卯辰山のいしぶみ(碑)
秋声は1871(明治4)年、金沢に生まれ、1894(明治27)年尾崎紅葉の門下生となりました。
明治・大正の代表的作家。1982(昭和57)年秋声の骨を分骨、建立した墓碑には、井上靖揮亳で「徳田秋声墓碑」と刻まれている。また、墓碑を囲む白い土塀に同じく井上靖の筆による「冷厳なる自己凝視と澄明な客観描写をまん中に据えた典型的な庶民文学」と絶賛する副碑がはめ込まれている。
歌人・文学者、金沢市横安江町に生れる。東京に出て窪田空穂前田夕暮・若山牧水らと交わる。宮中歌会始めの選者も務めるなど、日本歌壇の最高峰に立つ。
歌碑は、浅野川天神橋上流に架かる常盤橋詰の料亭「ごりや」の前庭にある。1966(昭和41)年建立の碑には「あさあさと流るる水の瀬のとやなわがきみのみ心にあわれなきや浅野川
篤二郎」
と刻まれ、裏面は篤二郎の略歴が記されている。
ごりやの主人で親交の深かった川畑与蔵の建立である。
足袋商・俳人。本名、朝見次六、金沢生まれ。明治の初め藩札引換所に勤め、後ね足袋商を営む。
槐庵五世大常の孫に当たり、1882(明治15)年槐庵八世菅谷真澄の後を継ぎ九世となる。了願寺の前庭左手に「隠るるに
草はみじかし 初蛙
槐庵九世大素」と刻まれた大素の句碑がある。左側面には、「明治30年3月
朝見素全建立」と建立者を刻んでいる。島林甫立の書。
彫刻家、金沢市玄蕃町生まれ。1928(昭和3)年東京美術学校・彫刻科本科卒業、日展会員・審査員・評議員を歴任、昭和44年金沢美術大学を定年退職し名誉教授となる。
幸成が作成した金沢市内の主な記念碑として、殉難乙女の像(卯辰山)・自由と正義の像(中央公園)・鈴木大拙先生の碑(本多町)・浄(武蔵ケ辻)などがある。
天神橋を渡って卯辰山への坂(記念新道)を上がりはじめると、すぐ帰厚坂への分かれ道にでる。ここ自宅の前に、幸成の最終作「潮の響き」の像が、昭和56年、妻邦子によって建てられた。
哲学者、石川県河北郡宇ノ気町の生まれ。明治27年東京大学哲学科終了後、西洋近代哲学を研究。同33年(1900)三々塾を作り、四高生を指導、かたわら禅道の修行にも励んだ。
「禅の研究」などの哲学書を著し、昭和16年文化勲章受賞。ここは西田幾太郎が参禅のため約9年間かよった、国泰寺住職雪門禅師の草庵「洗心庵」の跡である。
記念新道をたどって行くと最初のカーブ左手に、「西田幾太郎先生旧跡」と記された石標が建てられている。天野定祐の書。
小説家、本名は泉 鏡太郎、金沢生まれ。
明治23年上京し、24年尾崎紅葉の門に入る。同29年の「照葉狂言」でその本領を発揮するに至った。鏡花の作品は、抑圧された庶民、ことに女性への同情を主題にしていたといえる。記念新道を上がると洗心庵跡の一段上のカーブに、1947(昭和22)年泉鏡花顕彰会建立の碑が建っている。
碑面上部に「鏡花先生の碑」下部には「はゝこひし
夕山桜 峰の松 鏡花」の句が刻まれ、裏面には略歴などが刻まれる。
そして、文字もはっきりとはしないが「比翼塚」と製作年と思われる「文政十二己丑・・・・・・」とを刻んだ古い自然石が、鏡花句碑のすぐ横にさりげなく置いてあつた。
心中した者を憐れんで作られたのを、誰かが運んできて置いたらしい。何となく鏡花の風情にふさわしく感じられた。
その石も何処かに運ばれ、その跡に現在は比翼塚と刻んだ新しい石が置かれている。
