究と教育で世界最高水準の大学になるとともに、沖縄の持続的な発展、ひいては日本の発展再生に寄与することだ。世界の学術界や産業界で活躍できる若い人を育てることにある」と。

(大学の特徴は?)

「学際的な研究活動を重視している点だ。イノベーションや発見は学問がオーバーラッップする部分で生まれており、世界の大学では学際的な研究ができる様に組織を見直す動きがある。我々は新設なので非常に有利である。まず学部そのものを持たない、キャンパス内も研究者が自然に交流し会話を交わす設計にした。実験装置も可能な限り共有スペースに置いた。研究者達がそこで交流し、機器の使い方のノウハウを交換する様に促している」と。

最後にOISTは日本の大学制度に日本人自身が大きな風穴をあけたと言える。今後日本の

研究機関や大学にドラスティックなイノベーションが続々と行なわれるであろう。期待しようではないか!!

 

 

 

 

148   名著探訪その5 「経済学」 ポール・サムエルソン著        

 

 1960年代1970年代に文系であろうと理系であろうと、マルクスとサムエルソンの名前を知らなかったら、モグリの学生であり、経済学を勉強した現在60歳以上の人は決して忘れられない名前である。そして当時の日本で近代経済学を学ぶというのは、岩波書店から刊行されているサムエルソン執筆の「経済学」の翻訳を読むことだった。非常に平易に書かれており、解りやすい。原書は初版1948年から絶版となった1980年代まで実に400万部以上を売り上げた大ベストセラーであり、近代経済学を代表する教科書となった。サムエルソンのこの本はケインズ経済学と新古典派を総合したものであった。

 サムエルソンの業績の1番は物理学を経済学に導入(輸入)したことである。つまり、19世紀末から20世紀にかけて解析力学が発達してきた。解析力学とは、物理学の問題をより一般的に解く方法である。バーコフ・システムは、解析力学発達の極みである。バーコフ(アメリカの数学者)は物理学の問題とは、n個の物理変数のあいだの相互連関関係(例:n体問題)を解明するにありと定式化した。そしてこの問題を、連立微分方程式のシステムによって実現した。この連立方程式を解けば、物理学の問題が解けるわけである。サムエルソンはここに目をつけた。経済学の問題とはn個の経済変数のあいだの相互連関関係を解明するにある。サムエルソンはこの問題をバーコフ的連立微分方程式のシステムによって表現した。この連立微分方程式を解けば経済の問題は解けるのである。

 サムエルソンは解析力学の方法を導入して、価格形成の理論を構築し、歴史的業績をあげた。サムエルソンの業績によって経済学は飛躍的進歩を遂げた。少し前までは、経済学は他分野の科学者からはフェアリー・ストーリー(おとぎ話)と嘲笑されることもたびたびあったが、しかしサムエルソン以後は、押しも押されもせぬ、確固とした科学として認められる様になった。この業績によりサムエルソンは1970年にノーベル経済学賞を受賞した。そしてアメリカを代表するケインズ経済学者として、揺るぎない地位を確立した。その後1965年当時のインフレ率が2%程度だったものが、1975年にはインフレ率が9.1%、そして経済成長率がマイナス0.4%しかも失業率が8.5%に達し、いわゆる「スタグフレーション」、景気後退とインフレーションが一緒にやってくる現象だったが、アメリカ版ケインズ経済学者達はこの現象をうまく説明出来ず、その上、反ケインズの旗手、シカゴ学派の中心人物ミルトン・フリードマン(1976年ノーベル経済学賞受賞)はケインズ政策を批判し、アメリカのケインズ主義を崩壊状態に追い込んだ。そして、1970年代にはサムエルソンに代わってアメリカ経済学の中心的存在となり、新自由主義と呼ばれる様になる政策提言を多く行った。フリードマンの具体的政策提案は実行に移されたが多くの結果は余りパッとしなかった。フリードマンの思想が成功を収めた様に思えた分野がある。博打場と化した金融市場である。そして、フリードマンは自身の理論が原因のサブプライム問題もリーマンショックも知らないで、称賛の中で亡くなった。2008年ノーベル賞受賞のクルークマンはフリードマンのマネタリズムを批判し、「ケインズ主義は基本的に正しい」と主張、ケインズ主義復活の「のろし」を上げた。

  新版 ポール・サムエルソン 経済学(全2冊)

  1986310日 第5刷発行

 上下巻とも定価3600円 絶版

 訳 者  都留 重人

 発行所  ()岩波書店

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147  古代史探訪その4 万葉ロマン ~額田王の謎~    

 

 (天智天皇、蒲生野に遊猟する時に額田王の作る歌)

あかねさす 紫草野行き標野行き 野守は見ずや 君が 袖振る(巻120

 (訳)宮廷の人々が蒲生野で遊んだ時、人目もはばからず手を振る大海人皇子を額田王は野守が見ていますよとたしなめる。

(大海人皇子の答ふる御歌)

紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも(巻121

(訳)紫草のように美しくにおいたつあなたを憎いと思うならば、人妻と知りながらこんなにも恋しく思うものだろうか。

 上記の歌は万葉人のおおらかにして、豊潤な詩情にふれる典型的な歌であり、50年前高校の先生は授業の中で、天智天皇と弟の大海人皇子と額田王は三角関係にあり、大海人皇子と額田王の間に十市皇女を生んだとされ、その後に天智天皇の後宮に召されたと推測されていると語っていた。

 先生言わく、これらの歌は忍ぶ恋を表現したものであり、古代にこんなにすばらしい恋が存在していたのだと教えられ、古代人も現代人も心情はなんら変わりないと認識したのが思い出される。またオレも大学へ行ったらこの歌に負けないすばらしい恋をしてやるぞと、固く心に誓ったものだった。

 ところが今日の万葉研究は、上記の歌の解釈を全く否定しており、まず、恋歌であるならば巻2の「相聞」部に収載されるはずが巻1の「雑歌」に収載されている。蒲生野の遊猟には、天皇をはじめ有力者によって主宰された宴は、古代の文芸の中心的な場のひとつであった。この遊宴で万座の中で上記の歌が詠まれ、おそらく拍手喝采だったろうと想像出来る。自身の心情を詠んだのではなく、たんなる戯歌と見るべきである。更には大海人皇子に「紫草のにほへる妹」と歌われた「額田王」は遊猟の時点で34歳前後と思われる。江戸時代でも20歳を過ぎれば年増と言われ、古代の34歳では大年増も大年増、老女と表現した方が適切でとても男性に興味を持たれる年齢ではなく、宴席での戯歌とみる説に従うべきであろう。

 天智天皇の近江遷都の頃、後宮に召された様であるが、上記の理由で愛人としてではなく宮廷歌人としてであろう。宮廷では天智時代の開明的気風のもとに大陸的みやびの世界を和歌に導入し、優美、繊細な新風で宮廷サロンの花形的存在となった。

 中大兄(天智天皇)の歌

香具山は 畝傍雄雄しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし

古も 然にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき(巻113

 (訳)香具山は畝傍山を雄々しいと思って、恋仲であった耳梨山と争った。神代からこうであるらしい。古い時代もそうであったからこそ今の世の人も妻を奪い合って争うらしい。

この歌は中大兄皇子(天智天皇)が世間一般的なことを歌っているだけであり、近年の万葉研究(古代史研究)において、そもそも三角関係など存在しなかったのではないかと言われている。「額田王」は「日本書紀」に大海人皇子との間に十市皇女を生んだと記載があるのみで、謎に包まれた歌人で万葉集では皇極~持統天皇代の動乱期に位置づけられる。

最後に「額田王」は美人だったと書かれた文献はどこにも存在しない。

 

 

 

146  ドーピング ~その負の世界~     

  

 7月に陸上短距離界のビッグネーム、アサファ・パウエルとタイソン・ゲイの二選手は、過去に保存されていた検体から禁止薬物が検出され、8月のモスクワの世界陸上への出場をとりやめたと言うニュース報道が入って来た。

 通常アスリートは強くなりたい、勝ちたい、パフォーマンスを高めたいとの思いから、トレーニング方法(肉体的・精神的)・食事・ウェアー・サプリメント摂取等の改善・改良により、運動能力を効率よく向上させる試みを日々行っている。これらとドーピングとは何が違うかと言えば、ドーピングには明らかな副作用が存在する。

 ドーピング(doping)の語源は、アフリカ南部の原住民カフィール族が祭礼や戦いの際に飲む強いお酒“dop”と言われている。これが後に「興奮性飲料」や「麻薬」の意味に転化されて用いられる様になった。

 ではドーピングの種類について簡単に説明してみよう。

 ①筋肉を増強・肥大するもの

  テストストロンに代表されるステロイドホルモンでアナボリックステロイドと呼ばれており、筋肉のタンパク質合成を通常のトレーニングでは考えられないくらい増大させる。ドーピングでは最もポピュラーで、経口投与から注射まで多岐にわたる。

 ②興奮状態にさせるもの

  エフェドリン・シプトラミンがあり、興奮状態では生理的抑制が小さくなり筋力発揮が大きくなったり、よりアグレッシブなパフォーマンスが可能となる。

 ③持久力を増強するもの

  持久力向上の為、自己血をあらかじめ採血しておいて保存、試合直前にそれを輸血して赤血球を増加させる血液ドーピング、又エリスロポエチン投与により赤血球の産生を促すホルモンドーピングもある。

 ④精神を安定させるもの

  精神安定剤の投与により、射撃やアーチェリーでの緊張による手の震えを抑える。

 ⑤遺伝子操作をするもの

  遺伝子操作によって筋力・筋量・持久力を劇的に向上させる。副作用については現在のところわかっていない。通常の方法では尿や血液から検出されず、反ドーピング組織はその対応に奔走している。

 ドーピングと言っても以上の様にいろいろな種類があるが、今回は最も使用頻度が多く、重大な副作用のあるアナボリックステロイドについて述べることにする。

 ⓐ肉体的副作用

  最も一般的な副作用は血圧の上昇とコレステロール値の上昇である。更には循環器疾患、肝臓障害のリスクを増大させる。時には心不全などによる突然死を招くこともある。また、筋肉だけを増大させるわけではなく、目的でない内臓や諸器官も増大させる。(眼球すら肥大してしまう)

 ⓑ精神的副作用

  ステロイド長期ユーザーは攻撃性の上昇・いらいら感・うつ病・依存症等の発症などがある。それ以外にも妄想が強くなったり、自殺傾向も見られる様である。

 最後に世界的アスリートになれば、名誉も富も手に出来る。だからドーピングをやってでも強くなりたいとの思いは理解出来ないわけではないが、ドーピングによって突然死するケースは多数出て来ている。(ソウル五輪の女子陸上短距離の花F・ジョイナーも10年後突然死)又、検体は数年間保管されており、引退しても数年間はチェックを受けることとなる。アメリカ陸上の名花マリオン・ジョーンズに致っては、ドーピングでの偽証罪により数ヶ月間収監され、名誉も富もすべて失った。更にツールド・フランスを7連覇の偉業を成し遂げたアームストロングも過去のドーピングが発覚してすべてを失いつつある。野球界では、偉大な業績を残したロジャー・クレメンス、バリー・ボンズ、サミー・ソーサ、そしてマーク・マクガイアいずれも野球界からほとんど追放状態で、名誉ある「殿堂」入りは永久にないだろう。そして日本の我らの「イチロー」は確実に「殿堂」入りするだろう。

 85日米大リーグ機構はヤンキースのA・ロドリゲスを禁止薬物摂取により88日から2015年の開幕まで出場停止とした。

 ドーピングに未来はない!!

 

 

 

145  良書探訪その4 「バカに民主主義は無理なのか」 長山 靖生  

  

 書店で過激なタイトルの本書を目にし、パラパラとページをめくり、おもしろそうなので購入した。一読して濃い内容と、確固とした主張に圧倒された。私にとって民主主義は当たり前の様に考えていた制度だったが、私達日本人にとっては扱いにくい制度なのかも知れないとさえ思える様になった。

 本書の80%は、日本の民主制が危機に陥った理由の分析、民主制の歴史と展開、日本国憲法の問題点、戦後政治の分析と問題提示の後にいよいよ圧巻である言うは易し行うは難しの民主主義論の展開となる。以下詳述する。

 福沢諭吉は明治の初期において、日本人は「独立心」と「科学的思考」に欠けていると指摘し、これは現代日本にもそのまま当てはまる。日本人の「独立心」のなさについては福沢に限らずその後もたびたび言われてきたし、多少は自覚があるだろう。それでも独立した自己を確立することよりも、「みんなと一緒」の「友愛」を重んじていれば大丈夫と言う価値観に支配されているのが日本人だ。

 一方、「科学的思考」については、それが欠けていると言う自覚は現代の日本人にはあまりない様だ。それどころか現代日本人は「日本人は理数系に強い」と思っている。更には日本人は他民族よりも優れているとさえ思っている。たしかに日本人の計算能力は結構高い。だがそれだけで数理学的な論理思考を身につけていることにはならない。ここで言う「科学的思考」とは、必要なデータを取り揃えて検討し、私的欲望から公的願望、更には理想主義にいたるあらゆる恣意を排除して、事実そのものを構成する理論を明らかにしようとする、「合理的思考」のことだ。

 「科学的思考」は既成概念や神話を排除する思考である。更には「事実そのもの」に基づいて思考する態度であり、自らの願望や世間の思惑を排除して、不都合な真実から目を背けない思考である。自然科学上の事実を無視して、自然法は成立しない。慣習法(正政、実権政)から自然法(民主制、人権重視)へと言う意識改革は、既得権者や知識人のそうした自覚なしには進まなかった。

 また「法の下の平等」は、私的感情に左右されずに冷静に事実を見つめることによってしか保たれない。しかし日本では、どうもそのあたりが曖昧で、情味があるのがいい政治だと思われている節がある。そしてしばしば「情味」とは「お目こぼし」のことだと思われている節がある。しかし見て見ぬふりをしたって、現実は何も変わらない。ばれると大騒ぎして、ばれない間は「信じていて」と言うのは、国民も政治家もやめた方が良い。もっと腹が立つのは電力事業を生業としている企業が原発事故に際して「想定外」と主張し、監督官庁の「承知しておりませんでした」と言い訳する無責任な態度だ。著者は「反原発論者」ではないとはっきり明言した上で、現在の科学技術の水準から言えば、「安全な原発」をつくることは不可能ではない、原子力工学の火を消してはならない(学術研究と研究者育成の為)、また、福島の第1原発のみならず老朽原発の廃炉処理の為にも研究開発を更に活発化させる必要がある。東日本大震災の影響で、東電の福島第1原発がメルトダウンし、大量の放射性物質が飛散した。この事故では多くの日本人が思考停止状態に陥った。「科学的思考」のメルトダウン、つまり欠落であった。

 著者は言っている。安全性よりも経済効率を重んじたら、「安全な原発」はできない。できるのは「経済的な原発」だけだ。我々国民が心配しなくてはならないのは、科学技術レベルではなく、コスト優先の企業体質だと。最後に「科学的思考」なしには「安全な原発」は言うに及ばず肝心要の「民主主義」さえ無理なのではと???。

 

長山靖生(ながやまやすお)               光文社新書

1962年茨城県生まれ。評論家。歯学博士。鶴見大学     2013120日初版

歯学部卒業。歯科医のかたわら、文芸評論、社会       820円+税

時評など幅広く執筆活動を行っている。1996年、

『偽史冒険世界』(筑摩書房)で第10回大衆文学

研究賞を受賞。2010年、『日本SF精神史』(河出

ブックス)で、第31回日本SF大賞、第41回星雲

賞を受賞。著書は他多数。

 

 

 

144回「レオナルド・ダビンチ考察」その2  宿命のライバル・ミケランジェロとの対決

       

 1503年春「レオナルド」はチェーザレ・ボルジアへの仕官を終え、フィレンツェに戻って来た。芸術家として油の乗り切った51歳であった。一方「ミケランジェロ」はローマであの有名な「ピエタ」を完成させてフィレンツェに戻り、「ダヴィデ」を目下製作中で、新進気鋭の29歳であった。1503年から1505年はフィレンツェが生んだ二大巨匠が、共にフィレンツェに滞在した奇跡の2年間と言われている。

 実はこの2人、生まれや性格、考え方など何から何まで正反対で知る人ぞ知る犬猿の仲であった。フィレンツェ政府は2人の滞在を知り、千載一遇のチャンスとばかり、この二大巨匠を絵画で直接対決させようと、ある企画をたてた。それが、政庁舎内の大会議場(現ベッキオ宮殿・五百人の間)の壁画で、レオナルドはテーマとして「アンギアーリの戦い」ミケランジェロは「カッシーネの戦い」を選んだ。

 2人にとって絵画での対決など生涯二度とないチャンスにお互い、相当な意気込みであったことは想像出来る。またフィレンツェ市民にとっても世紀の対決に、町中この話題で持ちっきりであり、固唾を飲んで見守ったであろう。先に仕事を依頼されたレオナルドは、原寸大の(11×20m)カルトン(下描き)を描き上げた。それは「軍旗を争奪する」シーンで、混乱する馬と人が複雑に絡み合い、「戦争の狂気」が主題の画期的なものだった。一方ミケランジェロは「敵の急襲を知り、慌てて水浴びをやめて川から上がり身支度する兵士たち」と言う男性の裸体がひしめく構図を練り上げた。

 この2つのカルトンは、ルネサンス絵画に大きな転機をもたらしたが、レオナルドは画材及び描画方法の失敗、ミケランジェロはローマ教皇に召還されたことなどから、この大壁画は完成されることはなかった。50年後、途中で放棄された壁画はコジモ一世の命令でヴァザーリの筆によって、完全に覆われてしまった。

 以上の様に世紀の対決は残念ながら中断中止となってしまった。未完ながら2人の躍動感に満ちた力作に感動させられる。

        

ルーベンス ダビンチによる         サンガロ ミケランジェロによる「アンギアーリの戦い」模写          「カッシーネの戦い」模写 

 

 当時レオナルドはミケランジェロの様な彫刻家の仕事を「ほこりにまみれて、泥の様な大汗をかき、顔はベトベト、全身大理石の粉だらけで、まるで新入りのパン焼き職人のようだ」「彫刻なんてものは、もちが良い以外、他に取り柄のないものだ」「高貴な人の芸術ではない」と言い、一方ミケランジェロの方でも「絵画などは、女子供に似合いの芸当だ」「オレみたいに少しは体を張った仕事をしてみろよ」と互いに自分の芸術の優位性を主張し張り合っていた。

 以上は表面的表現であり、本当の2人の心の深層に迫ってみることにしよう。

  ミケランジェロは心の中では「レオナルドよ、次々と君は理解のあるパトロンにかかえられ、絵をまったく描かなくても生活は保障されているとは言え、一体毎日毎日大し

て絵も描かないで何をして過ごしているんだ。朝から強い酒でもあおって一日中ラリっているのか。君ならヨーロッパ中をうならせる様な作品を多数描けるのに、まったく才能の持ち腐れだよ。それに君は私と同様に建築に興味があるそうだが、君は例によって

机上の空論で何一つ実現させていない様だが、私の設計したサン・ピエトロ大聖堂のクーポラ(ドーム型の屋根)は実現完成させているよ。ローマ市民は私のことを実行のミケランジェロと呼んでいるよ。まぁ君はさしずめ未完のレオナルドだなと、頭でっかちのレオナルドを非常に毛嫌いしていた!!」と推測出来る。

 レオナルドは心の中で「ミケランジェロよ、君は確かに芸術的才能はある。専門外の絵画(システィーナ礼拝堂の天井画)でもすばらしい業績を残している。ひょっとしたらオレ以上かも知れないことは認めるよ。しかし今はルネサンスなんだよ。このルネサンスの意義を考えたことはあるかい。芸術なんてものは10番目の才能なんだぞ!!こんなもんいくらやっても世の中の進歩にはつながらない。芸術は目の保養であり心のオアシスみたいなもんだよ。大切なのはサイエンスだよ。オレみたいに1番から9番目の才能のある人間は、芸術方面はそこそこにして他の才能を発揮した方が世の為、人の為って言うもんだよ。これから200年後の未来にアイザック・ニュートンと言うイギリス人が「万有引力の法則」とやらを発表するかも知れないが、数式にして残さなかったが実はオレが第1発見者なんだぞ!!又、オレが写した人体解剖図は未来の医学の進歩にどれだけ多大な貢献をしたか、ミケランジェロよ君には想像だに出来ないだろう。更には大きな祝典、祭典まぁわかりやすく例をあげればオリンピック等のイベントのプロデュースなんかもオレは得意で随分頼まれやり遂げたよ。精神分析医のフロイトに言わせればオレ自体は人より100年いや200年先を行っていると断言してるってよ。言い忘れたが、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」の天井画の中に、君に意地悪していた当時の儀典長チェゼーナ、彼を君は地獄の番人のミノスとして描き、その上彼のペニスを蛇が飲み込んでいる構図にした。なんてすごい皮肉とリベンジにエールを送りたい。見直したよ!!(面白いことに、ローマ法王はミケランジェロの弟子に腰巻きを加える様に命じた。この命令に従った弟子を当時のフィレンツェ市民は「ふんどし屋」と呼んで蔑んだそうである)気性は合わないがお互い刺激し合って頑張ろうぜと、芸術しか出来ないミケランジェロを見下していた!!」と推測出来る。

 

 

 

143   世紀の発明か? ~夢のがん万能薬~

                 

 5月にNHKスペシャル「病の起源2013がん~人類進化が生んだ病」の放映(約50分)を見て、椅子から転げ落ちる位びっくりし、敬嘆させられた。そして人類もついに「がんの万能薬」を手にし、がんを制圧出来る日も近いのではないかと思った。

 今日まで数十年間、世界中の俊英な研究者が、それこそ束になって、あらゆる方法(手段)で、血まなこになって、必死にがんを研究し、がん制圧を試みて来た。そして約4050年前からは「がんの万能薬」などあり得ない、なぜなら一口にがんと言っても種類とその性質の違いから治療効果に違いがあり、「がんの万能薬」などと言えば、今では眉唾ものとして取り扱われて来た。それどころか、すべての抗がん剤はまやかしだと主張している医者もいる。しかし私は番組を見終えてまず思ったことは、過去から現在までのがん研究者達のほとんどは「木を見て森を見ず」の例えの様に、がんの本質を見誤って来たのではないか、つまり真のベーシック・サイエンスに立脚した研究を行って来なかったのではないかとさえ思えた。がんの脅威のすごさにただただ恐れ、驚き、何んとかしなくてはとの脅迫観念から方向性を見失い、無我夢中で対称療法的研究に終止して来たのではないかと?。

        

FAS阻害薬投与前のがん細胞         投与1日後のがん死滅状態

 

さて本題に入るが、番組では人類の祖先は約700万年前にチンパンジーと共通の祖先から枝分かれしたとされている。そして現在チンパンジーのがんによる死亡は2%以下、日本人は30%ががんによって死亡している。この違いはどこから来ているか、700万年前まで遡り、科学者達はその謎をひもといていった。番組の内容を要約して見よう。

 人類は二足歩行によって行動範囲が広くなり、交尾の形態に変化がおこり、オスの精子の産出能力は格段に進歩・増加し、爆発的繁殖期を迎えた。その時がん細胞は精子の増殖と同様のメカニズムを取り入れ、増強能力を向上させた。次に180万年前頃になると人間は目的に合わせて、自由になった両手で石器をつくる様になり、それに伴い人類の脳は巨大化した。ダブリン市立大学のメアリー・オコーネル博士はFAS酵素(Fatty Acid Synthase)が知性の変化・脳の巨大化に大きな働きをしていることを発見した。ところがトレード・オフがおこり、がんのFAS酵素も活発化し、がんのリスクは増大した。

6万年前には人類は、紫外線の強いアフリカから出て世界各地にちらばり、紫外線の弱い地域にも住む様になり、がん化を抑制するビタミンDの不足により、がんのリスクは高まった。18世紀に入ると産業改革により、がん起因物質であるアスベスト・ダイオキシン・タバコ等をつくり出し、がんのリスクが高まった。又、エジソンの電球の発明にはじまるエレクトロ革命により、人間のライフスタイル(暗くなれば眠る習慣等)の変化により、がんを抑制する効果のあるメラトニンの産生が減少し、がんのリスクは高まった。

以上、人類の進歩は又がんのリスクを増大させる歴史であったとも言える。

さて、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学のガブリエル・ロネット博士のチームは、ほとんどすべてのがん細胞の中に上述のFAS酵素が大量に存在していることを約20年前に発見した。FAS酵素は細胞分裂に必要な脂肪酸を合成する働きがあり、このFASの働きを抑制(阻害)すれば、がん細胞は増殖出来なくなるのではないかと考え研究した。がん細胞はFASをエネルギーを貯蓄する為に使うのではな

く、まったく別の利用の仕方をしていた。FASがつくる脂肪酸をがん細胞が分裂する際のエネルギーとして使っていた。がんの増殖にはFASは欠かせない物質で、この物質こそががんに旺盛な増殖力をもたらしていることを突き止めた。だとすれば、FASの働きを抑制(阻害)する薬がつくれたら、がんの増殖を防ぐことが出来る。その上正常細胞にはFASは存在しないから副作用はまったくない。そしてFAS阻害薬を探し求めて、約20年の間につくった試薬は数百種に及んだ。その中にFASを阻害する効果が認められる「C-31」と番号をつけたFAS阻害薬をつくり上げた。マウスに人間のがん細胞を埋め込み、FAS阻害薬ががん増殖を抑制する効果を証明した。

  特にFAS阻害薬が注目されているのは、これまではがんの種類や性質の違いで、今日までの抗がん剤は効果に著しい差異があったが、これはほとんどすべてのがんに効果がある点である。

 こうやって文章にして見て、マウスに良く効いて、人間には余り効かない抗がん剤が何百種とあることを思い出すと少し不安が頭をよぎるが、現代は人間が火星に行こうとしている時代だ、「がんの万能薬」が出現してもおかしくないのだと、自分自身に言い聞かせている。夢でないことを祈念し、期待したい。本物なら上記2人の女性研究者はノーベル賞の栄誉に浴するのは確実である。治験の結果を心待ちにしている。

 

 

 

142 End Of The Universe(宇宙の終わり)              炭谷 亮一

 宇宙の初まりは、ビッグバン理論によると、宇宙は超高温・超高密度の極小(原子よりも小さい)の1点から誕生し、それ以来現在まで約138億年の時間が経過していると言われている(今年3月にヨーロッパ宇宙機関が137億年を138億年に訂正)。

 地球が誕生した約46億年前そして人類の祖である猿人が誕生したのが約700万年前、何故この地球だけが、酸素と水にあふれ、生命が存在する“奇跡の星”となりえたのか、この地球上で約33億年間も単細胞状態だった生命体が人類にまで進化出来たか、多くの謎があり科学者達はその解明を試みている。

 さて、アインシュタインの一般相対性理論に初まった宇宙論は、ここ100年の間に飛躍的に進歩し、宇宙そのものの初まりをほぼ解明しつつある。そして何んと何んと宇宙の終わり(End Of The Universe)をも解明しようとしている。

 現在わかっていることは、どうやら数百億年後には私達の住んでいる宇宙は終わると予想されている。そしてその終わり方には以下の2つの有力な説が存在する。

 ①Big Freeze(凍りつく宇宙)

 ②Big Rip(引き裂かれる宇宙)

Big Freeze 凍りつく宇宙とは、どんな状態なのか述べてみよう。1929年にエドウィン・ハップルは宇宙の観測により遠方の銀河がその距離に比例する速さで遠ざかっており、この事実により宇宙空間そのものが膨張している。つまり宇宙の膨張を発見した。その結果宇宙には初まりがあったことも発見出来た。最新の研究成果で宇宙の全エネルギー量のうち、73%が暗黒エネルギー、23%が暗黒物質そして4%が普通の物質となっている(暗黒エネルギーと暗黒物質は相反する力)。ひたすら宇宙が広がり永遠に加速膨張を続けた場合、暗黒エネルギーが膨張によってエネルギー密度が変化しない場合、加速膨張がいつまでも続き、膨張速度が徐徐に速くなっていく宇宙を待っているのは、銀河と銀河の距離が遠く離れ、ブラックホールも蒸発して空虚な宇宙となり、すべてのエネルギーが失われ、絶対0度(-237℃)で凍りつき、わずかな素粒子(ニュートリノや電子)だけが飛び交う宇宙になってしまう。

もう一方のBig Rip 引き裂かれる宇宙とは、宇宙が膨張とともに暗黒エネルギーの関与が更に大きくなる場合、つまり暗黒エネルギーが生み出される速度がより速い場合は、膨張が急激に進み、ある時点で膨張速度が無限大になってしまう。そうすると、あまりの加速に一つ一つの銀河はバラバラに引き裂かれ、さらには銀河の中の星もバラバラに引き裂かれて原子となり、最終的には原子さえもバラバラになってしまう。

宇宙には暗黒物質(重力・引力)と暗黒エネルギー(膨張力)の存在がわかって来たおかげで、宇宙の膨張速度が速くなる理由もわかって来た。宇宙の未来はいずれにしても膨張が続く中で、膨張速度がどれくらい速くなるのかがカギとなって来る。膨張速度が一定の範囲内であればBig Freezeに、膨張速度が無限大になればBig Ripになってしまう。現在はそのどちらかであろうと考えられている。

我々人間社会での格言に「物事には初まりと終わりがある」が存在する。そしてこの格言は宇宙にも当てはまるとは驚きである。

 

 

 

141 回 「たまにはロータリーの話を」 

 

  ロータリー精神の根本には、キリスト教がベースになっていることは以前からある程度理解していました。しかし、詳細や確固とした認識はなく、ガバナー退任後に「宗教」や「哲学」について考察を試みた中で「ロータリー」について以下の2点を理解するに至りました。

  第1点として、キリスト教は大別してカトリックとプロテスタントがあり、ロータリー精神はそのうちプロテスタントの教理をベースにしているということです。カトリックの様に神父というエリートが一般庶民を救いに導くという構造から脱して「誰でも日常生活の中で神による救いを得ることができる」と主張したプロテスタントは、結局、自らの救いの道を自ら日常生活の中に見出さなければならなかった。そこで彼らは必然的に、自らの「生業」を救いの道とすることとなる。したがって、プロテスタントの人々は、神に仕える修道士の如く、日常生活の中で自らを厳しく律し、またそれぞれの職業と修行僧の様に直向きに実践することが求められることとなった。聖書に「生活規範」が書かれていないために、日常生活の中に「救い」の「証し」を見出さなければならないことになる。そこで生活倫理である勤勉、倹約、節欲の生活結果が最も反映しやすい経済活動が着目された。つまり勤勉、正直、倹約の生活がもたらす冨の増大に、神の救いの「証し」の確かさを重ね合わせるという考え方である。

  こうなると、神に仕えるが如く商売に励み、倹約によって資本を増すことこそ善であると。したがって、シェルドンによる標語“He profits most who serves best.”「最も良く奉仕する者、最も多く報いられる」の本来の意味が良く理解出来ました。

  第2点は、現在ロータリーは百年以上継続し、世界の200の国と地域に存在し、会員数は130万人に上ります。初期ロータリーは勤勉、正直、倹約、つまり職業倫理「職業奉仕」を非常に大切にし、「職業奉仕」はまさにロータリーの根幹、王道だったのではないでしょうか。日本への導入は、日本人は世界でも稀なほど、勤勉、正直、倹約的な人種です。日本人の感性にマッチし、スムーズに受け入れられたであろうと想像出来ます。ところが、プロテスタントの人々は別として、仏教、カトリック、ヒンドゥー、ユダヤ、その他の宗教の人々にとって「職業観」は千差万別ではないのでしょうか。例えば、カトリックの人々にとっては「人はパン(経済)のみに生きるにあらず」との考えが主流なのではないでしょうか。そのため、現在のユーロ圏の混乱も経済的強者ドイツ、オランダ等は、プロテスタントの国であり、弱者イタリア、ポルトガル、スペイン等はカトリックの国、以上が現実です。そこで国際ロータリーは、世界中にロータリーを広める戦略のためには「職業奉仕」のみを強調、突出させることは、障害になると考えたのでしょう。したがって、「職業奉仕」は「五大奉仕」のうちのひとつであり「五大奉仕」に優劣はないとの認識を広めようとしているようです。

  現在、ロータリーは実践的な「奉仕活動」を非常に重要視しています。国際ロータリーとは「奉仕組織」であり、自己資金で世のため、人のために「奉仕活動」を行う世界に冠たる「奉仕組織」であると地域の皆様に認識していただける様になろう。そうならなければロータリーに未来はないといっていいでしょう。そこでコリンズが唱えた“Service above self”「越我の奉仕」が現実味を帯びてきていると理解出来ました。

 

 

 

  140 回 ちょっといい本 その1 米山奨学生が書いた~わが妄想~ モハメド・オマル・アブディン

 

 今年3月に米山友愛Eクラブの創立総会に招待され出席した。その時の記念講演が米山奨学生のスーダン出身の全盲の著者であった。現在は東京外国語大学の博士課程に在学中で母国スーダンの内戦問題と平和について研究しているとのこと、当日午前中に著者の次女が誕生し、出席者全員からの祝福の拍手に満面の笑みをたたえていたのが印象に残っている。著者はなぜ日本に来たのかの経緯 ユーモラスに、そして母国スーダンの不幸な長い内戦の解決に向けての熱い思いを語り、感動させられた。本書を一読して、著者は全盲をさほどハンディキャップとは思わず、むしろそれをバネとして更にはエネルギー源として明るく前向きにしかもアフリカ人特有のおおらかさを持って、力強くエネルギッシュに生きる姿に深い感銘を覚え、一種のすがすがしさすら感じられた。著者独特の個性、感性だと思うが、日本に来て以来日本人、日本文化、日本の習慣その他著者を取り巻く環境に素直に興味を持ち、「聞き」「嗅ぎ」「触れ」何事にも勇気を持ってトライし、その結果知り、感じとった日本と日本人そして自身の経験を絶妙なタッチでつづっている。 

  著者の日本滞在は15年以上にも及び、自身も言っている様に文字通り「波瀾万丈」の人生そのものであるが、著者の人生を切り開いていく力に圧倒され、時には「抱腹絶倒」の場面に癒される。

  さて私の書評はこの程度にして、どうか百万石RC会員の皆様、本書を購入し、読んでいただきたい。決して損をした気持ちにはなりません。

  最後に日本政府の心憎い教育援助の実行にエールを送りたい。今後もこの種の援助を継続してもらいたい。

 

 

 

 

  139 回日台新時代~馬英九政権の変化~        

 

5月に尖閣諸島周辺の海域での日台漁業交渉が5年間の交渉を経て妥結し、日台漁業条約が調印され、日台それぞれの漁船による操業が共同水域で始まった。

  現在の台湾総統の馬英九は、学生時代(ハーバードで学位を取得している)から尖閣問題を研究し、靖国問題に関しても批判的だった。2005年の国民党主席選挙の折には、尖閣諸島奪還のためには、日本との軍事的衝突も辞さないと語ったこともあり、どちらかと言えば「反日」「親中国」的であった。馬英九は2008年に台湾総統に選ばれた(2012年に再選を果たしている)が、以後馬総統は日本に対して厳しい姿勢で臨んできたかと言えば、そうではなかった、むしろ日本に対して友好的と言える状況だった。東日本大震災時には、出来るだけの援助を日本に送ろうと国民に呼びかけた。

 馬英九は総統と言う立場に立つと、自分の考えや好き嫌いだけで、物事を動かせなくなったと実感しているはずである。台湾国民の多くは親日的であり、台湾の有識者や政治家にも、日本との外交関係を重んじ、中国本土に対する安全保障のひとつと考える人が多数存在している。もし馬総統が日本に敵対的な姿勢を示すと、多数の台湾国民や有識者の支持を失いかねない。総統としての地位の安定と円滑な政権運営のためには、自身の意思はともかく、日本との緊密な友好維持は絶対に必要と考えている様だ。

  馬総統は、いわゆる外省人の子孫であり、中国本土に愛着と一体感を感じており、事実2008年の総統就任以来、北京政府との関係強化を図り、特に経済交流を飛躍的に発展させ、経済的には中国本土依存を深化させた。このまま行けば北京政府が広言している様に香港の例に習って、12制度のもと中国本土と台湾が統一に突き進むとは、台湾国民の大多数いや親中国的な馬総統すらみじんも考えていない様である。

なぜなら、12制度のもと英国から中国に返還された香港の状勢を、台湾国民がそれこそ固唾をのんで注視して来た。返還前に北京政府は50年間は現状を保障すると約束したにもかかわらず、年々自由と民主主義は北京政府の圧力によって制限されて来ている現状を見聞し、もし台湾が中国本土と統一されれば(12制度のもと)香港と同じ状態になることは、火を見るより明らかであり、親中国的な馬総統ですら身震いし、統一に躊躇し、現状堅持の考えに到ったのであろう。

 更には馬総統は就任から6年目を迎えているが、主要世論調査で支持率が10%台に落ち込んでおり、依存度が高い中国本土経済の減速で主力の輸出が振わず台湾経済が低迷していることが最大の要因である。馬総統自身、対外貿易においては多角的、多元的経済交流の必要性を認識しその結果としての条約締結であり、尖閣諸島周辺の海を日台の「入会(イリアイ)制度の海」とした。

  そもそも台湾には、尖閣諸島問題に関して、北京政府と連携すると言う選択肢もあり、台湾と北京政府が共同戦線を張れば、北京政府にとっては好ましい状況であり、日本政府にとっては強力な圧力であったと思われるが、現実には馬政権は日台関係重視の方向に大きく舵を切ったと見るべきであろう。

  さて、親日国台湾とは、3年後の2016年春に「第5回日台ロータリー親善会議」を中川パストガバナーを中心に金沢に招致しようと言う試みがあり、ぜひ招致に成功して金沢で実りある「日台ロータリー親善会議」を開催したいものです。(日台ロータリアン約1,000人の参加を希望)

 

 

 

 

  138回「名著探訪その3~ローマの歴史~ セオドール・モムゼン著」

        

   20世紀とともに始まったノーベル賞だが、文学賞は作家や詩人がもらうものと誰もが思っている。ところがノーベル文学賞史上ただ一人だけ歴史家が受賞している。それはドイツの古代史家、政治家、モムゼン(18171903年)である。彼は主著「ローマの歴史」でその栄誉に輝いたのである。

  その時の競合相手があの有名な「戦争と平和」の文豪トルストイだった。従って「ローマの歴史」の文学的秀逸度が推し測れると言うものである。

  このローマ史の大著を書いたとき、モムゼンは30代にすぎなかった。今なら学者の卵と言われかねない年齢でしかない。だが、みずみずしい壮年期の筆力は鋭い洞察力と広く深い学識を感じさせながら、我々読者を圧倒し続ける。

  もともとモムゼンはローマ法学者であり、人物の背景にある国制・社会・文化を描くところに彼独特の本領発揮がある。だから、人物評価にもただ印象的な文芸作品から類推するだけではない。碑文史料も貨幣史料もふんだんに利用される。だが時としてその人物評ははなはだしく極端になることもある。

  ローマ共和政期にかぎっても、モムゼンにとっての人類史上唯一の不世出の英雄を創造力あふれる天才カエサル(シーザー)と評したのに比べて、ポンペウスは愚図であり、キケロは日和見主義のうぬぼれ屋と酷評している。

  今日まで発掘されたり発見されたりしたローマ時代の碑文は「ラテン碑文集成」として編算されてきた。その営々とした作業の基礎を築いたのもモムゼンであった。いわば現代におけるローマ史学の地ならしをした大学者なのである。この様な学者としての冷徹な分析力がありながら、現世を生きる人間として古代の為政者を見つめる時、彼自身の情念のほとばしりを抑えられないでいるところが、生身の歴史家としてのモムゼンの人間くささを我々読者に感じさせずにはいられない。

1858年以降ベルリン大学で古代史を担当、当時の大学教授としては珍しく左派自由主義の立場にたち、帝国議会議員として何ら恐れることなく熱血宰相ビスマルクを鋭く批判した硬骨漢でもあった。