医師・俳人。本名藤沢基行、金沢市生まれ、明治32年叔母の綱村家の養子となるる1927(昭和2)年歌誌「閑古鳥」に入会、同21年「新雪」を創刊、その主宰となる。花菖蒲園の右、卯辰三社への登り口の左手に、昭和41年古希を祝って綱村流水歌碑建立建設委員会によって建てられた歌碑がある。表には「冬潮ははひたぶるよせて川口の洲をつくときに白く波あぐ」と刻み、裏面には流水の略歴が刻まれています。
精忠報国の碑 荒尾富三郎 (あらおとみさぶろう) 1868−1905
軍人、金沢生まれ、明治20年海軍兵学校を首席で卒業、日清、日露戦争中は海軍の中枢で活躍した。1905(明治38)年日本海会戦のとき、不幸にも過労で急死した荒尾富三郎を偲んで碑が建てられた。
題字は、連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥、碑文は第三艦隊司令長官片岡中将の撰である。精忠報国の碑は卯辰三社へ登千杵坂の段の途中、右手に3m余りの大きな碑が石組の上にある。
加賀藩士、本名安達寛栗、金沢生まれ。藩命により江戸に出て、西洋兵学を村田蔵六(後、大村益二郎と改名)に学び、明治維新には益二郎と共に徴兵令・廃刀令・海軍兵学校新設などの立案に参画した。
明治2年京都の宿で刺客に襲われ益二郎と共に倒れた。墓は野田山墓地にある。豊国神社参道の千杵坂から三の坂を登ると右側に「勤皇家安達幸之助君之碑」と刻んだ石柱を前に、1872(明治5)年、勝
海舟の撰文による賛辞を刻んだ御影石の碑があるが、現在は風化が進み判読不可能である。
道路沿いには略歴を記したブロンズ板がはめ込まれた横長の自然石が置いてある。
昭和12年4月、卯辰山官祭招魂社委員会によって建立。1868(明治元)年、越後奥羽の乱(戊辰戦争)のとき戦死した加賀藩出身者103名を祭ったもので、同10年、西南の役の戦死者をあわせ祭り、その後、日清戦争・日露戦争の戦死者など、金沢に師団司令部のあった第九師団関係の戦没者をあわせて祭った。
1935(昭和10)年社殿を出羽町に移し、同14年には石川護国神社と改称している。招魂社跡地には、明治3年建立の招魂社建設記念碑(金沢藩文学教師金子惺撰文・佐藤衛の書)や、ここにを永らく後の人々に伝えようとして有志によって昭和12年に建てられた記念碑の他にもいくつかの記念碑などが建っている。
1868(慶応4)年、越後の幕府軍追討の戦いで、加賀藩から7600人余を出兵し、長岡藩との戦いに参加、戦は200日余にわたり、加賀藩の戦死者も103名に達した。
1870(明治3)年、藩知事・前田慶寧は碑を建て(現在は不明)、戦死者の名を刻んだ碑を造って霊を祭って、招魂社のもとをつくつた。八墓の墓(慰霊碑)は跡地右奥、玉垣に囲まれて並んでいる。
加賀藩士、通称徳三郎、金沢生まれ。1868(明治元)年、北越戦争で一部隊長として活躍し、6月戦死。
1920(大正9)年、従五位を追贈された。1935(昭和10)年遺族らによってこの碑が建てられた。招魂社跡から玉兎ケ丘への出口近くに、鉄平石の大きなこの碑がある。
卯辰神社社殿の左手前藪の中に「業平の井筒」が置かれている。もと京都の在原神社にあった井戸の湧く石だったが、粟ケ崎の木谷氏の手に移ったものを、ここに奉納したといわれる。
製箔業、金沢生まれ。16歳から製箔を学び、のち自分で工場を設けた。電動式の製箔機を発明し、現在の金沢箔の基礎を築いた。記念新道から観音院への分かれ道のカーブ右側にこの碑がある。
1938(昭和13)年翁の古希を記念して建立された碑の上部には、もと銅像があつたが太平洋戦争中供出された。現在は顕彰の辞を記した石板をはめ込んだ碑になっている。
津田米次郎翁発明顕彰碑と像(つだよねじろう) 1862−1915
織機製造、金沢生まれ。1880(明治13)年木綿力織機を案出した。わが国の動力織機の草分である。
のち、津田式絹力織機の完成をみた。豊田佐吉の綿自動力織機とほぼ同時代である。さらに工夫を凝らし絹織物業界の急速な発展に寄与した。
紅葉谷から飛鴬台へ登る段の右側に、大正6年建立の津田米次郎翁の銅像が高い台座の上に立っている。その右側に大正6年と昭和34年の顕彰碑が並んでいる。銅像は太平洋戦争末期の金属供出をまぬがれた珍しいものである。
碑の中央に「日本中国友誼団結」と刻まれ、左下に建立の趣旨などを記したブロンズ板がはめ込まれている。
1969(昭和44)年、日中友好協会・日本国際貿易促進協会石川県支部によって建てられた。裏面には1965年4月日中友好協会などが中国訪問の際、郭沫若から託された七言絶句が記されている。
溟 渤 常 教 一 葦 航 |
誰 期 兄 弟 鬩 於 墻 |
而 今 凱 光 流 天 壌 |
共 掃 妖 氣 浄 八 荒 |
科学者、金沢生まれ。1870(明治3)年フランスへ留学し工学を修める。留学中から、マッチの製法を研究していたが、製造法の改良に苦心の末、輸入を削減し輸出するまでになった。この碑は津田米次郎翁銅像の上、飛鴬台上にある。昭和39年9月清水誠顕彰会の建立で、碑面には「清水誠先生顕彰碑」と刻み、碑裏には略歴・建立者(顕彰会)などが刻まれている。題字は畠山一清の書である。
畜産業、子供の頃から畜産を志し、1913(大正2)年、常設家畜市場を設立し石川県畜産業の基盤を確立、業界の発展に努めた。1958(昭和33)年金沢区食肉商業共同組合など、石川県下の畜産関係有志によって建てられた。題字は当時の衆議院議長・益谷秀次の書、碑文は富山大学学長・梅原真隆作。
僧侶、1471(文明3)年、吉崎に御坊を造営し、越前・加賀に一向宗を広めている。覚林寺の境内に入るとすぐ右手の簡素なお堂(蓮如堂)の中に蓮如の像が安置されている。寺宝の向正運作 蓮如上人木像の模作である。
政治家・教育者。戦後、私立学校に勤めるかたわら若者を集め国際政治や経済について語り合う会をもち啓蒙された。これが三愛塾である。 以来、金力、権力に屈することなく、社会啓蒙に尽くした。顕彰碑は菊と太陽を現したユニークな形のものである。
戦前戦後の政治運動・農民運動・文化運動など革新的な社会運動の中で志なかばで死去された石川県ゆかりの戦士を顕彰する。横長の自然石にブロンズの銘板をはめ込んだもので、石川県解放運動無名戦士顕彰会が昭和48年に建立。
12歳で出家、1253(建長5)年、清澄山で日蓮宗を開く。苦難の道を歩み続け、弘安5年入滅。
日露戦争の時、金沢市内の日蓮宗の信者がここで毎日戦勝祈願をしたが、これを記念して1918(大正7)年、米沢喜六など十数人の人々が発起人となり建立。工事には信者をはじめ、近くの学校からは小学生まで奉仕したといわれる。題字「立正安国」は村雲日栄(尼門跡瑞龍寺第十世・伏見宮家王女)・「識法華者可得世法」は東郷平八郎元帥の書である。