  長谷川博隆訳                  杉山 吉郎 訳 普及版

  名古屋大学出版会                 文芸社

 「ローマの歴史」                 「ローマ史」

 I巻Ⅱ巻Ⅲ巻 各6000円              上下巻 各2310

Ⅳ巻 7000円                     

  長谷川訳は字が小さく分厚いため読破こちらの方はダイジェスト版で

  は大変です。                   字も大きく読み易い。

34ヶ月時間が必要です。 1ヶ月程度で読破可能。

 

 

 

 

137 回「ホリエモンのシャバ日記」                 

 

  歯のケアをすれば長生きできるらしいよ

 刑務所に長くいたせいで、口腔ケアがおろそかになりがちだった。

  なにしろデンタルフロスも歯間ブラシも持ち込めなかったので、毎食後に歯磨きをして(工場就業日の昼は磨けず)、爪楊枝で全部の歯間をゴリゴリやって、なんとか口腔ケアをやっているという状態だった。さすがに歯にはプラーク(歯垢)がつきまくっていて、茶渋などで汚れていた。

  出所後の会見の時にカメラマンが汚れた歯が見えているシーンを狙っていたのは意地悪だなぁと思ったものである。2週間ほどしてかかりつけの歯医者にやっと行けて、プラークを取ってもらい、それなりに奇麗な歯になった。

  実は四半期に1回はプラークを取りに行ったほうが、歯周病予防になるのである。ヨーロッパの一部の国は半年~1年に一度はプラークを取りに行くことが義務づけられていて、それを怠って虫歯なり歯周病になっても保険適用されないという厳しいルールを課しているところもあるくらいだ。それくらい、セルフの歯磨きでは歯周病を予防することはできない、という統計データがあるのだ。

  虫歯は治すことができる。削って埋めれば良い。そうすると、もうその部分は虫歯にならない。歯磨きの習慣を何10年も続けていれば、今まで虫歯になったことのない歯が突然虫歯になることもほぼあり得ないらしい。

  となれば一番怖いのは歯周病である。歯周病が進行すると、ある日突然歯がボコッと抜けてしまう。そうすると入れ歯かインプラントにするしかないのである。

  また、歯周病菌は口腔内から血管を通じて全身に感染し、いろいろな病気の原因になっているらしい。つまり、歯周病の予防には毎日の歯磨きやデンタルフロス、歯間ブラシはもちろんのこと、定期的に歯医者に通ってプラークを除去してもらうことが大事なのである。逆に言うと、そういうケアをしていれば歯周病が進行することはないだろう。

  更に次に怖いのが歯が割れることだ。モノを食べている分には大して加重はかからないのだが、歯と歯が直接ぶつかると、もの凄い力がかかるそうなのだ。上下の歯がダイレクトにぶつからないように緩衝的な役割をしていた犬歯がすり減って、歯軋りが激しくなり、70代近くで割れてしまうことが多いらしい。

  その予防のために、私は犬歯をレジンで継ぎ足している。また最近はマウスピースを作った。これはホワイトニングのためでもある。ホワイトニング自体が歯周病予防に役立つわけではないが、奇麗な歯になることで口腔ケアに自然と意識が向かうこともあるし、毎日つけて夜寝ている間にホワイトニングするので、歯軋りの防止にもなるのだ。

  数千円でマウスピースは作れるし、ホワイトニング用の溶剤もネット通販とかで気軽に買える。奇麗な歯になって歯周病を予防すれば高齢になっても病気と無縁だったり認知症になりにくかったり、元気で長生きする確率があがるらしいので、ぜひ読者の皆さんもこれをきっかけに目覚めてほしい。医療費の削減にも大きな効果がある。

Horiemon, you can become a nice dentist

 2013.6.14 週間朝日より転載)

 

 

 

 

136 回「古代史探訪」その3~モンテスキューの間違い~             

 

  ナポレオンがエジプト遠征に行ったのは、別にスフィンクスの顔を砲撃して壊すためではなかった。

  彼は考古学にも少し造詣があって、それでシャンポリオンみたいな学者も連れて行き、あのロゼッタストーン発見につなげた。

  シャンポリオンはそこに書かれたヒエログリフを解読して世界にその名を残すことになるが、彼自身もエジプト文明に大いに触発されて、その後も何度か足を運んだ。

  いくつかの王墓の発掘もした。そして彼はその当時の西欧人の常識を覆すとんでもない発見をしてしまう。

  彼が友人に宛てた手紙を引用すると「ある王墓に朝貢の模様を描いた壁画があった。そこでは王座につく王ファラオの肌は赤色に塗られた人物だった。白人ではなかった。そして王の前に並ぶ朝貢の列の最初には黒い肌をしたアフリカ人が描かれ・・・・・」とある。

  以下、中東やアジアの人種が並び、「列の最後尾には体中に刺青をし、動物のなめしていない毛皮をまとった野蛮人が立っていた。彼らの皮膚の色は白く描かれていた」と続く。

  神が自らに似せてお創りになった世界で一番、賢く気高いはずの白人。それが最も野蛮な未開人として描かれていたことに、彼は大いに衝撃を受ける。

  それまで欧州の白人は彼らの祖先がエジプト文明もメソポタミア文明も産み、それをギリシャ、ローマで花開かせたと固く信じていた。文明も文化も白人の特権だと。

  シャンポリオンの発見は、それを百八十度ひっくり返した。彼はその後も白人の優位を裏付ける努力をするが、調べれば調べるほど白人はずっと野蛮人という結論だった。

  シャンポリオンの少し前に生きたモンテスキューは『法の精神』の中で「黒人は人間ではない。なぜなら彼らは金よりガラス玉を喜ぶのだから」と大真面目に書いている。

  それは間違いで、実はエジプト人など褐色の肌の民のほうが文化が進んでいて白人は野蛮人だったと、白人考古学者は正面切っていえなかった。

  だからシャンポリオン以降、白人学者は極力エジプト文明を無視し、代わってやや歴史は浅くなるが、メソポタミアを白人文明の源流に位置づけるようになった。

  何より聖書にある始めての人間、アダムとイブが住んだエデンの園も、このチグリス川のほとりに位置しているからだ。人類の中で一番優れた白人はメソポタミア生まれ、と彼らは今、信じるようにしている。

  現在、人類最初の祖先とされているのはエチオピアで発見された約400万年前の女性の化石人骨で、身長1.2メートル、体重は約26キロにすぎない。もちろん白人ではない!!

 

 

 

 

135 回「宗教論」その2~中世のヨーロッパでは聖書を読ませなかった~         

 

  キリスト教はもともと地上(現世)の生活に価値を置かない、何故なら第1に神(GOD)に価値を置くからで、神はこの地上をつくった。そして今は天にいる。第2にやがてこの地上の世界は破壊されてしまう、地上が滅ぶことを終末と言う。終末の時に神の裁きがあり、許されれば「神の国」に入ることが出来る。許され救われて、神の国に入れるかどうかが、キリスト教徒の最大の関心事である。

  キリスト教・ユダヤ教・イスラム教これらはすべて一神教である、ユダヤ教とイスラム教には律法(行動規範)が存在するが、キリスト教には地上の生活を規定する宗教法がない、故にキリスト教徒は地上の生活をどう送ればいいのか、どの様な態度で過ごせばいいのか、神の考えがわからない。

  ここに聖職者の“信者”に対する、自由裁量権が生まれた。(例えば免罪符)その上「聖書・バイブル」はギリシャ語で書かれており、一般の信者は読むことすら出来なかった。しかも中世カトリック世界においては、バイブルを各国語に訳す。そんな試みは決してなされなかった。

  聖書の(各国語への)翻訳は、いわばプロテスタントのお家芸。ルターでも、カルヴァンでも、プロテスタントが、必死になって、自国語にバイブルを訳すという仕事を始めた。英訳にしても、長くスタンダードとして使われてきたのが、King James Version。ジェムス一世王は、ルターやカルヴァンとは違って、自分で訳する力はないから、たくさんの学者を集めて訳させた。勿論、英国教は、カトリックに似ているけどカトリックではありません。

  れっきとしたプロテスタントの一派。

  このように、何で、聖書の翻訳は、プロテスタントのお家芸なのか。

  中世カトリック教会においては、信者に聖書を読ませなかった。 えっ、信者に聖書を読ませないんだって。

  聖書を読むことを禁止するキリスト教なんてあってたまるか。 そう思うでしょう。

  ところが、どういたしまして。 中世カトリック教会においては、カトリック神父などの聖職者以外の俗人の信者が聖書を読むことを禁止していた。

  その理由。 聖書を読めば、「ヨハネによる福音書」の冒頭を読まねばならず、神秘主義に傾いてしまうおそれがある。神と神秘主義とは必ずしも重なるものではない。カトリック教会は神秘主義を弾圧した。神父の言うことだけを信じようと信者に主張した。

つまり聖書の教えとカトリックの教えとでは、あまりにも違う。違いすぎるため、俗人が勝手に聖書を繙いたりしたら、カトリック教会の一大事。いっぺんで化けの皮がはがされてしまう。だから、中世カトリック教会においては、聖書を読むことを禁止していたのでした。

 

 

 

 

134 回 良書探訪その3 ~中国台頭の終焉~ 津上 俊哉 著              

  

  著者の2011年出版の「岐路に立つ中国」の主張は「人民元安維持問題」「都市と農村格差問題」「官制資本主義問題」「政治の民主化問題」「核心的利益問題」「少子高齢化問題」これらの問題を解決して更なる経済成長を成し遂げられるか否か、そして2030年にはアメリカをGDPで追い越すことが出来るか否か、更には世界に冠たる大国として、世界に受け容れられる思想と理念を語れるか否かの岐路にきていると言っている。

  著者は通商産業省入省以来、長く中国関連の部署に就き、2004年には退官して、中国関連のコンサルタント会社を経営し、中国経済の実体に精通した慧眼を持ったプロの中国ウオッチャーと言える。

  まともな中国関連本の中では、著者も認めている様に弱気な部類に入る本である。前述した著書と著者が最近出版した「中国台頭の終焉」を比較すれば、中国経済についての質の高い定点観測が自然に出来る。

  著者は2007年が中国経済のピークであり、以降ピークアウトしたと見ており、中国当局の発表はさておき、いまや既に潜在成長率は5%前後の中成長時代に入っていると述べている。そして昨今の世界経済を眺め渡すと、5%成長は悪くないどころか「御の字」だが、問題は5%ですら可能性に過ぎず、必ず達成される保証はないと明確に断言している。

  短期問題ではリーマン・ショック後に政府が投じた「4兆元投資」が投資需要の先食いとなり、財源である地方政府によるファイナンスが不良債権化する懸念を指摘している。また、中期問題としては①日本でも1960年代に見られた、高度成長期における農村から都市への労働力の移動の限界点である「ルイスの転換点」の通過②都市居住者と人口の2/3を占める農民間の差別問題。これは「尖閣問題」におけるデモに絡め、分配の公平さが社会と国民の許容を超えて損なわれていること③国営企業ばかりが栄え、民間企業が衰える「国進民退」問題の以上3つを指摘している。

  長期的な問題として「少子高齢化」をあげている。中国当局は出生率について「1.8%ある」と強弁してきたが、2012年夏に発表された当局の数字は何と日本も経験したことのない「1,18%」と衝撃的に低い数字が出たのである。

  著者は以上を勘案して、以前の様な成長トレンドが期待出来ず、「中国がGDPでアメリカを抜き世界ナンバーワンの大国になる」などと言うことはあり得ないと結論づけている。更には普通の民間企業がうまく成長出来ないのは、過去10年間政府は経済成長の結果生じた富を様々な形で留保しただけでなく、税収や費用収入も飛躍的に伸ばしたが、しかし、この過程で成長果実の「官民再分配」を怠った結果、「官」への富の蓄積が進み、民間企業の発展に欠かせない資本の蓄積がうまく出来なくなっている印象がある。民間企業においては「馬鹿正直に税金を払っていたら、5年後には会社がなくなる」と言う笑えない話があり、際どい節税や脱税で「対策」をとっている企業が多々存在する。

 最後に著者は現在の中国は「国家資本主義」と言える体制でこれが高度成長期にある時にはうまく機能したが、成熟期或いは安定期に入ると、今まで国家に守られ国家に従っていれば良かった国営企業が自身で針路を決めたり、イノベーション出来るか大いに疑問だとしている。

 【著者略歴】

 津上俊哉(つがみとしや)

1957年生まれ。80年東京大学法学部卒業。通商産業省(産業政策局)入省。96年外務省に出向(在中国日本大使館経済部参事官)、2000年通商政策局北西アジア課長(現北東アジア課)、04年より東亜キャピタル株式会社代表取締役社長、現在に至る。著書に『中国台頭』(サントリー学芸賞受賞、日本経済新聞社、2003年)がある。

 発行所 日本経済新聞出版社 1900

 

 

133 回ゆとり教育 その6 「教科書検定と義務教育」           

 

  410日、衆院予算委員会で安倍首相は教科書検定基準に関し、「日本の伝統、文化の尊重や愛国心、郷土愛について書き込んだ「改正教育基本法」の精神が生かされていない」と指摘、「教科書検定」見直しを示唆した。

  さて、憲法第21条第2項は、検閲は、これはしてはならない。すなわち政治権力は、いかなる出版物であれ、公版以前に、その原稿なりゲラなりを見て、ここを直せ、あそこを直せと命じてはならないのである。

  思い起こせば、かの家長裁判(家長三郎氏は非常に力量のある歴史学者で縄文時代から近代まで一人で執筆出来る学者であった。ところが教科書検定で自身より学識の劣る、検定委員に訂正を求められ、沽券にかかると怒り心頭した結果の提訴であり、これに左翼勢力が乗っかり煽った)において、文部省による教科書検定は検閲であるかどうかをめぐって大問題となり、賛否両論がうずまいた末、最高裁の判決によって教科書検定は検閲ではないとの判決により、一応の結着を見た。当時も文部省は検定にあたって文部官僚が直接行なうことはなく、検定委員として学者、教育者、評論家などのいわゆる学識経験者が行なっていた。私自身、家長裁判は教科書検定が違憲かどうかはっきり白黒をつけ、国民に認識させた意義は大きく、敗訴したとは言え、家長氏の見識と勇気は一応評価出来る。

  さて、何故教科書に限って、いわば例外的に、公版以前にその内容をチェックし、場合によっては書き直しを命ずることが許されるか。その第1の理由は、教科書に限って、生徒(読者)に選択の自由がないと言うことである。他の出版物であれば、それこそ読者の選択は自由であり、何ら強制されない。つまりこの場合、書く自由(表現の自由)は読む自由に対応している。教科書はいやおうなく生徒に強制するものだから、教科書の執筆者には、一定の表現の自由が制限されると考えた方が妥当である。検定の第2の理由は、教科書の目的は生徒の社会化「ソーシャライゼーション」にある。すなわち日本社会で生きてゆく為に必要不可欠な情報を提供する為にある。社会化は書物・テレビ、その他のマスコミ、人との付き合いの中で自然に身につくものもあるし、更には親が子供に伝達出来る情報もあるが、しかし近代社会において、以上の方法だけでは、必要不可欠な情報が十分与えられるとは言えない。それを補完するのが学校教育である。

 教育の中立性の上にたって、教科書の執筆者に一定の表現の自由の制限は、以下の点においてのみなされるべきである。例えば、理論的または事実の誤り、程度が高すぎたり低すぎたり、内容が多すぎたり少なすぎたり、この様な事項に限定されるべきである。 

  余談になるが、民主主義が確立した国々では、ひと(子供)がどんな教育を受けるかに、政治権力やその他の権力(例えば教会)に強制されたり干渉されたりすることはない。子供にどんな教育を受けさせるかは、親の自由である。本人に判断能力と自活力があれば、どんな教育を受けるかは、本人の自由である。

  私は日本では義務教育と言っているが、その意味は国が子供が国内のどこに住んでいても、求められれば教育する義務を負っていると考えた方が妥当で、その証拠に親が子供に小・中学校に通わせず自宅で教育しても罰せられたなど聞いたことがない。(羽仁進映画監督と女優の左幸子氏の愛娘は自宅学習した。アメリカでもチューター・スクールなるものも存在する)

 

 

 

 

132回  「パンデミック」を防止せよ

                    

  今年3月末、中国上海市の男性2人と安徽省の女性が、これまで人への感染例がなく弱毒性鳥インフルエンザ(H7N9)に感染し、男性2人が死亡していたことがわかった。

  今原稿を書いている416日の時点で「H7N9」鳥インフルエンザは、中国内部にまで感染が拡大し、64名の感染者、その内14名の死亡者を出している。上記の様に感染者の死亡率は高くなっており、「H7N9」鳥インフルエンザは、変異して強毒性化したと考えられる。更に人から人へと感染する様になれば「パンデミック」が迫っていると考えて良い。この原稿は59日用なので、その頃には鳥インフルエンザが終息に向かっていることを願っている。

  近年鳥インフルエンザの「発生源」「原産地」は、ほとんど中国である。40数年前私が大学時代、あの悪名高き731部隊の元メンバーだった細菌学の教授が講義中に、中国は細菌学の宝庫であると述べていたのが思い出される。

 現在なぜ中国が鳥インフルエンザの宝庫なのか考察を試みた。それは中国人の食生活の中にウイルスが「変異しやすい環境」が存在する様だ。古来から中国人は人以外は何でも食べると言われており、コウモリ、ハクビシン、ハリネズミなどの獣肉を食べる習慣があり(私自身、過去にイタチを食べたが、肉の味はまあまあだが固くて閉口した)。それらを大量に飼育している場所もあり、それと近接した場所で鶏や豚を飼うことも多い。野生動物、家禽や家畜と人が濃厚に接触していると、3者の間でウイルスが行き来する間に突然変異して、より人に感染しやすくなったり、毒性が高まったりする。

それだけではない。中国では鶏のH5N1感染予防の為、中国当局が指導してワクチンを鶏に投与している。すると感染しても発病しない鶏が増え、そうした鶏から周辺にウイルスがまき散らされることで鳥インフルエンザが拡大する危険が高くなる。その為国際的には家禽へのワクチン投与は禁止されている。しかも中国で使われているワクチンは古いタイプの粗悪品が多い為、ワクチン耐性を持った変異ウィルスが頻繁に誕生している。驚くことに生産者は、中国当局が禁止している抗インフルエンザ薬(タミフル等)を不正入手し鶏に与えている為、薬剤耐性H5N1ウイルスが多く誕生してきた。

 以上を見ていると、生産者は毒性が強く、致死率の高いしかも多剤耐性の人から人へと容易に伝播する生物兵器を製造するつもりなのかと思いたくなる。(もちろんこれは私の悪いジョーダン)

 過剰な抗生物質や成長促進剤を投与して「速成鶏」をつくる等、生産者のモラルは低く、更に輸出業者も殺処分すべき感染して弱った鶏をベトナムやカンボジアへ密輸し、そこから海外へ感染が拡大しているとも言われている。

 今年3月は上海市の主要水源の黄浦江で1万数千等の豚の死骸が投棄されているのが発見された。これらは「豚サーコウイルス」に感染していたことが確認されている。この様な不衛生な状況下において「サーコウイルス」が変異して、新型ウイルスとなって人間を苦しめる可能性も出て来る。今後不幸な事態を招かない為に生産者、流通業者それぞれにより高いモラル教育の必要性が痛感させられる。更には中国当局の情報管理体制と調査体制にも問題があり、WHOが言っている様に「未知ウイルス」が発見された場合には24時間以内の報告義務をしっかり順守すべきであり、感染源を容易に不明としないで、しっかりした調査、検証すべきである。WHOSARS発生時に現地入り調査を求めたのに対し、許可が下りるまで10日もかかるなど、ことの重大さをもう少し敏感に認識し、速やかに対応行動し、早期防疫体制の構築につとめるべきである。

 以上、注意すれば「パンデミック」は防止可能である。

 

 

 

 

131 回 良書探訪その2 ~ソビエト帝国の崩壊~ 小室直樹著

 

  この本が書かれた1980年、当時の日本にとっての最大の仮想敵国はソビエトであり、日本と中国の現在の様な関係を日本人だれ一人として想像しなかったであろう。

 当時テレビのコメンテーターとして活躍し、今年一月に亡くなった映画監督の大島渚氏はテレビ討論の場で、もしソビエトが日本に攻めて来たら、一切抵抗せずに手を上げて降伏し、そしてソビエトの軍門に下って、そこから日本国の再生の道を探れば良いなどと、大声で真顔で国際法に無知な馬鹿げたコメントをしていた、30数年前が鮮明に思い出される。同時期に出版された「ソビエト帝国の崩壊」を読んで、著者である小室直樹氏の慧眼、博識、分析力そして学問の守備範囲の広さに、私はただただ驚き、敬服したのが思い出される。

  著者によるとソ連的経営の致命的欠陥、中世意識のままのソ連労働者、農奴意識から脱しきれない農民、ソ連の権力は国民の内面まで支配している。ソ連軍は張り子の熊であり今だかつて国外の戦争で一度も勝ったことがないトラウマのかたまりである。更に悪いことに絶大で硬直した官僚機構が存在している。以上の要因を精査、分析、考察し遂にマルクス主義が革命思想でなくなったとき、ソ連は滅ぶ、つまりソビエト帝国は崩壊すると結論づけた。実際に崩壊した1989年に遡ること9年前の1980年に予想し、ものの見事に著者の予想は当たり、勝利したのである(ソ連脅威論に)。1980年当時出版されたソ連関連の本でソ連が崩壊するなどと予想した本は私の知る限りにおいてこの著書以外には存在しなかった。かように当時として著書の内容は刺激的で大胆な仮説であり、博識と言われている私(へへへ自分でほめちゃった)ですら、半信半疑であったことが思い出される。

  著者は以下の様に述べている。

  「ソビエト帝国は『資本論』という一冊の本が生んだ巨大な人造国家である。レーニン、スターリンの天才がはぐくみ育てた人類の夢であった。しかし現在のソビエトはどうであろうか。平等社会の理念のかげに恐るべき特権階級がいる。彼達の生活の贅沢さは大資本家以上だ。搾取なき労働に生き生きしているはずの労働者と農民はヤミ物資の入手にきゅうきゅうし、形だけのノルマ達成に責任を押しつけ合っている。弱いものいじめしか出来ない張り子の軍隊は世界中に脅威をふりまきながら、国家そのものを乗っ取ろうとしている」と。

 著者はソビエト帝国を根源から考え直した時、そして得た結論は、「この国は必ず内部から瓦解する。いやすでに崩壊しつつある」と。当時のソ連の最高権力者、ゴルバチョフ首相は、グラスノスチ・ペレストロイカを掲げ、数々の政治改革を試み、その内の一つがソビエト国民に「思想及び良心の自由」を認めた。そしてその直後に、1989年ベルリンの壁は崩壊、それに続いて東欧に春が訪れ、ソビエト連邦は解体・消滅した。

 著者は戦後日本が生んだ「知の巨人」と言える。

 

ソビエト帝国の崩壊

 昭和5585日発行 光文社 580円 絶版

 

  著者・小室直樹  昭和七年、東京都生まれ。京大理学部数学科卒。阪大大学院経済学研究科中退、東大大学院法学政治学研究科修了。マサチューセッツ工科大、ミシガン大、ハーバード大に留学。前東大講師。法学博士。

 

 

 

 

130回 お江戸の奇人・変人・大天才 その1「葛飾北斎」            

  46日(土)7日(日)に東京で「あっぱれ北斎、光の王国展」を2日連続でじっくり鑑賞した。

  浮世絵の原画もあったが、最先端の高精細デジタル撮影しコンピューターで退色を補正し、原色浮世絵をどこまでも忠実にクリアに再現していた。どれだけ拡大しても画像の線がそのままシャープに残る為、肉眼ではわからなかった浮世絵の細部まで明らかな原寸大から等身大にズームされた浮世絵に興奮させられた。実に「天才北斎」の筆致のみならず、息使いさえ感じられた。

  1999年にまさに「あっぱれ北斎」と大声で叫びたくなる快挙があった。それはアメリカの「ライフ誌」特集で「この千年の間に最も重要な業績を残した、世界の100人は誰か?」で選定したが、その中で日本人でただ一人「葛飾北斎」が選ばれた。

  北斎の代表作、あの「赤富士」「神奈川沖波裏」等の斬新・奇想・ダイナミック・・・・そして造形の極地をみる強烈な印象は、世界中の人々をアッと驚かせ、不滅のイメージを与えた。

  そして北斎は作品だけでなく、彼自身と彼の生き方がまた強烈、破天荒、ダイナミック・・・当時としては超長命の90年の生涯、人生の大半を絵師として画業三味に励み、膨大な作品群を残し「波乱万丈」の生涯を送った。

  ともかくそのスケールたるや、ギネス級、超ド級、江戸時代にしては並外れた体格(身の丈6尺の大男)で、性格の方はケンカ早い激しい気性、気位高く、強情、尊大、くるくる変わるペンネーム改名狂(約30回)根なし草同然の転居癖(約90回に及んだ)、超売れっ子なれど借金渡世の長屋暮らし、健脚なればこその旅行好き(70代でも)、天邪鬼の奇癖強く、それに加えてシャレ心諧謔精神旺盛で、世間様をアッと言わせ人を喰った「北斎センセイ」であった。

  なかなか世界広しと言えども「北斎センセイ」程の人物は見当らず、世界の奇人変人大会でも開けば、ダン突の1位に輝くこと、うけあいである。

  お江戸のいやこの現世でも稀なる「スーパースター」の人生ドラマは波乱に満ち、ミステリアスで実におもしろい。(数知れない程の奇行は今回割愛させていただきます)

  自らを「画狂人」と称し、最晩年まで作画意欲は旺盛で、北斎は寒がりで風呂ギライ。着たきりスズメで、襟足あたりにはシラミがはいつくばっていた。夏でもコタツに入ったきり、目を覚ましたらめしを喰い、そして日課の絵を描きはじめる。寝たくなったらそのまま寝ると言う生活を送り、90歳の1849418日に息を引き取った。

  最後の言葉として「天我をして10年の命を長ふせしめばといふ、暫くして更に謂て曰く、天我をして5年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言訖りて死す。つまり「あと10年いや5年生きれたら本当の絵師となれるのに」と息もたえだえ語ったと言う。

  私には「北斎」が冥途から私達、現代人にシャレッ気たっぷりに以下の様に呼びかけている様に思えてならない。

 「おいコラー、今生きているオメッチよ。オイラのこと年老いた絵師だと思って、バカにすんなよ!!ちょっと小耳にはさんだことだが、ここんとこ千年で、このお江戸でオイラより有名なヤツはいないって言うじゃねえか?お前らバカヅラさげてないで、とっとと、いい仕事してオイラを越えてみな!!期待しないで待ってるからよ~そいじゃ、あばよ」

  まったくすごいヤツがお江戸にいたもんだ!!

   あっぱれ北斎日本一!!

 

 

 

 

129回「歌川広重の暗号」

                     

  ボストン美術館は膨大な日本美術の至宝を有している。その中に約100年前に、照明不可、一般公開不可を条件にスポールディング兄弟が寄贈した保存状態の良好な約6500点に及ぶ「浮世絵」が存在する。元メトロポリタン美術館の学芸員だった土肥先生の様な専門家しか実物を見ることが出来なかった。(照明により浮世絵は退色、変色、劣化する為)  約2年前からボストン美術館は、この素晴らしい浮世絵を高精細デジタル撮影したコピーを館内で一般公開して入館者に好評を得ている。

デジタル撮影によって原色浮世絵を100倍拡大することも出来るようになり、クリアに再現され、画像の線がそのままシャープに残るため、肉眼ではわからなかった浮世絵の細部まで明らかに出来る様になった。

 歌川広重の代表作「東海道五拾三次之内」は江戸後期の1833年から刊行され、大人気を得た浮世絵である。あまりの人気ぶりで版が摩滅してしまったために、いくつかの図で、初版をベースにしながらも新たに版木を彫り直した後版、すなわち「変わり図」が制作された。

 刊行後150年もたった1984年に、人文地理学者の西岡秀雄・慶應大学名誉教授が「東海道五拾三次之内」の7枚の図絵の登場人物計13人の足に6本指が描かれていることを発見した。そしてボストン美術館所蔵の100倍に拡大された図絵にもはっきりと6本指の登場人物が確認されている。

 発見者の西岡氏は「広重は表現に夢中になって、指の数などには頓着しなかった。画家としておおらかさが感じられる間違いだ」と解釈したが、これに納得出来ない研究者達や浮世絵ファンの間で論争が続いている。

まあまあ常識的な説として6本指は「かくし落款」説である。当時浮世絵には偽版が多かった為、本物と偽物を区別する為に故意に細工が施されたものが少なくなかった。例えば北斎は着物のひだを必要以上に多く書き込むなど、不必要なものを加えることで贋作を防いだと言われている。

 上記に対抗する説が道教の神仙思想の影響説である。広重は南画の師・大岡雲峰から神仙思想を学んでいたので、「自身の絵の中に神通力を具えた人物を登場させ、道教の神仙思想を表現したかったのではないか」と言うものだ。ちなみに道教における6指とは上下と東西南北の6方を指し、道教発生の地中口では6本指の仙人がたびたび描かれている。約100年以上前にスポールディング兄弟は「広重」の浮世絵を見てデフォルメされた大胆な構図、鮮やかな色彩、卓越したテクニックによって雨、風、霧、雪、雲、月、太陽、時刻その場の雰囲気、登場人物の気持ちすら表現し、今にも絵の中の登場人物が動き出すのではとの錯覚に身震いし驚嘆したであろうことは容易に想像出来る。

  当時、十返舎一九作「東海道中膝栗毛」がベストセラーとなるなど、広重の作品の成功は庶民の物見遊山への関心に後押しされたという側面もあるが、作品自体、従来の風景画の概念を一蹴する大胆な構図と洗練された高度なテクニックで、強烈なインパクトを与えた名作だと評価されている。江戸の庶民達は広重の風景画を見て旅に憧れ、モチベートされ、「生きているうちに本物を見なきゃ一生の損てもんでぇ!!」とばかり旅に出掛けた。

 

 

 

 

128 回名著探訪その2「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ウェーバー  

 

  この本ほど様々な分野の古典として取り上げるものは他にない。

 哲学、社会学、歴史学、経済学、宗教学・・・

実に多くの分野で歴史的名著として紹介されている。

  本のタイトルからもわかる様に「西洋における資本主義の発展は、プロテスタンティズムの禁欲的な生活態度の産物である」と言っている。マックス・ウェーバーは社会学者らしく、地方の職業統計を調べた。すると「近代的企業の資本家や企業経営者には意外にプロテスタントが多い」と言う事実が判明した。なぜ意外かと言うと、プロテスタントは一般的にカトリックに比べて非世俗的であり、禁欲的だとの結果を得た。

 「プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力を挙げて反対し、消費をとりわけ奮多的な消費を圧殺した。その半面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを(上述したような意味で)まさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ」と。

  こうして勤勉さによって利潤が生じるものの、それはプロテスタンティズムの禁欲によって節約する対象となる。その結果、欲ではなく逆に禁欲の帰緒として資本が蓄積され、近代資本主義が形成されていった。“いわば意図せざる形で、プロテスタンティズムの倫理が、資本主義の形成をもたらした。”

 それを彼は「資本主義の精神」と言う名の「エートス」として描こうとした。

  本書は単なる西欧文明礼替にとどまらず、現代文明批判の側面も有している。資本主義の行き詰まりを抱える現代社会にとって、今なお参照すべき透徹した処方箋をふんだんに含んでいる点で大きな意義がある。

  私たちが取り戻さなくてはならないのは、どうやら経済的繁栄ではなく、むしろマックス・ウェーバーが「エートス」と呼ぶ「禁欲的資本主義の精神」つまり「倫理威のある資本主義の精神」なのかも知れない。マックス・ウェーバーの記述は社会科学(哲学・社会学・歴史学・経済学・宗教学・論理学等)の驚くほど多数の文献の中に見出される。

  ウェーバーの著書は難解さでは天下一品である。あの一世の碩学高田保馬博士は、後年、告白している。「私がわからなかったのはウェーバーとケインズです。特にウェーバーはあまりにも浩瀚(ぶ厚い)し、信じられないほど多岐にわたっている」と。大塚久雄博士によって本格的解説がなされるまでは、日本でウェーバーを理解しうる学者はいなかった。いみじくもベンディクスは言っている。「ウェーバーを専門的に研究したとき、30年くらいからようやくわかり始めた」と。

 19世紀から20世紀初頭にかけての、だんとつの「知の巨人」と言える。

マックス・ウェーバー著

 大塚久雄(訳(1964~1920)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 岩波文庫1000円

 

 

 

 

  良書探訪その1 「これでいいのか日本のがん医療」中村 祐輔                      

 

  がん患者の情報蓄積は、日本人の死因の第1位となっている。がん予防、治療を有効に講じる上で、必要不可欠の基盤となる。そこで「がん登録」の重要性が増してくる。政府は2012年6月にようやく全国的な「がん登録」制度を閣議決定した。余りにも遅い対応であったが、民主党政権で唯一、国民にとって有益な政策だったかも知れない。

  アメリカでは約30年前から「がん登録」が行なわれており、すべてのデータはアメリカがん研究所(NIC)に集積されており、更には各がん病院の専門のスタッフが新聞の死亡欄で「がん登録患者」を追って、生存期間の統計をとり、がん治療の効果の検証を行なっている。すべてのデータをアメリカの各がん病院は使用出来、治療効果をあげていると言う事実がある。

  著者が本書で熱く語っているのは、日本の基礎医学研究のレベルは高いのに、それが「創薬」や新しい治療法の開発に結びつかない、国益にとっても不幸なことだと、厚生省は以上のことを真に理解せず、なんら打開策を早急にとろうとせず、結果、医療体制、医療産業が危機的に陥っているが、その認識すらなく、ドラスティックに変革しなければある意味、日本再生はないと警鐘を鳴らしている。

 又著者はこうも言っている。「欧米諸国に追いつかなくてはならない。医療分野の発展は、必ずや世界的に日本の存在感を高め、日本人が誇りを取り戻すことにつながる。メイドインジャパンの医薬品や医療機器が世界に流通し、多くの苦しんでいる患者さんに、夢と希望を提供し、笑顔を取り戻すことが出来れば、確実に日本は再生し、世界の中で再び輝きを取り戻すことが出来る」と。

 著者は「ゲノム研究」に出会い、外科医としてのメスを捨て、研究者としての道を歩み、研究成果を論文だけで終わらせることなく「創薬」を試みるが、治験前の厚生省の不合理で理不尽な審査はまるで日本で「新薬」をつくらせない為の障壁ではないかと嘆いている。そして次の様に警鐘を鳴らしている。「日本では新薬の不確実性をきちん認識して、社会全体でリスクを取っていくことが出来ないことが治験の「ジャパン・パッシング」と言う現象を招いている」と。

 私の友人が約30年前にスウェーデンのカロリンスカ研究所に留学した際に、「医学の発展の為ならと患者さんはどちらかと言うと喜んで治験に応募している」と。そして友人は語気を強めて「炭谷、お前なんとがん治療薬の対照群(薬の効果をみる為、薬を与えられない)に入ることすら拒否しない」と。日本人と欧米人とでは人生観、宗教観がまったく違う為なのかも知れない。我々日本人は安心・安全と言う言葉が非常に好きではあるが、未来へ挑戦する進取の気風をも合わせ持ちたいものである。

 著書は2011年の野田内閣時代に、医療の国家戦略を一元的に決める「日本版NIH(アメリカ国立衛生研究所)」を目指し、内閣官房に医療イノベーション推進室が設置され、初代室長に東大教授在籍のまま選任されたが、職員は各省の寄せ集めの上に室長には予算も権限もない為、限界を感じ1年足らずで室長を辞任した。著者は、医学界・官界(厚生省、内閣府)の両方を熟知しており、日本人への重大で切実な警鐘を発信している。

 

 発行2013年2月15日

 新潮社 1400円

 中村 祐輔(なかむら・ゆうすけ)

 1952年大阪府生まれ、77年大阪大学医学部卒業。84年ユタ大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員として、黎明期のゲノム研究と出会う。94年東京大学医科学研究所教授、2005年理化学研究所ゲノム医科学研究センター長(併任)。10年独立行政法人国立がん研究センター研究所所長(併任)。11年内閣官房参与・内閣官房医療イノベーション推進室長を併任。同年12月同室長を辞任し、12年3月渡米。現在、シカゴ大学医学部教授・個別化医療センター副センター長を務める。

 127回

 

 

 

 

 名著探訪その1~沈黙の春~     

  

アメリカの女性海洋生物学者レイチェル・カーソンが1962年に発表した「沈黙の春」は、農薬や化学肥料の弊害について述べ、世界中の人々に地球環境や生態系と自然保護と考えるきっかけを与えた優れた本である。

  原題の「沈黙の春」は、春には本来「ものみな萌えいずる春」の意味あいがあるが、化学薬品の乱用によって自然が破壊され「ものみな死に絶えし春」或いは「サイクルやバランスの狂った春」と言う意味である。そして我々人類に警鐘をならした。

  当時のアメリカ大統領J・F・ケネディーは、科学諮問委員会をつくり、本書が警告した内容を検討。その結果、1964年の米国連邦議会で殺虫剤などに関する規正法が改正され、農業規制法など数多くの法律の制定と改正が行われた。米国政府の環境保護局が誕生したのも、「沈黙の春」の功績といわれている。

  農薬が発明された時代には、それが人類の生命を脅かすことになるとは、誰もが気付いていなかった。近年ようやく、生態系に及ぼす影響が具体的に解明されてきた。本書の中で取り上げられてきた「DDT」は、終戦後の生活から発疹チフスやマラリアを遠ざけたようにプラス面は大きいが、際限なく使い続けると、耐性を持つ生物が出現し、更に強力な農薬が必要となり、毒性がますます強くなっていくという悪循環に陥る。

  これに対してカーソンは「より毒性の弱い農薬を使うことを心がけるとともに、天敵を用いて害虫を駆除する」方法を当時から提案している。

  カーソンはこう語っている。「今、この地上に息吹いている生命が作り出されるまで、何億年という長い時が過ぎ去っている。発展、進化、分化の長い階段を通って、生命はやっと環境に適合し、均衡を保てるようになった」と!!

 このような自然界全体をくまなく見渡す優れた考え方を、彼女は半世紀前に提起した。「沈黙の春」は環境問題だけでなく、社会の在り方に対して、今なお指針を与え続ける名著といえる。

 【沈黙の春】

レイチェル・カーソン

新潮文庫

 

 

 

 

 「TPPと日本農業再考」

               

 先月23日に安倍首相は訪米し、ワシントンD・Cでのオバマ大統領との会議の中で、TPP交渉の参加を表明した。私は当然の帰緒であると考えている。

 実のところ、アメリカも日本もGDPに占める貿易の割合はそれぞれ21.8%25.2%であり、両国とも内需経済国家であり「TPP」参加による自由貿易による恩恵はさほど大きくないと考えられる。しかもアメリカは民主党政権で、その民主党はアンチ自由貿易だ。オバマ大統領の中で自由貿易と言うのは非常に優先順位が低く、TPP自体もマイナーな政策なのだ。

  アメリカの3人の友人に「TPP」について尋ねたところ「何それ?全然知らない」との答えに驚いた。日本では小学生から高齢者まで「TPP」と言う単語を知っているのとは大きな違いである。

  約2年前から「TPP」に参加は聖域なき関税撤廃、さあ大変だ、第二の黒船と日本のマスコミが煽り立て、更には「TPP亡国論」や「TPPは国家の存亡」なる大げさなテーマの本も出版される等、大変な論争となっていた。完全なる自由貿易など「経済学の教科書の中でのみ存在」し、人類の歴史上一度も行われたことはない、今後も不可能であろう。

  しかも2国間のFTAやTPAならいざ知らず、日本とタイが新たに参加すれば計13ヵ国となり、それぞれ各国には関税撤廃に絶対に除外したい分野が1つや2つは必ず存在する為、完全自由貿易など夢の又夢と言うのが現実である。

ただ「TPP」に13ヵ国が加盟すれば、世界貿易の4割程度を占めることとなり、そこまで規模が広がれば日本にとって「TPP」加盟は有利であり又強権的な貿易スタイルをとる国々に是正を求める効果も期待できる。

  さてこの「TPP」に対して頭初より激しく強硬に反対したのが「農協」であった。交渉に入ることすら拒絶していた。農業を語るとき、一つの潮流がある。「農家弱者、危機論」である。つまり「農業はハードな割に儲からない、だからもっともっと農家を保護しないと日本人の安全・安心な十分な量の食料の確保は大変なことになる」と言う主張だ。これが長年、日本農業を語る上での主流となってきた。農協・農水省、そしてマスコミが声高に叫び続けて、助成金、補助金、所得補償等の農業支援が長年行われて来た。そして国民もしぶしぶ認めて来た。ここでは農産物の中の「米」に限定して話を進めることとしよう。

  戦後60数年政府は日本人の主食である「米」の自給自足を目指して多額の国民の税金を投入して支援して来た。グローバルな米市場で対等にやっていける力をつけて来たかと思えば、品質は世界一と言っていいほど向上したが、価格では国産プレミアム状態つまり、国際規格とは雲泥の開きが存在する様になった(数倍から10)。今こそ「TPP」参加を日本農業をイノベーションする絶好の機会ととらえ、778%の高関税をかけて事実上輸入禁止状態にある「米」問題を国民が真剣に考える時期に来ていると考えている。

  今日 まで農水省・マスコミは生産者を過剰に保護してきた、一方消費者は国内産は安心、安全の美辞麗句のもと、国産プレミアムと言えるバカ高い「米」をいやおうなしに買わざるを得ない状況であり、消費者軽視の傾向にあった。

  日本は戦後、創意工夫と涙ぐましい努力によって優れた工業製品を生み出して来た。ところが「米」を含む農業分野では、政府の手厚い保護と農水省と農協の規制の為、創意工夫を欠き十分に力を出し切れなかった。ここに日本農業の悲劇があり、世界に大きく後れをとった原因だった。そこで日本農業発展の為に、種々の農政関連法を改正、規制撤廃して異業種よりの参入や大規模農業が容易に出来る方向に政策転換すべきであり、小規模農業には今後数年は支援すべきと思うが、経営がたちいかなくなれば統廃合も他業種と同様にいたしかたないと考えている。

  農業経営も市場経済原理にゆだねれば、日本人の叡智と努力によって、世界に冠たる農業大国も夢ではない。

 

 

 

 

 「医療のリバース・イノベーション」

 

    リバース・イノベーションと言う言葉は聞き慣れない言葉である。

 意味は新興国から先進国へと広がっていくもののことを言う。インファンスなどインドが誇るIT(情報技術)企業が本社を構える南インドのバンガロールで、驚くべき医療の価格破壊が起きている。(医療のウオルマート化である)

 それは世界に誇る心臓外科の最先端病院「ナルヤナ・ルダヤラナ病院」(3000)である。

 世界最大の心臓バイパス手術の病院であると同時に、世界最高レベルの技術を持った病院で、手術費が安いことでも有名だ、ルティーンなバイパス手術で1800ドル(17万円)、ちなみに日本では50万~100万円、アメリカでは数万ドルから10万ドル(200万~900万円)と言われており、桁違いの驚異的安さである。貧困層(12ドル以下の生活)75%を占める為、手術費用を支払えない患者の手術も行っている。この病院では年間の手術数は4000例を行っている。日本の大きな心臓専門病院でも500~600例、アメリカ最大の心臓外科を持つクリーブランド・クリニックでも1500例と手術数において桁違いである。またこの病院には症状の重い人が多く訪れるが、手術後の生存率はアメリカの病院に比べて50%も高い、更に院内感染も米国当局が定める目標値を下回り、ケアの質も高くベッドで床ずれを起こす患者もいない。手術費の安さと高いレベルの医療技術がある為、多くのアメリカ人も訪れており、安心して手術を受けている。

デヴイ・シェティ医師(ノーベル平和賞受賞のマザー・テレサの担当医として有名)は以下の様に言っている、「心臓手術でも、トヨタ自動車が高品質で低価格の自動車を作ったプロセス革命が必要だ」と。

  この病院では週6日朝6時から夜の10時頃まで、合計23の手術室で約40人の心臓外科医が手術を行っている。熟練した医師は難しい手術のみを執刀するなど、医師の担当は明確に分かれている。手術は隣り合う複数の手術室で同時に進み、担当分野の執刀を終えた医師が隣の手術室に移動し、次の患者の手術に即座に取りかかる。給料は必ずしも高くはないが、毎日12~14時間、ひたすら手術に没頭する。

  本日の卓話の柳田先生に敬意を表して、やはりインドの地方都市マドゥライにあるアラビンド眼科病院を紹介します。

  インド南部に5つの眼科病院を持ち、年間250万人以上の患者を診察し、白内障など30万人以上の患者を手術している。約4000人のスタッフの内、眼科医が320人を占める世界最大の眼科病院である。 「ドクターV」こと、故ゴヴィンダッパ・ヴェンカタスワミ医師がアラビンド病院を開設した1976年以降、750万人と言われるインドの白内障患者を治療すべく、イノベーションを起こし続けてきた。

  ここでも価格破壊。米国では数千ドルと言われる白内障の手術が100ドル程度だ。患者の多くは貧困層の為、手術代を支払えるのは全体の半分程度である。残りの貧困層を無料で手術、治療している。工場での流れ作業の様に手術を行っているが、術中のトラブル発生の確率は英国より低いそうである。

 涙ぐましい経営努力によって2010年収入3200万ドル(25億円)の内の25%の利益を獲得して、欧米のビジネススクールで教材に取り上げられるほどだ。世界が一つの模範とすべき医療のイノベーションそして経営モデルが、新興国から生まれて来ている。

 

 

 

 

 「坂東玉三郎の世界」

 

 中国伝統劇の女形は文化大革命によって、一旦断絶状態に追い込まれた。失われかけた伝統に、自らの演技で再生を試みた日本人がいる。歌舞伎界を代表する立女形、「坂東玉三郎」(62)である。(芸術に国境なしの格言通りである)

 「玉三郎」は08年から昨年まで、中国の伝統劇である昆劇の傑作「牡丹亭」の公演に日中で計70回出演。その研ぎ澄まされた演技は、もう1つの伝統劇である京劇の伝説的女形、故梅蘭芳を引き合いに出して「梅蘭芳より梅蘭芳らしい」と中国メディアに評された。「玉三郎」は現在パリで「牡丹亭」を公演中であり、なんと2月19日にフランス政府より「玉三郎」に芸術文化に貢献があったとしてコマンドール賞が授与されたと報道された。一人の「玉三郎」ファンとして受賞を心より祝福したい。振り返れば2010年4月の歌舞伎座のサヨナラ公演の最終の舞台に歌舞伎界を代表する今年1月に亡くなった「市川団十郎」と「坂東玉三郎」二人の姿があった。

  大名跡の市川団十郎家は当然であるが、古い因習が色濃く残る歌舞伎座の世界で中程度の名跡の守田勘弥家の養子である「玉三郎」が歌舞伎界を代表するなどと、とうてい考えられないことであった。ありえないことがおこったのである。初舞台が歌舞伎座でも新橋演舞場でもなく「東横ホール」だった「玉三郎」が50年以上にわたる努力と研鑽の結果、実力と人気で勝ち取った地位である。「玉三郎」は15才位から、専門家の間では少しずつ注目される様になり、あの「三島由起夫」は20才の「玉三郎」の舞台を見て、“今晩、世界中でずいぶん沢山の芝居がかかっていると思うが、「玉三郎」の「お三輪」よりも美しいヒロインはいないね、断言していい”と絶賛した。

  玉三郎が注目され出した頃は、11代目市川団十郎早逝後、歌舞伎座には六代目歌右衛門が女帝として君臨しており、歌舞伎座への出演をこまばれた、歌右衛門の最も輝いていた時期であり、「三島由起夫」でさえ歌右衛門の為数編歌舞伎を書いている。

  しかし「玉三郎」には幸いなるかな、古い因習にとらわれない国立劇場がオープンし、これを拠点とした、更にはその他の演劇のジャンルにも果敢に挑戦できる絶好の機会となった。「玉三郎」の挑戦は実にさまざまなるジャンルへと続く、映画出演、映画の演出、新派、新劇、シェイクスピアやドストエフスキ等の西洋劇、クラシック音楽とバレエと玉三郎のコラボ、種々の演劇の演出、中国の昆劇への取り組み等、他ジャンルにおいても抜きんでた才能を発揮した。例えば日生劇場の「マクベス」であるが、「玉三郎」はマクベス夫人を演じた、「玉三郎」の演技の素晴らしさから初日から、幕間のロビーで早くも感嘆の溜息があちこちで聞かれた。もちろん「玉三郎」のマクベス夫人に対してである。まことに品の悪い言葉ではあるが「女優は糞して寝ろ!!」とある専門家は思ったそうである。どんな名女優でも男性である「玉三郎」のマクベス夫人にはかないっこないという意味であろう、かように「玉三郎」は女性よりも女性を自然に美しく表現できる役者なのだ。

  この公演4日目で、すでに千秋楽までチケットは完売し、窓口では「マクベスを二枚」ではなく「マクベス夫人を二枚」と言ってチケットを買う人が多かったとの伝説が生まれ、「客席の99%は女性」とまで言われた。篠山紀信が撮ったポスターは、貼った途端に剥がされるという人気ぶりだったそうだ。

  1980年頃から「玉三郎」の歌舞伎離れが始まった。

  そして実に容易に歌舞伎のジャンルを飛び越え、他のジャンルへ、更には国境をも越えて、まったく異なるジャンルとのコラボなど獅子奮迅の大活躍であった。映画のアンジェイ・ワイダ、バレエのモーリス・ベジャールをはじめ世界的な芸術家に絶賛されていた「玉三郎」だったが、そのまま他ジャンルで長く活動するのではなく、まさにある日ひょっこり歌舞伎に舞戻ってくる、そしてそのたびに自身をスキルアップさせ、より輝かせて戻って来た。そして又出かけて行った。しかし21世紀に入って「玉三郎」は歌舞伎の方に軸足を移して来ている。今までとは違って自身の為だけではなく、熊本のまさに消滅しそうになっていた芝居小屋「八千代座」の再建に尽力したり、前述の中国の昆劇を再生させる等、芸術文化の復興、発展に力を入れている。

  今年4月からの歌舞伎座のこけら落とし公演が、半年ぶりの歌舞伎の舞台となり「将門」の滝夜叉姫などを演じる予定だと言う。今や押しも押されぬ歌舞伎座の立女形「玉三郎」として君臨しているが、彼の過去50年の進化の過程を見ていると、今後も新たなる境地を求め、開拓し続けるだろう。「未だ玉三郎は普請中」と言う言葉を贈りたい。私は「玉三郎」に会えて幸せ者だ。「坂東玉三郎」は間違いなく歌舞伎4百年の歴史上「不世出の天才」であり、「日本の至宝」である。

 

 

 

 

「ゆとり教育」その5~エリート教育不要論~

 

  現在の日本に必要なものは、この経済不況からの脱出と東日本の復興である。日本を再生・復興させるには、国民の愛国心或いは日本人としての誇りに基づいた国民の一体感が不可欠である。エリート教育を行った結果、子供の時から階層化された感情は、日本人の国民性に合わないだけでなく、日本の国益にも合致しない。従って小中学校におけるエリート教育はまったく不要であり、むしろ害であると言える。将来誰がエリートになるかわからない日本の現状では小中学校時代に全員にエリートになった場合の対応や身の処し方そして他者に対する責任などを軽く教育すべきである。

  さて実際の授業の中で小学校高学年、中学校において、算数(中学校では数学)・英語は残念なことに同じ授業が成り立たないほど、学力格差がついてしまっているのが現状である。すべての子供は自分の能力を伸ばして、この社会を生きていく権利があり、優秀な子供の能力を伸ばし、劣っている子には落ちこぼれない様にしなくてはならない。それには算数(数学)と英語の授業において習熟度別(能力別)授業を行う必要がある。実際に小学校高学年、そして中学校では算数・数学で習熟度別授業が行われている。私は文科省と日教組の教育改革の実践にエールを送りたい。国語、社会そして理科までは何とか一斉授業が成り立つので、それらについては一斉授業を行う。高校・大学と上級学校に進学するにつれ、生徒・学生の能力による選別が自然に行われる様になり、最後に一握りのエリート予備軍と言われる人達が出現して来る。これらは実社会でもまれ、厳選されて真のエリートとなる。又、日本の社会では非エリート層の中からも努力と実社会への対応能力の高さから上記と同じようなエリートが出現して来る。

  この様に日本社会は世界でもまれに見る階級差の少ない、平等を重んじる社会である。私はこのことは日本古来の神道と仏教の影響によるものと考えている。学校教育の中で人間は平等であり、個々人の努力次第ですばらしい能力を見につけ、将来日本社会のエリートに誰もがなることが出来ることをしっかり教育すべきである。

 

 

 

 

 「鬼才ルドルフ・ヌレエフ」

 

  今年2月にローザンヌの国際バレエコンクールで能美市の18才高校生の山本雅也君が、第3位に入賞しマスコミを賑している。

テレビでコンクールでの彼の演技の一部が放映され、私には彼の正確でなめらかなピエット(回転技)が印象に残った。

 審査員熊川氏は「将来を感じさせる逸材で、大きく育ってほしい」とコメントしていた。失礼ながらこのバレエ不毛の地石川で、よくぞ才能豊かな若手のダンサーが育ったもの

 だと大変驚いた。放映によると、過去に一年間オーストリアでバレエ留学していたとのこと、納得出来た。

 今後コンクールの奨学金を得て、海外留学するとのこと、快挙を心から祝福し、今後の健闘を祈りたい。

  さて私がバレエダンサーとして頭に浮かぶのは、1993年に53才の若さでエイズで亡くなった「ルドルフ・ヌレエフ」が想い出される。「ヌレエフ」は「ニジンスキー」と並び、20世紀最高の偉大なダンサーと言われている。

 日本はそれなりに文化大国であると私自身も自負しているが、クラシックバレエ、クラシック音楽(特に作曲)、サーカス、アイスホッケー、ついでに男女の棒高跳び等は、ロシア(旧ソ連)の足もとにも及ばず、これらの分野で日本は芸術・スポーツ貧国と言える状態である。

 旧ソ連において優れたダンサーと言えばロシア人がほとんどであった。社会主義国であっても人種差別が存在し、ロシア人でなければ多少、才能があろうとも一流ダンサーにはなれなかった。

  「ヌレエフ」は肉体も性格もタタール人そのものであったと言われている(アジア人との混血であるコサックの血を引いている)。

 切れ長で緑の瞳、高い頬骨をした容貌、祖先の騎兵から受け継がれた血液は今にも沸騰しそうであり、ロシア人の様な忍耐強さはなく、享楽的とさえ言える。彼自身は以下の様に言っている。「私はドストエフスキーの性格や野生動物とも類似点があります。かっとなって闘いたくなる反面、臆病でもあり、情熱的で狐の様にずる賢い、その様に出来上がった複雑な動物が私なのです」と。

 1961年6月パリ公演の際に、「私は自由が欲しい!!」と世界中にこの言葉を残して、西側に亡命した。23才の若さであった。

 「ヌレエフ」の表現者としての魅力は西側への亡命で一気に花開いた。偉大な芸術家の感性は押しつけの価値観の中では決して育たない。一世を風靡した繊細な表現力と野性的で切れの良いテクニックを駆使し、ダンサーとして、映画の主演者として、又パリオペラ座バレエの芸術監督として、自由の空気の中を30年余り、まさに疾風のごとく駆け抜けた。

 孤高の天才ダンサー「ヌレエフ」が辿った波乱に満ちた人生の軌跡・・・・。それは神に選ばれし者のみが背負わされた才能の代償だったのかも知れない。“踊”ことで国家や階層や人種や性別の枠は打ち砕かれた。そしてこの天才によって芸術の未来への重い扉は確実に押し開けられた。

 亡命から1年後に「ヌレエフ」にとって自身が大きくステップ・アップするチャンスが巡って来た。当時のバレエ界の女神「マーゴット・フォンテーン」からのロンドンからの一本の電話であった。「マーゴット・フォンテーンです。ロンドンで私が開催するガラ公演に出演して下さる?」との問いであった。「ヌレエフ」は「最善をつくします」と声を震わせながらようやく答えることが出来た。彼の脳裏には「ああこれで、俺は間違いなく世界一のダンサーになれるチャンスが来た」と。事実「ヌレエフ」は以降バレエ界の寵児となり、更にはバレエ界の帝王となり頂点に登りつめた。私には「ヌレエフ」の朴訥な荒々しさ、孤独癖、カリスマ性と近づきがたい尊大さ、異常とも思える虚栄心、気まぐれとわがまま、更には同性愛志向有りと、我々常人の様な「幸せ」は到底得ることが出来ないと言わざるを得ない。「鬼才と常人の間には共通項はない」と言える。

  いろいろ書きましたが、彼の偉大な業績を称えるとともに、心より御冥福を祈りたいと思います。

 

 

 

 

「数学的発想」その1~なぜ、ギリシャ数学が近代数学の母なのか?~

 

  “数学”といえば、その言葉を聞いただけで敬遠したり、嫌悪感を催す人も少なくない。そして多くの人は「数学など知らなくとも、実際の社会生活の上で何ら支障があるわけではない・・・」などと言った気の弱い弁明を付け加えたりする。

  しかし、個人的な好き嫌いなど一切関係なく、数学の本質を知らずして、社会生活を営むことは不可能に近い。極言すれば、数学的発想こそが、現代社会を成立させ、充実させた基盤そのものなのだ。しかも数学の本質は数学嫌悪症の人が思っているほど難しいものではない。要するに中・高時代に数学の「おもしろさ」を教えてもらう機会に恵まれなかったと言うだけにすぎない。

  さて数学の基本的発想となる近代数学の濫觴(はじまり)は、ギリシャにあった。勿論数学そのものは、古代中国にもあったし、インドにもあった。また、エジプト、バビロニア、マヤ帝国にもあった。その内容は必ずしもデータに残ってはいないが、相当高度なものであったと推測されている。

  例えばマヤ帝国では一年は365.22日という正確無比な暦をつくっているし、古代エジプトではピラミッドをつくり、古代中国では万里の長城を作っている。当時の数学のレベルは並々ならぬものであったことを示している。さらにインドでも、貴重な「ゼロ」を発見している。

しかし、それらは本質的な意味において、近代数学とは根本的に異なるものであった。近代数学の本家本元、1丁目1番地はギリシャであり、それほどギリシャ数学は素晴らしいものであった。ではギリシャ数学のどこが素晴らしい点であったか、一言で言えばそれは「公理主義」と言うことである。

  「公理主義」とは雑然たる知識が単に並べられているのと違って、例えば、ユークリッドの幾何で言えば、5つの公理だけをまず仮定する。言い換えれば、それ以外何も知らなくてもすむ。つまり、あとの問題はこの公理からすべて導き出せるという、まことに素晴らしい構造になっているわけである。しかもその導き出す手段は形式論理学(日常言語を用いず、三段論法等の理論の形式的構造を研究する論理学)に限られている。

  つまり「ユークリッド幾何学」の森羅万象がたった五つの公理で説明できるということであり、この点が古代ギリシャと他の古代国家で発展した数学との決定的な相違なのである。

  更にもう一つ大事なことは、使用される論理学が特定されているために、証明出来たか、出来ないかが一義的、客観的に誰の目にも明らかに解るということである。

  そこで必然的に古代ギリシャ(今日の経済危機にあえいでいる現代ギリシャからはとても想像出来ない!!)では「幾何学」はすべての学問の理想と見なされていることとなった。その理由はユークリッドは数字の知識を体系化した名著「原論」を書き「原論」は幾何学の教科書ではあるが、単なる幾何学の教科書ではなく、哲学や論理学の模範にもなった。プラトンがアカデマイヤー(プラトンがアテナイで開いた学校)の看板に“「幾何学」を学ばざるもの我が門に入るべからず”と書くわけである。

 

 

 

 

「宗教論」その1~社会学として日本には宗教は存在しない~

 

  有識者の中には「日本には宗教は存在しない」と言う主張があり、検証してみた。(吉田会員これは純粋に学問的検証です)

世界のどの国にもありながら、例外として日本だけの「宗教不在」が、いかに日本を世界に類を見ない奇妙な国にしているか。さらに、このことが諸外国との誤解のすべての根源的原因だと言うことに、日本人がまったく無知であることが、事態を一層抜き差しならぬものにしている。

ところが、一般の人達は「日本に神も仏も無いといわれるが、大体の神社仏閣は大繁盛。新興宗教もごまんとあって、多すぎて困るほどでないか」実はこうした誤解こそ「宗教不在の国、日本」を規定している決定的な要因と考えられる。確かに日本には宗教と呼ばれるものは多々存在している。ところが重要なことは、そうしたものが社会学的に見ると、宗教でも何でもない、ということである。

 例を挙げて見よう。今でも欧米や中近東社会には「宗教裁判所」と言うものがある。そう聞くと日本人は異端審問所のことだと考え、早計に何とも古くさいと思ってしまう。

ところが、現在の宗教裁判所とは決してそんなものではなく、習慣・風俗つまり宗教法を異にする人々のトラブルを裁くのが最大の機能の一つだ。つまり彼らにしてみれば、宗教を違え、教義を異にすれば、生活態度も行動様式もまるで違ってくるのである。

 習慣も風俗もまるでかみ合わなくなるから、欧米でも中近東でも「宗教裁判所」が今でも必要となってくる。

ところが、日本では、生まれたときに神社に参拝し、青年時代は無神論で、結婚式は教会、年輩者が若者にする説教は儒教式で、死ねばお寺のお経で冥土へ行く。これらが日本では少しも異常でないどころか、平均的日本人の「宗教」生活ではないだろうか。

 過去には、奈良時代に、六宗兼学の高僧がいたが、日本人の理想はまさにここにある。

 何しろ五山の僧侶が儒学を講じた日本のことである。カトリックとプロテスタントの両方を兼修した偉い牧師が現れたからと言って日本では尊敬こそされ、驚く者は誰もいないのだ。(ヨーロッパでは天と地がひっくりかえろうとも以上の様なことは絶対にない)

いずれにしろ、日本では宗教を異にしても、習慣・風俗が違わないばかりか、同一人物の内に、異なった宗教が何の矛盾もなく並存しうるのが普通である。(ヨーロッパや中東では絶対にない)

これではどの宗教も同じになってしまい宗教を違える意味がなくなってしまう。

つまり社会学的に言えば宗教は存在しないも同然である。

これが「日本に宗教が存在しない」と有識者達が主張する理由である。そして最も宗教らしい宗教はイスラム教であると言える。

 

 

 

 

 古代史探訪」その2~柿本人麻呂の謎~   

  柿本人麻呂は飛鳥時代を代表する歌人で、『万葉集』にも多くの歌が収録されている人物だ。

  「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む」

この歌は『百人一首』にも選ばれている。柿本人麻呂の歌は数多く、当時から人気歌人であったと思われる。また、天皇をたたえる歌を詠んでることから、それなりの身分であったと窺える。

  また和歌を大きく変えた人物でもある。人麻呂以前の和歌は、五・七の音が整っていないものが多かったが、人麻呂は枕詞などの和歌技巧を駆使し、和歌の基礎を作り上げた。歌詠みの間では、「山柿門より入れ」という言葉があるが、それは「山部赤人」と「柿本人麻呂」の歌を学んでから、自分の作風を作れと言う意味である。

そんな歌聖とも呼ばれる人麻呂だが、これほど有名な歌人でありながら、その実像についてほとんどわかっていない。柿本人麻呂について、現在わかっていることは数少ない。確実にわかっていることといえば、次の四つだけなのである。

○生没年は不詳だが、天智朝(660年代)から文武朝(697707)に活躍した

○持統天皇、文武天皇の時代に宮廷歌人であり、草壁皇子や高市皇子らの殯宮の歌(死に際する悲しみの歌)を詠んだ

○近江国(滋賀県)、讃岐国(香川県) 、筑紫国(福岡県)へ行ったことがある

○石見国(島根県)で死んだらしい

 

以上が柿本人麻呂の情報すべてなのである。古代の日本文化を語る上で、超重要な人物だというのに、情報が少なすぎる。それはなぜか?

  実は柿本人麻呂は、日本の正史に登場していないのだ。『万葉集』を代表する歌人なのに、『日本書紀』にも『続日本記』にもまったく記述が残されていないのである。

  さらに、宮廷関係者である限り、歌人といえど官位を持っていたはずなのに、官位が記される記録書にも名前がない。 つまり、古代の記録の中では柿本人麻呂という人物は、“正式”には存在していないのである。そのため、古くから「人麻呂はいったい誰なのか?」という議論が歴史学者の中で繰り広げられているのである。

 残された資料の少なさから、人麻呂という存在は、やがて数々の伝説を生むようになる。

その一つが、山部赤人と人麻呂が同一人物であるという説である。それによると人麻呂は、文武天皇の后と情を通じた為に流罪となった。しかし、すぐれた歌人であったため、「万葉集」編纂の際、呼び戻され、正三位の位を得て、赤人と改名したのだと言う。

  一方、哲学者の梅原猛氏によると「古今和歌集」に出てくる和歌の大家「猿丸太夫」と「柿本人麻呂」は同一人物であるとし、人麻呂は宮廷の政争に敗れて最後は刑死したとしている。

 以上の話を見てもわかるように人麻呂にはなぜか、流刑や死罪と言った不幸な伝説がつきまとう。私は「人麻呂」を「悲劇の歌人」と呼びたい。

 

 

 

 

「職業倫理と人間の満足度」

 

 日本経済にまだ勢いがあった1990年代までは、評論家の山本七平氏が述べているように、日本経済発展の背景には、鈴木正三(江戸時代の僧侶)の主張した「世俗業即仏業」、つまり日常生活そのものが悟り、あるいは救いの道であると説き、多くの人々の共感を得た時代があった。

 事実、当時の日本人は欧米人から「エコノミックアニマル」とか「働き蜂」などと揶揄されながらも、真面目に一生懸命働き、慎ましく生活し、幸福感と充実感を得ていた。さらに、社会的繁栄が国際的名声を得ていた。

そして、バブル経済とその崩壊が起き、終身雇用が消滅し、かつての「正直・勤勉」から「ともかく儲けた者が勝者」「楽して儲けた者が勝者」という発想が出てくるようになった。以後、日本経済は悲観論の連続で、「失われた20年」などと言われている。

この間、格差の問題が指摘されるようになったが、依然日本社会は概ね経済的な豊かさは維持されているにもかかわらず、豊かさが実感できない、満足できない、つまり、精神的満足度や幸福感を財貨の多寡でしか測れなくなったしまったのである。

 仏教の開祖のお釈迦様は「たとえ黄金の雨が降ろうとも、人間の欲望に満足はない。この理を知って、サイの角のようにただ一人修行に励め」と教えている。

 一方キリスト教(特にプロテスタント)は本来は冨を忌避する宗教である。

 国教となり富者の宗教となっても、その基本は変わっていない。

アメリカの1900年代初頭の大富豪、鉄鋼王カーネギーは慈善活動の元祖とも言われている。「冨を抱えて死ぬのは不名誉な死に様だ!!」と名文句を残し「息子に莫大な財産を残せば、息子の才能と活力を殺すことになるのが常である」とも言った。事実カーネギーは生涯を通じて資産の大半を慈善活動に寄付した。

  つまり、人間の満足とか幸福感は、物資的なものだけでは満たされないと言うことである。では何が必要か。マックス・ウェーバーが言うように、人間の満足には二つの財、つまり「経済(物資)財」と「救済(精神)財」とがあり、この二つの総量が人間の幸福、充実感を生んだものであると。ブータン政府が掲げる「国民総幸福量(GHN)」という発想も、このあたりから生まれてきている。

  以上のように、経済活動の背後には、冨をいかに生み出すか、獲得するか、さらには最終的にどのように評価するかという問題において、宗教観や職業倫理が深くリンクしていると言わざるを得ない。

  2013年の年頭にあたり、日本国の平和、日本再生、東日本復興そして会員皆様のご多幸を祈念いたします。

 

 

 

 

「古代史探訪」その1~聖徳太子は実在したか?~

  

  私みたいな素人の考古学ファンにとって、現在の考古学界では「聖徳太子は実在しなかった!!」或いは「聖徳太子は虚構(架空)であった!!」との説は、異説ではなく定説となりつつあると考古学の多くの書籍の中に記述を発見して、天と地がひっくり返る位びっくりし、落胆させられた。

  突然1400年間存在した、我々日本人にとって非のうちどころのない、古代史の「スーパーヒーロー」が消滅してしまった思いだ。有史以来の日本の国家形成の土台そのものを揺るがしかねない大問題である。日頃物事をセンセーショナルに煽り立てるマスコミも慎重に対応しており、波風を立てないで、時間の経過とともに日本人に自然に広くゆっくり浸透して行くのを期待している様である。

  607年遣隋使を派遣し小野妹子に持参させた、あの有名な国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」隋の「煬亭」はこれを見て「蛮夷の国書で無礼である」と激怒したと伝えられている。小野妹子の説得もあり、考え直した「煬亭」は裴世清を日本に送る決心をした。

  隋との対等外交を成功させたのは、推古朝での候補となるのは「厩戸皇子」と「蘇我馬子」しかいない、当時の積極外交を進めていた最高実力者である「蘇我馬子」であったとの見方が強い。

  なぜ「聖徳太子非実在説」が唱えられ始めたのか検証して見ると、江戸時代後期の考証学者・狩谷棭斉は、「日本書紀」と聖徳太子伝記「上宮聖徳法王帝説」比較研究した結果として十七条憲法は聖徳太子によるものではなく、日本書紀の作者(藤原不比等など)が捏造したものだと指摘したのだった。

また「日本書紀」の研究家として有名な歴史学者・津田左右吉氏は、1930年(昭15年)に発表した「日本上代史研究」の中で、やはり「十七条憲法」は聖徳太子の作ではなく捏造であると指摘した。その為に「兇悪思想家」として当時の政府から弾圧を受け、著書を発禁とされたうえ、早稲田大学の教授を辞職させられている。しかし戦後、復権し1947年に文化勲章を受章している。

  そして近年、歴史学者の大山誠一氏は1999年「(聖徳太子)の誕生」において、聖徳太子は日本書紀が捏造した単なる神話的存在(架空の人物)に過ぎないと主張した。大山氏は書の中で、用命天皇と穴穂部間人の間に生まれ、斑鳩宮に住んで「法隆寺」のもととなる寺を建立した「厩っ戸皇子」の実在を認めつつも「十七条憲法」をはじめとする偉大な業績を否定した。以上三人の学者の見解では「十七条憲法」は604年に制定とされているが、その内容に推古朝にふさわしくない記述が多々あると述べている。例えば「国司」と記されているが、「国司」は646年以降に登場する「官名」である、日本書紀の記述によって太子は「摂政」であったとされているが、「摂政」が職位として成立するのは858年であり、「皇太子」との記述にも「立太子制度」は689年からであり記述は捏造の疑いが強い。「十七条憲法」が捏造なら「聖徳太子」は捏造であると決論づけている。更に追い打ちをかけるように、戦前に4回、戦後に3回、紙幣に使用された「聖徳太像」高貴で知的なりりしいお姿は我々に「聖徳太子」のイメージを決定的なものにしたこの肖像も、1982年に東大史料編纂所の今板愛真教授が「もともと川原寺にあったもので、聖徳太子を描いたとする確立は低い」と発表し物議を醸した。その後大阪外国語大学の武田佐和子教授は、「太子像」は太子の没後100年以上経ってから描かれたものであるとの研究成果を発表した。まことに残念ながら政府は聖徳太子架空(虚構)説を支持せざるを得なくなり、今日では太子の肖像を紙幣に使用することを断念したと思われる。

  最後に「聖徳太子」は偉大な政治家であり、思想家である、いわば聖人である。我々日本人は子供の頃から、繰り返し教育され、皆そう信じて来た。「聖徳太子信仰」「聖徳太子崇拝」すら存在した。ところが学問的検証により、「聖徳太子」は「日本書紀」が捏造した虚構であり架空の人物であるとの指摘に私としては・・・。

 最近の歴史教科書の多くは「厩戸皇子(聖徳太子)」と記述しており、その扱いは以前に比べて極端に小さくなっている。更なる詳細な「聖徳太子」研究を待ちたいものである。

 

 

 

 

「TPP考察」その1~日本農業の問題点~

 

  現在衆議院選挙の終盤を迎えている。争点の1つに「TPP」がある。政党の中には「反TPP党」と勇ましいネーミングをするなど「TPP問題」は大変な盛り上がりである。

 民主党はおおむね賛成、自民党はおおむね反対、その他の政党は賛否両論入り乱れていると言った状況である。

  「TPP」に日本で最も強力に反対運動に力を入れている勢力は農業団体(農協)である。自民党の大きな支持母体の一つが農協である為、当然自民党は「TPP」反対の立場である。一方民主党の大きな支持母体の一つは労組であり、工業製品の輸出拡大には「TPP」は有利であり民主党は賛成の立場である。

  ここでは「TPP」と日本の農業について考えてみた。日本の農業は戦後一貫して政府の手厚い保護を受け実に60数年間、補助金制度と高い関税によって守られてきたと言っても過言ではない(アメリカでもEUでも育成や輸出支援の為に補助金は出している)。日本ではほとんど「死に体」もしくはまったく「国際競争のない」農産物に対して「延命処置」の為に補助金を拠出してきた。ある意味今後10年、20年助成してもいや100年助成しても国際競争力をつけて独り立ち出来るとは、日本国民誰一人として思っていないと思う。

  さて高関税の方だが、「コメ」は778%、「小麦」252%、「バター」360%、そして極めつけは「コンニャク芋」で実に1706%の高い関税である(4200戸の農家を保護する為)。あきれて者も言えない高関税である。「コメ」と「コンニャク芋」は事実上の禁輸と言える。今回は「コメ」に限定して話を進めたいと思う。日本政府は「コメ」の高関税の代償として、日本国内消費量の8%に当たる77万トンを低い関税で輸入しているいわゆるミニマムアクセス米である。問題はこの米は日本国内で流通しない様にされている。つまり日本政府は国内の農家を守るために、とんでもない安価な米を流通させずに、海外への緊急援助用として備蓄している。この保管料だけでも年間100億円も費用がかかっている。日本のコメ消費者にとって、こんなムダはないだろう。すべては778%と言う高い関税を課してまで、国内の高い米価を維持したいが為である。この恩恵を最も受けているのは農協である。高い米値であれば、販売手数料も高く維持できる。現在の水田の4割で米を作らないような供給制限に等しい減反、そんな減反政策に伴う補助金制度で守られた日本農業では国際競争に勝ち残れないことは明白であり減反政策を維持するために2000億円を毎年補助金として投入している。農水省は我々消費者に強制的に日本米を買わせるのではなく、関税を下げて1/3~1/5の価格の輸入米の購入は消費者の選択に任せるべきである。

100%日本米は消費されなくなることはない、6070%は今まで通り消費されると思う。ある意味「TPP」は日本農業を変化させたり、国際競争力をつけるチャンスとしてとらえるべきである。日本農業の将来を考え、再構築、イノベーションすべきである。日本農業は捨てたものではない、世界一と言って良い技術力があり、ノウハウの膨大な蓄積がある。これを生かして世界の消費者のニーズに合わせた新しい商品作り、日本国内の更なる大規模経営の推進、更にはオーストラリア・アジア・ロシア・ウクライナ・東欧等への海外進出、日本農業の生きる道はいくらでもある。いや未来は明るいと言える(農水省と農協が農業従事者の自発的な農業活動の足を引っ張らなければ)。

  最後に世界的に見ても農業は生長産業であることは常識であり、日本の優秀な工業製品を世界中に輸出していると同様に、日本の優れた農産物が世界を席巻する日が来ることを夢見ている。

 

 

 

 

「ケインズ理論による不況からの脱出法」

 

  日銀は10月30日に景気悪化を防ぐため、2ヶ月連続の金融緩和を行うことを発表した。デフレ脱却、景気回復の為の又目標である1%インフレ達成の為の懸命な措置と言える。

さて、「景気がよい」とは「GDPが大きい」ということである。「景気が悪い」とは、「GDPが小さい」ということである。

  景気の善し悪しのための格好のバロメーターとして、GDPがあった。

 GDPを大きくすると失業が減る。

では、いかにして、GDPを大きくすべきか。

 有効需要を増やすことである。

 有効需要を増やすためには、いかにすべきか。

  消費、投資を増やす。

  これ、有効需要の原理である。

  ケインズは、失業をなくする研究をしているときに「有効需要」「有効需要の原理」を発見した。

  ケインズ以前の経済学は、有効需要、有効需要の原理を知らなかった。したがって、「経済活動のレヴェルがどう決まるのか」これも知らなかった。ゆえに、失業救済の方法をもたず、膨大な失業者の大群を前にして、なす術がなかった。

  今の日本は空前の不況にあると、人々は七転八倒している。

  不況から脱するためにはいかにすべきか。

  有効需要を増やす。

  そのためには。

  消費、投資のいずれか。あるいは、それらの両方を増やす。以上の方法につきるのである。

  消費はGDPの決定にあたって、半分の重要度を持つ。「個

 

 人消費」については後述することにする。より緊急度の高い投資について考えてみよう。

  投資には設備投資と在庫投資とがある。

  例えば私が、自動車製造会社を作って社長になったとしよう。

  自動車を生産するために、機械を設置し、工場用の家屋を建てる。これが、設備投資の例である。

  生産した自動車は、まず倉庫に入れておいて、販売店からの注文を待つ。この、「倉庫の中の製品」が、在庫投資の例である。

  在庫(投資)の形態には、流通在庫、製品在庫、仕掛品在庫、原材料在庫などがある。

  大規模な設備投資がなされると、GDPは、ぐーっと押し上げられる。

  池田内閣から始まった日本経済の高度成長は、この呼吸で推進された。

  重化学工業を中心に、どさっと設備投資がなされた。

  乗数効果によって、GDPが、ぐぐ、ぐーっと上昇する。これに加速度原理投資が必要になって、GDPはまだまだ、押し上げられる。

  設備投資が呼び水となって、さらに設備投資が湧いてくる。

  このプロセスが原動力となって、高度経済成長が邁進していった。

  GDPは、みるみる巨大化し、日本は経済大国へのし上がっていった。設備投資こそ、経済の要である。経済繁栄の鍵である。刮目するべきことである。

  最後に個人消費の促進には日本にある「金融資産」1400兆円の活用が必要である。例えば年に0.5%を税金として徴収するような方策をとれば、1400兆円のかなりの部分は消費に向かうはずである。「ケインズ理論」による不況からの脱出法、言うは易しかな?