鍼灸師・教育者、3歳で両眼を失う。1871(明治4)年金沢藩医久保三柳に師事し鍼術・按摩を学ぶ。視覚障害者の社会的基盤の確立に尽くした。没後25周年を記念して1937(昭和12)年、鍼灸按マッサージ組合によって建てられたもので、碑面には「故奥村三策頌徳碑」、裏面に賛辞を刻む。碑の右側に碑建立50年を記念して昭和62年金沢鍼灸マッサージ師会が建てたこの碑のいわれ書がある。
機業、喜多一二。1928(昭和3)年、高松に川柳会をつくり文芸運動から階級運動に移り、この頃ナップ(日本プロレタリア文芸連盟)高松支部をつくっている。昭和5年金沢歩兵第7連隊へ入隊、反戦活動を始める。36歳で獄死。「暁を抱いて闇にいる蕾」と自然石に刻まれた、1965(昭和40)年、鶴彬顕彰会建立の川柳句碑である。
俳人、会社役員、本名は西村省吾。昭和23年「北国俳壇」が創刊され選者になる。同27年「風」に同人として参加。同31年5月現代俳句協会会員に選任される。「雑像」などの句集を出している。昭和39年公鳳句碑建設委員会が建てた「綻ぶや雪百日の傷桜」と自筆の句を刻んだ自然石の碑がある。
1580(天正年間)年頃、越前朝倉氏が没落した時、家臣彫り左近正之は織田軍に捕われた。この時母の祈りのためか庚申の夜、数匹の猿が獄を破り、左近を助け出した。後、左近は出家し、猿(申)を本尊とする「庚申堂」を建てたといわれている。1867(慶応3)年の開拓のとき切り拓いたので、現在は面影もない。もと庚申堂のあったといわれる辺りには今は、幅1m余りの自然石に庚・申・塚と一字づつ記した陶板をはめ込んで置いてある。
1989(明治22)年以降、治安の維持・災害の救助など警察活動の中、殉職された方々を祭った慰霊碑である。
玉兎ケ丘の奥にある。三段の台上に造られた横長の大きな石碑。昭和年月警察協会石川支部によって建てられた。毎年秋に慰霊祭を挙行している。
1906(明治39)年以来の石川県下殉難消防団員を祭った慰霊碑である。
卯辰山運動場の上、小高い扇ケ丘に、六角の台上に加賀消防の「まとい」を形どって作られた碑が建てられている。1935(10)年石川県消防協会によって建てられた。
由比勘兵衛光清は、3代藩主前田利常の家臣で後藤又兵衛・塙団右衛門と並び称せられた豪傑で槍の名人であつた。「金沢城の見えるところに葬ってほしい」との遺言で、1626(寛永3)年、この当たりに墓を建てたといわれる。 「由比勘兵衛之塚 」と記した石碑と由緒を書いた金沢市教育委員会の立札が立っている。現在のものは移転再建したものである。
3箇の自然石の上に、大きな石を立て、表面に「心・技・体」の文字を刻んだ三枚の黒御影の石をはめ込んである。1960(昭和35)年に造られた相撲場入口右手にあり、昭和56年石川県相撲連盟によって建てられた。
この相撲場は野外相撲場としては日本有数のもので、毎年ここで行う高校相撲全国大会は有名である。
1945(20)8月7日、愛知県豊川市の豊川海軍工廠が空襲にあって、石川県からの女子挺身隊員も52名の犠牲者を出した。この隊員の慰霊のために建てられたもの。相撲場奥の高台に、上部に吊り鐘をつけた塔の前、等身大の乙女の像が立っている。
1962(昭和37)年建立の「平和祈願像乙女の像」で、矩
幸成の作。題字は佐藤春夫書、像の前には
水芦光子の挽歌
「これやこの少女ら 生きてあらば いまは人の妻
子の母なるを 緑葉を色めくごと 春はなのはやくごと
生きてあらば とりとりなるを われら哭く
ここに哭かねば いつこにひとの 嘆く辺ありや」