 

 

 

 

「財務省の税金は取りやすいところから取るが鉄則」は愚策

 

  この不況下でも、億万長者が激増している。今日、国の財政難の対策として、消費税増税法案が国会を通過し、実施が迫ってきており、世論も「消費税やむなし」の方向に傾いてきている。

  私個人的には、馬鹿げた方向に税制は向かっていると考えている。つまり、税金は取りやすいところから取るとの原則を忠実に実行に移している。そして、野田総理と財務省の策にまんまとしてやられたと思っている。

  マスコミが語ることはほとんどないが、現在の日本では、金持ちや大企業は、他の先進国と比較して、税制的に非常に優遇されている。このため、金持ちや大企業に冨が集中し、国全体にいきわたっていない。それが消費を冷え込ませ、景気を悪化させる原因の一つとなっている。

  ほとんどの先進国において、金持ちが他の人よりも多くの社会的に責任を負うための制度を用意している。社会的に弱い立場にいる人を助けるための原資を、我々庶民達も金持ちの所得や財産に求めるのは、正当な方法である。これを「応能負担の原則」という。

  所得の多い人にはより高い負担を求め、逆に少ない人には低い負担しか求めないのが「応能負担」の考え方である。これは、累進課税という原理によって支えられている。

  ところが、所得税だけでなく、住民税、消費税、社会保険料の合計の所得との比率において、所得の少ない人ほど税負担が重くなっている。「逆進課税」の状態である。

  一方、低所得者で生活するのが精一杯の人達には、世界的に見ても高い税の負担を課している。このことにより、格差社会が形成されている。

  現在の格差社会は「豊かな人達」と「貧しい人達」に二分されているという状態ではない。つまり、国民全体の生活レベルが下がる一方で、ごく一部の人達だけで、多くの冨を占めているとう冨が偏在して、アメリカ、中国、ロシアに近いような状態になってきている。この様な状態は、経済を停滞、さらには疲弊させている原因となっている。国民全体の生活レベルが下がれ

 

 ば、それだけ社会全体の消費が減る。消費が経れば経済は縮小

し、さらに景気は悪くなる。また、金持ちの収入がさらにどんどん増しても、社会全体の消費はそんなに増えない。金持ちはすでに十分な消費をしているので、収入がどんどん増えても、増えた分貯蓄にまわされてしまう。冨の一極集中が進めば、消費はどんどん減り、日本経済は悪化の一途をたどる。

  現在の状態は「億万長者を潤すために、ほとんどの国民(一般庶民)は我慢している状態」といえる。

  どうしてこんなことになったか、思い起こしてみれば1980年代以降に金持ちや大企業には、大幅な減税が次々と実施されてきた。ちなみに1998年の税収は、現在よりも13兆円多かった。1988年はバブル経済崩壊直前の時期であり、消費税導入の前年にあたる。1988年当時のGDPを比較すれば、現在の方が25%もGDFは上昇している。ところが現在の税収は25%上昇どころか、25%以上税収が減っている。1988年以後、国の税制は大金持ち減税、相続税の減税、そして、これらを補う形で消費税が導入された。現実は、税収は激減し「金持ちの負担減、庶民の負担増」となり、国家財政は負担寸前の状態になった。

  今後、我々が税制をどうすればいいか自明の利である。1988年当時の税制に戻す必要があり、実現すれば現在のほうがGDPは25%上昇しているのであるから、現在の税収に25%以上が上乗せられ、さらには源泉税分があるので、70兆円は越え、現在の税収のほぼ2倍確保できることになる。1988年当時に税制を戻し、その上5%消費税があるのだから、一挙に財政健全化し、日本経済復活の起爆剤となれる。先日、政府税制調査会は以上の様な私の主張に近い答申をしている。

 

 

 

 

「ゆとり教育」その5~橋下君なかなかやるな~

 

119日に、橋下大阪市長が現在の小中学校では()()休校の週休2日制をやめ、以前の様に土曜日の午前中の授業をパイロット6校で始めて、来年の新学期からは大阪市内のすべての小中学校に広めると発表した。土曜日の授業は主として英語教育、社会人を招いての学習や通常の月曜から金曜の授業時間の中では実行しにくい校外学習を行うと発表した。土曜日に真の「ゆとり教育」を行おうとしている。

 過去を振り返れば、小中学校完全週休2日に合わせて、もう少しゆとりある教育をしよう、子供達の自主性を高める教育をしよう、個性を尊重する教育をしようということで、学校での学習内容の量と質を2/3位に減少させた教育を行って今日までやってきた。(例えば数学で円周率は3.14ではなく3に省略して使用する等)

しかし、以前には世界の学力テスト(PISA)において日本はダントツの一位であった子供達の学力も、近年は中国、台湾、韓国、シンガポールの後陣を拝するようになり、世間も文科省も慌てだし、昨年から学習の量・質ともに以前の状態に戻し、又ゆとりのない教育へと変更した。

 今日での文科省の小中教育の目標は

①脱ゆとり教育

②いじめへの確固たる対応と生命の尊重の自覚

③自虐史観からの脱却と日本人としての誇りの自覚

④英語を使える日本人の育成と国際人となる必要性の自覚

であり、以上の方向に大きく舵を切ったと考えられる。

  ところがこれらすべてを実行するには現在の授業時間内では無理があり、橋下市長は思い切って土曜日午前中の授業再開に踏み切った(学期間の休みを短縮する手段もあるが)。私は橋下氏の行政手腕、実行力、突破力のすごさに敬意を表したい。すなわち公務員(教職員)は一度手にした、既得権は絶対に手放そうとしないのが常である。橋下氏の生命を賭してでもとの情熱で「日教組」や「抵抗勢力」をものともせず、くさびを打ち込んでいっさい文句を言わせず、実行に移した。

  

 残念ながら他の首長達には、その発想力すらない。よしんば発想しても反対勢力の抵抗を考えるととても実行に移すことなど夢の又夢であろう。

  今後は次第に全国に小中学校の土曜午前授業は広まっていくものと考えられる。この一点だけを見てとっても橋下氏の言っている「地方」から「日本を改革する」という主張に納得と同感を覚える。橋下氏は優れた政治家である。「維新八策」を掲げ日本の統治機構を変えることに心血を注いでいる。つまり中央集権から地方分権、道州制にそして連邦国家への再構築しようとしている。しかしこれらの実行には土曜午前授業復活などと言う程度の生やさしいものではなく、「既得権益」を破壊される中央官僚にとって看過出来るものではなく、官僚達の抵抗は熾烈を極め、まさに血みどろの戦いになるだろう。私は橋下氏は目前の衆院選にこだわる余り、まあ私的に言わせて頂ければ「日本維新の会」は「有象無象」或いは「玉石混交」の寄せ集めであり、ドシロウトに毛の生えた程度の政治集団と言える。とてもとても「全国政党」と呼べるしろものではない。次期衆院選で「維新の会」が惨敗して崩壊したら、日本は又10年以上、日本の政治機構の改革・変革のチャンスを失うかも知れない。「維新の会」を徒花に終わらせない為には、もう少し時間をかけて「平成維新」に必要な有能な人材の獲得と育成に力を注ぐべきであり、今回の選挙では関西を中心とした「地方政党」としての旗揚げで十分ではないかと考えている。橋下君あせるな!!先は長いぞ!!

 

 

 

 

「ゆとり教育」その4~人生の方程式に「正解」はない~

  

  フランスの思想家、ルソーは「教育の目的は機械を作ることではなく、人間をつくることだ」(「エミール」)と述べた。つまり、自分の頭で物事を考えられるような人間に育てるということの為に必要な知識を教え、知力や体力を育てることだ。それは、人間は教育されたことを土台としてしか、問題を解決できないからである。ところが戦後の日本の教育を考察してみると、人間を作ることではなく、条件反射するネズミを作ることを目的としているとしか思えない教育をしてきた。学校は鋳型にはまった人間を次から次から生み出す鋳型工場と化し、金太郎飴の子供達を作り出してきた。近年その反省からか「ゆとり教育」なるものを取り入れたが、勉学の質を向上させず、量のみ削減した為、知識不足、能力不足の若者を多数輩出してしまった。真の「ゆとり教育」とは詰め込み教育をやめ、自分の頭で物事を考え判断する能力を身につけさせる意味なのに単に子供に楽をさせるというとんでもない教育をした結果である。文科省は反省して又ゆとりのない教育へ方向転換をはかっている。

  現在でも入学試験に出題される問題には、あらかじめ用意されている答えるべき「正解」は一つである。これがいかに恐ろしいことか、数学の方程式の問題を例に考えてみたい。

  生徒・学生が使っている数学の教科書や問題集に載っている問題は、いずれも「解」のある方程式、しかも解ける方程式である。入試で出される方程式も同様である。しかし代数方程式その他の初等(関数の)方程式にせよ、微分方程式にせよ、方程式が必ず「解」を持つとは限らない。持っていても所定の方法で解けるとは限らない。むしろ「解」を持たない方が普通なのである。また、「解」があっても求める方法がないために近似値しか求められない場合もある。

  本来なら、中学1年生の段階で、方程式が必ず「解」を持つとは限らないということをきちんと教えるべきなのだが、現実には殆どの生徒学生は、方程式は必ず解けると思っている。つまり「解ける方程式」だけに慣らされている。だから「解けない方程式」に出会うと右往左往するばかりで、どう対処してよいか分からなくなる。現実、実生活で直面する問題に「正解」があるとは限らない。むしろ殆どの場合「正解」は用意されていないと言っ

 

 て良い。仮にあったとしても「正解」が一つである保障はない。まさに「一寸先は闇」と言って良い。その闇に果敢に立ち向かっていく土台を築くことが本来の教育の目的である。

  ところが戦後教育は問題には必ず一つの正解があるという刷り込みを行っており、正解が用意されていない問題に直面したとき、右往左往するばかりで、どう対処してよいか分からなくなる。このことが戦後教育の大きな欠陥と言える。以上を改めれば、今以上に多くのノーベル賞受賞者を輩出できるだろう。

  思い起こせば、仏教には「自燈明」という言葉がある。開祖である釈迦が亡くなるとき「これから私達は何に頼って生きて行けば良いのでしょう?」と嘆く弟子たちに向かって、釈迦は「私が死んだ後は、自分で考えて自分で決めろ、大事なことはすべて教えた。自ら明かりを燈せ。誰かが燈してくれる明かりを頼りに暗闇を歩むのではなく、自ら明かりとなれ。」つまり己で人生の指針を持たなくてはならないと突き放したわけである。「教育」と「自燈明」は同義語と言える。

 

 

 

 

「石原都知事と道州制」

 

  先日石原氏の都知事辞任会見で、国政復帰について「明治以来続いている官僚制度をシャッフルしないと国民が報われない。命のあるうちに最後のご奉公をし、中央官僚の支配を変えなければだめだ」と説明した。

  以上石原氏の見解を私なりに解釈すると、以下の様になる。中央集権国家として明治以来140年続いて来たが、日本において中央集権制度は破綻している。疲弊した制度は、もはや小手先の改革ではどうにもならない。今こそ新しい制度である地方分権(地域主権)を推進することが必要であり、これが「道州制」であり、「道州制」に移行することは、現在の日本の国の形に適応した、合理的かつ効率の良い内政が行えることである。これが日本国の為、日本国民の為であり、しいては日本再生、日本興隆へつながる唯一の道であると考えているのであろう。

  さて、「道州制」そのものを考察して見ると、「道州制」は都道府県合併でもなければ、国の出先機関の統合でもない。都道府県に代わる。新たな中間政府として「道州」をおき、地方分権を進めることで、そこを内政の拠点とする新たな形の国を作ろうとすることであり、政府の仕組みを大胆に変えることである。

  大きな視点に立てば、第一の改革は明治維新であり、第二の改革は戦後改革であり、そして今回の「道州制」は第三の改革と考えて良い。例を挙げれば、米国では各州は内政において完全自治を持つ独立政府であり、これを統合するのが連邦政府である。日本における「道州制」においてもほぼ同様であると言える。

  実は二十世紀の中央集権体制に終止符を打つねらいで2000年からすでに地方分権改革が始まっているが、改革のテンポが遅い上に「グランドデザイン」がはっきりせず、国民に新たな「国のかたち」のメッセージが良く伝わっていないのが現状である。

  大略は以下である。

 1.内政の権限を「道州」に移し内政の拠点とし、10州程度とする。

 2.国は、外交、防衛、司法・通貨管理、年金保険など国家行政に相応しい業務に限定。

 3.国の出先機関は、検疫、司法、検察などを除き廃止する。

 4.「道州」間の格差是正は「道州」間で調整し、「道州」内の市町村格差は「道州」の責任で是正する。

 5.大都市東京、横浜、名古屋、大阪は「都市州」とする。

ここで問題となってくるのは4、5である。4については現在の日本では日本中どこにいてもある程度一定の行政サービスをすべての日本人は受けることが出来るが、「道州制」の場合、格差是正が容易に行われない場合には、行政サービスに格差が生ずる恐れがある。勝ち組、負け組がはっきりしてしまう可能性がある。5について特に「東京都」は突出しており、その突出ぶりは以下の様である。国土の1%の面積に人口の10%1300万人が住み東京都のGDPは国全体の20%を占め、日本の国税の40%が徴収されている。まったく想定外の大都市である。「道州制」議論の中で最も難問中の難問は東京をどう扱うかと言う点にある。

  以上解決すべき難題を抱えているが、ここは日本人の大いなる英知をもってすれば解決できると私は信じている。我々日本人は変えるべき事項は変えるという選択に躊躇すべきではなく、明るい未来に向けて歩み出したいものである。

 

 

 

 

「ロッキード事件から見えてくるもの」~虚構としての戦後デモクラシー~

 

  ロッキード事件ほど戦後デモクラシーの虚妄性をみせたものはない。この事件の本家本元であるアメリカにおける当時の大統領リチャード・ニクソン追放と比較するとよくわかる。「ウォーターゲート事件」のニクソン告発の口火を切ったのは名もない二人のジャーナリストであり、彼を追い詰めて辞職にまで追い込んだのは、ジャーナリズムと議会であった。始めから終わりまでアメリカン・デモクラシーの制御機構は有効に作動し続けた。

  一方日本においてこの事件における事情は根本的に異なっていた。事件の発端は、アメリカ上院という、いわば日本にとっては全く外生的場所においてである。この偶発的な幸運がなければ、この事件は永久に日の目を見ることなく、政界の黒幕は悠々と安住し、政府高官も大きな顔をして闊歩していたであろう。

  ロッキード事件などはほんの氷山の一角に過ぎず、政界の腐敗は、もっと大規模に、もっと根深く、もっと用心深く進行しつつあるという印象をぬぐいきれない。そして将来この種の事件が起こっても、よほど偶然な幸運がなければ、それは永久に暴かれることはないかも知れない。日本の議会とジャーナリズムのこの事件に対する追求は、せっかく証人喚問を行ったにもかかわらず、国会議員達の法的技術力の不足から、確固とした証言を引き出せず、いとも簡単に追求をかわされ、はぐらかされたと言うのが事実である。それ以降議会において見るべき調査はほとんど行われなかった。

  議会にせよ、ジャーナリズムにせよ、結局はアメリカからの資料待ちというのはいったいどういう料簡なのか、どこの国の汚職事件なんだろうと言いたい。この様な時、日本では言い訳として持ち出されるのが、制度上の制約があり、又、慣行上の制約があり、どうすることも出来ないと言う情けない言葉だ。具体的にはアメリカではそうなっているかも知れないが、日本では、そんな上手い具合にはゆかないのだとの言い訳である。

  ここに私は日本のデモクラシーの1つの虚妄性を見る。近代デモクラシーが基礎をおくところの行動様式の特徴は、制度を天然現象のごとき所与と見ずに、人間によってつくられた人為の所産である、と見ることにある。人間の作為の所産であるから、これを人間の行動によって変えることは可能であると、考えられる。制度も法律も慣行もそして憲法さえも社会の機能的要請に基づいて変更し、あるいは新解釈を与えることが可能なのである。ゆえにニクソン大統領の追放劇などという前例のないことがアメリカでは可能であった。「前例がないから困難」「それは制度的に不可能」などと言っていた日には、アメリカの独立もフランス革命もあり得なかったであろう。私達日本人は優れた人種ではあるが制度や慣行や法律もひいては憲法さえ変える必要がある時には、国民の過半数の合意のもと、変えるという真のデモクラシーを持ち合わせていない!!

従って多くの国民の「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する」という認識、そして「政治とはより少なく悪しきものの選択である」という認識の希薄さを私は心配している。

 

 

 

 

「鷗外と藤村」考察~比較恋愛論~

 

  明治を代表する二人の文豪の比較を試みた。

  最初に、個々人の恋愛のベースとなる生い立ち、そして、幼少期の生活環境を考察してみた。鷗外は、津和野の医家の長男として生を受け(母親は16歳のとき鷗外を生んでいる)最初に鷗外に読み書きを教えたのは母親であり、鷗外の類い希なる才能に感嘆したに違いない。神童の誉れ高く、10歳のときに東大医学部を目指すため、一家で上京している。これから鷗外は、父母から愛され、将来を嘱望(まさに末は博士か大臣状態)され、16歳年上の母は「林さん」「林さん」と鷗外を呼び、まさに溺愛状態だったのだろう。以上から鷗外は、今日でいう「マザーコンプレックス」の典型であり、母親の死まで40数年間は母親の愛のバリアーの中で守られて生きてきたといえる。

  一方藤村は、今の長野県馬籠で庄屋・本陣・問屋を兼ねた旧家の7人兄妹の末っ子として生まれている。父の指示で、数え年10歳で兄と一緒に東京に遊学に出されている。10歳のときに父母の膝下から離れて、ほとんど父と相見えることなく、15歳のときに父が死去しており、5年間で一度だけ父の上京の折、顔を合わせただけである。藤村のすぐ上の兄は、母親の過ちによって生を受け、又、父親も近親の女性と過ちを犯しており、これらの事情からも、藤村の10歳での東京遊学は尋常なものとは違っているように推測できる。比較的経済的には恵まれた環境にあったが、父母の藤村にかける愛情は薄く、藤村は愛に飢え、希求していたとさえいえる。

  さて、本論の比較恋愛論であるが、鷗外自身の一生における恋愛などほとんどおもしろくもおかしくもなんともないものである(ただし青年期の4年間のドイツ留学を除いて)

 鷗外は、母の死去まで強く激しい母の愛の包まれており、外部から女性が近付くことが出来ない程の愛のバリアーに囲まれていた。二度結婚しているが、いずれの結婚生活も嫁姑の確執に随分悩まされたようである。鷗外にとって女性とは、何と厄介で扱いにくい人種であり、子孫の繁栄を考慮しなければ、吉原通いで十分と考えていたのではないだろうか。知性と理性の塊のような鷗外にとって、日本女性と恋愛するなど夢想だにしなかっただろう。

  さて23歳からのドイツ国費留学は、人生で初めて母の愛のバリアーから解き放たれて、大いに自由な空気を満喫した4年間であっただろう。ドイツ人女性エリーゼと出会い、愛し合い、エリーゼのお腹には愛の結晶さえ宿し、留学を終え、鷗外はマルセイユの港からフランス船にて帰朝し、このときももちろん鷗外はエリーゼと結婚するつもりであり、エリーゼは後を追って、ブレーメン港からドイツ船にて4日後遅れで来日している。エリーゼは築地精養軒ホテルにひと月余り留まった。その間、息子のキャリアに傷がつくことを恐れた鷗外の母の命を受けた義弟小金井良精と、実弟森篤次郎が、必死で帰国を促し続けた。鷗外にとって、ドイツ留学中は不滅と信じられた鷗外の恋も、故国ではあっけなく破局した。来日中一度も顔を合わせることなく、鷗外が最後にエリーゼを見たのは横浜の港から出航する船の舷で、鷗外の姿を見つけ憂いを見せることなく微笑んで、無邪気にハンカチを振り、遠くに消え行く姿だった。「熱血と冷眼」を併せ持った鷗外の、最初で最後の人生で唯一の恋であった。鷗外はエリーゼとの間に交わされた書簡や、エリーゼの写真も、鷗外の死の直前に自らの手ですべて焼却している。人は彼を「日本では稀に見る合理的知性の所有者として生涯を冷静に統制し得た」人物として評している。

  一方藤村は、明治学院を卒業後、明治女学校の教師として赴任した。そこで許婚のいる女学生と恋に落ちたが、失恋し、一時関西へ放浪の旅に出ている。その後、やはり同校の学生であった冬子と結婚している。代表作「破戒」を自費出版するため赤貧の生活を送り、3人の女の子を栄養不良が原因で次々と失い、妻冬子も、夜盲症となり7年後に子供達の後を追った。藤村が最初の妻冬子を亡くした翌年、藤村の次兄の次女こま子が、家事を手伝うため藤村のもとへやって来て、まもなく二人は近親愛、出産、スキャンダルを起こしている藤村はすでに文筆で名を成しており、大スキャンダルに発展しそうであると見て取った藤村は、フランスへ逃げ出した。3年後パリから戻り、二人は再会し、縒りが戻り、再びこま子の妊娠の心配をしなくてはならない間柄となった。その5年後には二番目の妻となった静子と知り合った。彼女は最初、藤村のファンに過ぎなかったが、藤村は静子を身近に置きたいために、彼女に女性のための修養雑誌「処女地」の発刊を思い立ち、助手を依頼した。藤村は年齢差25歳の年長であったが、地面に膝をつけるようにして求婚して、その熱意に圧倒され静子の求婚を受け入れた。藤村56歳、静子32歳のときのことである。

  藤村は、ようやく満たされた愛の日々を得て、文筆活動に打ち込み、大作「夜明け前」を完成させたのである。藤村は、静子との結婚で「愛の狩人」状態に終止符を打ったといえる。人は、藤村を評して「狂熱にて堅忍な人生に終始した」という。

  私は、明治の文豪鷗外と、藤村の二人の恋愛の「天と地」程の差に驚嘆するものである。

 

 

 

 

 

「日本文明の独自性と明治維新」炭谷 亮一 10/11

 

 日本は古来より、多くの文明、文化を大陸より取り込んで発展してきた。

  しかし、日本文明は大陸文明と明らかに違うといえる点が多々ある。日本は、中国から法や多くの芸術様式や仏教の中国的形態を取り入れてきた。しかし、中国文明の基本的構成要素を共有してしてこなかった。その例三点を挙げる。

  一点目は、「科挙」と呼ばれ管史任用制度をもちろん取り入れなかった。それに随伴する「官官」制度ももちろん取り入れなかった。一方、朝鮮半島はすべて取り入れた。

  二点目は、「宗族」制(男系の大家族制)で日本にはない。日本では、結婚すれば必ず夫婦でどちらか一つの姓を名乗る。一方、韓国、ベトナム、シンガポールといった中国文明の影響の強い国々では、男性も女性もそれぞれ父親の姓をずっと引き継ぐ。これは決定的な文明の違いである。現在日本でも「夫婦別姓」が話題になっているが、夫婦別姓にするということは、日本文明の根幹に触れる大問題であるとの認識が必要である。ついでながら、結婚したら男の姓で統一されるというのは、中国文明を除くほとんどの文明において共通していることである。もちろん欧米もしかり、どうしても父親の姓を残したい場合には、ミドルネームに父親の姓を入れる。

  三点目は、「儒教倫理」である。これは道徳ではなく「宗教習俗としての儒教」のことで、日本は「儒教」を「儒学」、学問として取り入れた。けれども、中国においては儒教とは単なる学問ではなく、社会生活や家族制度をも支配する生活規範であり、宗教習俗である。日本では、「宗教習俗」を受け入れなかった。儒教だけでなく道教も、日本は国の教義として受け入れようとはしなかった。

  以上のわずか三点の例だけでも、中国文明とは単なる表層的違いではなく、決定的に文明の違いができる。さらに、本質的な違いは、有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が以下のように述べている。

  「日本の国民性のうちに、利己的な個人主義が少ないことは、この国の救いであり、それがまた、国民を優勢国に対して自国の独立をよく保つことを得せしめたのである。このことに対して、日本は、自国の道徳力を創造し保存した。二つの大きな宗教に感謝してよかろう。その一つは、自分の一家のこと。もしくは、自分のことを考える前に、まず天皇と国家のことを思うことを国民に教え込んだ、かの新道である。それともう一つは、悲しみに打ち勝ち、苦しみを忍び、執着するものを減却し、憎悪するものの暴虐を、永遠の法則として甘受するように国民を鍛え上げたかの仏教である」と。日本人は、古来より中国文明の類似したものではなく、日本独自の文明を創造、発展させてきた。そのゆえ、明治維新において、進んだ欧米の文明をできる限り早く取り入れることが必要であると考えた、先見性と進取の気風をもつにいたった。

  「日本は列強の植民地にされてしまう。」新たに誕生した明治政府は、欧米の烈強に危機感を抱きものすごいスピードで近代化を推進した。

 

 

 

 

 

「尖閣問題の一断面」   

 

  日本は、1973年の第一次オイルショックを受け、1975年に「石油備蓄法」を制定。前年純輸入量の90日分の備蓄を民間石油会社に義務づけたところ、この目標は1980年度末に達成された。

  現在の備蓄は国家と民間を合わせて199日持つほどの量がある。同様にLPガスも「石油備蓄法」に基づいて備蓄されており、民間と国家を合わせて60日分・150万トンが達成目標だ。

  これ以外に、日本の石油企業や商社が海外で自主開発している油田プロジェクトが130あり、輸入量の1618%を占める。これには、海外の土地で日本資本が油田開発に協力・資本参画しているものも含む。しかし、相手国の政情不安などに巻き込まれることもあり、いつでも安全というわけではない。

  日本国内でも秋田県や北海道に油田はあるが、国内ではわずか1日で消費されてしまう程度の埋蔵量しかないのが現状だ。

  しかし、決して悲観的になる必要はない。1969年に発表された国連アジア極東経済委員会による海底調査結果と、その後の日本の調査で、尖閣諸島周辺の東シナ海に1000億バレル、700兆円相当の油田があることが判明したのだ。これは世界第二の石油埋蔵国であるイラクの全油田埋蔵量に匹敵する規模である。

  中国は1969年以降、自国の領土と主張するようになった。今年4月に石原都知事は、日本人個人所有者より都が尖閣諸島を買収するとの案を、アメリカの首都ワシントンD.Cで発表し、早速全国各地より14億円余りの募金が寄せられ、8月末に東京都は船舶を出して尖閣諸島を調査した。しかしその後、9月に入って突然国が購入し、尖閣諸島は国有地となった。さあここから予想通り中国政府は大反発し、中国国内で抗議のデモと暴動、尖閣諸島周辺では中国政府の艦艇が、領海侵犯を繰り返し、武力衝突さえ懸念される事態となった。日本国民の中にかなりの不安が広がっているように見受けられる。

  しかし私は、全然武力衝突など起こりようがないと考えている。海には、海上と海中がある。今起こっている騒動は海上である。海中の状態を想像してみた。多分、日米の潜水艦がそれこそ水面下、いや、海中に多数存在し、領海をがっちり防衛しており、中国・台湾などの潜水艦は全く尖閣諸島水域に近付けない状態であろう。いざ、武力衝突になった場合、海上の艦艇と海中の潜水艦では、全然お話にならないくらい潜水艦が有利であり、武力衝突など起こりようがない。

  最後に、なぜ今尖閣諸島の国有化が必要なのかは、石原都知事も、日本政府も、尖閣諸島は日米安保の適用範囲である言質を米政府に確認したうえでの国有化であり、日本の経済再生のため、尖閣諸島周辺に埋蔵されている石油資源活用の為、米石油メジャーと共同開発に乗り出そうとしていると見るべきであろう。700兆円の石油資源を、日本とアメリカで折半出来れば多少のいざこざなど取るに足らないと言える。日本再生、日本興隆の起爆剤と成り得る。

 

 

 

 

「馬鹿馬鹿しい首相公選制」~橋本君は何もわかっちゃいない~

 

  橋本大阪市長は、首相公選を主張している。デモクラシーにとって、これほど危険なことは、またと考えられない。

  日本の首相は、アメリカ大統領とならんで、いわば、世界最大の権力を有する。その首相が、直接に、国民投票によって選ばれたとすれば、どういうことになるか。

  まさに独裁者一歩手前。いや独裁者になる確率は高い。しかも「ルーピー」と呼ばれた2代前の首相の様な人物に4年間居座られたら日本の国は破滅だ。

  橋本氏が、首相公選論を唱えるのは勝手である。しかし、橋本氏に少しでもデモクラシーを守りたい気持ちがあるならば、こう主張するべきである。直接選挙で選ばれた首相は、名誉と、ほんのわずかな権力しかもたない。いわば、源実朝以後における鎌倉幕府における宮将軍みたいなものだ。宮将軍は、名目上は幕府のトップながら、実権はすべて、執権たる北条氏に握られている。

  こんなぐあいに言えばよろしい。

  公選で当選した首相には、名誉はあるが、たいした権力はない。かかる首相の下に、執権大臣がいる。

  執権大臣は議会が指名し、実質的権力は、ほとんど執権大臣に帰する。こう来ないと、日本的ではない。また欧米の歴史に学んだ者とはいえない。

  橋本氏は議会を飛び越えて「即断・即決」の政策を進めたり「トップ・ダウン」の政治手法は独裁に陥りやすいことを知るべきである。

  日本全体を単位として考えるならば、直接投票で選ばれて、大きな権力を有する大統領的首相は、独裁者に変身してしまう可能性がきわめて高い。

  直接投票とは、これほどまでの劇薬なのである。

  しかし、これが、地方公共団体のこととなると、事情はガラリと変わってくる。

  日本は単一国家であって、連邦や合衆国ではない。

  アメリカみたいに、州法と連邦法とでは、どちらが優先するかという問題は、起こりようがないのである。地方公共団体は、「法律」を制定することはできない。せいぜいで、「条例」どまりである。

  しかも、地方公共団体が制定できる条例は、法律や政令や省令に違反することはできない。地方自治法第十四条はいうではないか。「普通地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて・・・・条例を制定することができる」

  普通地方公共団体-都道府県、市町村-が制定しうる条例は、法律や政府の命令はいうまでもなく、ヒラ大臣にしかすぎない主務大臣の命令(省令)にすら違反することは許されないのである。

  日本において、中央政権はかくまでも大きな権力を有する。地方主権・地方分権そして道州制が叫ばれるゆえんである。

  橋本君「日本に強権的な首相」はいらない、我々国民に必要なのは「高い志と折れない心を持った首相」である。私には「維新八策」は「維新愚策」に思えてならない。

 

 

 

 

「アラブの砂嵐と原発」 

 

  シリアでは依然内戦が続き混乱状態である。シリア国民は自由を求めて戦っている。独裁者アサド大統領にとって自国民は奴隷であり、奴隷の生殺与奪の権利は我にありと平気で奴隷(自国民)の殺戮と国土の破壊を繰り広げている。

チュニジアに始まった「アラブの春」はエジプト、リビアに伝播し、私はアラブ諸国も民主化が進むと考えていたが、その後の一連の動きを見ると、アラブに春が来るなどとポジティブに捉える見方は、アラブの現実がわかっていない人間が考えることであるとつくづく実感させられた。

 一連の騒乱は「アラブの春」ではなく「アラブの砂嵐」と言って良い状態である。お先真っ暗と言える。

 長年続いた独裁体制を打倒し民主国家の誕生かと思えたが、西側の我々にとって最悪のイスラム原理主義の台頭である。

 上記の国々で議会選挙が行われ、民意はイスラム原理主義もしくはそれに近いグループの勝利に終わった。一部の原理グループはイランの様なイスラム法の厳格な実践を求めている。少なくとも以前の独裁政権はイスラム原理主義とは一線を画し、世俗的な政策を進めて来た。

 近代的・合理的社会の構築と言う観点からは「アラブの春」によって皮肉にも時計の針が逆に巻き戻されてしまった。

さて日本では毎週金曜日に首相官邸前で「脱原発」デモが繰り返されている。私自身二度、デモに参加ではなくデモを見学した。盛んに「原発反対」とか「原発いらない」等とシュプレヒコールを繰り返し騒然とした雰囲気であった。

 私はその時官邸のあるじである「野田総理」だってデモに加わり「原発反対」「脱原発」と叫びたい気持ちであろう、原発なんかやめられるものなら、やめてしまいたいと考えているに違いない。

しかし現実として大所高所からマクロ的視野から「原発問題」を見た場合、世界中で「脱原発」が進めば火力発電に必要な石油と天然ガスの価格は急騰し、代替エネルギー政策は破綻するだろう。現に先日の日本政府の発表によれば、今年上半期の貿易赤字は、すでに昨年一年間の赤字を上回った。石油と天然ガスの輸入増加が大きな原因であることに間違いない。

このままいけば大きく赤字は膨らみ続け、電気料金は大幅に上がり、財政破綻し、税金は更に上がり、企業の海外移転が進み日本経済にとって大打撃となる。もちろん、我々の現在の生活水準は維持できなくなり、その上社会保障もかなりの切り捨て、縮小も行われる様になる。そして産業界への電力供給を制限するわけにはいかず、日常家庭で使用する電力の制限が行われることになるだろう。まずエアコンは自粛、夏はうちわと扇風機、冬は火鉢とこたつの使用と50年前の生活に逆戻りすることになる。完全なる「脱原発」政策に舵を切りその結果、快適な生活を捨てる覚悟が我々国民にあるか私は問いたい。

 

 

 

 

「ロンドンオリンピックと津田梅子」  

 

  813日にロンドンオリンピックは閉幕した。日本女性の活躍が印象に残った大会であった。まさに「大和なでしこ」ここにありと、世界中にその存在をアピールしていた。

ところで日本の歴史を振り返って見れば、ある意味女性がヒーローであり、日本を支えて来たのではと考えている。

 古来より「女王卑弥呼」、約1000年前に珠玉の名作「源氏物語」を書いた「紫式部」、鎌倉幕府を支えた「北条政子」そして明治の英語教育、女子教育に尽力し、津田塾大学の基礎を築いた「津田梅子」いずれも政治・文化で輝いた歴史に残る「英傑」「英知」である。

ここでは「津田梅子」を考察してみよう。

1871年「岩倉使節団」は19ヶ月の予定で米欧12カ国の歴訪に向け航出した。使節団の陣容は大久保利通、木戸孝充、伊藤博文等の政府首脳、中堅、若手官僚その数200余名で、成立した明治政府の中枢の半数が外遊すると言う破天荒なもので、この中に14才の少女2名、11才の少女、8才の少女、6才の少女(津田梅子)5名の少女が含まれたいた。

この少女達はアメリカに長期滞在(10年位)して英語はもとよりアメリカ文化アメリカ思想アメリカの風俗習慣を会得し、明治新政府の近代化に役立たせ様にとの試みであった。

 政府首脳は、アメリカで英語をマスターし、アメリカの生活にスムーズに慣れるには、年少者が良いと考えたのであろう。実に慧眼であった。

 年長の14才の少女二人はアメリカの生活にうまくなじめず、半ば鬱状態となり一年後に帰国している。

 使節団と別れた少女達は首都ワシントンでアメリカ生活の第1歩をしるした、年少の3人の残された少女達は「ザ・トリオ」を組んで助けあい、励まし合った、日本語を忘れないように三人だけの時に日本語で話した。やはり最年少の津田梅子は最も早く英語で考える子になった。そして彼女達はアメリカの娘として成長し11年後に帰国した。岩倉使節団の4年前の1867年に梅子の父「津田仙」は福沢諭吉らと共に渡米し英語を学び帰国すると新潟で英語教授兼通訳となった、更には築地ホテルの理事に就任した。

「子女の米国留学」と言う政府の計画に呼応した津田仙は、当初長女8才の琴子を送り出すつもりであったが、琴子が離日をいやがった為に2才年下の梅子を応募させた。

 父親はようやく物心つくかつかないの6才の我が娘に、この留学の重大さをこんこんと咬んでふくめる様に幾度も言い聞かせたはずである。おそらく梅子はほとんど理解出来ず、ただ父親が真剣に時には目に涙をためて話す姿にむしろ圧倒され、ただただお前は「武士の娘であることを忘れずに行動せよ」そして「アメリカでしっかり勉強し帰国後は日本の為につくせ」とこの二つの言葉のみが6才の梅子の脳裏に焼き付いたのではと私は考えている。

いかにお国の為とはいえ、6才の少女をアメリカに長期留学に行かせた親も親だし、アメリカに行った子も子だと思う、私はこの原稿を書きながら涙が止まらなかった。そして明治人のもつ「進取の気風」「気概(ガッツ)」に感服せざるを得ない。

ああ何と、偉大なる明治人よ!!

 

 

 

 

「いじめの深層」 その1

 

  今日「いじめ」は大問題。政府が死に物狂いになって調査しているが、原因が分からない。どうしても真相がつかめない「五里霧中」と言う言葉がぴったりの状態だ。社会科学的分析をやらないから、分からないのである。「いじめ」と言う現象自体は、昔からあった。世界中どこでもあった。しかし今の日本の「いじめ」はそれとは全然違う。ここが最大のポイントである。どこが違うのか。昔のいじめは、いじめる主体がいた。いじめられる客体がいた。ガキ大将は「お前、俺の子分になれ」「はいなります」と言うといじめるのをやめる。「なりません」と言うとさんざんやられる。そういういじめは世界中どこにでもある。

いじめられたくなかったら、ガキ大将以上に強くなれ。デイズレイリ(元英国首相)は子供の頃「ユダヤ人の子だ」としてさんざんいじめられたから、ボクシングの稽古をやって相手を張り倒した。これが、当時はベストな方法だった。セカンド・ベストは、子分になれと言われたら、忠実な子分になる。とりあえず、いじめはなくなる。主体があって客体がある場合には、相手を張り倒すか、悔しいのを我慢して子分になるか、そのどちらかで「いじめ」は解消する。いずれにしても自殺するほどのことでない。ところが、最近の「いじめ」ちょっと複雑だ。いじめる主体が無くて客体もない。だから救いがたい。しいて言えばいじめる主体は「空気」だ。あいつは汚いだとか、臭いだとか、気味悪いだとか、「いじめ」の空気が出来る。そうすると非常に陰鬱な「いじめ」をやる。しかし空気による「いじめ」だから、その時の状況でどこに吹いていくか分からない。

  誰かが誰かをいじめると言う空気をつくる。すると関係ない生徒までその空気に乗る。乗らないと、いじめが自分に来る。かくて「いじめ」と言う空気が、クラス全体にみなぎる。

 被害者が自殺する様な悪質ないじめが起きても、他の生徒はいっさい口出ししない。いじめの空気に逆らって、自分がいじめられたら大変だ、だから見て見ぬふりするしかない。

 空気によるいじめは、特異な怖さがある。「空気」が犯人だから、文科省がいくら予算を使って調査・研究しても有効な解決策は見出せないと私は考えている。

  戦後70年余りの今日、子ども達の未来は暗い、いや風前の灯火かも知れない。「ルソー」は、「人間は二度生まれる。一度目は誕生、二度目が青春だ」と語った。また「ゲーテ」は「すべて偉大なるものは青春において作られる。その後の人生は注釈にすぎない」と言った。

 

 人間にとって、青春期とは、何ものにも掛け替えの無い貴重な時期である。それが受験、受験、学校に行けば「いじめ」があり、家に帰れば、親子の断絶、家庭不和、家庭内暴力、最近はそれでもややましにはなったが日教組による自虐教育、これでは子ども達は日本に日本人であることに誇りを持てず、心を許せる友達もいない、最悪の情況と言える。何としても子どもの自殺だけは防止しなくてはならない。これは我々日本成人の責務である。次回防止策について述べたいと思う。

 

 

 

 

 「ホーキング博士の本心」

 

 欧州合同原子核研究機関(CERN)が7月4日に大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を使った2つの史上最大規模の実験で、質量の起源といわれる「ヒッグス粒子」とみられる新粒子を発見したとの暫定結果を発表した。

 科学者が50年近く探し求めてきた粒子がついに「発見」されたというニュースに、世紀の大発見と世界は興奮した。

さてこの宇宙物理学の世界には「ヒッグス粒子が見つからない方に100ドル賭ける」と茶目っ気たっぷりに語った高名な科学者がいる。

それは「車椅子の天才」の異名をもつ、英国のスティーブ・ホーキング博士だ。2008年の秋にもうしばらくしたらLHCが動き出すと言う頃、BBCのラジオのインタビューで語った大胆な発言である。ホーキング博士はこの時「ヒッグス粒子が見つかった時より見つからなかった時の方がはるかにエキサイティング」とも述べている。ヒッグス粒子が見つからなければ、物理の標準理論が破綻して素粒子の世界は大混乱に陥る。ホーキング博士は混沌ともいえるそうした状況の出現を望んでいるかの様に思えるが実はそうではない。ホーキング博士は賭け事が少なからず好きな人で、過去にも科学のイベントが何か起きそうになると友人と賭けをして楽しんでいる。最も有名なエピソードはブラックホールをめぐる賭けだ。ホーキングは友人と、はくちょう座X-1にブラックホールがあるか否かで賭けをした。ホーキングがはったのは「ブラックホールは存在しない」ほうだった。だがブラックホールが見つかり、友人に雑誌1年分をプレゼントすることになった。1990年のことだ。

ホーキングはブラックホールの専門家だ。なのになぜ負けたか、実はホーキングは賭け好きであると同時に、賭けをする時には自分の予想とは逆のほうに掛け金をはる癖があったのだ。事実彼の著書にはこんなことが書いてあった。「もしブラックホールがないと分かれば私の研究は無為に帰す。だから、そうなっても、賭けに勝ったという慰めが残る様にブラックホールがない方に賭けたのだ」と。

そうなるとホーキングのヒックス粒子をめぐる発言も反対に解釈した方が良い、つまり結論は、ひねくれ者ホーキングのラジオ番組での発言とは裏腹に、心の内ではヒッグス粒子発見を予想し待望していたのだ。

 

 

 

 

「島崎藤村考察」

 

1991年、島崎藤村は明治学院を卒業。在学中に受洗したキリスト教の影響で文学を志した。傍ら明治女学校の教師となったが、許婚のある教え子への愛に苦しみ、教会を離れて、1993年関西放浪の旅に出た。

  さて、近代の近親愛スキャンダルといえば、藤村のそれも名高い。姪の島崎こま子(藤村の次兄・広助の次女)と恋愛・出産事件を起こしてしまったのだ。

  藤村が最初の妻・冬を亡くした翌明治44年(1911)、こま子が家事を手伝うために藤村のもとへやってきた。藤村は39歳、こま子は20歳。親子ほども年は離れていたが、男女の関係になるのに時間はかからなかった。

  やがて出産、ちょうど『家』を連載しているところで、藤村はすでに文豪として名をなしていた。大スキャンダルに発展しそうであることを見てとった藤村は、こま子との関係を清算する目的もあって、大正2年(1913)、フランスへ逃げ出した。

  3月に神戸を出航、5月にパリに到着。途中、南仏リモージュ市滞在をはさんで、パリで3年間生活し、ほとぼりが冷めた大正5年に帰国した。作家だけあって、藤村は実にしたたか。大正7年からは、こま子との恋愛の経緯をつづった小説『新生』を朝日新聞に連載している(こま子は節子という名前で登場する)

  経緯だけ見ていると、藤村は自分の作品『破戒』に登場する堕落坊主にそっくりといっていい。主人公が下宿している寺の住職は、奉公に来ていた若い娘を何度となくレイプする。主人公は娘にほのかな思いを寄せており、事実を知って苦悩する。

  タイトルの「破戒」は父の戒めを破る主人公の行動を指しているが、同時に世間のルールにも、仏教の戒律にもそむいた、その坊主のことも意味している。はからずも自身の代表作の中で、将来の自分の行状を予見していたわけだ。

  いずれにせよ、性への欲求は高名な文学者であっても抑えがたい。禁忌を犯すことは背徳的な喜びに通じる。タブーであったがために、よけいに熱情をかきたてられたのかもしれない。

  しかし晩年藤村は、郷里で宿場役人の古記録「大里屋日記」を発見した彼は、そこに息づく街道筋の生活を基盤として、近代日本の胎動期の苦しみを描いた大作「夜明け前」を書き上げた。この作品の中に、私は藤村の枯れた淡々とした「心の平安」が感じ取れる。

 

 

 

 

「アンドリュー・ワイエスの世界」

 

アンドリュー・ワイエスや、エドワード・ホッパーといった画家たちは、大自然の中に生きる人間の孤独を素直に表現しているし、ベン・シャーンは、大都市に住み人々の寂しさを寂寞とした画面に現した。

  自然の多様性と人間の孤影を対照的に表現するためには、写実的な描法が有効であったから、彼ら一群の画家たちはアメリカン・リアリストの名で呼ばれているが、決して一つのグループを作っているわけではない。

  とりわけアンドリュー・ワイエスはメーン州クーシングの片田舎に留まって、近隣の自然と人間を描き続けた。

  ニューヨーク近代美術館に展示されているワイエスの作品「クリスティーナの世界」は、隣人の薄幸はクリスティーナの姿と、孤立した彼女の家を対比させ、得もいえぬ淋しさと孤独とを表現させていて、人々の胸を打つのである。

  私達日本人がワイエスの作品を見るとき、卓越したその技術に目を奪われがちであるが、又、モダニズム絵画を見るときと別の見方、反応があるようにも思われる。それは、美術史的な知識を前提に見るのではなく、より心情に触れるものとして感じるのである。

  絶対的な創造主の神とその子イエス・キリストが基底にある、西欧の代表的画家の一人であるレオナルド・ダビンチの作品には、神を感じ神そのものを内包さえしているようにすら感じられる。ワイエス作品の心情に触れるものとは、それと気付かなくても日本人が古来持っている死や死者に対する思いやり、さらには精霊への信仰に通ずるものを思い出すからではないだろうか。私はワイエスの作品には精霊が宿っていると感じている。

 

 

 

 

美しきロータリアン~その1 朴天学先生~ 炭谷亮一7/5 

  

  私は今年51819日韓国3710地区の地区大会に岩倉さんと供に招待され訪韓しました。もちろん大歓迎を受け特に岩倉さんは南光州R.C千会員と同室で夜はろくろく寝かせてもらえなかった様でした。私はたまたま朴天学先生とじっくり話す機会があり、昨年秋の2610地区大会でのRI会長代理の李承采先生の言動の素晴らしさに驚かされこと、もちろん私と李承采先生とは旧来の友人同士ではあるが、日本の他地区での韓国のRI会長代理の言動と比較して余りの開きと言うか、天と地ほどの差に驚嘆せざるをえませんでしたと伝えました。(他地区での韓国のRI会長代理の人達の言動をここで記述するのは控えさせていただきます)通常RI会長代理夫妻以外に家族の同行もあり、その費用もすべてホストが負担するのが慣例となっていますが、李承采先生は我々に内密にすべて自費で娘さんを同行されたのにはただただ驚きましたと朴先生にお話ししたところ、実は朴先生がホストに迷惑をかけない様に指示されたとのこと、又頭初は石丸先生と私は3710地区の最長老のパストガバナー李庠根先生をRI会長代理としてお願いしたところ朴先生より李承采先生の方が適任との回答がありRIには李承采先生を希望と申請しました。この件に関して私が質問したところ、朴先生は以下の様に述べられました。「私と李庠根先生とのお付き合いは緊密で長いです。そして私と李承采先生との付き合いは浅くそんなに長くありませんが、今回の地区大会は日本での開催であり国際間の案件なので残念ながら李庠根先生は奥様を亡くされており、やはりRI会長夫妻という形が正式でしょう、その上李承采先生は50才代で若く両地区の将来を考えた場合、若い李承采先生のRI会長代理として派遣すべきとの結論に達した」との理由でした。思い返せば、1999624日の故飯野健志先生と朴天学先生との間で金沢百万石R.Cと南光州R.Cの姉妹クラブの締結がされました。この時朴先生はソウルで医大生だったご子息を交通事故で約6ヶ月前に亡くされたにもかかわらず両クラブの友好維持と増進の為、そして未来の為、悲しみを乗り越えて来日されたことを思い出し、私は涙をこらえ、必死で作り笑いをしました。そして私は心の中でそっとつぶやきました。「朴先生の深甚なるお心遣い本当にありがとうございます」

 

 

ガバナーからの手紙  炭谷 亮一

 

  ガバナーからの最後の手紙  「国連教育白書」      炭谷亮一

   最近の国連の教育白書では、世界で最も優秀な大学20校の内、アメリカの大学が実に17校を占めている。

  ハーバード・MIT・コロンビア・スタンフォード・カリフォルニア・ペンシルベニア・プリンストン・イエール・カリフォルニア工科大学などである。アメリカの力の根源にあり、その軍事的象徴が世界最初の原子力爆弾だが、マンハッタン計画の責任者、アメリカ陸軍グローブ大将が最も頼りにしたのは、シカゴ大学とコロンビア大学の研究室だった。アメリカの科学技術のネットワークはアメリカの大学のネットワークそのものである。

  前述の大学が中心となってアメリカの産業技術を開発している。アメリカの技術の中核は大学であるということが出来る。

アメリカの優秀な大学の多くは私立大学まであり、アメリカの国家に動かされているのではない。ハーバード大学のようにアメリカという国の誕生する前から存在している大学もある。ハーバードやイエールなどの私立大学は財政的にまったく国家に依存していない。

  これらの大学は、自らの政治力で議会を動かし企業に働きかけて資金を集めている(勿論成功した卒業生から莫大な寄付もある)そういった大学の在り方と企業のかかわりが、アメリカの大学を技術ネットワークの中心的な存在にしているようである。このネットワークがアメリカの科学技術を常に革新し拡大し続けている。アメリカの大学は、アメリカの産業界、企業と大学を密接に結びつける役割を果たしていることが特徴である。

  アメリカでは、企業活動と大学の研究開発は表裏一体となし、政府の枠を超えてアメリカを豊かにしようとしている。ちなみに、国連が挙げている世界の優秀な20の大学のあと三つは、イギリスのオックスフォード大学、ケンブリッジ大学そして我が日本の東京大学である。

  東大は国立行政法人移行後、企業と結びつきを強め、国家の枠を超えたものとなりつつあるようだ。つい先ごろまで日本では国立大学が、実際の企業活動に関わりあうことは違法行為とすら考えられてきた。こうした考えがあったために、日本では新しい機材や医療技術・薬品などの開発が遅れていたわけだが、最近はアメリカ型の産学共同のシステムを取り入れた結果として、東大が世界の優秀20の大学の一つに数えられることになった。強い力で世界を引っ張って行くアメリカの原動力は、教育機関である大学が社会のネットワークの要素として活動していることが大きな原因である。

 

 

 

 

 「思想及び良心の自由」    炭谷亮一

 

  今年2月に河村たかし名古屋市長が、日本記者クラブ主催の会見で「南京大虐殺」は存在しなかったと、市長自身の「歴史観」を明言し、南京市当局と中国大使館、そして朝日新聞は猛反発し話題となった。

  過去にも近隣の諸国から「正しい歴史観」の共有を要求されたこともあった。そもそも「歴史観」には正しいとか正しくないなどの問題は存在しない。なぜなら「歴史観」とは個々人の内面の問題である。100人いれば100通りの「歴史観」が存在すると考えてよい。まあ右向け右の全体主義国家であれば独自の「歴史観」を国民に押し付けることは可能かもしれないが、日本は完全なる民主国家であり、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由」はこれをおかしてはならないとうたっている。したがって、日本国が「歴史観」を国民に押し付けるはずもないし、できるはずがない。国民が持ちまた考える「歴史観」は完全に自由であり、何らの制約も受けない。国家権力がこれに介入することなど絶対に許されないのである。このことは「デモクラシー」の、いやそれよりずっと前の「リベラリズム」の鉄則である。

  日本の多くのマスコミの態度も言語道断である。何かと言えば「デモクラシー」を振り回す癖に無批判に近隣諸国の主張を報道し、むしろマスコミは「デモクラシー」にとって敵と言っていい状態だった。

  近代デモクラシーの特徴は「リベラル・デモクラシー」である。まずリベラリズムがあって、その上にデモクラシーが構築される。リベラリズムとは、「国家主権」から「国民の権利」を守ること。デモクラシーとは、「国民主権」で国民が一票を投じて政治に参加することであり、「近代デモクラシー」は前述したようにリベラリズムの上に構築される。

  さて、「自由」と言っても「言論の自由」「表現の自由」「政治の自由」「経済の自由」「結社の自由」などがあり、これらは完全なる「自由」ではなく、時として制限されることがある。しかし、最も重要な「自由」であり、完全で一切制限を受けない自由が「思想及び良心の自由」である。

  さて、ロータリーは過去にも現在にも一切「思想及び良心の自由」を侵すことなく、いかなる制約をもかしてこなかった。そして、人間の琴線に触れる「超我の奉仕」を第一標語として高く掲げ、世界の200以上の国と地域に約122万人あまりの「有能」な会員を有する巨大組織が100年以上継続し、拡大し、光り輝き続ける由縁である。今後も栄光の歴史を歩み続けていくことと考えている。

 

 

 

 

 「いつまで続く超円高よ!!」   炭谷亮一

 

  日本は「ニクソン・ショック」以降、今日まで5回の超円高を経験している。前4回と今回の5回目には超円高要因に決定的な違いがある。

  14回の円高は基本的要因が、日本の驚異的な経済成長、つまり「巨額の貿易黒字と経済異常」であった。しかし、今回の5回目の円高要因は、「欧米の債務危機」によって円高が進行したのである。

  リーマン・ショック後の円高は、日本経済にとても堅調なためではなく、欧米の経済が悪化するためである。(ドイツは除く)

  日本は、貿易収支について2012年には赤字に転落することがほぼ現実視されている。1980年の第二次オイルショックで、日本の高額なオイルマネーの支払いのため、貿易赤字となったが、それ以降はオイル危機を克服してからは「輸出大国日本」となり、毎年巨額の貿易黒字を出してきた。

  ところが、近年の円高に伴い企業の海外移転、産業の構造変化によって貿易赤字が恒常化する恐れが出てきた。

  日本は貿易外収支、つまり海外への直接投資、証券投資などの利子、配当、パテント料の所得収支の黒字によって、経常収支を現在のところは黒字を維持することが出来ている。

  問題は所得収支などの黒字で、貿易収支の赤字を埋めることが出来なくなった段階の到来である。つまり経常収支が赤字に陥った時である。

  日本経済研究センターによれば、「日本の経済収支は2017年度に赤字に転落する」と予想されている。2012年度からは、完全なる貿易赤字となり、2017年からは経済黒字が消える。日本経済の最大の強みが消えることになる。こうなると円高は円安への決定的転換期となる。2017年には待望の超円安となる。しかし、このことは日本国債の信用低下、格下げ、長期金利の上昇、貿易収支、経常収支の赤字転落により、1ドル300円のようなハイパーインフレに陥る可能性もある。

  現在の日本の先行きに対し暗い見通しが支配的である。財政破たんの危機も呼ばれている。しかし、おそらく2013年頃から100円を目指す展開となる。円安への転換は日本企業の国際競争力を高め、再び黄金の1980年代の様な経済力を取り戻すチャンスであり、日本経済ひいては日本再興のチャンス到来と言える。

 

 

 

 

 「アメリカの学費ローン」  炭谷亮一

 

  オバマ大統領が昨年10月末、連日のように行政命令を発出した。注目されたのが、学費ローン制度改革の前倒し策だった。卒業後の就職難は米国も同様で学費ローン保持者の12人に1人が債務不履行に陥っているとされる。

  昨年施行されたヘルスケア改正法に付加された条項に基づき、2014年よりが釘ローン返済額の上限を可処分所得の10%まで下げ(現行は15%)、返済開始から20年経過した時点で棒引きにする(現行は25年)ことになっていた。この制度改革を前述の行政命令により、12年に繰り上げて実施することになった。

  教育界は「小さいながらも正しい方向への第一歩」と評価する。

 親が学費を負担することの多い日本では、学生自身が借り手となる学費ローン制度は余りなじみがない。一方、より自立している米国の大学生は、アルバイトはもとより奨学金をもらったりローンを組んで学費と生活費に充てるのが普通だ。

  最新の統計によると、米国の3分の2が卒業時に借金を抱えており、その平均額は2万ドルを超える。学費ローンの総額は1兆ドルに迫り、クレジットカードのローン残高をついに抜き去ったというから、いかに大きな額かわかる。

  学位があれば、それなりの収入の仕事につけた時代はそれでもよかった。しかし20代前半の若年層の失業率は現在の15%近く。めでたく就職できたとしても実質賃金は近年目減りしているので、ローンを背負った新社会人にとって厳しいことに変わりはない。住宅バブルの次は学費ローンバブルの崩壊か。

 米国の平均家計収入は約5万ドルだが、一流の私大ともなると学費だけで年間4万ドルを超える。

 標準的な米国人にとって大学は手に届かぬ世界になりつつあるといっても過言ではない。

 「ウオール街を占拠せよ」運動は、格差拡大に警笛を鳴らしているが、裕福な家庭の子息しか進学できなくなったら貧富の差は広がるばかりだ。日本の大学生と比較して自立したアメリカの大学生の姿を見ていると、18歳で選挙権を与えて成人としての自覚を日本の若者に認識させる必要があるかもしれない。

 

 

 

 

 「ゆとり教育(その3)~心のゆとり~」 炭谷亮一

                   

  近年、毎年のように3万人の人が自殺している。おそらく経済的理由によるものが大半で、私みたいに「愛のために死にたい」など稀有であろう。自殺者の殆どは精神的な余裕を持ち合わせていないためと思う。これこそゆとり教育、すなわち「心のゆとり」を教育しない結果である。教育の欠如の最たるものである。

 昔からよく言われることであるが、「死中に活を見出す方法」、「蝟集する、つまりむらがり寄せる不幸の中で、泰然として前向きに対する心構え」これらを見に滲むように体得させることこそ、真の「心のゆとり」教育である。

 受験教育、点取り主義の自動販売機的教育からは、どうしても個人の危機管理教育は出てこない。個人の危機管理を考えるときの肝心要は、考えられる最悪の場合について覚悟し、「死中に活を見出す」方法を、実例を挙げて教育すべきであろう。

さて、今日我々は資本主義の真っ只中で生きていることを認識させるべきである。資本主義の論理とは市場原理である。市場原理とは淘汰の法則である。労働者(経営者を含む)は淘汰されて失業者となる。市場原理が作動せず、破産と失業がなければ資本主義は死ぬ。

  資本主義における覚悟は、破産と失業である。ゆえに、資本主義における教育の根本とは、失敗をどう受け止めるかの教育でなければならない。破産と失業とにどう対処すべきかの教育でなければならない。それがないというのは、これは、どうしようもない欠如教育である。とても、教育と呼べた代物ではない。資本主義教育の事始めは、破産と失業とは、これ日常茶飯事のことであると教えなければならない。破産しそうだと、びくびくするなかれ。どの企業だって破産しそうなのである。今は偉大である企業だって、いくたびも破産しそうになった。破産もした。それをどう乗り切ったか。破産した人がどう再起したか。これを学ぶことこそ実に、資本主義教育の要諦(肝心な点)である。そのエッセンスは、幼時から学んで、無意識の底に、しっかりしたコムプレクスを作り上げておく必要がある。これらの教育が現代日本に全く欠けていることが最大の問題である。個々人に「心のゆとり」教育をしっかり行えば、確実に自殺者は減少する。

 

 

 

 

 「ゆとり教育(その2)」 炭谷亮一

                        

  前回、文部省の「ゆとり教育」の方針のおかげで、15歳の子供の世界的な学習到達度調査の結果は、上海、シンガポール、台湾、韓国、インドなどの国々の後塵を啓していると記述した。特に、日本の公立学校は、生徒全員の知的レベルを同じくらいの位置まで上げようとする。そのため、平均的知的レベルにしか到達しない。

  日本では、平均以上に教育なるためには、放課後に塾へ通うしかない。原則日本では、義務教育において英才教育を行っていない。それでも教育格差は存在する。だが、公立学校では、それを良くないこととして隠し、表向きは平等な教育を心がける。

  日本の教育に優れた点もある。学校が平均的学習を目指すがゆえに、主要科目以外の分野にも重きが置かれている。しかし、上記の国々では主要科目以外をないがしろにしてしまうため、主要科目以外の教育は実質行われていないのに等しい。

  一見、主要科目以外の教育にも力を入れることは、主要科目のみ重要視する人達にとっては無駄に映るかもしれないが、実は真の人間教育においては、むしろ主要科目以外の無駄とも思える教育が重要であるといわざるを得ない。

  子供達に、道徳心、公徳心、他人を思いやる心等の情操教育の面では、上述のアジアの国々の中では突出している。

  音楽、体育、技術、家庭科といった授業である。これらの授業にも十分時間を割き、子供達の知・徳・体を鍛える真の人間教育をしている。そして上記の科目は、人間としてのゆとりと、心のオアシスを形成する上で、非常に重要である。

  こういった教育体制があるからこそ、自然科学、社会科学等のすべての分野で秀でた人材の出現が見られるのである。

  最後に、日本の義務教育に一つだけ注文があるとすれば、国語はもちろんしっかり教育した上で、英語教育は小学校からやってはいるのだから、中学の3年生くらいでは、殆どの生徒が日常の英会話を話せるようにして欲しいものだ。現在の国際社会では、個々人にとって母国語と英語は必須といえる。

 

 

 

 

「民主主義と米山奨学生」  炭谷亮一

 

201112月に米山奨学生の採用試験で2回目の試験委員として出席し、印象に残ったことを述べてみたいと思います。

  受験生は母国語と日本語だけでなく、もう一つ英語まで自由に話すマルチリンガルが多いのが特徴です。そして、日本人の若者と比較すると、将来への目的意識がしっかりしており、自己主張が強い傾向にあります。

ロータリーについて聞くと、ロータリー自体ではなく米山奨学会の制度について、とうとうと説明するケースがほとんどだったように思います。出身国にロータリークラブが存在しない学生に、世界的にみてもアフリカ諸国の大半、中東諸国、中国、北朝鮮などにロータリークラブは存在しない。どうしてですか、と質問すると学生は当惑し少し考えた後に、ちんぷんかんぷんの回答をしたり、ギブアップするケースがほとんどでした。この2年間で、ただ一人21歳の女性が、「私の国の政府が民主主義を拒否しているから、民主的組織であるロータリークラブは存在しない」と的確に答えて、われわれ試験委員は飛び上がらんばかりに驚かされました。

  推測するに、彼女は英語能力に優れているとのことなので、民主主義(democracy)の語源を知っている。すなわちDemocracyという言葉は、ギリシャ語の“demos(民衆)”と“kratia(統治)”からなる合成語であると知っているのでしょう。民衆が統治する、すなわち、国民主権が民主主義であると理解しているのでしょう。将来の希望は、金融学を深めるために京都大学の大学院へ進学したいとのこと。2年目にして本当に素晴らしい学生に出会えて幸せな気持ちでいっぱいでした。

この素晴らしい米山奨学生、北陸大学4年の郭蒓さんを当クラブがホストとしてお世話することになりました。大いに彼女を支援しましょう。

 

 

 

 

 「マルクスの悲劇」         炭谷亮一

 

  19861月、IBMチューリッヒ研究所KAミューラーとJGベドノルツの二人は、高温で超伝導現象が生じるセラミックスを発見した。

   が、彼らの研究は欠点が多く不完全。早速、論文を西ドイツの物理的専門雑誌に投稿したが、全く無視されたそれどころではない。IBMでさえ、彼らの業績の意味に気づかない始末。

  が、日本の田中昭二氏(当時、東京大学工学部教授)がこの研究に刮目した。

  こうして、超伝導を完成させるべく研究がスタート。そして、その年の11月末、田中博士を中心とするグループは、二人が発見した物質はマイナス243℃で電気抵抗がゼロになることを確認した。

  物理学界は沸きに沸いた。マスコミもだ。第二次産業革命。いや、第二の火の発見。

  だが、ノーベル物理学賞は、田中教授ではなく、はじめに研究レースをスタートさせるきかっけを作ったミューラーとベドノルツの未熟な実験の成果に与えられた。比較を絶した規模で、完璧な結果を出した田中教授ではなく。

  ノーベル賞。久しぶりにヒットを打って権威を恢復したとヤンヤ、ヤンヤ。

  それはなぜか。

  学問の神髄をヒットしたからである。

いつの世でも、偉大なる発見は、方法的に未熟な素人の独創からはじまる。

  ニュートンからアインシュタインにいたる物理学をはじめ、至る所にその例を発見することが出来る。

  社会科学でも同じ事。例えば経済学。

  ケネイは医者、アダム・スミスは倫理学者、リカードは商人、ミルは書記、マルクスはルンペン。偉大なる始祖達は、みんな素人であった。

  が、素人天才の芽は、好意ある専門家の温床で育てられて、はじめて豊穣をもたらす。だが、いかなる研究もかように幸せであると限らない。

 例えば、マルクス。

  マルクスの天才的独創にもかかわらず、それを育て発展させる専門家の協力が得られなかった。マルキスト、その数は多くともことごとく訓詁解釈(ボケッと字面を見ているだけ)の徒のみ。

  森嶋通夫教授(元、大阪大学教授、元ロンドン大学教授、2004年逝去)は、曰った。

もし、マルクスが連立方程式だけでも知っていたならば、経済学の運命は今とは違っていたものとなっていたであろう。

  いや、マルクスがワルラス(ミクロ経済学の基礎を築いたフランスの経済学者)を知っていたら。ヒックス、サムエルソン、アローが、ワルラスにそうしたように、マルクスに協力していたら。

  経済学は、経済は。いや、世界史そのものがずいぶんと違った道を辿っていたことであったろう。

  が、現実はそうはならなかった。

  マルクスの独創は、ベーム・バベルクをはじめとする専門家の鋭利な論理によって、双葉のうちに芽を摘まれてしまった。

  これぞ、マルクシズムが夭折した理由である。

 

 

 

 

 「二人の写楽」    炭谷 亮一

 

  フランスの文人アンドレ・マルローは「写楽」を評して[まさに写楽の世界は風刺であり、排判である。それだけではなく人間の瞬間的な人格をも表現し、ある種の威厳さえ備えている。だから「近代」の肖像がたりえている。そこが「写楽」の素晴らしさである。]とべた褒めである。

  又、日本では、梅原猛は「写楽」問題は単に美術史だけの問題ではなく、邪馬台国がどこかという問題に匹敵するくらい、日本史、日本文化史上の大きな謎でありロマンであると。

この「写楽」問題を昨年5月にNHKのBSで2回にわたって放映した。幸いにも私は2回の放映を観ることが出来た。番組では「写楽」の正体は阿波の能役者、斉藤十郞兵衛との説が近年有力とされているとの内容であった。実はその根拠が2007年にギリシャのコルフ島で「写楽」の署名の入った肉筆画が発見され、専門家はこれを真蹟と鑑定した。しかし、私には映像で見る限り稚拙な表現力でとてもとても「写楽」作品と思えなかった。放映の中で「写楽」作品の制作順に並べた約80枚を比較して見ると前半、後半で作風にずいぶん違いがあることに驚かされた。前半はユニークな構図とデフォルメされた表現力を持つ傑作が多かったように思う。後半は、印象に残るような作品はほとんど無く、ごく普通の浮世絵であった。その時、私は前半と後半で作者が違うのではとの感想を持った。後半の「写楽は阿波の能役者、斉藤十郞兵衛で間違いないだろう。しかし前半の「写楽」については、作品の持つ独特の構図、力強さ、デフォルメされた表現を発想し描ける浮世絵師は「あの男」を置いてほかにいないと考えるようになった。「あの男」名は当時の画号は「勝川春朗」、のちの「葛飾北斎」である。「春朗」は「写楽」が活躍した寛政6年は完全に休筆しており、かわりに「写楽」の画号で作品を発表していたのではと考えられる。ではなぜ、「写楽=北斎」は前半でやめてしまったか考察してみた。「写楽=北斎」の斬新でユニークな作風は当時、粋で新しい物好きの江戸っ子達を大いに驚かせ、人気を博したことは想像できる。しかし、「女形」の絵を美しく描こうとせず、いかに男がふんしているように真正直に描いた為、「女形」の役者からも江戸っ子達からも不評で、版元から「センセイ」もう少し美しく描いていただけませんかとの要請に「シャラクセイ!!」「アホクセイ!!」とばかり筆を投げ出し、そのあとのピンチヒッターが斉藤十郎兵衛だったのだろう。「しゃらくさい・(写楽)セイ」と「おほくさい・ア(北斎)」というシャレとユーモアの「捨てゼリフ」を画号にした二人の天才浮世絵師「写楽」と「北斎」。

 浮世絵師で未だかつて、こんなフザケタ画号はほかにいない。作風から見てもこの二人は同一人物に違いない!! シャレは絶妙、強烈である。「江戸のスーパースター」葛飾北斎は並外れた個性の持ち主で現代で言えば「ギネスブック」ものである。

  その一端を紹介してみよう。江戸時代で6尺の大男、90歳まで長生きした「波瀾万丈の生涯」、根無し草同然の90数回の転居癖、30数回変えた画号。時には、弟子に貸したりもした。気位高く、ケンカ早く、強情、尊大、アマノジャク、シャレ心旺盛、諧譃精神旺盛で、世間をアッと言わせて人を食い、超売れっ子なれど長屋暮らしの借金渡世、破天荒な奇人、超スーパースター「北斎」の人となりである。

 「写楽とはいったい、何者ぞ」巷間の声も何のその、正体探しは野暮の骨頂。

 「写楽セイ」と捨てゼリフを吐いて闇に消えた当代随一のシャレ男の正体は?????

 

 

 

 

 「ケインズ物語」    炭谷 亮一

 

  ケインズ経済学とは何か。よく知られていないようである。ケインズの畢生の大作『一般理論』。難しいの、難しくないのって本当に難しい。一世の碩学、高田保馬博士は終生わたくしにはケインズがわかりません、と言い通していた。 ケインズの主著『一般理論』は、かくまでも難解であった。何を言っているのかさっぱりわからない。新手の黙示録みたいだ。そりゃそうだろう。高田保馬博士ですら読破できなかったというのだから、普通の人に読んでわかれと言っても無理もいいところ。解釈が必要となってくる。

ヒックス、サムエルソン、クライン……などをはじめ、ノーベル賞クラスを含む何百人の経済学者が何十年もかけて、ケインズ理論の解読に取り組んだ。彼らの解読の結果が世に、「ケインズ理論」と呼ばれるものである。これは解釈であるから、ケインズの真意かどうかは判断できない。

ケインズ経済学とは、発生論的にはケインズ自身の学説という意味である。ケインズは天才であった。しかもその代わりに頭が悪かった。ケインズは大学卒業後、公務員試験を受けたが、結果は不合格であった。経済学の点数が悪かったからである。ケインズは傲然と嘯いて言った。「試験官は、私ほどよく経済学を知らなかったのだろう」と。トップ・レベルの秀才ではなかったことは確かなのだろう。

イギリス本国では官職に就けず、インドへ赴任した。しかし、彼は経済の天才であった。経済の本質を的確に見抜き、物を言えば必ず肯綮に当たる(的を射ている)。

ケインズの初舞台は、ベルサイユ会議であった。第一次世界大戦の講和会議たるベルサイユ会議において、英仏をはじめとする連合国側は、敗戦国ドイツに天文学的金額と言われるほどの莫大な賠償金を課そうとした。ケインズはこれに猛反対して言った。ドイツがこんなベラボーな賠償金、払えるわけがないではないか。無理に払わせようとすれば、ヨーロッパ経済に大混乱が起こるだろう。ドイツには、ナポレオン以上の独裁者が現れるかもしれない。ケインズはこの考え方に立って、国際経済学の権威オリーンと激しく応酬した。学説史上名高いケインズ・オリーン論争である。これを移転問題といい、今もって賠償や援助などを考えるときの基礎枠組みになっている。

 若きケインズ、何たる慧眼。

 日本経済は、生きるにも繁栄するにも、自由貿易に依存している。日本の今日あるは、自由貿易の賜物である。

しかし、自由貿易ほど言うは易く、行うに難しいことはない。

 私が知る限り、自由貿易が行われたのは、人類史上でわずかに四度しかない。一度目は、経済学の教科書の中。残り三度は……まずオランダ人が短期間、続いてイギリス人が産業革命の初期に、そして第二次大戦の戦後においてである。

 自由貿易とは、これほどまでに希有な出来事なのである。“盲亀の浮木”なのである。現在に至っても、WTOにおける交渉はうまくいかず、国同士でFTAEPATPP交渉が行われている。

 

 

 

 

 「イラン危機」      炭谷亮一

 

  2012年アメリカの戦場は、中国でも北朝鮮でもない、それはイラクとアフガンに挟まれたイラクであろう。

  現在、世界中のアメリカとその同盟国が経済制裁を強め、イラン包囲網を作り、経済的にじわりじわりと締め上げているが、イランは核兵器製造をやめようとしない。

  対するイランは、「ホルムズ海峡封鎖」というカードで応じている。ペルシャ湾とアラビア海をつなぐこの海峡には、世界の海上石油輸送ルート40%が集中している。

  歴史に学べばわかるが「海峡の封鎖」は戦争につながる。 例えば1967年の6日戦争(第3次中東戦争)では、エジプト大統領のナセルによるティラン海峡封鎖が開戦のきっかけとなった。アジア・アフリカへの出口を失うイスラエルにとって、封鎖は到底看過できるものではなかった。まして今回は、世界のエネルギー調達が掛かっている。ヨーロッパも中国も、中東の原油に頼っている多くの国が参戦する可能性すらある。

  さて、イランはシーア派の国家だが、全世界のイスラム教徒の約8割はスンニ派だ。シーア派の地位に甘んじたまま1400年を過ごしてきた。

  「核兵器を持つことによって、シーア派国家がイスラム世界の覇者となる」というのは、イランの偽らざる真の野望なのである。また、イランが核開発に成功すればサウジアラビアやエジプトといったスンニ派国家も対抗的措置として核開発に踏み切るだろう。

  一方、そうしたイスラム国家に囲まれたイスラエルとしては、何としてもイランから始まる「核開発の連鎖」を防がなくてはならない。

  イスラエルは過去に、シリアやイラクの核施設を空爆し成功を収めた。今回、イラン空爆には一つの追加条件が必要となる。それは、「アメリカのサポート」だ。シリアやイラクに比べて、イスラエルからイランまでの距離は倍以上ある。つまり、米軍による空中給油なくして航空機はオペレーションを完遂できない。また、イランが発射するであろう数々の対空ミサイル、レーダー施設などを事前に破壊する必要がある。これにはアラビア海に展開する空母からのクルーズ・ミサイル攻撃が欠かせない。

  11月にアメリカ大統領選挙がある。仮に投票日前にアメリカがイスラエルと共に武力行使に踏み切り、イランを屈服させることが出来たら、オバマ政権の支持率は跳ね上がる。そうなれば、共和党候補に勝ち目はない。湾岸戦争に勝利した直後、当時のブッシュSr.政権の支持率が90%に達したことをオバマが覚えていないわけがない。

  イランとの戦争は、オバマにとって大統領再選への強力で絶大な応援といえよう。

  戦争はたった一つの偶発から起こりうる。それは、ホルムズ海峡封鎖であるか?イスラエル軍機による一発のミサイルなのか?この戦争は、中東の石油に頼るヨーロッパ、中国、そして日本の熱い熱い支援が期待できる。

  5月~7月にかけて開戦、そして8月~10月終戦のスケジュールが濃厚である。

 

 

 

 

 「釈迦とサミュエル・スマイルズ」   

 

 仏教には「自燈明」という言葉がある。開祖である釈迦が亡くなるとき「これからは私達は何に頼って生きて行けばいいでしょう?」と嘆く弟子達に向かって、釈迦は「私が死んだ後は自分で考えて自分で決めろ。大事なことはすべて教えた。自ら明かりを燈せ。誰かが燈してくれる明かりを頼りに暗闇の中を歩むのではなく、自ら明かりとなれ。」つまり、己で指針を持たなくてはいけないと突き放したわけである。

  実に不思議なことに、140年以上前のベストセラー本のタイトル「Self-help」、訳名「西国立志論」すなわち現在では「自助論」の中で、イギリス人スマイルズは、あの有名な格言となっている「天は自ら助くるものを助く」とのべ、自助の精神は人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根付くなら、それは活力に溢れた強い国家を築く原動力となるだろうと、釈迦と全く同じようなことを述べている。釈迦とキリスト教をバックボーンとしたスマイルズが、同じようなことを述べていることに驚かされる。「自燈明」と「Self-help自助」は同義語といえる。

  このように、洋の東西で全く同じような格言があり、背景となる宗教観の全く違う種々の人々の生き方にこれほどぴったり符合し、元気を与えてきた言葉はないのではないかと私は考えている。

  更にこの両者の格言を進展させれば、たとえば学問をするということは漠然と知識を積み重ねるのではなく、知識を判断行動に結びつけたり、それをもとに横断的、複眼的に物事を捉え「知識ではなく考え方を学ぶこと」「答えではなく、答えを出す方法を学ぶこと」更にはビジネスにも人生にも「正解」なんてものはない。自分の力で一つずつ答えを出していかないといけないと教えてくれている。思い返してみれば、1980年代の日本は輝ける黄金の時代であった。敗戦から立ち直り、アメリカの後ろ姿を目標に一生懸命努力し追いかけ、そしてようやく追いつき、ひょっとすると超えるかもしれないと国民が思ったときにバブルが崩壊し、忘れられた20年を経験するに至った。あのとき、日本国民に「自燈明」「Self-help自助」の精神があればと悔やまれる!