も添えられ、左側には「殉難乙女の像建立の趣意」を刻んだ石碑が建てられている。
金沢生まれ。1916(大正5)年、金沢市材木町小学校卒業で乙女の像の作者矩 幸成と同期生である。「女子挺身隊員世界平和祈願像」建立に尽力し、乙女の像の生みの親と言われた。乙女の像の右にこの胸像が建ち、1977(昭和52)年急逝された辻氏の生前の希望により、自宅にあった胸像をここに置いたもの。
小説家、本名徳田末雄、金沢市横山町生まれ。明治27年尾崎紅葉の門に入る。処女作「藪柑子」を初め多数の作品を発表、明治・大正の代表的作家となった。
武家屋敷の塀を模した白壁に瓦屋根つき土塀の形をした「徳田秋声文学碑」がある。金沢出身の工学博士・谷口吉郎の作。壁面右上には、秋声の自筆で「書を読まざること三日、・・・」と記した陶板をはめ込んである。碑の中央前方に「秋声文学碑」と記した標柱が建つ。秋声碑の左下には犀星自筆の秋声の略歴や「生きのびてまた夏草の目にしみる」絶句が、九谷焼陶板三枚に焼いて取り付けられている。
金沢の美しい自然と文化を基盤とし、金沢市民の指向を明らかにした五項目からなっている。望湖台の奥、展望台を降りたところにこの碑が建っている。御影石の碑の表に「金沢市民憲章」を記したブロンズ板を取り付けたもの。昭和55年金沢菊水ライオンズクラブの建立。
医学博士、政治家。金沢市小立野のうまれ。昭和14年石川県議に初当選し、保守の風土に初めて確信の灯をともし、以後金沢市議、衆議院議員6期、金沢市長を2期務めた。望湖台へ上がるとすぐ左に二つの石碑がある。
1980(昭和55)年岡良一顕彰会の建立で、左側の碑には「夢を見ることのできない人は明日を生くる力がない
金沢名誉市民 岡
良一」、裏に「反骨の碑に頂上の風還れ
山本清嗣」の句と発起人の氏名が刻まれている。右側の碑には芸術院会員・文化功労者
高光一也撰文の岡良一顕彰のことばが記されている。
昔この谷間を湯座屋谷と呼んだ。1869(明治2)年、長崎浦上村のキリスト教徒のうち510人が加賀藩預かりとなり、同6年に送り返されるまで幽閉されていた所である。
「義のため迫害される人は幸いである」と、聖書の言葉を刻んである。石碑の題字と由来書は徳田與吉郎(元、金沢市長)の書である。裏面にはチプリアノ・ポンタッキョ師の碑文が刻まれている。1968(昭和43)年建立。
僧侶、書家。本名北方
蒙(きざし)は金沢市木ノ新保生まれ。常福寺の14世住職で、明治時代に活躍した有名な書家である。1850(嘉永3)年同寺に生まれ、石川舜台らに学んだ。清国布教師として東本願寺から清国に派遣。仏教を初め書道など幅広く学び、近世書道第一流の名手とうたわれた。
心泉の書碑は、碑面に大きく
「麟・鳳・亀・龍」
と四文字、めでたい四つの霊獣の名を刻んだもの。昭和37年の建立。
明治3年以降、金沢医学館、金沢医科大学、金沢大学医学部の解剖体慰霊の塚と碑である。
墓地の右側に1883(明治16)年たてられた
「解剖遺骸の碑」 があり、正面には「解剖屍体之塚」の石標、その後ろに献体者の氏名を刻した31墓の墓標が並んでいる。碑文は石川県医学校長兼金沢病院長・田中信吾の撰である。左側には1987(昭和62)年金沢大学医学部学生による「献体の諸霊に」と題した慰霊のことばを記したプラスチック板が掲げられている。