  前人未到の未来を切り開いていく精神力が、あの1980年代の日本人には残念ながら伴っていなかった、と言わざるを得ない。日本が再び輝きを取り戻すには、「自燈明・Self-help自助」の精神に立ち戻るしかないと考えている。

 

 

 

 

 「TPPの本質」

 

  TPP(環太平洋経済連携協定)に、先日野田総理は参加を表明し、現在下交渉が行われている。TPPを自由貿易という点だけからみると本質を見誤る。現状では、日本国内のTPP参加反対論は強く、中には「TPP亡国論」なる本も出版されている。

  自由貿易は世界中が求めながら果たせぬ普遍的な概念だ。自由貿易体制を強化するなら、WTO(世界貿易機関)の機能を強化するべきであるが、実際に進んでいるのは、特定の地域における自由貿易体制の構築である。

  確かに域内において自由貿易体制は構築されるが、域外との間には障壁が設けられる。 

  TPPは「まず出来るところから自由貿易体制を構築する」という建前で、日本・アメリカ・オーストラリア・ニュージーランドなどを基軸として、アジア太平洋地域に経済ブロックを形成するという発想だ。日米、米豪はそれぞれ軍事同盟を締結している。つまり、TPPはアジア太平洋地域における、米国を中心とする軍事同盟を強化する意味合いがある。これに韓国がおそらく近いうちに参加し、域外として想定されているのが中国であり、TPPの大いなる構想は、アジア太平洋地域の日米友好国などから中国を排除、もしくは包囲網を作る狙いがある。

  国会や論壇では、TPPに対する反対意見はかなり強いが、TPPの問題は単なる経済の問題ではなく、安全保障も併せ持ったものであり、中国主導の東アジア共同体ASEAN+3(日本、中国、韓国)への参加ではなく、野田政権は米国を中心にした、ある意味アジア太平洋地域共同体(経済も安全保障も包括した)に国家の生き残りをかけていると思われる。

  現実には、露骨に中国排除、中国封じ込めなどの言葉は用いられないが、TPPを推進するとともに、中国とも重層的自由貿易体制の強化を図るといったレトリックで政治色を出さないよう努めるだろう。

  しかし今後は、間違いなく中国を排除する形で、日米が連携してアジア太平洋地域通商の再構築が進んでいくだろう。

 

 

 

 

 「デフレと円高を止められるのは日銀だけ」   

 

  前月日銀は、アメリカのFBIに追随して「1%のインフレ目標」を導入し、1%を目指して金融政策を展開していく方針を示した。

  日銀が円高阻止、デフレ脱却に向け、政策姿勢をより明確化したのは心強い。インフレ目標は欧州中央銀行(ECB)をはじめ、イギリス、カナダ、スウエーデンなど、多くの先進国で導入されており、一般的な金融政策で枠組みであり、「禁じ手」でも「例外的な手段」でもない。経済に「ドシロウト」の私ですら「デフレ」と「円高」を止められるのは日銀による「インフレ目標」しか手だてないと理解している。

  しかし、日銀は少しも理解していなかった。そればかりか、白川方明氏が日銀総裁になってからは、「日銀の金融政策は世界の先頭を走っている」とまで言い出した。この白川氏の誤った確信こそが、速水日銀総裁も福井日銀総裁も許容しなかった70円台の超円高を招き、日経平均株価が7000円台に下がっても、何もしない日銀を作り出しているのである。

  1992年に、景気後退に陥って以降今日まで、大多数の国民も国会議員もマスコミもそして政府も、「政府はデフレ対策や円高対策を止める手段を持っていないこと、唯一持っているのは日銀だけであること、ところがこれまで日銀はなんだかんだと理由を付けて、その手段を行使しようとしなかったこと」を理解しなかった。この無理解こそが日本が「失われた20年」の苦しみにあえいでいる根本的な原因である。

  政府と国会は98年の新日銀法で「金融政策の目標の設定」と「それを達成する手段」の両方に関して、日銀に政府から独立を認めてしまった。このうち、日銀に「金融政策の目標の設定権」を与えてしまったことが、そもそもの苦難の始まりであった。

  幸いなことに最近、日銀法を改正しなければ、デフレも円高求められず、日本再生もあり得ないことを理解する国会議員が増えつつある。デフレと円高の根本的な原因を理解する点では、今や国会議員の方がマスコミやそれが形成する世論よりも先を行っているのである。日銀法を改正できるのは、国会議員だけである。その国会議員の中に、日銀法改正が日本再生の必須の条件であることを理解する人が増えている。私はここに日本再生の一筋の光を見る思いである。日本再生の鍵は、日銀法改正にありと言える。

 

 

 

 

 「知的な友人と名著」  

 

    私には、知的で心が通じ合い、そしてチャーミングな友人が数人いる。私は彼らと出会い友情をはぐくみ共に人生を歩んでいることに無上の喜びを感じている。

  かの有名な吉田兼好は、「徒然草」の中で、持ちたい友人について次のように書いている。「良き友三つあり、一つはものくるる友、二つには医師、三つには知恵のある友」おそらく中学校の授業で習ったのだと思うが、吉田兼好流の「友達のススメ」だと思う。

  私自身、若い頃には考え方が違っていても、友人だからとある程度は、我慢して付き合えた。右翼的な考え方の友人、左翼的な考え方の友人、或いはアナーキーな友人、ともかくワイワイガヤガヤ議論しあって意見に違いがかえって自分の考え方をはっきりさせることができ、また相手が一枚上手だとチクショーもっと勉強しなくてはと反省し、次回は逆に論破し負かそうと勉強したものだった。考え方の違いがむしろ自分を高めることに役立ってきたのだろう。

  ところが、60歳を超えた頃から、その人が長年培ってきた基本的な思想、信条のことで、それが違う人とは友情を育めないと考えるようになってきた。

  ともかく考え方の違う人と付き合うのに非常に疲れるようになり我慢できなくなり、一緒にいても面白くない。だから、次第に付き合いがおざなりになってしまい、だんだん付き合う機会が減っていくという具合である。

  人生は一度しかないのだから、もっともっと多くの素晴らしい友人に出会いたかったが、友情を深めるには年月が必要で、新しい親友はもう無理ではないかと考えている。現在の親友達と大切に付き合うことにしている。

  さて、書物については私にとって読書は趣味といえるくらい好きである。平均的日本人のおそらく少なくとも3倍くらいは読書に時間を割いているが、世間で言われている名著・良書はおそらく、1%程度しか読破していないのではと考えている。是非、命ある内に読破を試みたいが今の調子でいけば、おそらくあと100年は掛かるのではないかと考えている。人間の英智の結集である名著・良書をすべて読破せずして、私は死んでも死にきれないと考えている。現在、64歳ですから、164歳くらいまで生きてすべて読破したいと考えている。

 

 

 

 

 「アラブの春考察」    

 

  ナイジェリアに端を発した「アラブの春」は、エジプト、リビア更にはシリアにも波及している。近いうちにシリアのアサド大統領も政権崩壊により、退陣するものと思われる。これらの国々では、長年独裁政治が行われ、国民の多くは「ドレイ状態」におかれていたと言って良い。自由に目覚めた民衆は「ドレイの平和より危険な自由を選ぶ」勇気を持つに至った。多くの民衆の血を流して勝ち取った自由であるが、私には本当に彼たち自身の力だけで勝ち取った自由か、甚だ疑問が残る。

 「アラブの春」は21世紀の早い時期に、王制サウディアラビアを筆頭にすべてのアラブ諸国を飲み込んで行くと思われる。マスコミなどで伝えられているP.Cやモバイルを使ったIT関連の情報力の影響は大ではあるが、私には米英の世界中に民主主義を波及させるという国是に裏打ちされた戦略が見え隠れしている。長年「ドレイ状態」の民衆が突然「自由」に目覚めるはずがない。結論を言うと「アラブの春」には米英の「見えざる手」が大きな力となっていると考えている。

  さて、アメリカは20世紀の後半、中東の原油に6割以上依存しており、故に中東においては「民主主義」「人権」「自由」よりも安定が大切であった。従って中東諸国に民主化要求など一切せず、独裁政治を黙認してきた。ところが、21世紀にはいるころからアメリカ政府とメジャーはエネルギー価格を徐々に一致協力し、戦略的に高価安定へと持ってきた。これにより、北米に豊富に眠っている「オイル・サンド」「シェールガス」更には採掘技術の向上により、アメリカの中東への依存度は極端に低下し、現在では7割が北米とメキシコから確保できるようになった。更に、2年後にはアメリカは石油製品の輸出国になるだろうと言われている。散々苦労したイラク戦争の戦果としてイラクのエネルギーの利権は、がっちり手に入れており、因みにアフガンには膨大な量のレアアースの埋蔵が確認されている。21世紀においては、アメリカはエネルギーを含んだすべての天然資源の問題も食糧問題も存在せず、楽々「自給自足」出来る国となった。更には世界一の資源国になる可能性すらある。アメリカは「この地球上でもはや何にも恐くない」状態となった。これからは、国是であるこの地球上の全ての国に「民主主義」をとの政策を進めるであろう。

2020年頃には全ての中東諸国は民主化され、最後に残った超大国、中国も2030年頃には民主化されるかもしれない。21世紀は確実にアメリカのものである。

 

 

 

 

「数学は発明か?発見か?」

 

  かの有名なギリシャのプラトンの学校の前には以下のような規則が書かれていた。

 「幾何学を解せざる者、この門に入るべからず」つまり「数学が解らない様な者は学問をやる資格がない」と言っているように私は受け取れる。

  アインシュタインは次のような疑問を持っていた。「経験とは独立した思考の産物である数学が、物理的実在である対象とこれほどうまく合致しうるのはなぜなのか?」数学は人間が発明した道具なのか、それとも何かの抽象的世界に実在していて、人間はその真理を単に発見しているのか?

 私たちは数学がうまく機能するのが殆ど当然だと思っている。科学者は原子よりも小さな素粒子の世界でおこっている出来事を記述する公式を編み出し、工学者は宇宙船の軌道を計算している。私たちは「数学は科学の言葉である」というガリレオ・ガリレイによって最初に提唱された見方を受け入れ、数学という言葉の文法が実験結果を説明し、さらに新現象を予測すると期待している。

  数学の本質を巡る議論は、数学者・物理学者・哲学者・認知科学者達が何百年にもわたって議論してきた。しかし、答えは出ていないようである。「数学は発明なのか、発見なのか」と単純化した結果、より込み入った答えの可能性を除外してしまったのだと思う。その答えは、「発明と発見の両方が重要な役割を演じている」というものだ。発明と発見の両者が相まって数学がこれほどうまく機能する理由となっているのだと考えられる。

  数学者と物理学者の双方にとって幸いなことに、私たちの宇宙は普遍的な法則に支配されているようだ。120億光年の彼方にある原子も、地球上の原子と同様に振る舞う。遠い過去の光も現在の光も、同じ性質を持つ。そして宇宙の初期構造を形作ったのと同じ重力が現在の銀河を支配している。この種の不変性を記述するため、数学者と物理学者は「対称性」という概念を編み出した。従って物理の法則は同一であり中国で実験してもアメリカで実験しても、更にはアンドロメダ銀河で実験しても、その結果は同じ物理法則によって説明できる。そして、実験を今日行っても10億年後に行っても同じ結果となる。以上、数学は発明であり発見である。

 

 

 

 

 「何で民主主義が必要なんだ!!」

 

 先日、居酒屋でたまたま居合わせた中国人の留学生4人と会話する機会があった。日本でもアメリカでも私の経験では、中国人の留学生との会話は面白い。大多数の中国人の留学生はオープンでフレンドリーだ。しかも概して物言いが率直で、包み隠さず照れないで本音の話が出来る。彼たちとの会話の中で知ったことだが、彼らは徹底的に反日教育を受けているようである。日本への敵意、アヘン戦争以来の恥辱の歴史、欧米へのコンプレックス等を叩き込まれているようである。

  機会があって、中国の歴史教科書の訳本を読んだが、そこに描かれている日本軍は殺人鬼のようであり又、独立国チベットを侵略して百万人虐殺した事件が「平和解放」と書かれ、チベット人民から感謝されていると記述されていた。中国では中国の歴史の授業では、まず近現代史から教えられているようである。古代から始まり現代史に掛かろうとする頃には、学期の終わりであったり入学試験に出題されないから省略といった日本とは大違いである。

  因みに中国の著者の間での日本の有名人は「東条英機」「山本五十六」、そして中国に堂々と逆らった「小泉純一郎」の3人だそうである。彼らと会話の中で特に強く感じたことであるが、日本人は良く「中国が豊になって世代交代が進めば、自然と民主主義に移行していくだろう」と予測する楽観主義者は多く、又中国人留学生が海外で勉学のため滞在すれば民主主義的思考が醸成され、人権派、民主派となって中国の民主化を推進するという考えは、安直な予測に思えてならない。なぜなら、私と中国人留学生との「民主主義」についての会話バトルの中で、留学生の1人は、はっきりと「何で中国に民主主義が必要なんだ」と、現在の政治体制で、みんなで豊になってきている。との余りにも率直な言葉に感動すら覚えた。つまり、2年や3年の海外留学で若いときから受けてきた教育の影響が抜けきれるものではない。鄧少平以後の右肩上がりの時代を生きた世代は、民主化の申し子となっていくより、国際的なルールを無視して、中国型のルールやシステムに執着し続けるのではないかという気がする。しかし救いもある。豊かな生活を送ってきた一人っ子世代はナショナリズムが強く、強気な態度を見せているが、彼らが自国の権益拡大の為の戦争をおこすとは考えずらい。一人っ子達の両親は、一人っ子が戦争に参加することは望まず、一人っ子本人達も戦争より平和と安定を望んでいる。結論として、案外一人っ子の世代が中国社会の中核を担うようになったときにアジアに真の平和がもたらされるのではと考えている。

 

 

 

 

 

 「天は自ら助くるものを助く」~のんびりギリシャ~ 

 

   ギリシャ(スペイン・ポルトガル・イタリア)は、元々生活水準が上げ底で身分不相応の暮らしをしてきた「ギリギリス」そのものだった。

  人口一千万人、面積日本の三分の一、GDP30兆円(神奈川県くらい)、主たる産業は観光、そして移民からの送金が三大産業といわれているが、実態は世界遺産で食べているニートに近い。3人に1人が公務員で(民間の給与の15倍)だ。しかも週35時間で、一生懸命働いているかと思いきや、「時間通り出勤すると特別手当が支給される」というお国柄である。

  公的年金はいわゆる先進国と言われている「OECD」加盟30カ国中、ダントツの充実ぶりで年金は退職以前の給与の96%の年金が受け取れ、年金にもかかわらずボーナスまでついてくる。危険手当も充実していて、マイクからバクテリアを吸い込む危険があるというのでアナウンサーにも支給されている。

  ギリシャは完全に甘い甘い社会主義の国のようである。なぜ、こんな国がユーロに加盟できたかと言えば、イスラム諸国に対抗する政治的意味合いと国家財政の粉飾決算を虚偽報告、すなわち詐欺国家なのである。いまや、ユーロ諸国から非難の的である。ギリシャも必死で手を打っているのかといえば、のんびりしたものである。

  公務員の削減、年金革命、増税すべて出尽くしたが誰も実行しない。政府が国民に訴えても誰も聞かず、政府もやる気がない。 放漫経営の国民が、明日からの生活費を2030%カットしろと言われたのだから、暴動が起こっても不思議ではない。いや、実際に起こっている観光しか生きる道がないのに、あちこちで暴動が発生し、観光客が激減している。

  他国に依存し、援助を貰い続けた国と国民に当事者意識が薄く、かの有名なスマイルズ著の一節「天は自ら助くるものを助く」言葉の意味をしっかりギリシャ国民がかみしめ、理解すべきであろう。闇経済がGDP30%を占めるいうギリシャのデタラメ経済ぶりに、まじめなドイツ政府はほとほと嫌気がさしているようである。

  ギリシャはユーロからの離脱をするにしても、膨大な借金のため国民の生活レベルは、今の二分の一くらいになるだろうし、ユーロに残るにしても、強く財政の健全化を求められ、生活レベルはやはり今の二分の一にしなくてはならず、去るも地獄、残るも地獄といえる。

 

 

 

 

 「プーチン時代の終焉」 

 

  昨年末のロシアの下院選挙で、プーチン首相の与党「統一ロシア」が大幅に議席数を減少させた。さすが元KGB出身のプーチン首相は、当局よりの情報(正当な選挙では勝てない)をもとに、広範囲に票の操作を行ったにもかかわらず、統一ロシアの得票率は過半数に達しなかった。国営テレビも報道しているように、投票数の合計は有権者数を28%も上回ったと報じた。皮肉を込めて言えば、ロシアの数学力がこれほど低下すると、かつての科学大国には戻れないと考えている。

  過去約10年にわたりロシアは、豊富な天然ガスと石油(それぞれ世界の埋蔵量の24%と6%)を武器に、社会主義崩壊から再び世界の超大国復活を目指した。更には、例えば日本やメジャーが持っていたサハリン2での利権の大半を、難癖を付けて取り上げたように、輸入国に対して圧力と恫喝で支配を強めてきた。

  ところが、最近多くの事情が変化してきた。まず、北米(アメリカ、カナダ)に手つかずのエネルギー資源(未発掘の油田、オイルサンド、シェールガスなど)が膨大にあり、しかも大量の精製能力がある。アメリカ政府とメジャーは一致協力して、徐々にオイルサンドやシェールガスを採掘、精製しても採算が取れるように採算ラインの1バレル100ドル近くにまで巧妙に価格を引き上げてきたと私は見ている。

  アメリカ、中東、ロシア、中南米の国々のエネルギー支配からの脱却、逆転を図る機会をうかがってきた。それは、もうすぐ実現できる。アメリカは石油製品の輸入国から輸出国へ2年後になるだろうと言われている。それに歩調を合わせるかのように「アラブの春」が降って湧いてきた。ここにも世界戦略上民主化を推進しようとしているアメリカ政府の深謀遠慮を感じずにはいられない。

  また、ロシアの天然ガス独占企業ガスプロムが、EU向けの天然ガスを一手に引き受け政治的にも利用してきたが、供給を止められても影響を受けないように、メジャーはクルド地域やカスカスからの大量の天然ガスをトルコのパイプライン経由でEUに供給するようになった。

  プーチンは、ロシアのエネルギー資源を利用して、世界の超大国復活を夢見ていたが、どうやら世界はそれを許しそうにない。そして、ロシア国内においても、プーチン人気に陰りが見られる。プーチン時代の終焉は近いといえる。

 

 

 

 

 「日本再生への道」

 

  昨年は、311日の東日本大震災と福島の原発事故により、日本列島は混乱の極みにあったと考えている。

  さて、本年は「東日本復興」しいては「日本再生」への確固たる第一歩をしるさなくてはならない。日本の過去を振り返ってみれば、明治以来の歴史は試行錯誤の連続であった。太平洋戦争に敗れ、戦後の焼き野原から再起した日本は、めざましい経済発展をとげた。戦後の日本の成長は、ある意味では政治不在が続き、政治家の存在が希薄であったからこそ達成できたと言える。すべてをアメリカに委ね経済発展にだけ専念していれば良かった。

  そのお陰で日本は効率の良い経済大国を作り上げることに成功した。日本は世界に冠たる工業国になることが出来た。そして、第三位の経済大国となった。日本の繁栄を支えたものは、紛れもなく日本の優秀な工業製品であり、優秀かつ勤勉な国民の資質である。

  ところが同時に失ったものも多かった。それは、国益であり、国家として図体は大きくなったが、頭脳や骨格を持たない、いびつな国になってしまった。日本は、長い間、日米安保条約という一種の国家呪縛のもと、大事な国家戦略や国防問題をないがしろにしてきた。その為、日本人はふやけた経済繁栄の中、自分の国を守るという気概を失ってしまった。国民の生命や財産を守る大戦略の根幹である国防問題すらまともに議論しようとせず、その義務と責任を放棄してきた我々国民と、その代表である政治家そして官僚に、東日本復興へのビジョンもしくはグランドデザインを描き決定できるか、かなり心配している。

  イギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、彼の名著「歴史の研究」のなかで、歴史における国家の衰亡の最大の要因を「自己決定能力の喪失」と述べている。

 自らの運命を自らで決定する能力を失うことが、その国の衰亡の根本原因であると言っている。それはすなわち、いかに小さな存在であっても自らの選択で未来を切り開こうとする力こそが「生存の究極の条件」だということである。我が国の歴史に於いて、明治の先人達が国難に際し、苦悶苦闘し不屈の精神で「自己決定」して国の進路を決めてきたという事実を、我々現代に生きる日本人は決して忘れてはならない。

  「自己決定能力」こそが東日本復興、しいては日本再生につながる唯一の道であると信じている。日本再生への道を歩もうではないか!

 

 

 

 

「来年は経済のV字回復を」

 

  野田政権は消費税を2010年代半ばまでに10%まで引き上げる方針という。理由は、社会保障に関する財源が十兆円余り不足するからと言う。デフレ不況が10年以上続いている今、財源不足はすべての分野に及んでいる。東日本復興への国民の思いを利用して増税を企てるなんてとんでもないことである。

  振り返ってみれば、1997年橋本政権は、バブル崩壊後の不況から立ち直り始めた経済をみて、消費税を3%から5%へ引き上げた。その結果3年後には、消費税は45兆円増えたが法人税収と所得税収の方は、合わせて7兆円も減ってしまった。財政は却って苦しくなったばかりか、今日に至るデフレ不況の発端をつくったのだ。

  それ以降も、小泉政権は財政を再建しようと公共投資、医療費、地方交付税などを減らすというデフレ下での緊縮財政をとったため、景気は一向に回復せず、税収不足を埋めようと却って国債を増発する羽目になった。 野田政権は、なぜ歴史に学ばないのか。財政再建より景気回復が先なのだ。

  リーマンショック後、デフレ不況を恐れたアメリカ、イギリス、EU、韓国では、中央銀行が自国の国債を大量に購入するという非常手段などにより金融緩和、すなわち市中に出回るお金を増やし、政府は景気刺激策を実行し、どうにか急場をしのいだ。

  日本政府は、緊縮財政を踏襲するばかりで、日本銀行も思い切った金融緩和をせず、その為、財政は更に悪化し、リーマンショックから3年で米ドル・ユーロ・ウオンに対し三割も円高になってしまった。

  今後は、日銀が国債や政府短期証券など2050兆円規模で引き受け、政府がそのお金で東日本の被災地を中心に全国で大々的に公共投資を展開し、一気に景気を回復させる荒療治をする絶好機である。政府、日銀は毎年貿易黒字、経常黒字を生む勤勉な国民を10数年にわたり、デフレ不況で苦しめるという世界の一大不思議を演出してきた。政府に来年2012年は国民のために経済をV字回復するような経済運営を切に希望する。

 

 

 

 

[ ニューヨークにて ]

 

 今年8月末に地区大会の講師を依頼していた土肥先生との打合せを兼ねて、全米オープンテニスの観戦の為4日間ニューヨークに滞在しました。

  クイーンズにあるテニスの会場に向かう途中のグランドセントラルから、男女3人の中国人の留学生とおぼしき若者が乗車して来て、私にこの電車でテニスの会場に行けるかと尋ねてきた。「OKだ、私も行く途中だ」と答え、それから約30分位彼達とワイワイガヤガヤと談笑した。彼たちのうち二人は、北京大学を卒業、もう一人は上海の復旦大学を卒業して、現在は3人ともコロンビア大学の大学院の2年目で専攻は経済学とのこと。授業は最初の三ヶ月は英語がうまく聞き取れなくて大変だったが、今はOKとのこと。また一番大変な課題は、レポート提出で一晩に数冊の本を読まなくてはならないのが、大変だと話していた。

 学内には多数の中国人留学生がいる上に、チャイナタウンもあり全然ホームシックにはならない。又、中国に比べると文明も進んでいて大学の構内は広くきれいで、寮も近代的で清潔、しかも図書館も充実しておりセントラルパークも大学のすぐそばにあり、勉強する環境がすべて整っていて大変快適な学生生活を送っているとのこと。学費は、フェローシップではなく、私費で両親の仕送りだと話していた。

 卒業後の進路については、アメリカで働きたいとのこと。グリーカード(永住権)を取得後に永住するか帰国するかを考えると話していた。結婚はできれば、中国人同志の方が良いとのこと、顔を見合わせて笑いながら答えてくれた。

3人のさわやかな若者と談笑し、私自身もしばし、大学生に戻った気分でした。しかし、今年の全米オープンでの日本人選手はまったくふるわなくて土居選手などは試合の途中に足の故障で全く動けなくなり、車いすの退場という何とも情けない結果に終わりました。来年に期待しましょう。

 

 

 

 

世界の一流大学

 〈 フランス・グランゼコール 〉

 

  グランゼコール(GE)は、フランス独自のエリート養成校だ。現在その数500、国内には同じ高等教育機関として大学も併存しているが、GE上位校のステータスは大学を凌駕する。大学は高等教育の大衆化の拠点であり、無選抜の原則を貫く。「バカロレア」と呼ばれる国の統一試験に合格すれば行きたい大学を自由に選ぶことが出来る。

  一方、GE1789年のフランス革命後、指導者の資質を備えた高級官僚の要請を目的に設立された。高等教育機関として、選抜試験によって学生を受け入れ、高水準の教育を保障するのがGEの定義で「少数精鋭主義」を掲げ、狭き門を突破した者に対し、

3年間徹底したエリートに教育を施す。

 中でも、「スーパーグランゼコール」と称される国立行政学院(ENA)出身者には、ジスカール・デスタン、アラン・ジュペなど歴代の大統領や首相経験者が名を連ねる。主要企業のトップの多くも、GE出身者が占める。日産のカルロス・ゴーンは、エコール・ポリテクニークとエコール・デ・ミーヌという二つのGEを卒業している。

 上位校の出身者の結びつきは強く、就職時にそのネットワークが協力は武器となる。GEの売りは、「丁寧さと実学重視の姿勢」このため、民間出身の教官は、約50%に達する。学生にインターンシップを義務づけるのも「実学重視」の表れだ。3年間の在籍期間のうち夏は、インターンシップに費やす為、バカンスは取れない。現在のフランスの若手層の雇用環境は、極めて厳しい。しかし、GE上位校では、ほぼ100%就職できる。

 就職率の高さの背景には、厳しい競争をくぐり抜けてきたGE卒業生の持つ強靱な精神力や勤勉さなどを企業側が買っているという面もある。エリート主義批判も根強くGE出身者が常に固まって行動するといった「閉鎖性」を指摘する声もあるが、フランスの高等教育のシステムが大幅に見直されることはないだろうと。

 

 

 

 

 「ギリシャ国債で儲ける方法」 ~ソブリン・リスクなんか恐くない~

 

  1997年にタイ・韓国などの多くのアジア諸国の通貨を一斉に売り浴びせて、アジア通貨危機をもたらし、アジア経済を滅茶苦茶にしたのは、投機筋(投機資本)であった。これらアジア諸国の経済運営の不合理さと、経済規模の小ささが原因で、健全な経済政策を遂行していれば投機など仕掛けられることはない。 

  しかし、近年金融工学などを使ったとんでもない金融商品が開発され、一筋縄ではいかなくなっている。もし、ギリシャ国際がデフォルトすれば二束三文となり、多くのヨーロッパの銀行は多量に国債を保有しているため、多額の損失を出し、倒産する銀行も出てくるであろう。

  ところが、このギリシャ国債がデフォルトすれば、金儲けできるケースがある。実際に、ギリシャ国債を持っていなくても、当該国債についてCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)を契約している場合である。

  CDSとは、保証料さえ支払っておけば、デフォルトした場合に損失金額が保証されるという契約である。すると、国債がデフォルトすれば、国債額面と二束三文に下落した時価との差額が手に入る。もちろん、保証料よりも差額の方が格段に大きいから、丸儲けである。ギリシャ国債に関しては、こうしたCDS契約が少なくないだろうと言われている。

  ギリシャのパパンドレウ当時の首相は、ギリシャを経済的苦境に追い込んだ「犯人」はヘッジファンドや投機資本であり、CDSが「ギリシャをはじめ、EUの国々を悩ませる諸悪の根源」であると批判した。

  ギリシャ政府が進めようとしている財政再建に、多くの国民は反発している上に、実はギリシャのGDP30%が闇経済である。意図的に投機筋が大混乱を「煽動」して財政赤字が削減できなくなり、ついに国債がデフォルトすることになれば、投機筋にとっては大歓迎となり大儲けできる。

  まさに、ソブリン・リスク(国家破綻)を儲けの対象としたのが、CDS契約である。

  世界的に有名な投機家であるジョージ・ソロスは、次にように述べている。

 CDS契約を購入するのは、他人の命を対象とする生命保険に入り、他人の生殺与奪の権利を握るようなものだ」と。

 

 

 

 

 世界の大学考  〈東京大学の試み〉 その2

 

 東大は優秀な留学生の獲得に動き出した。知的な国際競争は、研究者だけでなく学部学生や大学院生にも及んでいる。東大では、優秀な研究者や学生の獲得に力を入れている。外国からの留学生を増やす國の政策「グローバル30」では東大も対象校で現在2872人いる外国人留学生(2010年度)を2020年に3500人にする計画だが、数字だけ見ると容易だが、どれだけ優秀な学生を獲得できるかが大切で、質を下げることはせず、ハーバード大やスタンフォード大など海外の一流大学との取り合いが想定される。

 東大では、大学院に英語だけで学位を取得できるコースを20以上設けている。201210月には教養学部に「国際教養コース」を設立する予定で、ここは英語だけで学士号を取得できる初めてのコースになる。東大には、世界の最高レベルの研究が出来る強みがある。特に理工系は、研究室単位のきめ細やかな指導と実際的な研究教育で留学生を引きつけている。卒業後には、よい就職先もあり、外国人が留学を考えるとき、日本の文化や東京という都市の魅力も東大にとって強みになる。

 優秀な留学生の存在は、日本人学生にとっても刺激になり、国際性の向上につながる。今後は英語の授業は外国人だけでなく日本人も受講できるようにして、相互に刺激しあう様にする方針だと。

  世界の一流大学の大学院における留学生の占める割合は50%以上となっており、東大も世界の優秀な留学生にとって魅力ある存在になろうと改革し、生き残りをかけている。

 

 

 

 

 世界の大学考 〈東京大学の試み〉その1

 

 2007年、43才の若さでカリフォルニア大学バークレイ校教授から「数物連帯字画研究機構」(IPMU)のトップに就いた村上斉機構長は、年収が東京総長より高い3000万円であることが話題になっているが、これはと言う人物を招くに必要な投資である。世界から頭脳を招こうとしても住宅や子供の教育環境など、快適に生活できる条件を整えないと来てくれない。その為IPMUの事務職員も半数以上がバイリンガルである。

IPMUは、素粒子物理等や数学、天文学の力を結集して「宇宙の謎」に迫ろうと200710月に設立された。

 数学と物理という二つのアプローチから宇宙の起源や進化を解明しようという世界的にも類を見ないユニークな研究所だ。最先端領域は高度に専門化し、学問の分化が進んでいた。

だが、宇宙の謎を解くには、高度な数学による表現が必要になる。

  一方で、物理学の成果からアイディアを得て新たな数学が生まれる状況もある。

 数学と物理はもともと隣接する分野で、素粒子物理学は数学と協働すべきという認識を科学者達はもっていた。そこがIPMUの設立の狙いだという。そして、専門分野の異なる研究者が交わることで、アイディアが生まれる効用があるという。素粒子の一つであるニュートリノを観測するスーパーカミオヤンデや大型光学赤外線望遠鏡のすばる望遠鏡で知られるように、日本は素粒子物理学の実験分野で世界の先端を走る。豊富な実験データを揃えることは研究者達にとって魅力である。

  しかし、それだけでは世界のトップクラスの研究者が日本に来てくれるわけではない。優秀な研究者を獲得しようと、世界の研究機関が争奪戦を繰り広げている。経済と同様、研究者にとって国境の壁が低くなった今、グローバルマーケットで人を集め結果を出さないと、世界の最先端分野で戦えない。それは、東京大学全般に言えることだが、巨大組織を一気に変えることは難しい。IPMUが成功例となっと徐々に変えていくことになる。

 

 

 

 韓国語版  세계의대학생각 < 도쿄대학의시험해보아> 1

 2007, 43 세의젊음으로캘리포니아대학바크레이교교수에게서 수가적은물건연대자획연구기구 (IPMU) 의탑에오른무라카미히토시기구장은, 연수가도쿄총장보다높은 3000 만엔인것이화제가되고있지만, 이것은이라고말하는인물을부르는것에필요한투자다.

세계에서두뇌를초대하려고한들주택이나아이의교육환경등, 쾌적에생활할수있는조건을갖추지않으면와주지않는다.

그때문에 IPMU 의사무직원도반수이상이바이링걸이다.

IPMU, 소립자물리등이나수학, 천문학의힘을결집해서 우주의수수께끼 에육박하자고 200710 월에설립되었다.

수학과물리라고하는둘의어프로치로부터 우주의기원이나진화를해명하자고하는세계적으로도유래를볼수없는유니크한연구소다.

최선단영역은 고도에전문화하고, 학문의분화가진행하고있었다.

그러나, 우주의수수께끼를풀기위해서는, 고도인수학에의한표현이필요하게된다.

한쪽에서, 물리학의성과로아이디어를얻어서새로운수학이생기는상황도있다.

수학과물리는원래인접하는분야에서, 소립자물리학은수학과 協動 해야하다고하는인식을과학자들은가지고있었다.

거기가 IPMU 의설립의목적이라고한다.

그리고, 전문분야의다른연구자가사귀는것으로, 아이디어가생기는효용이있다고한다.

소립자의하나인뉴트리노를관측하는슈퍼가미오칸데나 대형광학적외선망원경의묘성망원경으로알려지게, 일본은소립자물리학의실험분야에서세계의첨단을가른다.

풍부한실험데이타를갖추는것은연구자들에있어서매력이다.

그러나, 그것만으로는세계의톱클래스의연구자가일본에와주는것은아니다.

우수한연구자를획득하자고, 세계의연구기관이쟁탈전을펼치고있다.

경제와같이연구자에있어서국경의벽이낮아진지금, 글로벌마켓에서사람을모아결과를내지않으면, 세계의최선단분야에서전얻지않는다.

그것은, 도쿄대학전반에말할수있는것이지만, 거대조직을단숨에바꾸는것은어렵다.

IPMU 가성공예가되어서서서히바꾸어가게된다.

 

 

 

 

「地区大会にて」

 

 10月29日(土)10月30日(日)の地区大会は私にとって2つの点で強く印象に残るものでした。

  第一点は米山学友で北京・上海で国際弁護士として活躍している姫軍氏のことです。彼の講演は感動的で本当に素晴らしく、彼の人間としての志の高さに敬服しました。私は、彼への謝辞の中で彼を「真の勇者」「大いなる勇者」そして「真の愛国者」と称え、3日間彼の言動に接し、人間としてのスケールの大きさ、チャーミングさ、聡明さ、更にはさわやかな笑顔に彼と同世代の日本人の中に彼と同等な人材の存在を切望せざるをえませんでした。

  姫氏には、「世界を知る」中国人として中国と日本、ひいては中国と世界の架け橋となって、相互理解と世界平和のために活躍して欲しいと思いました。

  中国の現体制が崩壊すれば、世界は大混乱に陥ると言われていますが、中国には姫氏のような人材のバックアップがあり、案外そんなに混乱することはないものと考えています。

  第二点は、RI会長代理として韓国3710地区の2007年~2008年度ガバナーで、私の10年来の友人の李承采氏(弁護士)についてです。私は、昨年末にRI事務局に李氏をRI会長代理にと要請し、彼からはRI会長代理に指名されたら誠心誠意RI会長代理の任に当たりたいと快諾を得ていました。他地区のガバナーからは、「韓国人のRI会長代理の過剰な接待の要求にほとほと困り果てた」との苦情と注意するように忠告を受けていました。しかし、李氏の場合には過剰な接待の要求など一切無く、自身の娘さんの同行も当方に負担をかけたくないとの思いから、前もって知らせず、娘さんのホテルは別に予約し自前で払われました。更には、今期当初よりの私の目玉である「ラオス農業支援プロジェクト」に賛同され、20万円を寄付していただき、ただただ驚きと感謝に堪えません。

 最後に地区大会をロータリアンの皆様のご協力で無事終えることが出来、心より感謝申し上げます。残された任期7ヶ月あまりを「ラオス農業支援プロジェクト」に全力を注ぎ、完成させたいと考えています。今後とも変わらずご支援の程よろしくおねがいします。

 

 

 

 韓国語版 「지구대회에서 」炭谷亮一

1029( 1030( 의지구대회는나에있어서 2 개의점에서강하게인상에남는것이었습니다. 제일은요네야마(米山)학우로 北京·上海 에서국제변호사로서활약하고있는 姫軍씨입니다. 그의강연은감동적이어서정말로훌륭하고, 그의인간으로서의뜻의높이에탄복했습니다.

 나는, 그에의사사속에서그를 참된용자 」「 대단한용자그리고 참된애국자 라고칭하고, 3 일간그의언동에받고, 인간으로서의스케일의크기, 차밍이지, 총명이지, 또산뜻한웃는얼굴에그와동세대의일본인안에그와동등한인재의존재를강하게희망하지않을수없었습니다.

 공주씨에게는, 세계를이해한다 중국인으로서중국과일본, 나아가서는중국과세계의사닥다리가되고, 상호이해와세계평화를위해서활약해주었으면싶다고생각했습니다.

 

  중국의현체제가붕괴되면, 세계는대혼란이된다고말해지고있습니다만, 중국에는공주씨와같은인재의백업이있어, 의외로그렇게혼란할일없다고생각합니다.

다음은, RI 회장대리로서한국 3710지구의 20072008 년도가버너로, 나의 10 년래의친구의이 李承采 (변호사) 에대해서입니다.

 나는, 작년말에게 RI 사무국에이씨를 RI 회장대리에와요청하고, 그에게서는 RI 회장대리에지명되면마음속으로 RI 회장대리의임무를한다고, 흔쾌한승락을얻고있었습니다.

다른지구의가버너로부터, 한국인의 RI 회장대리의과잉한접대의요구에몹시난감해했다 라는불평과주의하게충고를받고있었습니다.

그러나, 이씨의경우에는과잉한접대의요구등일체없고, 자신의따님의동행도이쪽에게부담을끼치고싶지않다라는생각으로부터, 미리알리지않고, 따님의호텔은달리예약해자기가지불했습니다.

그러나, 이씨의경우에는과잉한접대의요구등일체없고, 자신의따님의동행도이쪽에게부담을끼치고싶지않다라는생각으로부터, 미리알리지않고, 따님의호텔은달리예약해자기가지불했습니다.

, 이번시기당초에편파적인나의눈알인 라오스농업지원프로젝트 에찬동되어, 20 만엔을기부해주시고, 다만놀람이라고감사를견디어내지않습니다.

 

최후에지구대회를로타리안의여러분의협력으로무사하게끝낼수있고, 마음으로부터 감사말씀드립니다.

남겨진임기 7개월여를 라오스농업지원프로젝트 에전력을쏟고, 완성되게하고싶다고생각하고있습니다.      앞으로바뀌지않고지원을좋게부탁합니다.

 

 

 

 

世界大学考<浦項工科大学>

 

  韓国東南部、日本海に面する工業都市、浦項。ここに学生数3300人の浦項工科大学がある。この大学は世界ランキンング28位の韓国NO.1の大学である。

ポステック(浦項工科大学)は世界的鉄鋼メーカーのポスコが支援し、1986年に設立された大学である。

  世界的な大学をつくりたいとのポスコ名誉会長の思いで世界中から有力研究者を多数教授陣をつくり、学費の安さと教育環境の良さでソウル大学をしのぐまでになった。

 又英国流に全寮制を取り入れ、教授を含め親密な交友関係を結べるのも、学生にとって魅力の様だ。

 学業以外にも社会活動やクラブにも積極的に取りくみ、近年では理系の大学にもかかわらず文系の授業にも力を入れバランスのとれた全人教育にも非常に力をいれるため、文系の授業にも力を入れバランスのとれた全人教育にも非常に力をいれるため、文系の有能な教授をそろえている。

 国際化により「韓国人だけの世界的な工科大学をつくることは幻想だとし」英語を学内の公用語とし、学部の教育の75%、大学院では97%が英語で授業が行われており、大学院の外国人留学生は3割を越えるようなグローバルな大学になりつつある。

 「この大学の悲願は、卒業生からノーベル賞受賞者を輩出することにある」と白総長は語っている。この素晴らしいシステムによりここ10年~20年の内にに一人か二人のノーベル賞受賞者を輩出するだろうと私は予想している。 

 

 

 

 

 「世界の大学考」 〈オックスフォード大学〉

 

  オックスフォード大学の教育は、日米の大学のような講義形式の教育ではない。チュートリアルと呼ばれる個別指導中心の教育である。(日本のゼミ形式の教育にやや近い)  オックスフォードのチュートリアルは、週に一回一時間学生2~3人に一人の教員がついて行われる。そこでは、毎週何冊もの文献の講義が求められ、教員から課せられた課題に答えるレポートを毎回執筆し提出する。文献の要約ではなく課題に応じた分析と、自分の考えを述べるレポートでなければならない。そのレポートを基に毎回教員との間で議論が行われる。

こうした学習を毎週繰り返し、これを通じて分析力や批判的思考力、まさに「自分で考える力」を育てる教育である。オックスフォード大学のあるカレッジの学生向けのハンドブックには、学期中、学生は一日8時間以上の学習が期待されるとある。

たくさんの講義に出ない分、学生は毎週のチュートリアルの為に、多くの文献を読み、レポートを書くことに多くの時間を費やす。個別指導の他に講義も開かれるが、それは学習を補助するためのものにすぎない。

 成績評値は、卒業学生の最終学期に行われる卒業試験(1科目3時間程度の論述試験で、学生は7~8科目受験)でほぼ決まる。

  このようなチュートリアルは、カレッジ制によって支えられている。「学寮」と訳されるカレッジは、専門分野を超えて教員と学生とが学びと生活を共有する学問共同体である。

 全ての学生は、いずれかのカレッジに所属し、そこに住み自身の専攻に応じてカレッジ所属の教員を中心に個別指導を受ける。オックスフォードの教授達はチュートリアルの意義に関連して、大学教育の使命を次のように誘っている。「高等教育とは」批判的な思考をリベラルな教育を通じて発達させることである。どのような科目を通じてであれ個人のコミュニケーションと批判能力(統合、分析、表現)を発達させることである」さすがオックスフォード大学、教育方針の独自性にほとほと感心させられる。

 

 

 

 

 「世界の大学考」 ~アメリカの一流大学~ その3

 

  ハーバード・ビジネススクール教授の竹内弘高氏のインタビューによれば、ハーバード・ビジネススクールの教壇に立って驚かされたのが、教授陣の教えることへの執念で、講義に備えて入念に時間をかけ、教材もきわめてよく練られている。そこに第一線のビジネスパーソンである学生をより磨き上げて、再び社会に送りだそうという学校側の熱意が感じられる。学生も極めてエネルギッシュで講義内容を貪欲に吸収して、どんどん質問している。ここでは、教える側も教えられる側も真剣勝負。心地よい緊張感とプレッシャーがアメリカの一流のビジネススクールの良さだと実感できる。

 米国の一流大学の研究者は「Publish or Perish 」つまり「出版せよ、さもなければ去れ」が徹底している。ハーバードビジネススクールでは出版された論文や本がeメールを通して全員に毎週告知される。論文はクリックすれば読めるし、本の要約も載っている。

  ナレッジの共有が主目的だが、教育スタッフにプレッシャーをかける為でもある。その為教育スタッフは必死になり、生き残りをかけ質の高い論文をものにしようとする。

ハーバードビジネススクールのすごいところは、教授陣を支えるスタッフの層の厚さだ。論文作成をサポートする部門と、教材作成をサポートする部門とにそれぞれ専門のスタッフがおり、教授の論文作成と講義の手助けをする。アメリカのビジネススクールは、経営のプロを育成してきた実績がある。それぞれの時代で必要とされるリーダーを数多く送り出してきた。もちろん、アメリカの経済力という要因もあるが、ビジネスリーダーの育成方法として、アメリカ流が世界標準であることは、しばらく変わりないだろう。

 

 

 

 

 「世界の大学考」~アメリカの一流大学~ その2  

 

 

アメリカの一流大学はどうして超優良企業になれたか、日米との税制の違いにもよるが、以下の表を見ても歴然としている。教育基金-寄付金のすごさである。これだけの資金があれば、政府や州に一切頼らず大学運営ができるこれらトップの大学は、200人以上の投資のプロを雇い長期的な運用により、リーマンショックにも関わらず10年の平均で二桁以上のリターンをたたき出している。日本では、単年度主義のため、せいぜい1%程度の運用益しかあげられていないのが、現状である。

ハーバード大学やイエール大学では、家庭の総収入が6万ドル以下の学生は授業料の免除をしているとのこと、日本では考えられないシステムである。私の家にホームステイしていたプリンスト大学に通うマレーシア人の学生の話では、大学の入学許可を貰った後、卒業までの4年間まったく家からの仕送りがなくても授業料は免除、学生寮の費用も免除、小遣いが欲しいときには学校が学内の売店での手伝いや学内の清掃などを世話してくれるとのこと、アメリカでは、外国人の学生であっても優秀な学生にはとことん面倒をみているなあとの思いを持った。

 又、卒業してアメリカの会社に就職して10年間働けば、自動的に永住権(グリンカード)が貰えるとのこと、能力のある人間に徹底して優遇しており、これでは世界の先進国の中で唯一の人口増の国と言われているゆえんがわかる。

  以上にように豊富な資金と大学運営の自由裁量性の確保により過去のあらゆる時代の偉大な大学が旗印としてきた精神の自由と知の探求する場がアメリカの一流大学にある、何ともうらやましい限りである。(つづく)

 

 

 

  「放射能考察」その2

 

 「放射能は体にいい」という言葉を聞いて殆どの人は椅子から転げ落ちる位驚くことだろう。実は、放射線の人体に及ぼす健康効果の研究をしている大学がある。それは「岡山大学病院三朝医療センター」である。日本では三朝温泉が世界的に有名なラドン温泉で、不老長寿の湯として昔から多くの人々に親しまれている。

 岡山大学大学院教授(放射線健康科学)の山岡聖典教授によれば、ラドン温泉は気管支ぜんそく、関節リュウマチ、肝疾患、糖尿病など多くの症状に効くことが確認されメカニズムも明らかににされつつある。モルヒネ様効果といって痛みを和らげる鎮痛効果は早く、長く、強く見られるという。三朝医療センターでは、ラドン温泉を応用した様々な療法を施している。どれも皆、ラドンから出る放射線が「健康にいい」からだ。

  実は、少量の放射線には「ホルミシス効果」と呼ばれる特性のある事がわかってきている。「ホルミシス」とは有害と見なされる作用源が少量な場合は、逆に生体に刺激を与え、生理学的に有益な効果を生むことを意味する。山岡教授は、「ホルミシスという現象は当然あると思う。放射線も大量に浴びれば害があるが、低線量では一定の用量や用法の範囲で体にいい刺激を与え、薬と同様に役立つ。」と説明している。

 更に、ホルミシス効果を裏付ける学問的証左が偶然発見された。1982年から1984年にかけて、台北のあるマンションで放射線コバルトに汚染された梁が用いられ、続く20年間で約1万人が居住し、平均被爆線量は年間50ミリシーベルトでしたが、このマンションではガンによる死亡率が1年間で10万人あたり3.5人と通常より著しく低い数字だった。さらなる研究が必要と思われるが、継続的に低線量の放射線を浴びるとガン死亡率の低下が考えられる。国際放射線防護委員会(ICRP)では、以下のように勧告している。「年間100ミリシーベルト以下では、身体に症状が生じる様な放射線障害は起こらない。」けだし名言がある「年間20ミリシーベルトの福島の計画的避難区域に住むより、平均的喫煙者の方がガンになるリスクは高い。」

  我々は、放射線を正しく知って上手に付き合いたいものである。

 

 

 

 「放射能考察」その1

 

福島第一原発の事故から5ヶ月以上が経ち、原子炉の状態は比較的安定してきた。一方、放射能については、「大変だ、危険だ」といった情報が溢れ、「第一原発周辺はもう住めない。そこは放射能に汚染されたゴミを捨てる「放射能の墓場」を造るしかない」と公言する学者まで出始めた。

  このような煽る言説によって被災地の方々はじめ、いまや日本中の国民の多くが不安な日々を過ごしている。(私自身は不安も心配もしていない)

  放射能の人体への影響について膨大な研究結果があり、日本は不幸な広島、長崎の原爆投下を唯一経験しており、千葉の放射線医学総合研究所と広島、長崎の放射線影響研究所で原爆被害者の調査結果がある。原爆被爆により、男女を問わず大人、子人、老人の実に12万人の、しかも少量から大量まで放射能を浴びた、66年以上の追跡調査したデータが存在し、世界のゴールドスタンダードとして、この調査結果が国際的合意形成の中心になっている。

  この調査結果を国際科学委員会でも国際放射線防護委員会(ICRP)でも引用し、被爆線量とガンに罹患するリスクは直線関係にあると発表し、国際的にも合意を得ている。ちなみに全身に8シーベルトの放射線を浴びれば、100%死亡するとの調査結果が出ている。1000ミリシーベルトの全身急性被爆で生涯にガンで死亡するリスクが10%、3000ミリシーベルトでは30%増加する。100ミリシーベルトでは1%増加する。

  被爆が原爆の様に一瞬によるものではなく、長期間慢性的に被爆した場合、100ミリシーベルトの被爆により、生涯ガンで死亡するよりリスクが0.5%増加すると計算されている。現在の平均的日本人のガンのリスクは、30%だから100ミリシーベルトの被爆で、ガン死亡リスクが30.5%に増加することになる。国立がんセンターでは、100ミリシーベルトの影響は野菜不足や受動喫煙と同じ程度であると公表している。福島では、放射能の汚染に恐怖と不安を抱えて生活されている住民が大半ではないかと思われる。政府や自治体はホールボディカウンター(全身測定装置)などで被爆線量を測り、科学的データに基づいた説明をきちんとし、住民の方々の不安を払拭してあげなくてはならない。

 

 

 

 「世界の大学考」~アメリカの一流大学~その1        

 

1ハーバード大学(米)        7 オックスフォード大学(英)

2カリフォルニア工科大学(米)    8 カリフォルニア大学バークレイ()

3マサーセッツ工科大学()       9インペリアルカレッジロンドン(英)

4スタンフォード大学(米)      10イエール大学(米)

5プリンストン大学(米)       26東京大学

6ケンブリッジ大学(英)       57京都大学

   以上世界のトップ10の大学である、米英の大学が全てを占めている。更に驚かされることは、これらの大学院における外国人の学生が、7割以上占めていることであり、今や世界の一流大学は全ての面に於いて、グローバル化していることに驚かされる。

   世界最高の教育を求め、欧米の一流大学に群がる世界の若者達、その他の国々でも国力アップのために世界レベルのエリート育成に励む国家、今まさに“最高学府”における、世界教育戦争が始まっている。世界の一流大学とは、世界中から一流の教育スタッフ、一流の研究者、そして意欲ある優秀な学生を集め、地球規模の広い視野で大学を運営していることに驚かされる。

  日本を代表する東京大学の大学院の留学生の比率がわずか18%と低く、外国人の学生にとって日本の大学は学問や研究の上で、グローバル的には魅力のない存在になっていることが残念でならない。戦後、アメリカ人の自然科学分野でのノーベル賞受賞者数は、他国を圧倒しておりアメリカの一流大学は優れていると言わざるを得ない。国によっては政府が特定の国立大学に多大な財政支援をしているにもかかわらず、アメリカの一流大学の後陣をはいしている。

そこで、私なりに検証、考察してみた。そこで見えてきたものは、アメリカの一流大学の運営方法にあった。アメリカの一流大学の8~9割は私立の大学である。私立の大学は、政府や州の規制や権限外にあり運営に自由裁量をふるえる点にある。政府や州の交付金に頼らずとも運営でき完全民営化されており、教育基金と毎年の寄付金などで十分潤っており、お金持ちである。企業経営にたとえるならアメリカの一流大学は超優良企業である。さすがである。(つづく)

 

 

 

  「日本人の英語力」

 

 昔から日本では、天然資源に乏しく人的資源が決定的に重要であると言われ続けてきた。そして、教育の重要性が叫ばれ続けてきた。現在の国際化した時代に、コミュニケーションのツールとして世界の共通語として英会話力が非常に重要視される様になったが、日本の若者の英会話力は、アジアでピリから二番目だそうである。現実に英語を話せる日本人は少ない。その影響はビジネスの世界にも及んでおり、アジアのどの国よりも日本には英語を話せない企業経営者が多い。もしかしたら世界一かもしれない。

  日本の学校教育では、少なくとも中学・高校で6年間英語を学ぶ。それなのにほとんどの人が英語を話せるようにならない。別に日本が英語教育に力を入れていないわけではなく、現在では小学校でも正規に英語教育を行っているが、ほとんどの生徒は英語を話せない。力を入れる方向が間違っているのだと思う。英語教育の間違いは、学校の先生が話せないから、生徒が話せるようにならないのである。英語教員の採用には一考?が必要である。例えば、公立の中・高校であっても英語のネーティブスピーカーを英語教員として正規採用する等(この際、英語に関しては教育免許の有無は関係ないとする。)

  

  米山奨学生の採用試験に、二度試験官として奨学生の面談を行ったが、受験者の約半数は何と三カ国語を話すのに驚くと同時に、日本の若者は負けているのではないかと危機感をもった。事実、ロータリー財団の国際親善奨学生の採用試験の外国語の試験官として日本人の面談を行ったが、今年に限ってはお粗末な外国語能力(英語)の受験者が多く、本当にがっかりさせられ、日本の将来は本当に暗いと思わざるをえなかった。

しかし、救いはある。日本の若者と韓国の若者の英語力では韓国の方がかなり上にあると言われているが、サンディエゴの国際協議会で、日本のエレクトと韓国のエレクトとの英会話力の比較においては、断然日本のエレクトの英会話の方が優れていた。日本語と英語は言語としては、遠い位置にあるが必要とあらば努力次第で話せるようになるものである。ロータリーの例会も月に一回は個々のクラブで英語で行うのも日本の社会に一石を投じ社会全体の英会話能力のアップにつながると思う。

 

 

 

 「核の利用」 その3

 

  現在日本の原発の主流である軽水炉の多くは、減価償却を終えて、新たなるシステムに入れ替えうる好機を迎えている。ウランを燃料とする原発では、副産物としてプルトニウムを作り出すことになる。これは、人間にとって毒であり、核兵器の原料であり、更には半減期(放射線が半分に減少する期間)が2万4千年と、とてもやっかいな代物である。ウランは、世界的にはあと20~30年の埋蔵量と言われており、そこで登場してきたのが「核燃料サイクル」である。使用済み燃料から生成される、プルトニウムを再び燃料として利用する構想である。資源の乏しい我が国にとっては、ウランの有効利用と核不拡散を両立させる効果があり、日本のエネルギー政策の中核を担ってきた。プルトニウムと劣化ウランを混ぜて、混合酸化物(MOX)燃料へ加工し、これを高速増殖炉で利用する計画で、発電しながら消費した以上にプルトニウムを生み出す「夢の原子炉」と言われており、原型炉として福井県敦賀市にある有名な「もんじゅ」がある。1994年から動かし始めたが、翌年に事故を起こし現在まで停止したままである。私は、現在のところこの「核燃料サイクル」の実現は30~40年かかると見ている。近年新しい技術或いは新しいコンセプトの、次世代原子炉システムはいくつかあるが、とりわけ注目されていているのが「トリウム溶融塩炉」であり(ただしこのシステムは研究中)。トリウムは、原子番号90の放射性元素で原子番号92のウラニュウムと親戚のような関係にある(埋蔵量はウランと比較にならない程豊富)。しかし、ウランのように燃焼しても、人体に有害で核兵器の材料となるプルトニウムを微量しか排出しない。トリウム溶融塩炉はこのトリウムを冷却のためのナトリウムに溶解させて液体燃料とし、ポンプにより燃料塩自身を原子炉と一時系熱交換機の間を循環させて、原子炉で発生した熱を発電などに利用するシステムである。燃料は冷却剤として溶融塩と一体となり循環するから当然構造はシンプルになり、施設の小型化につながる。この小型化により、電力消費の多い場所に原発を設置し、送電によるロスも少なく、経済性、安全性、環境保護性、更には安定性にも優れた原発となるであろう。

  最後に、人類は電力源として原子力の完全放棄は得策ではないと、私は考えている。

 

 

 

 「核の利用」その2

 

  今日、日本全体がフクシマの事故で政府の情報の隠ぺい体質、放射線への恐怖感、容易に収束しない事故への苛立ち、風評などにより原発に対しての不信感、拒絶感、更には一種のヒステリー状態に陥り、中には全ての原発を停止、廃炉にすべきだと叫ぶ人達まで出現した。浜岡原発の政府命令による停止をはじめ、多くの原発が停止せざるを得ない状態になって来た。国内での電力不足により鉱工業生産が減少し、日本経済を破綻させ、日本は大不況に陥る可能性が出てきた。長期的には原発を見直し、原発廃止の方向性で考えても良いが、今はフクシマの事故を検証して、その結果をほかの原発の安全性の向上をはかり、安全性がそこそこに担保できた原発は、再稼働させるべきであろう。原子力発電、水力発電、火力発電そして再生可能なエネルギー、私はすべてのエネルギーをミックスして使用すればよいと考えている。しかし安全供給、環境保護、経済コストとバランス、更には、安全性を加えた最適、最強の電力政策が必要ある。

  さて世界の主要国の電力エネルギーのミックス度であるが、水力、天然ガス、石炭、石油、原子力が主体であり、再生可能なエネルギーには現在のところ、余り依存していないのが現状である。今後ミックス度が大きく変化することも考えられるが、私が考えるには、太陽光、太陽熱、風力、地熱、バイオ燃料などは確かに環境保護に優れ、無尽蔵である点は長所であるが、コスト、安定供給などの面でなかなかメジャーになれないと考えている。

  私は、資源が乏しく国土が狭い日本は、やはり原子力を主力エネルギーに選択する他ないと考えている。過去の日本のエネルギー政策で原子力発電の導入を進めてきた最大の理由は、エネルギーの安全保障を確保することにあった。実は私が原発と言っているのは、フクシマ原発のような、40年前の古い型の原発ではない。(つづく)  

 

 

 

「核の利用」その1

 

  核の利用としては、兵器と原子力発電の2つの方法がある。兵器としての核はどうか検証してみると、核は兵器として実に優れものである。想像を超える破壊力と生物への凄まじいまでの殺傷力、やはり現在ではこれ以上の大量破壊兵器は存在せず、人類史上最高の兵器である。しかし広島、長崎への投下後、ここ70年あまり全く使用されていない。軍事上は、核の戦争の抑止力あるいは、張り子のトラと比喩されている。

 

  私は、人類は今後いかなる戦争でも使用してはならない。いや、絶対に使用できないと考えている。しかし、核兵器は絶対に廃絶してはならないと考えている。何故核兵器を保有するかと言えば、宇宙からの隕石が都市部や原子力発電所などへの落下が予想される場合に、衝突を回避するために使用が適切な場合もあるだろう。また、映画の世界かもしれないが、エイリアンの地球への侵略に遭遇した場合、核兵器を使用する機会があるだろう(多分フィクションの上でのことだろうと思う)。現在、原発は世界中で約500基(建設中も含めて)が稼働している。そして過去に3回大事故を起こしている。スリーマイル島、チェルノブイリ、そしてフクシマである。 しかし50年間で3回とは意外と少なく、原発事故が直接の原因で死亡された方は、想像以上に少ないのではないかと考えている。

 

  私は、実はこの地球上に人類が作ったもので絶対に、完全に安全なものなど存在しないと考えている。航空機でも、度々墜落し死傷者をだしているが、その利便性から多くの人々は平気で利用している。公共交通機関においても時々事故が発生し死傷者を出している。更には、車に至っては日本では年間数千人もの人が亡くなっているが、誰も危険だから車の利用をやめようなどとは言わない。しかし、私自身フクシマの原発事故を目の当たりにして、特に原発の建屋の水素爆発をテレビで見て、驚愕せざるを得なかった。(つづく)

 

「東日本復興と日本再生」 その1

 

  東日本大震災の復興は日本再生につながると私は考えている。

1990年以来、バブル経済の崩壊によって日本経済は低迷と迷走を続けた「失われた20年」

であった。前半10年は、やむを得ない面もあった。歴史上有数の大きなバブルがはじければ、金融システムが打撃を受け、バブルの後始末の為、痛みを味わって当然だと言える。しかし、後半の10年はバブルのせいにはできない。

  この10年の停滞は、日本人(民間企業)と日本政府が重ねてきた選択の結果である。その選択とは、次のような「チャレンジしない」「新しいことを始めない」「何もしない」である。現状維持の心地良さに甘え、新しいもの不確実なものに取り組むリスクを避けてきた。ちなみにここ10年のベンチャー起業の数において、日本は世界183カ国中、98位というていたらくだ。(世界銀行による) 実際は、人間の経験則として現状維持のほうがリスクは大きい。その先には必ず衰退が待っているからである。

 日本経済低迷の原因の一つは、日銀の金融政策にあると思う。世界的に採用されている量的緩和策についても、迅速に行えず又、量的にもまったく不十分であり、インフレターゲットの採用も拒否し、結局世界で最も深刻なデフレを引き起こした。

  現在の政府は、財政規律重視路線の方に傾きつつあり、消費税のアップを唱え始めたが、大震災後の今、緊縮財政を緩和すべき状況で逆の政策を行おうとしている。被災者支援やインフレ整備などの復興に莫大な資金が必要である。政府は、今だに財政規律重視で、復興の為の新規国債発行に消極的である、「被災者を支援したい」と言う国民の気持ちを利用して消費税の増税による財政再建を推し進めるという。私は声を大にして言いたい。「消費税を上げると震災恐慌になる。上げるなら所得税と相続税を上げよ。政府よ、日本を滅亡への道に導かないでくれ!!」 つづく


 「東日本復興と日本再生」その2

 

  私は声を大にして言いたい。「消費税を上げると震災恐慌になる。上げるなら所得税と相続税を上げよ。政府よ、日本を滅亡への道に導かないでくれ!!」 

  しかし、我々日本人に救いはある。3月11日の東日本大震災は日本人、一人一人を覚醒させた「我々日本人にとって今は有事であり国難である」と自覚させるに至った。日本人の心の中に精神的な復興気運、つまり「精神的復興特需」が生まれた。(後述するが、この精神的特需の持つ意味は大きい)その証拠に二千数百億円の義援金が寄せられた。しかし、復興には20数兆円~50兆円が必要とされ、義援金額程度ではどうすることもできないが、被災者には一定の心強い手助けになるだろう。

  大震災の復興には政府による巨額の財政支出が必要であるが、ここにひとつの光明がある。それは「復興特需」である。これは日本経済を活性化させ「復興特需」に前述した、日本人の「精神的復興特需」も加わり、その相乗効果で20年来の経済の低迷やデフレからの脱却にまたとないチャンスであると私は考えている。何より復興特需が経済の低迷やデフレからの脱却に役立つかは、戦後日本に起きた経済神風を思い起こして見よう。朝鮮戦争とベトナム戦争特需である。しかし、今日の大震災は、いわば日本が内戦によって国土が破壊されたような状態の特需であり、前者の常識は通用せず、第二の戦後が突然やってきた状態であり、むしろ、マイナスからの出発である。でも、私は悲観していない。もう少し広い視野からこの大震災を日本経済の低迷に対する創造的破壊ととらえるならば、日本経済の復活、いや日本再生のまたとないチャンスであると考えるべきであろう。(被災された方達には、甚だ失礼な言い方ではあるが)復興の過程で破綻企業の救済やバラマキ福祉に象徴される悪しき温情主義(ある程度のセイフティーネットは残す)と縁を切り、競争によって生産性を向上させることが出来れば、日本は確実にたくましく再生できるだろう。更に今だに日本は世界一の債権国にあることに変わりはない。

 

 

 

 「東日本復興と日本再生」その3

 

  政府は、消費税アップによる増税で経済の回復の足を引っ張ってはならない。可能な限り償還期間の長い(例えば100年)「復興債」を発行すべきである。そして、日銀がすべて買い取るべきである。私は、「復興債」を発行し政府が復興のために財政出動しても財政危機にはならないと思っている。財政破綻論の多くは、バランスシート分析が欠如していると思われる。国のグロスの負債は大きいが、資産が大きいためネットの負債(資産・免債差額)はそれほど大きくないことが理解できていないようだ。

  日銀の資金循環統計によれば、国と地方の純金融負債は579兆円で、日本の広義流動性は1440兆円、個人金融資産は1489兆円である。このように、バランスシート全体の分析を行えば、直ちに財政危機が訪れるとは考えにくい。日本の経済基盤はしっかりしている。

 政府は、震災による景気悪化を考えると、安易に震災復興の為の増税に走ることは好ましくない。むしろ、確固とした東日本復興のビジョンを持たなくてはならない。

  私は、大震災を機にすべてゴワサン(オールクリアー)にして物事を考え直してみてはどうかと思う。例えば東京の一極集中の解消と地方への分散化、政治システムの抜本改革などの国家のクランドデザインの再設計、省エネを目的として、ライフスタイルやワークスタイルの変更によるサマータイムの導入、Eコマースの振興、ITを活用した自宅勤務の活発化、70才まで労働できる環境整備、退職女性の社会復帰の促進、年金受給開始年を70才に引き上げる。などが挙げられる。

 日本国民にとって国内的には、前述した「精神的復興特需」により35年の目標が定まった意義は大きい。「失われた20年」で失いかけていた精神的活力と自身をよみがえらせる効果は大きい。復興へ前進あるのみである。23年後には「失われた20年」「デフレ」「自身を失いかけた日本人」等の文言は死語となっているだろう。東日本復興への道は、日本再生への道であり、日本が未来へ大きく飛躍するための起爆剤としなくてはならない。

 

 

貿易赤字の日本が生き残る道  199回
       
 2011年日本の貿易黒字は31年ぶりに赤字になった。東日本大震災やタイの洪水などの特殊要因もあるが、生産の国外移転とともに貿易黒字が縮小傾向にあるのは間違いない。日本が慢性的な貿易赤字国になったとき、国として生き残っていけるのか。
 貿易収支は、国外とのモノやサービス、投資のやり取りを表す「経常収支」のうち、モノのやり取りによる儲けを示す部分。その貿易収支が赤字でも、モノ以外の部分でそれを補って余りある黒字を稼いでいければ何も問題ない。
 しかし、2013年は、経常収支全体でも1985年以来最大の4370億円の赤字になった。貿易赤字が大き過ぎて他の稼ぎが追い付かなかったためだ。これが恒常化して、経常赤字と財政赤字という「双子の赤字」を抱えることになると、悪夢のシナリオも現実味を帯びてくる。
 日本の政府債務がGDP比で213%。先進国でも飛びぬけて悪い。それでもデフォルトの心配をしないで済んだのは、国内の企業や個人が国際的なビジネスや、国外での投資収益の形で稼ぎ出した経常収支の黒字で国債を買い、財政赤字を埋めてきたからだ。所得収益の黒字は2005年から10兆円を超え、貿易収支の黒字を上回ってきた。日本はいつの間にか、貿易よりも投資収益で食べる国になっていたのだ。
 だがこれで安心はできない。第1に、日本の国外投資は相場によって収益が大きく左右される証券投資が多い。より安定して高い収益が見込める企業や工場、不動産等への直接投資を増やしていかなければならない。また経常収支の赤字が続けば、国外投資の源泉である対外資産は取り崩されて減っていく。そのときは、どうやって所得収支の黒字を稼げばいいのか。
 先例がある。アメリカやイギリスは対外資産より負債が多い純債務国だが、所得収支は黒字を保っている。秘訣は、国外から大量の投資資金を呼び込んで、国内では使わない余剰分を国外投資に回して儲けることだ。IPO(新規株式公開)で世界から集めたお金の一部を、国外での事業展開に使うのも一例だ。
 それを可能にするためには、国外の投資家から見て魅力的な国でなくてはならない。アメリカは基軸通貨国である上に革新的な技術やアイデアを生み出し続けている。イギリスは金融センターとして世界の金融機関に自国を開放した。
 経済の成熟化とともに国は貿易黒字を稼げなくなり、次の段階ではそれまでの蓄えを国外に投資して食料やエネルギーの輸入に必要な外資を稼ぐようになる。その蓄えも減ってきたとき、国外から投資を呼び込めないようならこれこそ死活問題になる。
 さて、2014年上期(1月から6月まで)の貿易赤字は史上最大7兆5984億円に達した。もちろん今年1年の経常収支は数兆円の大赤字が予測出来る。原発の大半を再稼動させれば、天然ガス、オイルの輸入は減少し貿易赤字もそれに伴って減少するが、それでも貿易の赤字傾向は今後も続くと思われる。解決策は、上述した国外から大量の投資資金を呼び込む以外に方策はない。同時に、日本を活性化するために外国からの人材を有効活用する必要がある。外国人を日本の労働市場に入れると国内の雇用が奪われると危惧する意見もあるが、彼達の独創力によって新しい産業が興れば、国内の雇用も増える。その実例は、アメリカのIT革命のようにカリフォルニアのシリコンバレーでは、アメリカ人だけでなくインド人、中国人等が重要な役割を果たしている。また、イギリスをものの見事に蘇らせたロンドンの先端金融センターの発展、ここでの外国人による金融活動の展開は「ウインブルドン現象」と呼ばれ外国人の活躍によるところが大である。それに伴いなんとロンドンの不動産の50%は外国人所有となっている。
 日本人も頭を切り替える時期にきている。外国からの人材導入は「外国に支配される」という意味ではない。「国外の人材に活躍の場を与える」ことなのだ。これによる収益は、場を貸した側(日本)に大半落ちる。まず地代や税、保険料などの直接的収入だけでなく、雇用、消費、設備投資など間接的な面でも波及効果が期待できる。
我々日本人が外国人を拒否するのは「異質なものの排除」の感情からきている。今こそ日本でもグローバル化グローバナイゼーションしようと叫ばれている。その実現には「異質なもの」を排除するのではなく、受け入れ、活用することが旧態依然とした体質(構造)を創造的破壊することにつながり、日本が世界の中で生き残って行ける唯一の道だろう。外国人の人材に門戸を開こう。



小室直樹博士への挽歌  200回記念レター                    

 1977年小室直樹47歳当時、警察大学校と外務省研修所の講師を勤めていた。ここに碩学の好漢小室の度外れたエピソードが残っている。
 そもそも警察大学校の講師に採用された理由、それは小室がたびたび酔って交番に乱入し、警察官に絡んだ際に、刑法、刑事訴訟法の条文をあげて理路整然とクダを巻くところを見込まれたからだという。外務省研修所の講師をクビになった理由がまたすごい。それは外務省の教育担当者に「小室先生は講義の中で、総理大臣を馬鹿者と発言されたと受講者から聞きました。本当にそんな発言をされたのですか?」との問いに、小室は「いいえ、そんな風には言っておりません。正真正銘の大馬鹿野郎と言った!!」と答えたからだという。因みに当時は福田総理だった。
 200ページくらいの単行本一冊なんかウイスキーをグイグイあおりながら、一晩でたいした取材もせずに一気に書き上げた実力の持ち主、私には小室の場合は学問を追及、いや追いかけるのではなく、学問と併走する、むしろ当時の日本の社会科学はレベルが低いため、アメリカで先進的な社会科学を知得した小室の後を日本の学界の方が追いかけているような状態だったと考えている。
 日本人でノーベル賞の栄に浴した人達は確かにすごいが、学会アカデミズムから距離を置いた「無冠の帝王」小室直樹はすごい。もっとすごい。半端じゃない。その実力の程は、なんと1991年のソビエト連邦の崩壊を予言した。名著「ソビエト帝国の崩壊」を1980年(昭和55年)8月5日に出版している。実に11年前にソビエト連邦を研究、分析し、内部崩壊が進行しており必ずや完全崩壊すると白日のもとに天下に予言、広言、断言した。
 その折、ソビエト通といわれた日本の学者やジャーナリスト達は、こぞってそんなことはありえないと否定していた。いや、世界中の誰一人としてソビエト連邦の崩壊を予想していない。その後のマルキシズムの凋落、マルクス経済学者の失業(皮肉を込めて)、マルクス・レーニン主義の終焉、副次的産物として、ベルリンの壁撤去、そして、中国の人民解放軍による民主化要求の著者達を虐殺した。かの「天安門事件」、東欧の社会主義国がドミノ倒しのように民主国家への脱皮、今でも混乱の続くウクライナのように、旧ソビエト連邦構成国内の戦乱と苦悶、以上のようにあまりにもスピーディーな20世紀末での大激動、大革命、大激変、これには「ソビエト連邦崩壊」の唯一人の予言者、本家本元、元祖開山「小室直樹」大先生ですらかなりあせるくらい、チビルくらいの猛スピードに“more and more slow”と口走ったとの噂もあるとかないとか?
 いや、すごい。なんたる分析力。なんたる慧眼の持ち主。もしノーベル政治学賞が存在すれば、受賞は確実だった。
 小室27歳のとき、第2回フルブライト留学生として1959年から1962年まで3年間、アメリカで研究生活を送った。MIT、ハーバード、ミシガン大で、経済学、政治学、心理学、社会学を研究し30歳で帰国した。ところが渡米中に専攻を経済学から政治学、社会学へと変更したために、大阪大学大学院の担当、市村真一教授から破門された(市村は小室の頭脳に期待しており、出発前に当時すでに超有名だった経済学者ポール・サムエルソンを負かせてこい檄を飛ばした)。
 やむなく阪大を中退し、その後31歳で東大政治学大学院に入学。ここで伝説となった東大田無寮に入寮(食費込みで月額3800円のアバラ家)し、この後10年間博士号取得まで滞在、赤貧生活を送った。六畳一間の部屋は荒れ放題。酒ビンと長靴、本とフンドシ、パンと雨漏り用のバケツが乱雑に置かれ、室内をネズミが走り回り、飼い猫が追っかけ、畳はささくれ立って絨毯のようで、そこからタンポポの花が咲いていた。
 入寮から3年目くらいから、この部屋で自主ゼミ〔Tanashi School of Economics〕を主催。大学院生に理論経済学を指導する。また、その理解のために必要な数学を教え、博士論文を指導する。これが伝説となった「小室ゼミ」の前身である。評判が評判を呼び受講者が増加して、廊下にまで溢れ出た。この頃の小室の口癖は『(小室様には及びもせぬが、せめてなりたやサムエルソン)といわれる日が来る』と!!――――――私は思わず吹き出し爆笑した――――――その訳は、小室はアメリカ留学中にMITでポール・サムエルソン(近代経済学の大家で1970年ノーベル賞受賞)に師事したが、さながら自身の方が上であるとおどけてみせたジョークである。
 1970年40歳のときに田無寮で行われていた自主ゼミが、本郷の東大文学部社会学研究室に移転、社会科学の復興、再生、そして既存の教育、研究の枠にとらわれない自由な研究活動の場を目指し、所属、専攻、年齢等を一切問わない「小室ゼミナール」が出帆した。1980年頃には毎週1回、朝9時から夜9時まで昼食も取らず12時間ぶっ通しで行われた。科目は数学、物理学、経済学、政治学、法学、社会学、心理学、人類学等、以上の学問は相互に密接に関連している。小室はそれをゼミ生に分からせるために1人の教師がすべて教えることが必要と考え、小室は以上の科目を実際に1人で教えた(自由ゼミのため単位認定なし、従って無料)。
 この伝説の小室ゼミでは講義中、ゼミ生達一人一人に対して指名して鋭い質問を浴びせかけ、興に乗ればゼミは深夜にまで及んだ。フジテレビの「朝までテレビ」のような時間無制限一本勝負のようであり、また、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の白熱授業を、よりハードにした10数名の小人数の講義だった。以上が「伝説の小室ゼミ」といわれる所以である。
 小室ゼミからは多くの俊英な学徒(橋爪大三郎、副島隆彦、宮台真司、盛山知夫等)が輩出した。私は彼らの講演や著書に接して感ずることだが、実に幅広い学識に驚かされる。もちろん小室先生のあの甲高い声による熱血指導と叱咤激励のなせる技だろう。小室先生はあの有名なロッキード事件に際して「一国の元最高権力者たる総理大臣を罰してはならぬ。収監される前に法務大臣は指導権を発動せよ」とテレビのコメンテーターとして放送中に発言し、物議を醸し出した。
 このように、わが国では異色の思想化、保守派の論客、奇矯な言論人、学界の主流に位置せず、どちらかといえば在野の学徒として一般の人々に知られていた。しかし、小室の本当の実力を学界アカデミズの権威者達(政治学、経済学、社会学等の一流の教授達)は認識しており、小室と論争でもやろうものなら、こてんぱんに言い負かされて、次ぎの日から学生の前に顔出し出来なくなるのを恐れ、大多数は小室の発言に異を唱えたりせず、無視、もしくはだんまりを決め込んでいた。
 さて、小室先生は戦後日本が生んだ類例のない存在であり、間違いなく「知の巨人」と呼ぶにふさわしい。私はあえて「日本のマックス・ウェーバー」と呼びたい。小室先生は2010年9月4日に逝去されたが、御家族の意向で公表されたのが9月28日であり、私は新聞紙面で知り、哀悼の意と共に「巨星落つ」の感を持った。そして心の中で「先生の著作で随分勉強させていただきました。卓越したお教え本当にありがとうございました」とつぶやいた。
 去る9月4日は小室直樹博士の4回忌でした。「合掌」


宇宙エレベーター  201回 

 現在、人間が宇宙(地球周回軌道)へ行くためにはロケットを使わなければならないが、もしかしたらもっと簡単に誰でも宇宙に行けるようになるかもしれない。それが宇宙エレベーターだ。これは、宇宙空間と地表を「テザー」と呼ばれる長いテーブルで繋ぎ、「テザー」を伝ってエレベーターのように人や物を運ぶという構想である。
 1895年に旧ソ連の科学者ツイオルコフスキーが「赤道上から高い塔を伸ばしていくと、ある時点で重力と遠心力が釣り合う」という着想を自書の中で述べ、同じく旧ソ連のアルツターノフが、静止軌道から上下にケーブルを伸ばしていく宇宙エレベーターの原理を考え出した。
 だが、宇宙エレベーターのアイディアは長い間アイディアレベルの議論に留まっていた。なぜなら、静止軌道から地表まで3万5800キロメートルをケーブルで繋ごうとすれば、普通の金属はもちろん、ダイヤモンドでも自らの重量で切断してしまう。ところが、1990年代にカーボンナノチューブ(CNT)が発見されたことで、宇宙エレベーターは現実味を帯びてきた。CNTとは炭素原子が編み目のように結びついていて、筒状になった物質でその直径は人の髪の毛の5万分の1ほどの細さでありながら、ダイヤモンドと同等の強度を持つ。このCNTならば、宇宙エレベーターに必要な軽さと強さを合わせ持つテザーが作れると期待されている。
 宇宙エレベーターの建築方法は意外にシンプルだ。上図のように、まず静止軌道上に宇宙ステーションを建築し、重心の位置をずらさないようにバランスを取りながら、上下にテザーを伸ばしていく。地表に向けて伸ばしたテザーが地表に届いたら、地上の基地(アースポート)に固定する。上(宇宙空間)に伸ばしたテザーはそのまま伸ばしていくか、バランスを取るためのカウンターウエイトに置き換えれば、これで宇宙エレベーターは完成する。あとはテザーを伝って人や物を運べば、非常に低いコストで宇宙への輸送が可能になる。打ち上げロケットで運ぶ場合に比べて、800~400分の1のコストの安さである。もちろん実際に建設するとすれば、大気の影響や万が一の安全対策等、クリアしなければならない課題は多いが、それでも先進国の間で研究が進められており、少しずつではあるが実現性が高くなっている。
日本の大手ゼネコンの大林組は「2020年代半ばに建設を開始すれば、25年後の2050年には運用可能になる」と試算している。私が100歳をちょっと越えたくらいのところで、私自身にも宇宙エレベーターに乗ってチョット宇宙にでも行ってこようかと言える時代がすぐそこまできている。「長生きするぞ!!」


21世紀の経済覇権国  202回                                 
 誰の目にも明らかなアメリカの凋落が言われて久しい。様々な予測では、21世紀は経済の中心がアジアに移ってくるのでは、経済においてはアジアの世紀である。そして、アジアの国々の中で中国、インド、そしてインドネシア(GDPで日本を2050年頃抜く)等がアジア経済の中心的役割を果たすであろうといわれている。
 たしかにこの3国プラス日本、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国等アジアの人口は世界人口の5割を軽く超え、GDPでも5割を超えると予想されている。世界中で自由貿易が行われればアジアにとって黄金の世紀になるはずである。
 しかし、アジアの食料生産は40億以上の人間を養っていくには十分といえず、すべての人々のお腹を満たすのにはかなりの苦労が伴うはずである。また、エネルギー、鉱物資源も自給は出来ず、輸入に頼らざるを得ないだろう。だが経済活動は40億以上の人口もあり、エネルギッシュなものとなり、アジア発の優れた製品も多く生まれるだろう。
 ここで大きくネックとなっているのが高等教育の問題である。「高等教育とはその国の将来に対する重要な投資である」ともいわれている。実際、アジアの国々でどれだけの量と質の高い教育を行っているのか問題となってくる。(2012~2013)の世界の大学ランキングによれば、以下のようである。
 トップ10にはアメリカ7校、イギリス3校、トップ20にはアメリカ14校、イギリス4校、スイス1校、カナダ1校、トップ50にはアメリカ31校、イギリス7校、カナダ3校、オーストラリア2校、香港2校、中国1校、日本1校、ドイツ1校、シンガポール1校、スウェーデン1校。
 例をトップ50の大学にとれば、アメリカとその友好国英連邦合計は、50校中43校を占める。一方、アジアの合計は5校である。トップクラスの大学の数が先端の科学技術の実力を表すものとすれば、アジアは科学技術の面では、米英の足元にも及ばない状態といえる。21世紀はアジアの世紀、いや、経済的覇権国となるなど恥ずかしくおこがましいといわざるを得ない。世の中を引っ張っていく先端科学技術を生み出す力は甚だ力不足である。
 未来への投資といわれている高等教育機関の一層のヴァージョンアップを計り、改善すれば、ひょっとすると21世紀の半ば頃にはアメリカを初めとする欧米先進国をキャッチアップ出来る可能性がある。しかし先頭になって世界を牽引するのはちょっと無理だろう