1927(昭和2)年建立の碑は 「卯辰山公園創設記念碑」 と刻まれているこの題字は金沢出身元文部大臣・中橋徳五郎の筆である。この碑の横には昭和3年、当時の金沢市土木課長・松江甚吉撰文の「卯辰山公園記」が建てられている。慶応3年の開拓会誌から、昭和3年の公園完成までの沿革を記したもの。
1935(昭和10)年、箔同業組合有志によって建てられた大きな立石の碑が、二段の石組みの上に建てられている。表面上部には前田直行男爵の篆額 「箔業祖記念碑」、 下部には黒本植撰文の碑文があり、裏面には安田孫兵衛を初め、藩政時代ひそかに製箔に従事していた人々の名を刻んである。台座の石組みには 「錦繍其心金玉其相(稼堂老人の題)」 と刻んだ石板がはめ込んである。一段下の石組みの左側には箔同業組合有志など、多数の建立協力者の名を記した大きな石碑が建っている。
四天王の一つとして北方を守るといわれる。毘沙門天とも呼ばれ、インド神話では財産の神として知られている。このときは四天王と別に単独で毘沙門天とよばれている。多聞天発祥の地の碑は神社と奥社の中程、畑の中に建てられている。
写真業、本名島田憲吉は金沢生まれ。当時は芸術写真の黎明期で、逸山はこの先駆者として活躍、後進の指導にあたるなど写真界の発展に尽くした。一方俳句にも造詣が深く、俳句誌「沢の光」を主宰した。正面の題字の左に「そこばくのとりいれなど稲筵」と逸山の句が刻まれている。撰文は山本素律・篆額と書は小松砂丘。石川県写真師会を初め石川県俳句文学協会など多数の団体・賛助者や建設委員の名が記されている。
石川県江沼郡生まれ。金沢へ出て麺類業・加登長に勤め刻苦努力のすえ、1897(明治30)年、浅野川近くに店を構え、その後浅野川本店と名乗ることが許された。この後も麺類業界の初天に努めた。
1937(昭和12)年建立の大きな碑が2m程の石組みの上に建てられている。題字は沢野外茂次の筆である。
東山霊廟駐車場の左、奥まったところに三雲塚
とよばれる臼田亜浪(うすだあろう)、小松砂丘(こまつさきゅう)、青柳菁々(あおやぎせいせい)の三人の俳人の雲にかかわる句が記された石柱が建っている。
1934(昭和9)年亜浪主宰の石楠20周年記念に建てたもので、「稲田おほふ春日かな
雲冷やかに 暮れてゆく」
亜浪、「雲の上に立山すわる春日かな」砂丘、「ふるさとよ母よ夏雲は高く候う」菁々
とあり、碑の裏面にも石楠派の人々の句が数多く刻まれている。
陶工、文人画家。幼名八十八、通称木屋佐兵衛、木米は号である。京都生まれ。1806(文化3)年加賀藩の招きで来沢、卯辰山で試焼をして帰京。翌4年、弟子の本多貞吉をともなって来沢し、春日山に初窯を揚げた。
この窯跡に円柱状の碑が建立された。木米の来沢は本多貞吉が小松で若杉窯を興すなど九谷再興に大きな役割を果たした。石柱形で
「金沢九谷陶宗木米窯址」 と刻まれている。書は小松砂丘。
細野燕臺の書。画家、金沢生まれ。絵師の家に生まれ、20歳から京都で四条派の得を学び、後、金沢に帰り後進の指導に当たった。門弟は100人を超え、後年は俳句の道にもいそしんだといわれる。
小坂神社の入口の鳥居の右側、炉端に右曉の筆塚がある。表には
「高村右曉先生」 、裏には 「水すみて石に声なし秋の風」
と刻まれている。絵筆を納めたこの塚は絵画の門人や俳句仲間の人々が右曉ゆかりのここを選んで建てたといわれる。
1926(大正15)年汐見坂を工兵隊の作業で切り開き、開設した時の記念碑。小坂神社の鳥居をくぐり左手に開道記念と刻んだ大きな碑がある。題字は第九師団長・伊丹松雄の書。在郷軍人会金沢市第七分会の建立。