ハーン(小泉八雲)の結婚と帰化   203回

 1890(明治23)年4月4日に特派員として横浜に到着した。その後不利な契約への不満から、米ハーパー社との契約を破棄し、横浜に4ヶ月滞在した後、ニューオリンズ万博で知り合った、文部官僚服部十三の紹介で島根県松江の尋常中学、師範学校の英語教師として赴任した。月給は当時の島根県知事とほぼ同額の100円(ちなみに学校教師の初任給は5円)と破格の待遇にハーンは小躍りしたい気持ちであったろう。高校も満足に卒業していないハーンにとって、アメリカの16年間の記者生活では辛酸を舐め、人はハーンを評して、放浪者、夢想家、独善者、人間不信の孤独家と表現している。そしてそのいずれもが当てはまったようだ。その上最大の特徴は、いや、欠点は“金欠病”であった。島根県の役人が名簿に「ヘルン」とカタカナ表記を間違って登録したが、ハーンは抗議することなく承諾し、松江では「ヘルン先生」と呼ばれた。
 松江に着いたハーンは、富田旅館で寛ぐ。そこへ県庁の役人が洋服にネクタイ姿で挨拶に訪れたのに対し、ハーンの演出は浴衣姿で座布団に座り、キセルの煙をくゆらせ、窮屈そうにしている役人にさかんに椅子を勧めた。洋と和の逆転の演出に、役人は汗をかきかき親しみを覚えた。
 また、当時日本人は海水浴などする習慣がなく、ハーンがキセルをくわえながら、背泳ぎする姿に松江市民はどっと浜辺に繰り出し、拍手喝采した。その上当時の西洋人が嫌った生魚、納豆、生卵、漬物等をなんら違和感も見せずペロリとたいらげ、松江市民の心を一気につかみ「ヘルン先生」「ヘルン先生」と親しみと尊敬を集めた。事実、一般的な西洋人とは明らかに行動様式の違う、現代風に表現すれば「ヘンな外人」そのものであった。この姿こそが後に日本文明(文化)を真に理解した最初の西洋人になりえたのである。
 ハーンは10月下旬に、宍道湖湖畔の織原家の離れ屋敷に居を移した。ここでハーンのハウスキーパーとなったのが、後に結婚する小泉セツ(離婚し、両親の面倒をみる立場にあり、生活に困窮していた)であった。最初にセツを紹介されたとき、ハーンは手足の太い、丈夫そうな彼女をハウスキーパーとして歓迎した。しかしその後、接するにつれ、士族の出であるセツの“サムライの娘”らしい凛とした立ち振る舞いや、にじみ出る知性、感情細やかな優しさに、日本女性の美しさを見出した(もちろん西洋人の女性と比較して、ハーンは158cmと背は低く、服は浅黒く、隻眼で鷲鼻の奇異な風貌で、白人女性にまったくモテず、かなり自身の容姿にコンプレックスを持っていた)。
 ハーンは友人のチェンバレンに次ぎのような書簡を送っている。

セツにとって家族を支える必要に迫られており、それこそ女中でもなんでもやる覚悟であり、ひょっとしたら再婚できるかもしれないとの期待もあった。ある意味二人の出会いは相互に求め合う、天が導いた人生の帰結だったのかもしれない。1841(明治24)年1月下旬二人は、お互いの傷を舐め合うように同棲を始めた。そして同年8月二人は当時としては珍しい新婚旅行に出かけた。
 セツはハーンの人間性を知り、“異人の妻”となることに躊躇はなかった。日本語の読めないハーンにとって、セツとの結婚は非常に有為なものであり、利発な彼女は彼の著作活動において、手となり足となり眼となる、えがたい貴重なパートナーであった。ハーンは日本に長く滞まること、さらには作家として自立することを決意した。翌年ハーンは、こわれて松江から熊本の五高の教壇に立ち、さらに1894(明治27)年、神戸に移り住み「神戸クロニクル」の記者として文筆をふるった。熊本時代、セツとの結婚の正式な手続きをしようと役場に度々足を運び、担当者と談判するが、結局は前例がないということで、うやむやになったまま保留され、長男一雄は日に日に大きくなり、私生児状態に気が気ではなかった。
 神戸でなすべき大仕事は、まずセツを正式な妻となるべき手続きと、長男一雄の出生届である。神戸はさすが国際都市であり、国際結婚による届出の受領もスムーズに進んだが、ハーンにとってひとつ気がかりなことがあった。自身が死んだ後、遺書を残してあったとしても自分がイギリス人のため、当時の日本とイギリスの不平等条約により、遺産はセツと子供にはいかず、自分は英国籍のままなので、見ず知らずの遠縁のイギリス人に分配されてしまうだろう。
 ハーンはここでセツを英国籍に入れるか、自分が日本に化するかの難しい選択に迫られた。友人のチェンバレンに相談すると、セツの入籍に反対したチェンバレンは、日本を去るときは「植民地(日本)生活の錆を落として帰国したい」と本音を吐いた。当時、西洋人達は本国に妻を残しての単身赴任のため、日本人妻の存在があり、公には夫婦関係の記録は残さず、日本を去るときに、一生不自由しないだけの生活保障を与えて、ひとりだけで帰国するのが常だった。
 しかし、ハーンは長男一雄を捨て置くことは出来ない。なぜなら、かつて自分自身が母にも父にも捨てられた身だったからである。孤児としての自分の孤独な少年時代を思い出すと、一雄に同じ道を辿らせたくなかった。今さらギリシャにもイギリスにも帰れない。アメリカとて、青春の一時期を過ごしたにすぎない。ハーンには、アイデンティティーが感じられる祖国が存在しないことに気付き思い悩んだ末に、ならば自分はこの日本で日本人になろう、そして日本の心をアイデンティティーにしようとハーンは帰化を決意した。幸いにも神戸は居留地の外国人が多く、姓名変更、面接等を経て、帰化願いは日本政府に受理された。
 1896(明治29)年2月10日、手続きが完了し、ハーンは晴れて日本人となり「小泉八雲」と名乗った。戸籍上はセツが分家して、ハーンが小泉セツの婿として入籍したのだった。母セツから伝え聞いた長男一雄によると、セツが初めてハーンに昔話を語り聞かせたとき、ハーンはセツに感動して「あなたは、私の手伝いの出来る仁です」と“ヘルン言葉”で語りかけたと、後に一雄が語っている。ハーンはセツから覚えた出雲弁まじりの日本語を、英語の文脈に置き換えて作品を書いた。二人は向かい合い、セツが感情を込めて昔話を口承するが如く語り始めると、ハーンは必死でその意味やあらすじを英語でノートに書き取った。互いに母国語しか知らない二人の会話は「ヘルン言葉」という二人だけの共通語(日本語でもなく英語でもなく他人には全く理解できない)によってのみ理解し合えた。何度も何度もハーンが理解できるまで「ヘルン言葉」による会話は続き、何時間も仲むつまじく行われた。
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)といえば、誰しも「怪談」を思い浮かべるはずだ。「怪談」は日本の古文書や各地に残る口伝を、ハーンが自身の想像を交えて再構成したものだ。文学ジャンルでは“再話文学”といわれている。土地に伝わる伝説を見事に再話してみせてくれたハーンの“筆力”セツの“語り”の共同作業に、仲むつまじい夫婦の二人三脚のお手本を見た思いがする。 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は日本文学史に新たな1ページを記した。


最新RNA理論   204回                           

 私が学生時代に生化学の講義の中で、生物にとって最も重要な分子はDNAとRNA、タンパク質の3種類であると、過去のワトソンとクリックによる1953年のDNAの二種ラセン構造特定以来、実に60年あまり、細胞の主な活動はDNAとタンパク質に帰するとされてきた。RNAも確かに重要であるが、下支えの脇役扱いだった。分子生物学者がなぜRNAではなくDNAとタンパク質を主役とみなしたかは容易に理解できる。
 DNAの主要なサブユニットである4つの塩基(アデニンとチミン、シトシン、グアニン、それぞれA、T、C、Gと略される)は、地球上のあらゆる生活が成長するための基本的な指令を形作っている。そして、DNAが指令する過程のなかでも最も重要なものが、タンパク質の製造なのだ。
 現在の医薬品の大半は、タンパク質に作用してその働きを阻害するが、その生産量を変えることによって機能するものだ。ただ、ほとんどの医薬品がタンパク質に影響するものではあるが、だからといって狙いのタンパク質に作用する薬を自由に開発できるわけではない。
最も一般的な医薬品は、胃の酸性環境を無事通過できる小さな分子でできている。これが消化器系から吸収された後、鍵が鍵穴にマッチするように、標的タンパク質の活動サイトにぴったりはまらなければならない。ところが、この方法が通用しないタンパク質が存在する。活性サイトがタンパク質分子の奥深く隠れているものや、細胞骨格を形作っているため、そもそも活性サイトを持たないタンパク質があるのだ。この結果、これらは創薬困難となる。
20世紀末、一連の発見によって新たな形態のRNAがいくつか見つかり、細胞中で活発な調整機能を担っていることが分かった。どのタンパク質をどれだけ作るかを決めているほか、一部の遺伝子の働きを完全に止めることもある。
RNAに関する新発見は、1993年「マイクロRNA(miRNA)」の発見によって築かれた。細胞は、このmiRNAを用いて多くのタンパク質の生産スケジュールを調節しており、特に生物の発生初期でのこの効果が大きいと考えられている。そして、miRNAの発見から5年後に別の大きな発見があった。miRNAとはまた別の短いRNA分子が、メッセンジャーRNA(mRNA)を切断することによって、遺伝子がタンパク質に翻訳されているのを実質的に阻止していることが分かったのだ。この記念碑的な発見、つまりRNAi(RNA干渉の発見)をした、ファイアーとメローに、2006年のノーベル医学賞が贈られた。浅学非才な私は当時、なんで生命科学にとって重要でない大した働きのないRNAの研究にノーベル賞なんて、と思ったものだ。
この段階で生命科学の学者達は、それまで見過ごされてきたこの分子を用いて、タンパク質の生産を変えることに注目、創薬困難なタンパク質についても創薬が可能となる可能性について気付いた。こうした最新の知見によって、細菌やウイルスによる感染症、ガン、様々な慢性疾患に対抗する新しい医薬品を作ることが可能になった。今年話題となっているエボラ出血熱や、世界中で膨大な数のC型肝炎の患者に朗報となる、効果的な新薬がまもなく出現する。
最新のRNA理論により今まで説明できなかった遺伝子発見の様々な現象を解明し、さらに標的遺伝子を抑制する「RNAi法」が確立することとなった。「RNAi法」が効果を示す生物種は限られているものの、研究者たちの間に普及、RNAの研究に大きく役立っている。病気の原因となる遺伝子の発見阻害、あるいは直接ウイルスへ働きかける、といった薬品への応用研究が盛んとなり、大きく期待される。ウイルス感染症のみならず、薬物治療が難しいとされているガンや神経性疾患の効果的な治療薬が発明される可能性が出てきた。
一方、遺伝子に直接働きかけることによる思わぬ副作用も危惧されている。


アンチエイジング(不老不死)の実現  205回

 我々医療担当者にとって医療の究極の目的はと問われれば、私は歯科医師ですので当然「口腔諸器官の不老不死」と答えている。人類が不老不死を実現すればこの地球上は人人人で溢れ返り、火星への移住も現実味を帯びてくる。
 さて、2009年のノーベル生理学・医学賞は、ブラックバーン、グレイダー、ショスタクの3人が受賞している。テーマは「テロメアとテロメラーゼによる染色体保護の発見」である。
 「テロメア」は真核生物の染色体の末端部にあり、DNAとタンパク質から構成される構造物である。末端小粒と表記されることもある。発見されたのは1930年代のことで、DNAが遺伝物質であることが明らかにされるまでは、テロメア研究が主流となることはなかった。
 ブラックバーンが、テロメアが特定の塩基配列の繰り返しであることを発見したのは、1978年のことである。ブラックバーンのラボの学生である、グレイダーが1984年にテロメアを伸張させる逆転写酵素「テロメーゼ」を発見。単離することに成功した。ショスタクはブラックバーンとともに、テロメーゼが染色体を保護することを発見し、また、テロメアの機能の解明にも貢献している。彼らの研究成果や受賞研究対象は、近年の他の受賞対象研究と比べると、やや地味と思えるが、実は人類にとっての究極、いや、永遠の夢である「不老不死」への第一歩となる可能性がある研究である。
 テロメラーゼの活性を抑制することで、ガン細胞の細胞分裂を抑制できれば、ガン治療に大きな効果があると期待されている。一方、これとは逆にテロメラーゼの活性化による効果も期待されている。テロメアが短縮すると細胞が老化する、この状態の細胞は細胞周期が停止して、細胞分裂が起きなくなる。人工的にテロメラーゼを活性化させることができれば、テロメアが伸張し、細胞分裂の寿命が延びる。これを確実に制御できれば、老化の速度を遅らせることができる。
 前述のショスタクは、酵母菌の染色体に関する研究で、遺伝子操作や哺乳類の遺伝子地図の作成に貢献し、ヒトゲノム計画にも参加している。近年では、人工細胞の作成や人工生命に関する研究を進めており、今後の進展によっては、ノーベル生理学・医学賞において21世紀で最初の複数受賞者となる可能性もある。100年~200年程度のスパンの研究では、人間が千年も一万年も生存できたり、いや、永遠に「不老不死」となるのは無理だろう。数千年~数万年の長い長い年月が必要であろう。現実的にアンチエイジングの研究が進展し、元気で200歳まで生きられればなぁーというのが私の心境である。


「アベノミクスに明日はある」 206回

 昨年末の本会報でアベノミクスは経済学の巨人達のいいとこ取りした政策だと記述した。事実ケインズの金融緩和、財政出動、シュンペーターのイノベーション、そしてフリードマンの規制緩和と構造改革 これらすべてを達成出来ればデフレ脱却、経済再生そして世界の最優良経済大国になることうけあいである。
 ところがエコノミストと称する人達の中でアベノミクスではデフレ脱却、経済再生どころか国債暴落、ハイパーインフレとなり日本経済は破綻(デフォルト)に陥ると声高らかに主張する人達もいる。この稿では私なりに「アベノミクスに明日はあるのか」の検証を試みることにする。
 昨年の10月31日 日銀は更なる金融緩和を断行した。ちょうどハロウィンの時期に当たり「ハロウィン緩和」と呼ばれている。4月の消費増税はかなりGDPをおし下げており、更なる金融緩和をもう少し早くやっても良かったのではと思うが、規模は現在の需給ギャップを中期的にカバーするのにまずまずとの印象を持っている。直後に円安株高となった。しかし実は金融緩和の最大の効果は雇用の改善にあった。政権発足から2年余り安倍政権の経済運営により株価は倍以上になり、為替は70円→115円と円安になり雇用者数はこの1年間1000万人以上増え、一部の職種では人手不足が懸念されるほど売手市場になりつつある。
 以上を考慮すればアベノミクスは成功していると言えるが、多くのマスコミは余りに大胆な金融緩和は副作用(国債の暴落とハイパーインフレ)が起こると警鐘を鳴らしているが、アメリカでも日本でも副作用など出ていない。心配性もいいかげんにしてほしい。10月末に来日したノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授がかつて言っていたことだが、「火事の時、消火する為に水をかけたら家具が水にぬれると怒る様なものだ」と。更に金融緩和の「出口(いつやめるか)」を心配している様だ。確かに米国は量的緩和を6年もやって見事に経済を再生させつつある。日本では民主党政権下、大胆な量的緩和に踏み切れず、白川前日銀総裁に小出しに気持ち程度金融緩和をやらせた。アベノミクスは約2年前から大胆な金融緩和をはじめたばかりでありようやく中盤にさしかかろうとしている時期にもう「出口」戦略とはちと気が早すぎると言わざるをえない。果実はしっかり実らせて収穫するのが常道である。最近は反アベノミクスの著書や論考などが花盛りである。曰く景気回復の兆しはアベノミクス以前からあった、金融緩和は効果をあげていない、大企業が潤うだけで勤労者に恩恵はない、遠からず大破局がくる、更には“実証に欠け無理論の上に立つもの”「アベノミクス批判・伊藤光晴著」と罵倒したり「経済予測は基本的にあたらない。外れたことより外した理由が問題」(アベノミクスの終焉・服部茂幸著)これなどは実地経済を語る資質のない学者本である。経済運営とは「うまくいって何んぼ」「もうかって何んぼ」という現実を無視したたわごとだ。
 反アベノミクス論者の中で「野口悠紀雄」の日本経済は大胆に構造改革なくして再生はありえない例えば製造業に頼ってはダメだと、日本人はもっともっと頭を使い新しい分野を開拓すべきである。例えば東京を世界の金融センターにする等、そして外国の有能な人材が日本で活躍出来る様にしなくては日本再生などありえないと。日本は経済構造を抜本から見直し改革する必要があると論破している。私は傾聴に値すると思っている。
 さてアベノミクスの最大の課題といわれている第3の矢 つまり成長戦略であるが、まず第一に2020年の東京オリンピック招致に伴う経済の活性化は大いに期待出来る。その上昨年6月に政府は「日本再興戦略」を以下の様に閣議決定した。
  ①法人税減税(実効税率を20%台に)
  ②雇用制度改革(労働時間の見直し、女性の就労支援、外国人活用)
  ③医療制度改革(混合診療の拡大)
  ④農業改革
  ⑤公的資金見直し
  ⑥国家戦略特区(いわゆる岩盤規制の打破)
 私は以上以外にも考えられる施策はすべて試みる必要があると考えている。なぜなら何がヒットし日本経済の再生につながるか不確定な現状では、なりふりかまわず試みる必要がある。今、今日、この時が日本経済再生のチャンスだ。もう一歩前進すれば国民の間に好況感が広がりお金をもっと使おうという気持ちになり、景気の好循環に入ることが出来る。
 最後に私がこんなことを言うのは、本当におこがましいが安倍首相は直近の元首相たちと違ってある程度実地経済学を理解している、これは我々国民にとって大変幸せなことである。そして「アベノミクス」に明るい未来はある、失敗を恐れず考えられるすべての施策を実行すべきである。
本稿の執筆は2014年11月10日であり2015年1月29日の例会日には私の主張など陳腐なものとなり、国内に好況感が広がっていることを期待している。


「自動車の近未来」  207回 

 2014年12月水素で走る燃料電池車(FCV)をトヨタ自動車が世界に先駆け発売し、ホンダも2015年度に続く。トヨタが開発に着手してから四半世紀。「究極のエコカー」は普及に向けた課題を乗り越え、水素社会の先駆者となりつつある。
燃料電池車は燃料の水素と空気中の酸素を反応させて電気を起こし、モーターを回して走る。FCV(Fuel Cell Vehicle)と呼ばれる。走行中排ガスは出さず、水しか出さない、約3分で水素を満タンにでき、約650キロを走ることが出来る。
エコカーとして一歩先行していた電気(EV)自動車は家庭用電源からの充電には8~16時間を要し、ガソリンスタンドに設置されたスーパーチャージャーと呼ばれている急速充電でも30分程度時間が必要だ。走行距離の問題点もパナソニックの技術改良により500~600㎞1回の充電で可能となって来つつあるが、公用車とかゴルフ場のカート等に限定して使用される程度だろう。
今後の近未来の車は間違いなく燃料電池(FCV)が主流となる。
すでに2002年12月にはトヨタとホンダは燃料電池車の限定リース販売に踏み切っていた。今回FCV車が今後世界の主流となる理由の一つに水素を燃料として使うところにある。実は水素は石油を精製する際に水素は自然発生するので、新たなコストをかけることなく企業は取り出すことが出来る。つまり石油元売り企業にとって、石油も水素も決して競合する燃料ではない。すべてのガソリンスタンドは水素の提供拠点となることができる。
今現在は、元売り最大手であるJX日鉱日石エネルギーは電気(EV)自動車に電気を供給する為の電気スタンドを国内4,000カ所に設置を発表しているが、実はこれは国の施策に協力する姿勢を見せているにすぎない。石油元売り企業からすれば、電気を売るより水素を売ったほうが利益になるため、将来的には国の施策に一定のポーズをとっているが大本命の水素スタンドを全国的に広めていこうと言う戦略だろう。
燃料電池の技術は日本がダントツに優れている。今後燃料電池車がアメリカ市場で本格的に普及することになれば、その技術を持つ日本は非常に優位に立つ可能性が高まる(例えばハイブリッド車の様に)。
ともかくこれからも日本の自動車産業が世界を牽引していくだろう。
くり返すが、石油の精製過程で生じる水素、あるいは製鉄の過程で生じる水素を用いれば、日本を例にとると500万台の燃料電池車へのエネルギー供給をまかなえるといわれている。その為原油や天然ガスの価格の下落が進む中で、今まで有効利用する術がなく、廃棄処分されていた水素が、エネルギー会社が新たな利益源を水素に求めようとするのは、自然の流れである。石油メジャーや元売りもそれこそ業界を挙げて燃料電池車を応援することだろう。2020年頃には300万円位の燃料電池車が供給可能となり汎用車の1~2割は燃料電池車になる可能性すら出て来た。
しかし今後に多くの課題もある。水素ステーションの設備投資には5億~6億円とガソリンスタンドの数倍かかるため、いかに水素ステーションの事業性を確保するかが焦点となる。又現在のガソリン車を前提とした地下駐車場などのインフラ等についてもFCVを想定した防災・火災対策などの検証が必要となる。
トヨタ・ホンダによる量産型FCVは今、まさに元年を迎えた段階ではあるが、水素を使った燃料電池車は日本が世界をリードする技術であり、まさに車のイノベーション(革新)と言って良い。アベノミクスの第3の矢になることが期待される。この燃料電池の技術は自動車以外にも幅広く応用・転用されれば新たな産業創出の可能性も高まる。FCV元年は、日本の産業全体にとって新たな出発点となることを期待しようではないか(最大の効能は水素による大量の電力供給につきる)。


「自動車の近未来」  208回

 2014年12月水素で走る燃料電池車(FCV)をトヨタ自動車が世界に先駆け発売し、ホンダも2015年度に続く。トヨタが開発に着手してから四半世紀。「究極のエコカー」は普及に向けた課題を乗り越え、水素社会の先駆者となりつつある。
燃料電池車は燃料の水素と空気中の酸素を反応させて電気を起こし、モーターを回して走る。FCV(Fuel Cell Vehicle)と呼ばれる。走行中排ガスは出さず、水しか出さない、約3分で水素を満タンにでき、約650キロを走ることが出来る。
エコカーとして一歩先行していた電気(EV)自動車は家庭用電源からの充電には8~16時間を要し、ガソリンスタンドに設置されたスーパーチャージャーと呼ばれている急速充電でも30分程度時間が必要だ。走行距離の問題点もパナソニックの技術改良により500~600㎞1回の充電で可能となって来つつあるが、公用車とかゴルフ場のカート等に限定して使用される程度だろう。
今後の近未来の車は間違いなく燃料電池(FCV)が主流となる。
すでに2002年12月にはトヨタとホンダは燃料電池車の限定リース販売に踏み切っていた。今回FCV車が今後世界の主流となる理由の一つに水素を燃料として使うところにある。実は水素は石油を精製する際に水素は自然発生するので、新たなコストをかけることなく企業は取り出すことが出来る。つまり石油元売り企業にとって、石油も水素も決して競合する燃料ではない。すべてのガソリンスタンドは水素の提供拠点となることができる。
今現在は、元売り最大手であるJX日鉱日石エネルギーは電気(EV)自動車に電気を供給する為の電気スタンドを国内4,000カ所に設置を発表しているが、実はこれは国の施策に協力する姿勢を見せているにすぎない。石油元売り企業からすれば、電気を売るより水素を売ったほうが利益になるため、将来的には国の施策に一定のポーズをとっているが大本命の水素スタンドを全国的に広めていこうと言う戦略だろう。
燃料電池の技術は日本がダントツに優れている。今後燃料電池車がアメリカ市場で本格的に普及することになれば、その技術を持つ日本は非常に優位に立つ可能性が高まる(例えばハイブリッド車の様に)。
ともかくこれからも日本の自動車産業が世界を牽引していくだろう。
くり返すが、石油の精製過程で生じる水素、あるいは製鉄の過程で生じる水素を用いれば、日本を例にとると500万台の燃料電池車へのエネルギー供給をまかなえるといわれている。その為原油や天然ガスの価格の下落が進む中で、今まで有効利用する術がなく、廃棄処分されていた水素が、エネルギー会社が新たな利益源を水素に求めようとするのは、自然の流れである。石油メジャーや元売りもそれこそ業界を挙げて燃料電池車を応援することだろう。2020年頃には300万円位の燃料電池車が供給可能となり汎用車の1~2割は燃料電池車になる可能性すら出て来た。
しかし今後に多くの課題もある。水素ステーションの設備投資には5億~6億円とガソリンスタンドの数倍かかるため、いかに水素ステーションの事業性を確保するかが焦点となる。又現在のガソリン車を前提とした地下駐車場などのインフラ等についてもFCVを想定した防災・火災対策などの検証が必要となる。
トヨタ・ホンダによる量産型FCVは今、まさに元年を迎えた段階ではあるが、水素を使った燃料電池車は日本が世界をリードする技術であり、まさに車のイノベーション(革新)と言って良い。アベノミクスの第3の矢になることが期待される。この燃料電池の技術は自動車以外にも幅広く応用・転用されれば新たな産業創出の可能性も高まる。FCV元年は、日本の産業全体にとって新たな出発点となることを期待しようではないか(最大の効能は水素による大量の電力供給につきる)。


明治のガンコ者「夏目漱石」  209回 

 明治以降、最高の国民作家の呼び声高い「夏目漱石」、現代でも売れに売れている文庫本の王者、小学生から老人まで巾広い読者層を持つ大衆人気作家、権威におもねない反骨作家、「紫式部」と比肩しうる日本文学史上に燦然と輝く二大文豪の一人、以上が「漱石」を表現するのにふさわしい言葉と考えている。
 ただ作家活動は10年余りと短く作品数は少なく、執筆活動のジャンルも広くなく、わが郷土の文豪「泉鏡花」そして早逝の天才「三島由紀夫」等には劣る点は少なからずあるが、漱石の作品すべてが珠玉の名作と言える駄作はほとんどない。この稿では「反骨作家」という面に焦点を当てることにする。
 イギリス留学から帰国した漱石は、東大や旧制第1高等学校で英文学の教鞭をとっていたが内心は教師がいやでいやでまさに不承不承状態、自身と家族の生活の為だけでつとめていた(二年間の国費留学の代償として倍の最低4年間は国家機関で働く義務があった)。
 本心は執筆活動に専念、更には心血を注ぎたいとの思いが噴火寸前の火山のマグマの様なフラストレーションがたまりにたまっていた。
 英語を知り、又二年間イギリスに滞在した経験から「漱石」には当時の日本人にとって英語はさほど重要ではない、それこそ海外貿易したり、外交官や海外特派員なら必要であるが、一般国民にとって英語の英の字ほども英語はまったく必要ではないと深く認識していた。大して重要でない英語を学生にあえて教える苦痛にじっと耐えていた。
 そんな状況の中、東大英文学教授への就任の内示があった。しかし漱石は全然うれしくないどころか、吾輩は猫の主人公にでも食わせてやりたい心境だった。
ところがその時幸運にも「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などで作家として文名が上がっていた漱石のもとに、1907年春に東京朝日新聞主筆の池田三郎が訪ねて来て、小説記者として入社の正式な要請があった。条件は年に一度、百回程度の小説を新聞紙上に掲載すること、その上年棒は東大教授の約二倍と高額で東大教授の肩書など「へ」でもないと日頃思っていた漱石は家族も多く物いりで、この条件なら安心して思う存分執筆出来ると小躍りしたい気分だった。
その上池田の「先生を英語の教師にしておくのはもったいない、才能の持ちぐされです」とのくどき文句にぽーんと胸をたたいて快諾した。
ちなみに東大英文学の前任教授はあの有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であった。文部省の経費削減方針から、外国人教師の特別給与が余りに高額な為、半額で漱石に白羽の矢が当たったが漱石は“東大教授なんて「へ」みたいなもんよ”と一蹴してしまった。
1907年5月3日、朝日新聞紙上に漱石の「入社の辞」が掲載された。一部抜粋が以下である。
余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。かく申す本人すらその点について驚いている。然しながら大学のような栄誉ある位置を拠って新聞屋になったから驚くと言うならばやめて貰いたい。新聞屋が商売なら、大学屋も商売である。商売でなければ教授や博士になりたがる必要はなかろう。新聞が商売であるが如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差だけである。

以上が権威に一切おもねない、反骨作家「漱石」の面目躍如たる文章である。
 当時の新聞社はヤクザの様になわばり意識が強く、関西から進出して来た、いつつぶれてもおかしくない新参者の新聞社に何んのためらいもなく飛び込んで行った勇気と反骨精神につくづく感心させられる。漱石は以下の様に吼えたのではないだろうか。「オイラにゃ東大教授なんて柄じゃねえ、このオツムと右手のペンさえありゃ、いっちょう勝負してやらあなあー」と。すでに執筆(作家)活動で食べていける相当な自信があった。漱石の朝日新聞での第1作目は名作として名高い「虞美人草」であった。その後「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」と次々と連載した。
 1906年44歳の時、又又ガンコ者「漱石」を証明する出来事があった。文部省から「博士号」を授与するとお達しが出ると、所管の文部省学務局長宛に辞退の旨手紙を出した。以下一部抜粋である。
右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然るところ小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。・・・・・

上記の通知のあと、局長が直々、漱石の家にやって来て直談判した。しかし漱石は一貫して授与を拒否し、話し合いは物別れに終わった。
その後学位記は送られて来た、その返送の際の手紙に「学位がほしくないと言っている者に、本人の意思に逆らって送って来ても、受け取る義務はない」と又「今の博士制度は功少なく弊害の方が多いと考えている一人であるとはっきり言わせてもうらう」とケンカ腰である。相当な自信である、そして文部官僚は切歯扼腕したのではないだろうか?一般的に言って当時の博士号は非常に数が少なく、しかも文部省よりの授与の為とても権威があって邪魔になるものではない、それで損することもない、むしろ人の尊敬をうけるのに都合が良い、又プライドを保つうえでも役立つ、ところが逆に漱石はそんな俗っぽいものを自慢したり喜んだりする卑小な精神をきらったのだろう。作家は作品がすべてであり、誇るものは自身の作品だけでよいと考えていたのであろう。漱石が「反骨作家」と称されるゆえんである。
 最後に「漱石」はイギリスでの二年間の留学生活は人生最悪の日々だったと述懐している。私は以下の様に理解している。漱石は元来うつ病気質があったところへ西洋(イギリス)の文明(文化)と漱石が愛してやまない江戸文明(文化)が衝突し漱石の方がチリチリ・バラバラに砕け散ったというのが実情だろう。
 ガンコ者「漱石」らしく西洋文明と一切妥協出来ずロンドンの下宿にとじこもり、もんもんとし、ひたすら英文学書を読みあさった日々だったろう。しかし帰国後、日本文学史上大変な偉業を成しとげた、それは史上初となる言文一致(現代文)で「吾輩は猫である」を書き上げたことである。ガンコ者「漱石」よくぞやりとげた。


「日本における表現の自由度」 210回

 今月1月7日フランス・パリでたびたびイスラム教の風刺画を掲載した風刺週刊誌シャルリ・エブドの本社がイスラム過激派の二人のアルジェリア移民二世の若者に襲撃され社員12人が射殺され多数の負傷者を出し、同時に関連した立てこもり事件が発生し、これらのテロ事件で合計17名の生命が奪われ世界中に衝撃を与えた。
 1月11日には連続銃撃テロ事件の犠牲者を追悼し、テロを非難する大行進が約50ケ国の首脳級が先頭に立って行われた。フランス各地での参加者は370万人に達し、1944年8月のナチス・ドイツからのパリ解放以来、最大規模の市民行動となった。「表現の自由」を断固死守し、テロへは結束して対抗し、テロ撲滅の姿勢を世界中にアピールした。
 イスラム文明とキリスト文明衝突、そしてイスラム諸国と欧米諸国との価値観の相違(特に表現の自由に関して)を鮮明にした出来ごとだったと言える。
 さて日本では昨年12月5日に産経新聞社は、同紙に掲載したユダヤ人に批判的な内容をめぐり、米国のユダヤ系団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」から抗議文を受け取ったことを明らかにした。同社の熊坂社長は「広告審議手続きに欠陥があった」「こうした内容の広告が、読者の手元に届けられてしまったことは極めて遺憾であり、読者とユダヤコミュニティの皆様に深くおわびします」と謝罪した。
 問題となったのは11月26日付朝刊の東海・北陸版(約5千部)に掲載されたネットジャーナリスト リチャード・コシミズの著書を「ユダヤ独裁国家アメリカの謀略を暴く!!」と表現し、3冊の著書を紹介した広告であった。
「ユダヤ人はアメリカを番犬にして世界の世論を弾圧する」などの記載もあった。
 抗議文は12月4日付でユダヤの同団体のエイブラハム・クーパー副所長名で「これらの本はユダヤ人に対する危険極まりない虚言の流布」との内容だった。
 熊坂社長は次の様にコメントとしている。「産経新聞社はナチスドイツによりホロコーストを許しがたい犯罪ととらえており、講義を真摯に受け止め、誠実に対応したい」としている。
 私はこの新聞報道に思わず「えーそして絶句・・・・・した」「何なんだこれ!!」リチャード・コシミズの本の記載で「ユダヤ人はアメリカを番犬にして世界の世論を弾圧する」この記載はまったく事実であり真実である。多少でもイスラエルにとって不都合な真実の記載、ホロコーストへのささいな疑問、更にはナチスのわずかばかりの善行報道に対して米国のユダヤ系のイスラエル支援団体を代弁者にして日本のイスラエル大使館は敏感に瞬時にヒステリックに反応し抗議して来るのが常である。在日イスラエル大使館業務の大きな目的の1つは日本で反イスラエル・反ユダヤの報道(表現)がなされていないかのチェックである。そして国レベルで抗議する対象にならないケースをアメリカのユダヤ系の支援団体を利用するのである。そして日本のマスコミや出版社が従わない時にはアメリカの巨大企業からの広告を一切とりやめると脅しをかけ、からめて手で従わせるのが常套手段である。お見事と感服させられる。それにしても日本の数あるマスコミの中で少しは骨のある、しこしのある(山梨弁で根性のあると言う意味)新聞社だと認識していた、日頃の中国・韓国に対して正論を堂々と主張した卓越した見識は霧散し、国内外の権力やスポンサーにおもねるごく普通の報道機関になり下がってしまったのが残念でならない。
 1月12日(月)パリのシャルリ・エブドはテロに抗議して再度ムハンマドの風刺画を掲載した週刊誌(各国語に翻訳され通常の10倍の部数)を「表現の自由」を前面に押し出し出版した。
 しかしフランス国内の世論は「表現の自由」と「宗教への尊厳」の対比については賛否両論半々と言った状態である。一方フランス大統領は「表現の自由」は国是であると言明し、命を賭して守り抜く覚悟を国内外にアピールした。
 一方日本のマスコミや出版社は、広告主から広告を取り下げるとの恫喝に表現の自由を金の為にスタコラサッサと放棄する、すなわち言論封殺に易々と応じているのが現実で言語道断と言わざるをえない、ある晩、以上のことを妻に問いかけると?
妻曰く“皆さん会社が大切なのよ、家族を路頭に迷わすのが恐いのよ、あたりまえよ”との私の心にグサッと刺さる返答に思わずコップ酒をぐっとあおった。
そして心の中でそっとつぶやいた。
「日本国憲法第二章第二十三条、集会、結社及び言論・出版その他一切の表現の自由、これを保障する。検閲はこれをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」
日本において「表現の自由」の自己規制は存在する様だ。そしてフランスには命を賭してまで守り抜く「表現の自由」は存在する。


良書探訪「ヒロシマ・モナムール」マグリット・デュラス著 211回
 
本書は1958年「ヒロシマ」をメインテーマにした日仏合作映画の為にマグリット・デュラス女史がまったく新たに書きおろしたシナリオ本である。
鬼才アラン・レネが「ヒロシマ・モナムール」邦題「二十四時間の情事」と言うタイトルで1958年に監督完成し、1959年6月日仏同時公開された。
フランス人女優エマニュエル・リヴァと日本人男優岡田英次(故人)が主演をつとめ、好演している。デュラスの生誕100年を記念して44年ぶりに新訳で2014年10月に再出版された。一般論として、アウシュヴィッツとヒロシマと言う二つの名に共通するのは20世紀に人道に対する暴虐が行われたことだ。
前者は秘密裏に後者は正々堂々と、そして前者はその罪が断罪され後者はその罪を問うどころか、むしろ平和(戦争の早期終結)に貢献したと賞賛されもした。我々日本人にとってはヤラレ損と言う言葉がぴたり当てはまる敗戦だった。
第二次世界大戦での戦勝国のメンバーであったフランス市民は戦後10年近く経過した時点でようやく事実を把握した。
「ヒロシマ」「ナガサキ」への原爆投下により一瞬にして数十万人の日本の一般市民の死傷が出た惨状を知ることとなり、アメリカ軍による「ヒロシマ」「ナガサキ」への原爆投下はナチのアウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺と何んら変わりない行為に唖然とし驚愕し、その余りのおぞましい人道への罪ゆえに、二度と再び原爆投下と言う人間がやってはならない行為である、そして世界中にアピールする必然性を「男女の愛の物語」に包含させ、スクリーンを通して訴えたかったのだろう。
原作者デュラスと監督レネの二人の平和への強い強い思いが感じられる。このシナリオ本は人間の尊厳を問うたものである。1958年初頭、レネはヒロシマの原爆投下についての日仏合作映画をつくらないかとの誘いを受ける(日本側は大映、フランス側はアルゴス・フィルム)。
シナリオの原作者候補にフランソワーズ・サガン、シモーヌ・ド・ボーボワール等の超有名作家の名も挙げられた後に、デュラスに決定し、レネとの会見が実現し「原爆映画」ではなく「恋愛もの」であり、主人公二人は破局の承認=目撃者にすぎない、この方針で商者は意気投合し、レネはデュラスに「好きなだけ文学」をやってほしい、カメラワークのことは忘れる様にと念を押した。脚本執筆の猶予はわずか9週間しかなく、残された最後の7週間は毎日の様にレネとデュラスは話し合いを重ねた。そしてデュラスによる物語は始まった。
このシナリオと映画を通して二人が本当に訴えたことは、フランス人の女と日本人の男がわずか1日余りの恋愛ではなく、世界中に原爆投下後の数年余りの間その甚大な被害と恐るべき威力にアメリカとその同盟国フランス等の政府は一般市民に事実の隠蔽に努めたが、核兵器製造を進言したアインシュタイン等の科学者からの平和アピールにより一挙に世界中に原爆投下とその実体が白日の下にさらされ、原水爆(核兵器)反対運動が盛り上がりを見せ、その一連の動きの中でのデュラスとレネの行動ではなかったろうか。
以下は主人公二人がヒロシマのホテルの一室で交わす象徴的なセリフである。
  男 ― きみはヒロシマで何も見なかった。何も。
  女 ― わたしはすべてを見た。すべてを。
私は男女二人のセリフを以下の様に理解している。“フランス人である君は原爆投下から10数年たったヒロシマで原爆記念館などで原爆投下による被害の実体を知ろうともそれは真実ではない、ほとんど何も知らない、何も見なかったに等しいことだ”

つまり男の思いは、
“原爆投下後のヒロシマは地獄だった、一瞬にして数万人の市民が死亡し、数万人の市民が苦しみもがく負傷者となった。焼け野原となり、黒い雨をすすって生き延びた、そしてある一定量被爆した市民には必ず訪れる死が待っていた(瞬時に800ラド以上全身に放射線を被びた人間は100%
死亡)。これが勝利の為とは言え人間のする所作なのか?“と。
デュラスとレネ二人の思いと平和へのメッセージは十分伝わってくる。

マルグリット・デュラス Marguerite Duras(1914~1996)
 仏領インドシナのサイゴン近郊に生まれる。1931年17歳でフランスに帰国。パリ大学で法学を学ぶ。ドイツ占領下の43年、初の小説『あつかましき人々』を発表。このころレジスタンス運動に加わる。その後、50年『太平洋の防波堤』、58年『モデラート・カンタービレ』、64年『ロル・V・シュタインの歓喜』、69年『破壊しに、と彼女は言う』など、話題作を次つぎと発表する。84年『愛人ラマン』がベストセラーとなり、ゴンクール賞を受賞。シナリオや戯曲、みずから監督した映画作品も数多い。河出書房新社 1,800円