教育者、本名島田定静、金沢市本多町生まれ。臥雲は号。人となりは温厚篤実、1871(明治4)年金沢藩の文学訓蒙、同8年石川県師範学校の助教となり翌年同校教諭になる。定静はまた、仕事の余暇に子供達を教えるため私塾を開き、つねに数百人のものが教えを受けていたといわれる。北方蒙題額。
芭蕉巡錫地記念碑 松尾芭蕉 (まつおばしょう) 1644−1894
俳人、北陸に北野は1689(元禄2)年、門人曽良を伴って出た東北への足袋の帰り道のことで、有名な 「奥の細道」 の時である。このとき芭蕉はここ小坂神社に参拝し、句会を開いたといわれる。小坂神社の談を登って行くと右側の木陰に、1949(昭和24)年、金沢蟻塔会建立の碑がある。正面に 「芭蕉翁巡錫地」 と刻み側面には北枝の句「此の山の神にしあれば鹿と月」が刻まれている。
染絵工、本名森下治作、金沢生まれ。1921(大正10)年川柳界に入る。同14年芽生川柳会を創設。昭和48年石川県川柳作家協会が設立された時、推されて理事長に就任。芭蕉碑の少し上右側に、自然石を二つ積んだ小さな碑がある。 「落葉かく音海鳴りと重なりし」 の句が刻んである。
三重県生まれ、弁護士・歌人、本名塩田親雄。若いとき作家を志したが父の反対にあい、判事になった。1927(昭和2)年「蟻乃塔」を創刊。金沢蟻塔会の主宰。
小坂神社の石段を登り詰めると本殿左手前に紅果の句碑がある。大きな自然石に「白梅の一ひらにある陽のめぐみ」の句が、自筆で刻まれている。裏面には1954(昭和29)年9月26日の建設年月日と建設委員4名の名が刻まれている。建立、同43年ころ現在地に移す。
馬仏は観音院の僧。高桑闌更の門に入り狐庵と号した。金沢の闌更門下の中心的人物ともいわれているが、生没年などもはっきりしない。本堂の一段下右手に、中央に 「狐庵馬仏墓」 と刻んだ自然石の墓がある。左脇に「死なばこそ西にひがしに月と花」と馬仏の句が刻んである。墓と刻まれているが、愛染院に葬られたともいわれ、はっきりしない。
芝居役者。市川小団次の門人。3代嵐冠十郎らとともに一時衰えていた芝居を、1858(安政5)年ごろから盛り返すのに力を尽くした。本堂左手一段下がった墓地の奥に、中村かしくの墓と並んで建っている。
本名、田中伊三郎、金沢生まれ。竹内菊園と出会い門に入る。17歳ごろから心蓮社句会に出席するようになった。また、ひさご会をはじめ公民館などで多くの人々を指導してきた。本堂前に2個の自然石の上に建てられた句碑で、 「朝霞橋まで来れば山の裾 雨人」 の句が刻まれている。裏面には昭和41年5月吉日の建立者年月日や田中方月と建立者名や協賛社名などが記されている。
綿津屋政右衛門墓 (わたづやまさえもん) 1803−1865
越中の酒造兼農家の生まれ。卯辰茶屋町の、綿津屋忠蔵の婿養子となる。1846(弘化3)年観音山に三重塔を再建し、また、安政5年の「泣き一揆」で処刑された7名の慰霊のため、墓と七体の地蔵を建立した。
のち寿経寺に寄進され、七稲地蔵と呼ばれている。観音院出口の右手前に「綿津野政右衛門」と記した自然石の碑が潅木に覆われて建っている。
算聖関先生之墓 (関 孝和)(せきたかかず) 1642?−1708
和算学者、通称を新助、孝和といわれ、号は自山。幼いときから算数に優れ、算聖といわれた。武家にも町家にも孝和に師事するものが多かつた。晩年には江戸へ移る。本堂の右手に「算聖関先生之墓」と記した碑がある。
孝和の150回忌に町家連中によって建立された顕彰碑。碑文は漢文体で略歴などを記している。この年、武家も寺町の立像寺に孝和の顕彰碑を建てている。
本名竹内長太郎。俳諧は上田聴秋に師事し、古来の伝統守ろうとして、1913(大正2)年金沢で「香風」を創刊。新傾向の俳句になじめない人々は菊園のもとに集まった。馬仏退く碑のすぐ後ろ上に菊園の大きな句碑がある。「ざん菊や我も老行く人の数 古希菊園」とあり、裏面には「昭和十四年菊月建立 安念東浪発起一同」と刻まれている。
医師、金沢生まれ。本名は就、芹齋と号した。幼いときから読書を好み医術を習う。金沢の医師松田氏の養子となる。江戸・長崎で学び、帰って医業を継ぐ。天保年間自分で顕微鏡や望遠鏡を造った。町の科学者。
「関先生之碑」の左手に、この墓が建っている。碑文中の銚盤は現在豊国神社への石段登り口鳥居左手前にある。
芝居役者。中村富十郎の門人。のち、菊川松之助と改名。墓は中村芝加十郎の墓と並んで左側に建っている。
1858(安政5)年7月、米価高騰などで多くの細民が飢えに苦しむのを見かねて、役2000人ともいわれる大勢の人々が、当時登山を禁じられていた卯辰山に登り、 「庚申塚」 のあたりから金沢城の方へ向かって声を張り上げ口々に飢えを訴えた。これがその後の一揆や打ち壊しの口火を切ったことになったので、加賀藩ではみせしめに、その首領と見なされた河原市屋分右衛門など7名を死罪にした。これを悼んで、供養のため綿津屋政右衛門が庚申塚への道に七体の地蔵を作った。後、ここ寿経寺の前に移された。
1457(長禄元)年本願寺派8代法主をついだ蓮如は、越前吉崎御坊を造営し、加賀へ巡教に来る。庶民間の蓮如への思慕は厚い。この像は北国巡錫のたくましい姿を表現している。1932(昭和7)年建立の像は2m余りの石組みの上にある。台座銘は大谷螢亮の書。
俳人、加賀藩の刀研師、金沢に生まる。初め馬来の門に入ったが、後、高桑闌更の門人になる。1807(文化4)年二条家から花之下宗匠の号を受ける。ここ宝泉寺に梅室の句碑が二つある。1961(昭和36)年の碑は本堂のすぐわき、自然石に「一雫けふの命ぞ菊の露」の句が刻まれ、裏には句碑再興のことばが刻んである。
他の一つは石組の上に三角形の石を積んだもので、「屋の棟にそふて植けり梅柳
梅室」と自筆の句が、碑陰には(己亥立秋
連中建立)と刻んである。昭和34年の建立。
インドの神。仏教では身を隠すことが巧みで、障害を取り除いて利益をもたらす神として信仰され、日本では特に武士の間で守り本尊としてあがめられていた。本泉寺は摩利支天宝泉といっている。ここに1606(慶長11)年富田越後守重政が摩利支天堂を建て、本尊を安置したと伝えられる。本堂を前に「摩利支尊天」の碑が建てられている。
鶴屋句空(つるやくくう)俳人、加賀芭門の逸材。京都で仏門に入り、句空坊または句空法師といつた。
後、卯辰山に草庵をつくり柳陰軒と名付けた。
1689(元禄2)年金沢へ来た芭蕉が立ち寄り、鶴屋句空の草庵「柳陰軒」
をしのんで句を残したと伝えられる。句空の柳陰軒跡を記念して建てられた碑がある。境内に入ってすぐ左に
「柳陰軒址碑」 と刻んだ自然石に「ちる柳あるじも我も鐘を聞く
芭蕉」 の句が記されている。
これらの内容は、金沢市観光課発行の資料より引用しました。